こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはクールベという人物を知っていますか?
クールベは19世紀中頃のフランスで活躍した画家で、当時のフランスで主流だったロマン主義に反抗した写実主義の先駆者として知られています。
クールべは少数の特権階級の娯楽であった芸術のあり方に疑問を呈し、自らが生きた時代と文化を代表するような民衆の生活に根ざした芸術を目指して後年評価されることになります。
本記事ではそんなクールべの生涯と作品についてご紹介します。
基本情報
本名 | ギュスターヴ・クールべ (Gustave Courbet) |
生年月日 | 1819年6月10日~1877年12月31日(58歳) |
出身 | フランス |
運動・傾向 | 写実主義 |
クールべの生まれと環境
父の期待とパリへの憧れ
フランス東部のオルナンで、裕福な地主の息子としてクールべは生まれます。
いわゆるブルジョワの家庭で不自由なくクールべは育ち、18歳になった1837年、近接の町ブザンソンの寄宿学校へ通い始めますが、勉強が遅れていたクールべは画家になりたいという夢を抱きます。しかし家族に法律家をもちたいと思っていた父は、長男であるクールべに地位ある職業につくことを望んでいました。他の兄妹が皆女の子であったことも理由の一つでした。
訴えの結果、美術のクラスに出席する許可をもらったクールべは画家になることを一層強く夢見て、ボーという芸術家からデッサンの手ほどきを受けていました。
努力と説得が身を結び、芸術家になるためにパリへ行くことを父に許可してもらったクールべは1839年にパリに旅立ちます。
「生まれながらの画家」と言われることもあるクールべですが、初めから画家という夢を応援してくれたり、豊かな芸術に触れることができるような環境ではありませんでした。
しかし最後には自身の決断に理解を示し、パリでの生活費を送ってくれた父や、デッサンのモデルをしてくれた3人の妹たちにクールべは生涯感謝しており、たびたび家を訪ねたり膨大な手紙を送っていたようです。
パリでの活動
パリで得たもの
19世紀のパリは、それ以前の主流であった古典主義(ギリシャ・ローマの古典古代から続く伝統を規範とする運動)の反動から、主観的な感情に重きをおいたロマン主義が芸術における主流でした。
パリにきて画学校に通っていたクールべもこの例に漏れず、初期のいくつかの作品には感傷的でロマンティックなロマン主義的な傾向を見せていました。
言い換えればクールべは、当時の流行であったロマン主義の技法をあっという間に作品に落とし込む高い技術を見せていたのでした。
しかしパリに赴いて数年間、1841年、1842年、1843年にサロンへ応募した作品は全て落選し、画家としての展望は不透明なままでした。
1843年、ついに『黒い犬を連れた自画像(1842-1844)』が入選します。それに手応えを感じたのかクールべは、カンヴァスのサイズを大きくしたり、肖像画以外のモチーフを意欲的に模索するようになります。この野心的な挑戦に反してサロンに入選するのは風景の中の男性肖像画だけで、それ以外はことごとく落選してしまいます。
社会的な成功が見えない一方で、クールべは画学校やカフェ巡りで築いた人脈を活かし、同代の芸術家・作家同士が集まるコミュニティの代表的な人物になっていました。
そのグループの中には『悪の華』などで有名な作家、シャルル・ボードレール(1821-1867)などもおり、影響力のあるクリエイターが切磋琢磨する環境にいたことは間違いないようです。
フランス革命と転機
クールべが28歳になった1848年、あらゆる意味で革命とも言える出来事が起こります。
フランス革命によって民主化された結果、サロンの審査委員会が廃されたことで応募作品すべてが展示されることになります。この時クールべが応募した作品の一つ『古典的なヴァルプルギスの夜』が、カンヴァスの大きさ(2×2.5)も手伝って注目を集め、当時の批評家をして「この知られざるものは…偉大な画家となるであろう」と絶賛されました。
しかしクールべは、当時の風潮に合わせたロマン主義的なテーマから抜け出す決意のためか、この絵を1853年に黒く塗りつぶしています。
波紋を呼んだ「芸術の民主化」
『オルナンの食休み(1848 – 1849)』
芸術の民主化を目指したクールべ
1848年のフランス革命がもたらした民主化をきっかけに、クールべは大作『オルナンの食休み』を制作します。この作品は一般に知られた町でなく、片田舎にすぎないクールべの故郷・オルナンを舞台に、画学校時代の指導者マルレやクールべの父などの近親者を登場させたものでした。
『オルナンの食休み』は、サロンに出品して好評を得た『古典的なヴァルプルギスの夜』と同じくらいの規模で制作されました。
一般的に、大画面の作品といえば歴史的なモチーフを取り扱った歴史画に限られていました。しかし日常生活を切り取った<風俗画>にすぎない『オルナンの食休み』を大画面で描いたことは、フランス革命によってもたらされた民主化を象徴する意味が込められているのでしょう。
これに対して
「いかなる者もこれ以上素晴らしい名人芸的な技法で、芸術を下層社会に引きずり込むことはできなかっただろう」
