こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはアンリ・ルソーという人物をご存知ですか?
19世紀末から20世紀初頭のパリで活躍したフランスの画家です。パリ市の税関で働いていたことから「税関吏ルソー(Le Douanier)」という通称で呼ばれ、独学で絵を描いて素朴派(ナイーヴ・アート)の代表的な存在になりました。月夜のジャングルに裸婦と蛇使いが現れる『The Dream』のように、一度見たら忘れにくい画面が持ち味です。
なお、バルビゾン派の風景画家にテオドール・ルソーがいますが、別の人物です。本記事で扱うのは、ジャングルの絵で知られるアンリ・ルソーです。
本記事ではそんなアンリ・ルソーの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleアンリ・ルソーって?

ルソー本人が描いた自画像です。ベレー帽をかぶり、パレットを手にした画家が、旗を掲げた船の停泊する川辺に立っています。空には気球も浮かんでいます。所蔵するプラハ国立美術館によれば、パレットには最初の妻クレマンスと二人目の妻ジョゼフィーヌの名が記されており、エッフェル塔と気球は近代文明をたたえる小道具です。題名の「肖像=風景」のとおり、人物と風景をひとつの画面に収めた作品です。
基本情報
| 本名 | アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau)。通称は「ル・ドゥアニエ(税関吏)」 |
| 生年月日(没年月日) | 1844年5月21日〜1910年9月2日(66歳没) |
| 国籍・出身 | フランス/マイエンヌ県ラヴァル。没したのはパリ |
| 学歴 | リセ(中等学校)で学ぶ。美術学校での正規の教育は受けていません(独学) |
| 分野 | 絵画(油彩) |
| 傾向 | 素朴派(ナイーヴ・アート)。ジャングルを描いた作品群で知られます |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 正式な師はおらず、本人は「自然以外に師はいない」と語っていました。ナショナル・ギャラリーは、丁寧な描き方が画家ジェロームなどサロン系の画家に、構図がゴーギャンに学んだ面があるとみています。作品を支持した人物にピカソ、詩人アポリネール、劇作家ジャリ、ロベール・ドローネーがいます |
ルソーと同じ時代のパリで活躍した画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
素朴派って?
素朴派とは、正規の美術教育を受けていない作り手の絵を指す呼び方です。ナショナル・ギャラリーの解説によれば、子どもの絵のような素朴さや、ときに荒削りな技法が、かえって表現の誠実さの表れと見なされることがあります。ルソーはこの分野の先駆者と位置づけられています。
もうひとつ、ルソーには「日曜画家」という言い方もつきまといます。仕事の合間に趣味で描く人、という意味で、ナショナル・ギャラリーもルソーをこの言葉で紹介しています。しかし本人は絵に真剣に向き合い、笑われることがあっても描くことをやめませんでした。
経歴と作品
ラヴァルに生まれ、パリの税関で働く
ルソーは1844年5月21日、フランス西部マイエンヌ県のラヴァルに生まれました。ラルース百科事典によれば、ブリキ職人の家の4番目の子で、1860年にはリセ(中等学校)で図画と音楽の賞を取っています。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートは、父を金物商とし、つつましい家の出だったと紹介しています。
ラルース百科事典によれば、学校を出たあとは一時期、アンジェの代訴人(法律家)の事務所で働きました。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、1863年から4年間を軍隊で過ごしています。パリへ移ったのは1868年です。同館は、のちに本人が語った「軍隊でメキシコに出征した」という話に根拠はないとしています。
1871年、ルソーはパリの入市税関の職員になります。パリ市内に入ってくる物品に税をかける役所で、ここで二十数年働きました。「税関吏」という通称はこの仕事に由来しますが、ナショナル・ギャラリーは、実際には検査官の地位には就かなかったと記しています。
絵は独学でした。ナショナル・ギャラリーによれば、ルソーは趣味として絵を描き始め、「自然以外に師はいない」と語っています。仕事を続けながら描き、のちに税関を辞めて絵に専念した、というのが大きな流れです。同館は、遠近法の知識が乏しいことが、平らで立体感の少ない画面に表れているとも指摘しています。それでもルソーは絵に真剣で、笑われることがあってもやめませんでした。
アンデパンダン展への出品と『Carnival Evening』
ルソーの活動の場は、アンデパンダン展(Salon des Indépendants)でした。1884年にパリで始まったこの展覧会は、「審査も賞もなし」を掲げ、保守的な官立のサロンに対抗する場として生まれました。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、創立メンバーにはオディロン・ルドン、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックがいました。ルソーは1886年から出品を始め、亡くなる1910年まで、ほぼ毎年参加を続けました。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートによれば、官立のサロンには受け入れられず、誰でも出品できるこの展覧会を発表の場に選んだのでした。最初の年の出品作が、次の『Carnival Evening』です。
『Carnival Evening』(1886年)

フィラデルフィア美術館が所蔵する、初期の代表作です。同館の解説では、冬の森の中に、祝祭の衣装を着た男女がぽつんと立っています。二人の体は月明かりではなく、内側から光っているように見えます。月は出ているのに森は暗く、小屋の中からは正体の分からない顔がのぞき、街灯がとってつけたように灯っています。画面の上のほうには、葉を落とした高い木々と、小さな雲のかかる満月が見えます。
同館はルソーを、20世紀初めの収集家や前衛の画家たちに受け入れられた独学の画家と紹介しています。夜の静けさと不思議な違和感が、この絵の持ち味です。
最初のジャングル『Surprised!』
ルソーといえばジャングル、という印象を作ったのは、1891年にアンデパンダン展へ出した一枚でした。
『Surprised!』(1891年)

ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する作品で、同館によればルソーが描いた20点ほどの「ジャングル画」の最初の一点です。背を丸めた虎が、茂みの中で歯をむいています。稲妻が光るので身をすくめているのか、獲物を狙っているのか、画面だけでは判断がつきません。同館によれば、ルソー自身は後にこの絵を「探検家を追う虎」と呼んでいます。
この絵の舞台は、現実のジャングルではありません。ルソーはフランスを出たことがなく、植物はパリの植物園(ジャルダン・デ・プラント)で見た、観葉植物や熱帯の植物をもとにしています。植物園には1889年のパリ万国博覧会に合わせて建てられた動物学館があり、剥製の動物が生きているようなポーズで並んでいました。ルソーはここの常連でした。虎も、剥製や図版、そして飼い猫を組み合わせた姿だと同館は説明しています。
描き方にも工夫があります。同館によれば、ルソーはパントグラフ(拡大器)で下絵の輪郭を画布に写したとみられ、そのため虎が地面に立っておらず、宙に浮いたように見えるのではないかと言われています。ルソーは画布を区画ごとに順に仕上げていく方法をとったとも、同館は説明しています。仕上げに、灰色がかった銀色の細い線を一面にかけて雨を表しました。この雨の線は、歌川広重が1857年に出した浮世絵『名所江戸百景』の「大はしあたけの夕立」に似た表現で、ルソーが浮世絵を見ていた可能性があると同館は述べています。
この絵を高く評価したのが、若い画家で文筆もしたフェリックス・ヴァロットンです。ナショナル・ギャラリーによれば、ヴァロットンは『Le Journal suisse』に寄せた1891年のアンデパンダン展評で、ルソーの虎を「絵画のアルファでありオメガ」と書きました。同館はこれを、ルソーの作品に向けられた初めての本格的な批評としています。ただし、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートによれば、ルソーがふたたびジャングルを描くのは、それから10年以上あとのことでした。
ジャングルは、パリの温室から
ルソーが描いたジャングル画の数は、所蔵館によって数え方が違います。ロンドンのナショナル・ギャラリーは約20点、MoMAの『The Dream』の解説は25点を超えるとしています。いずれにせよ、一生のうち相当な数を描いたことになります。
そのすべてが、実際の熱帯を見ないまま描かれました。MoMAは、ルソーが都会の人びとに向けて紹介されていた「異国」のイメージ、つまり大衆向けの読み物や植民地博覧会、パリの動物園などから発想を得たと説明しています。同館の解説によれば、ルソー本人は、温室で異国の見慣れない植物を見ていると、夢の中に入っていくような気がする、と語っています。
つまりルソーのジャングルは、パリの人が思い描いた南の世界を、パリの中で組み立てたものです。本物の熱帯とのずれまで含めて、この時代のヨーロッパの眼差しが写っています。シカゴ美術館も、こうした風景には当時のパリの人びとの異国像がにじむと述べています。
退職して絵に専念する
1893年、ルソーは49歳のころに税関を退職し、絵に専念します。生活は、わずかな年金に頼ることになりました。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートによれば、ルソーは展覧会に出す大きな絵に力を注ぐ一方で、暮らしのためにパリ郊外を描いた小ぶりの絵をつつましい値段で売り、ときには近所の商店で食料品やサービスと引き換えにしていました。
『La Guerre』(1894年ごろ)