と、高い技術力を認めつつも民衆の風俗をテーマとするクールべの作品を厳しく批評する声もありました。しかしクールべはこう返すのです。
「その通り。芸術を下層社会に引きずり込まねばならない!」
努力の結実と、民主化の波紋
1849年、困窮する芸術家を援助する富くじ機構の総裁に、「自分は一度も作品を売ったことがない」と書き送ったクールべは2等賞のメダルを授与されます。
賞金にくわえてサロンの審査を免除される特権を得たことで、これまでのクールべの努力は一つの結実を見ます。
サロンにおける『オルナンの食休み』はウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の目にも留まります。
ドラクロワは
「このように力強く、他とは異なる独自のものを、これまで見たことがあるだろうか。ここにいるのは1人の革新者であり、革命家でもある。彼は先例なしに、突然殻を破って現れた、未知の人である!」
とクールべの技量と思想をともに絶賛します。
クールべの存在は、同代に活動していたフランソワ・ボンヴァン(1818-1887)やジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)などにも影響を与え、今日でも比較されるほどのプロレタリアート(賃金労働者階級)にスポットライトを当てた作品を多く残しています。
現実的な「死」を描く『オルナンの埋葬』
『オルナンの埋葬(1849 – 1850)』
誰にでも訪れる「ある埋葬」
1848年、クールべの祖父・ウードが死亡。その翌月には義理の大おじ・エティエンヌ・テストが亡くなります。
短い間に親族の死を連続で体験したクールべは、祖父の家の屋根裏部屋にアトリエを設け、『オルナンの埋葬』を制作します。
この作品は『オルナンの食休み』がそうであったように、高さ3m、横幅6mを超える並外れた大作の中に、故郷であるオルナンにある墓地に集まる友人家族の姿をほぼ等身大で描いたものでした。
あまりの大きさに、一望するにはきもち後ろに下がって見なければならないこの作品に描かれたものは、故郷の町で行われた「ある埋葬」にすぎません。
そこに描かれている死は何も特別なものではないことを示す一方、等身大で描かれた葬列を眺めているうちにまるで自分が立っているかのような感覚になり、誰の身にも起こりうる最も自然な命の終着点をありありと感じさせる作品です。
芸術界を超えた『オルナンの埋葬』の影響
1851年12月2日、ルイ=ナポレオンによって第2帝政が樹立され、共和制を称賛する絵画が批判の的になりました。共和主義者がクーデタにより逮捕される時勢、クールべも政治色のある人物として考えられていました。
この頃になると、ドイツの展覧会で『オルナンの埋葬』を出展し、センセーションを巻き起こしていたクールべは、その影響力が芸術界だけに留まるものではなくなっていました。
政治的宣言から社会の研究へ
『闘技者たち(1852 – 1853)』
『浴女たち(1853)』
「けだものを描く名人」と揶揄されたクールべ
『オルナンの埋葬』以降、クールべは政治的な宣言というよりも、社会の研究というべきテーマを扱っていくようになります。
パリの闘技者を描いた『闘技者たち』は、明るい新緑の背景に対して誇張されているかのように黒くくすんだ男たちの肌の色が「けだもの」を描いているかのように受け取られ、厳しく批評されることになります。
また、この作品と対をなすと称される『浴女たち』は、ふくよかな女性が衣服をはだけ、小川のほとりへ歩く後ろ姿を描写した作品。美と神聖の象徴として美しい女性を描くことが慣習だった当時の絵画において、誇張された肉づきのよい女性の裸婦像を描いたクールべの狙いは、誇張された肥満体=ブルジョワ階級の人物を揶揄するものとして捉えられました。
クールべを称賛していたドラクロワですら
「この人物たちは何を意味するのか、太ったブルジョワ階級の女は…この人物たちのあいだに交わされる思考のやりとりを誰も理解することはできない」
と不快感をあらわにするほどでした。
しかしこの反応はクールべの狙い通りだったのかもしれません。
クールべの友人である社会批評家・ブルードンは著書『進歩の哲学』でこの『浴女たち』に触れており、こう述べています。
「人々には、自分たちの悲惨さを認識させ、臆病を恥じ、暴君を軽蔑することを学ばせよう。(中略)すべての社会階級の人々ーには、誇りと羞恥心を通して彼らの考えを修正させ、習慣を改めさせ、慣習を補完させよう…これこそが、芸術が社会活動を刺激し追随することで、それに参加する方法なのだ。」
今で言うインフルエンサーとして十分な知名度と技術を持っていたクールべは、自分の作品がもつ影響力を鑑みた上で現実を写実することをやめませんでした。絵を通して人々に現実を客観視させることに芸術家としての意義を見つけていたのかもしれません。
世界初の個展とレアリスム宣言
『画家のアトリエ(1854 – 1855)』
クールべが目指したもの
1855年、万国博覧会の開催を受けて制作した『画家のアトリエ』は、近代美術の歴史の中心に位置しているとたびたび称される作品です。