オルセー美術館が所蔵する、縦114.5センチ、横195センチの横長の作品です。同館の解説によれば、中央で剣とたいまつを手に顔をゆがめている女性は、ローマの戦いの女神ベローナを思わせる存在で、怪物のような馬にまたがっています。暗い地面には倒れた人びとが折り重なり、カラスがついばんでいます。木々は焼け焦げたように黒く、雲は赤く染まっています。同館は、1870年の普仏戦争と翌年のパリ・コミューンから20年以上たっても、ルソーがこれらの出来事に強く動かされていたとみています。
この絵は1894年のアンデパンダン展に出品され、不器用さへの皮肉と、まったく独立した様式への称賛とに評価が分かれました。称賛した一人が若い画家ルイ・ロワです。同館によれば、ロワは雑誌『メルキュール・ド・フランス』に、この絵が奇妙に見えるのは、これまでに見た何ものも思い出させないからで、それこそが優れた点ではないか、という趣旨の評を書きました。
『The Sleeping Gypsy』(1897年)

ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵する、ルソーの代表作のひとつです。月明かりの下、縞模様の服を着た人物が横たわって眠り、そのすぐそばにライオンが立っています。かたわらにはマンドリンと壺が置かれています。
MoMAによれば、ルソー自身はこの絵をおよそ次のように説明しました。マンドリン弾きの女性が、飲み水を入れた壺をかたわらに置き、疲れ果てて深く眠っている。たまたま通りかかったライオンが彼女のにおいをかぎつけるが、食べはしない。月明かりの効果があって、とても詩的だ、という内容です。同館は、鋭い色、幻想的な情景、くっきりした輪郭といったルソーの特徴が大衆的な版画文化に由来するとし、それがピカソ、カンディンスキー、フリーダ・カーロら若い世代の前衛画家の心をとらえたと説明しています。同館のクレジットラインによれば、この絵はサイモン・グッゲンハイム夫人の寄贈です。
言葉を添える画家
ルソーの絵には、しばしば言葉が添えられました。オルセー美術館の作品記録によれば、『La Guerre』が出品された1894年のアンデパンダン展の目録には、「戦争。それは恐ろしい姿で通り過ぎ、いたるところに絶望と涙と荒廃を残す」という趣旨の説明文が載っていました。『The Sleeping Gypsy』について本人が語った説明は、MoMAが紹介しているとおりです。後の『The Dream』には、絵に添える詩を書いています。
絵の意味を自分で言葉にしておくことは、見る人に「こう見てほしい」と伝える行為です。ルソーが笑われても自分の見方を手放さなかったことが、こうした文章にも表れているように思います。
パリの郊外を描く『Quai d’Ivry』
ルソーはジャングルだけを描いたわけではありません。同じ時期には、パリとその郊外を描いた小さめの作品も数多く残しています。
『Quai d’Ivry』(1907年ごろ)

東京のアーティゾン美術館(石橋財団コレクション)が所蔵している作品です。セーヌ川の上流にあたるイヴリー河岸は、当時、工場の多い地域でした。手前には平らな緑の土手が広がり、奥には家並みと木立が見えます。画面右には大きな煙突が立ち、岸辺では盛装した人びとが散歩しています。
空には飛行船が浮かんでいます。同館がGoogle Arts & Cultureに寄せた解説では、これはフランス陸軍が初めて発注した飛行船「ラ・パトリ」とみられ、1907年に取りつけられた安定板が描かれていることから、制作もそのころだろうと説明されています。ルソーは飛行船や飛行機、気球、エッフェル塔など、近代の象徴をたびたび画面に取り入れました。人物の大きさがまちまちで、川と岸辺の境が色の面の切れ目でしかない点について、同館は技術上の欠点としながらも、ルソーの詩情は損なわれていないと述べています。
『The Snake Charmer』と、1908年の宴
『The Snake Charmer』(1907年)