『オルナンの埋葬』を超える大きさのカンヴァスに描かれ、中心にカンヴァスに向かうクールべ自身、左右にはこれまでの作品でそうしたように姉妹や友人などの肖像が配置されています。あまりの大きさに万国博覧会での展示許可は降りなかったものの、万国博覧会会場の真向かいに借りた場所で個展を行い、入場料を取る了承まで取り付けました。
当時は個人の展示に入場料を取ることなどほとんど前例のないことでした。
しかしこのクールべの取り組みは、資金的に困窮している画家が展覧会を開く方法としてパイオニア的なもので、それは同時に長く続いたパトロン制度を徐々に衰退させていく原因ことにもなりました。
世界初の「個展」と言っても良いでしょう。
クールべによる個展の影響は大きく、熱を帯びた反応を多く生み出します。この作品の芸術的価値の一つに「現実的寓意画」が挙げられるでしょう。
左右に配置された人物のそれぞれが時代の擬人化とも言うべき象徴で、左側の人物は社会の最悪な部分、右側の人物は社会の最良な部分を寓意として描いていると説明されています。
さらにクールべの芸術と社会に対する姿勢を明文化したものが、この個展の作品リストの序文として使われた『レアリスム宣言』という文章です。
クールべはこの文中で自身のスタイルをレアリスム(写実主義。空想によらない、現実をありのまま捉える主義)と置いた上でこう書いています。
「己の評価にしたがい、己の時代の風俗、思想、外観を翻訳できるようになること、[単に画家ではなく人間になること、]一言で言えば生きた芸術をつくれるようになること、それが私の目標である。」
この簡潔な声明文は、直ちに受け入れられたわけではありませんでした。しかしクールべが絵画を通して「主観的なもの」と「客観的なもの」の両者を統合した、ある意味でのアウフヘーベンを完成させたことは間違いないでしょう。
政治活動と逮捕
パリ・コミューンでの政治活動
1870年になるとクールべはパリ・コミューン(労働者階級による自治組織)の美術医院会長に就任し、党派的な活動を行うようになります。
活動内容としては美術品の保存に努めたものの、同年6月にヴァンドーム広場の円柱の倒壊によってクールべは逮捕されます。
広場の彫刻を静粛に取り外すための提案でしたが、実際にはクールべがコミューンのメンバーに入るより前に革新派のジュール・ヴァレスと言う人物によって計画が公布されたものであるにも関わらず、クールべを描いた戯画や風刺画が今でも多く残されています。
感謝されざるクールべ
美術品の保存に貢献したと言う主張が認められ、コミューン派の多くが国外追放や死刑を言い渡される中でクールべは重刑を免れ、懲役6か月と罰金500フランを言い渡されます。
懲役後もクールべはパリに滞在しますが、政治犯であるクールべはすっかり嘲笑の的になっており、悪意に満ちた抗議に耐えかねてオルナンへ帰郷することになります。
胃を患っていたクールべは自然をモチーフにした制作をしながら療養をする日々を送ります。しかしそれもつかの間、1873年にヴァンドーム広場の円柱を倒壊させた責任を問われ財産の仮差し押さえが命じられたのです。
作品を出品して資金を工面しようとするも、政治的な経歴を理由にサロンから排斥されていたクールべは作品の没収を恐れて作品を提出することすら躊躇される状況でした。同年7月にはフランスを去り、スイスへ亡命します。
晩年、スイスでの亡命
公判中にこの世を去った母に続き1875年に真ん中の妹が死亡し、この時も政治的な事件により死に目に会うことを阻止されたことを苦悩していたようです。
その後も作品を多く残していますが、そのどれもが美しく静かな作品である一方で喪失の中で描かれた背景を想像することは難しくない、物悲しい雰囲気を漂わせるものでした。
スイスでの亡命期間中、制作を続けていたクールべは、サロンに向けて大作『アルプス山脈の大パノラマ、ダン・デュ・ミディ』に取りかかりますが、1877年に不安定な政局への絶望と、長年の飲酒がたたり健康が悪化したことで絵を描くことをやめ、未完成のまま放置したと言われています。
筆を折るほどに心身ともに衰弱しきったクールべは1877年12月31日に死亡。58歳と言う若さで、その死に際には79歳になる父がかたわらにいたようです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
写実主義の先駆者として近代芸術に大きな影響を与えたクールべの人生は、波瀾万丈そのものでした。高い技術を周囲に認められながらも、アヴァンギャルドで挑戦的なテーマを通して当時のフランス政府やサロンのロマン主義に「現実」を訴え多くの人を動かしたクールべ。
しかしその政治的思想は芸術の領域を超えたことで社会貢献を成す一方、人生に影を落とす引き金にもなってしまいます。
晩年のクールべは決して称賛と感謝に溢れたものとは言えない時期でした。しかしその人生を賭したクールべの活動は芸術のあり方を大きく動かし、作品は後年「革命のエンジン」と評価されています。
クールべの作品が認められるきっかけになったフランス革命をはじめ、目まぐるしく変化する革新と革命の中に生きたクールべ自身もまた、革命家であったことは間違いないでしょう。
出典
ジェームズ・H・ルビーン著 三浦篤訳『世界の美術 クールべ』岩波書店、2004年。