オルセー美術館が所蔵する作品で、画家ロベール・ドローネーの母が注文したものです。満月の夜、深い草木のあいだで、笛を吹く黒い人影のまわりに蛇が絡みつき、手前には薄紅色の水鳥が立っています。オルセー美術館は、鮮やかで密度の高い逆光の色、正確さと素朴さをあわせ持つ線、左右非対称の縦長の構図に新しさがあるとし、この画面をシュルレアリスムの先触れと評しています。同館の作品記録によれば、絵はドローネーの母ベルト、ロベール・ドローネー、服飾デザイナーで収集家のジャック・ドゥーセの手を経て、1936年にドゥーセの遺贈として国に受け入れられ、ルーヴル美術館などを経て1985年にオルセー美術館へ移されました。同館によれば、ジャリ、アンドレ・ブルトン、アポリネール、ドローネー、ピカソらがルソーの熱心な支持者でした。
ピカソが開いた宴会(1908年)
1908年には、ピカソがルソーをたたえる宴会を開きました。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、ピカソはそれ以前にルソーの描いた肖像画を1点買っており、宴会にはパリの文化人が多く集まりました。MoMAによれば、会場はピカソのアトリエで、詩人アポリネール、彫刻家ブランクーシ、画家のブラックやマリー・ローランサン、作家ガートルード・スタインらが間に合わせの食卓を囲みました。ラルース百科事典は、このアトリエが「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」にあったと記しています。席上でルソーはピカソに、自分たちは当代の二大画家であり、ピカソは「エジプト風」、自分は「現代風」だ、という趣旨のことを語ったと伝えられています。ルソーが若い前衛の画家たちに認められていたことを示す出来事です。
最晩年の『The Dream』と『The Waterfall』
『The Dream』(1910年)

MoMAが所蔵する、ルソー最後の絵です。縦約2メートル、横約3メートルの大画面に、ジャングルの中の赤いソファへ横たわる裸の女性と、月に照らされた笛吹き、蛇、ジャングルの動物たちが描かれています。MoMAの1954年の発表資料によれば、1910年にアンデパンダン展で初めて公開されたとき、ジャングルに裸婦のソファという取り合わせがセンセーションを巻き起こしながら、おおむね笑いものになりました。ルソーは貧しいまま、完成の数か月後に亡くなっています。それでも画商アンブロワーズ・ヴォラールはこの絵を買っています。
それから30年後、シカゴ美術館の館長だったダニエル・キャトン・リッチは、この絵について書いています。MoMAの発表資料に引かれたその文章によれば、現実の面(ソファの上の女性)と夢の面(ジャングル)が巧みに結びつけられており、画面に使われた緑だけでも、ある画家が50種類を超える変化を数えたといいます。遠目には一色の緑に見える葉も、近づくと細かく塗り分けられているわけです。
ルソーは出品にあたり、詩を書いて絵に添えました。また、ソファがなぜジャングルにあるのかを批評家に問われ、眠っている女性が、笛の音を聞きながら森へ運ばれた夢を見ているからだ、と答えています。MoMAのコレクション部長だったアルフレッド・バーは、この絵をルソーの「集大成の傑作」と呼びました。MoMAによれば、この絵は1954年にネルソン・ロックフェラーから寄贈されています。
『The Waterfall』(1910年)

シカゴ美術館が所蔵する作品で、同館によればルソーが最後に描いた作品群のひとつです。茂みの中の小川のほとりに二人の人物と二頭の鹿がいて、色とりどりの葉が画面を埋めています。来歴の記録では、パリの収集家アルフォンス・カンのもとにあったのち、1926年3月にシカゴの収集家フレデリック・バートレットがパリの画商ジョルジュ・ベルネームから買い、同じ月のうちに同館へ寄贈しました。同館は、ルソーが遠い土地の動植物を、パリの植物園や動物園、そして大衆的な本から知ったと説明し、こうした風景には当時のパリの人びとが思い描いた「異国」の像がにじむとしています。
ルソーは1910年9月2日、パリで亡くなりました。ラルース百科事典は、ネッケル病院でひとり息を引き取ったと記しています。
なぜ今も見られるのか
ルソーの絵が笑われた理由は、遠近法や立体感といった「うまさ」の物差しに合わなかったことにありました。しかし、のちの画家たちが見たのは、その物差しの外にある強さだったようです。オルセー美術館は『The Snake Charmer』の線を、正確さと素朴さを兼ね備えたものと表現しています。
編集部の見方では、ルソーが今も新鮮なのは、「ほかの誰にも似ていない」ことに迷いがなかったからです。独学で、遅く始め、笑われ、それでも自分の世界を完成させた。そのことが、ピカソから現代の鑑賞者までを惹きつけ続けているのではないでしょうか。
亡くなったあとで広がった評価
生前のルソーは、嘲笑を受けることが少なくありませんでした。それでも、MoMAの発表資料によれば、早い時期からドガ、トゥールーズ=ロートレック、ゴーギャンといった画家が支持者に数えられ、のちにはキュビスムの周辺の画家たちも続きました。没後、評価は確実に広がります。MoMAは、ピカソ、カンディンスキー、フリーダ・カーロといった画家たちがルソーから刺激を受けたとし、ロンドンのナショナル・ギャラリーはピカソ、フェルナン・レジェ、アポリネールを数少ない賛美者に挙げています。オルセー美術館は、ルソーの画面が後のシュルレアリスムを予告していたと見ています。
展覧会でも評価の広がりが分かります。2005年から2006年にかけて、ロンドンのテート・モダン、パリのグラン・パレ、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートを巡回する大規模展「Henri Rousseau: Jungles in Paris」が開かれ、2016年3月から7月にはオルセー美術館で回顧展「Le Douanier Rousseau. L’innocence archaïque」が開かれました。ルソーは、笑われた画家から、美術館が大きく取り上げる画家へと変わっていったのです。
ルソーの絵を見るときの3つの視点
実物の前に立つときの手がかりを、ここまで見てきた作品から3つ挙げておきます。あくまで編集部の見方です。
ひとつめは夜と月です。『Carnival Evening』『The Sleeping Gypsy』『The Snake Charmer』『The Dream』は、いずれも画面に月が出ています。月の光で物が見えるというより、どの絵でも、世界が静かに息をひそめているように感じられます。
ふたつめは植物の描き分けです。『Surprised!』を解説したナショナル・ギャラリーは、葉が密に重なり、緑や赤、茶が混じる表面をていねいな仕事だとしています。『The Dream』や『The Waterfall』でも、葉の形や色が一枚ごとに違います。遠くから全体をつかんだら、近づいて葉を一枚ずつ追ってみてください。
みっつめは近代の道具です。『Quai d’Ivry』の飛行船と煙突、自画像の船の旗と気球など、ルソーは同時代の新しいものを素朴な線で取り込みました。素朴に見えて、実は最新の風景を描いていた、という点が面白いところです。
年表で見るアンリ・ルソー
- 1844年:ラヴァルに生まれる
- 1863年:軍隊に入る(1868年にパリへ)
- 1871年:パリの入市税関の職員になる
- 1886年:アンデパンダン展に出品を始める。『Carnival Evening』
- 1891年:『Surprised!』を出品。最初のジャングル画
- 1893年:税関を退職し、絵に専念する
- 1897年:『The Sleeping Gypsy』
- 1907年:『The Snake Charmer』『Quai d’Ivry』(ともに1907年ごろ)
- 1908年:ピカソがルソーをたたえる宴会を開く
- 1910年:『The Dream』を出品。9月2日、パリで死去
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、パリの税関で働きながら独学で絵を描き、素朴派の代表と呼ばれるようになったアンリ・ルソーの人生と作品をご紹介しました。
ラヴァルに生まれ、軍隊を経てパリの入市税関に勤め、アンデパンダン展に作品を出し続けたルソーは、1893年に税関を辞めて絵に専念しました。『Surprised!』から『The Dream』まで、ジャングルの絵は、現実の密林ではなく、パリの植物園と剥製と図版から組み立てられた世界でした。それでも画面の強さは、見る人を引きつけて離しません。
画風は荒削りでも、描くことへの真剣さは揺らぎませんでした。笑われても描き続け、ピカソをはじめとする若い画家たちに見いだされ、没後に評価が広がっていきます。この一貫した姿勢こそ、ルソーの絵が今も人を立ち止まらせる理由のひとつだと思います。実物の前に立つ機会があれば、細部まで丁寧に塗られた葉の一枚一枚にも目を向けてみてください。
Euphoric " " の視点
ルソーは、フランスを一度も出ずにジャングルを描きました。手がかりにしたのは、パリの植物園で見た植物や、剥製の動物です。
1893年に税関を退職して絵に専念してからも、活動の場はアンデパンダン展でした。そこに出した『La Guerre』は、不器用さへの皮肉と、独立した様式への称賛とに評価が分かれています。
遠くへ行けないことも、独学であることも、ルソーは描かない理由にしませんでした。
手の届く材料を見つめ続ければ、そこから誰も見たことのない景色が立ち上がるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






