こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはハワード・パイルという人物をご存知ですか?
ハワード・パイル(Howard Pyle、1853〜1911)は、アメリカのデラウェア州ウィルミントンに生まれた挿絵画家、作家、そして教師です。『ロビン・フッドのゆかいな冒険』やアーサー王の物語を自分で書き、自分で挿絵を描いたことで知られ、雑誌に描いた海賊やアメリカの歴史の場面は、多くの読者の目に触れました。
パイルはまた、すぐれた教師でもありました。N・C・ワイエスやマックスフィールド・パリッシュ、ジェシー・ウィルコックス・スミスといった教え子を育て、その流れは「ブランデーワイン派(Brandywine School)」と呼ばれています。デラウェア美術館は、パイルの作品と教えがアメリカの挿絵の黄金時代を開いたと紹介しています。
本記事ではそんなハワード・パイルの人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | ハワード・パイル(Howard Pyle) |
| 生年月日(没年月日) | 1853年3月5日〜1911年11月9日 |
| 国籍・出身 | アメリカ/デラウェア州ウィルミントン生まれ。イタリアのフィレンツェで没 |
| 学歴 | 1869〜1872年、フィラデルフィアでベルギー出身の画家フランシス・アドルフ・ファン・デル・ウィーレンに学ぶ。ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの授業にも参加 |
| 分野 | 挿絵、絵画、壁画、児童文学の執筆 |
| 傾向 | 中世の伝説、童話、植民地時代のアメリカ、海賊などを、物語の山場をとらえた劇的な画面で描く |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ファン・デル・ウィーレン(師)。教え子にN・C・ワイエス、フランク・スクーノーヴァー、ジェシー・ウィルコックス・スミス、マックスフィールド・パリッシュ、ヴァイオレット・オークリーら |
パイルの教え子の一人については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
ウィルミントンに生まれ、絵を学ぶ(1853年〜1870年代)
ハワード・パイルは1853年3月5日、アメリカ東部のデラウェア州ウィルミントンに生まれました。スミソニアン・アメリカ美術館の解説によれば、パイルの一族は7世代にわたって近くのブランデーワイン川の流域に暮らしてきました。パイルは生涯の大半をウィルミントンで過ごし、ときおりニューヨークに滞在したといいます。
同じ解説は、パイルの学びが、絵の腕前の上達と歩調を合わせて進んだと書いています。歴史や文学の本を読みながら、同時にその場面を絵に描いていくという学び方でした。
絵の専門的な訓練について、デラウェア州のハグレー博物館・図書館の資料は、パイルが1869年から1872年までフィラデルフィアでベルギー出身の画家フランシス・アドルフ・ファン・デル・ウィーレンに学び、ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの授業にも参加したと記しています。スミソニアン・アメリカ美術館の解説は、1869年にペンシルベニア美術アカデミーで学んだことを最後に美術の訓練を終えたとしており、資料によって書き方に違いがあります。
ハグレーの資料によれば、パイルは1879年にウィルミントンへ戻りました。
雑誌の挿絵で人気を得る(1870年代〜1890年代)
パイルが活躍したのは、挿絵入りの出版物が急に増えた時代でした。デラウェア美術館の解説によれば、『ハーパーズ・ウィークリー』『コリアーズ』『サタデー・イブニング・ポスト』といった人気雑誌は、毎月数十万人の読者に届いていました。
パイルは、『スクリブナーズ・マガジン』『ハーパーズ・ウィークリー』『セント・ニコラス』などの雑誌に、短い物語と挿絵をたびたび寄せました。スミソニアン・アメリカ美術館の解説は、パイルの挿絵が『ハーパーズ・マンスリー』『コリアーズ』『サタデー・イブニング・ポスト』など、あらゆるところに載るようになったと書いています。主題は、中世の伝説や子ども向けの物語から、植民地時代のアメリカの暮らしまで幅広いものでした。
その仕事の量は大変なものでした。同じ解説によれば、35年にわたる仕事の中で、パイルは3,300点の挿絵を世に出しました。そのおよそ半分は、パイル自身が書いた雑誌の記事や本のためのものでした。
パイルの挿絵は、海の向こうでも見られていました。デラウェア美術館は、画家フィンセント・ファン・ゴッホが弟にあてた手紙の一節を紹介しています。ゴッホはそこで、アメリカの雑誌『ハーパーズ・マンスリー』に、見ていて言葉を失うほどすばらしいスケッチがあると書き、その描き手としてハワード・パイルの名前を挙げています。

自分で書き、自分で描いた本(1883年〜1888年)
ハグレーの資料は、パイルが雑誌への寄稿と並行して、自分で物語を書き、挿絵を描いた本をつくり始めたと記しています。
その代表が、1883年にニューヨークのスクリブナー社から刊行された『ロビン・フッドのゆかいな冒険(The Merry Adventures of Robin Hood)』です。イギリスの伝説の義賊ロビン・フッドと仲間たちの物語を、パイル自身の文章と挿絵でまとめた本です。ドレクセル大学の資料館は、パイルの子ども向けの本の代表として、この本と、1888年の『Otto of the Silver Hand』を挙げています。
1885年には、ハーパー・アンド・ブラザーズ社から『Pepper & Salt, or Seasoning for Young Folk』も出しています。
『The Wonder Clock』(1887年)
1887年にハーパー・アンド・ブラザーズ社から刊行された『The Wonder Clock』は、一日の時刻ひとつにつき一話、全部で24のお話を収めた童話集です。ニューヨークのメトロポリタン美術館は、この本のためにパイルがペンと黒インクで描いた原画を所蔵しており、制作年を1887年としています。扉の原画には、書名とともに「New York, printed by Harper & Brothers, 1887」と書き込まれています。
その一枚が『The Master of the Black Arts Bringeth a Curious Little Black Hen to the King』です。メトロポリタン美術館の記録では、紙の大きさは縦18.3センチメートル、横17.1センチメートルです。黒い魔法の名人が、めずらしい小さな黒いめんどりを王さまのもとへ連れてくる場面を描いています。窓のある部屋で、王冠をかぶった王さまが笏(しゃく)を手に椅子に腰かけ、その前に長いひげの魔法使いが立って、細い杖でテーブルの上の黒いめんどりを指し示しています。王さまの衣の渦巻き模様、椅子の飾り、窓の丸いガラスまで、すべてが細い線の重なりで描き分けられています。

同じ本のための『The Princess Dwells in the Oak Tree Where ye Wild Pigeons Come to Feed Her』は、樫の木に住む王女のもとへ野のハトが食べ物を運んでくる場面です。太い幹がうねる樫の木のうろに、長い髪の王女が座っています。王女の周りには何羽ものハトが舞い降り、枝のあいだを飛び交っています。黒い線で木の肌のしわまで描き込んだ画面は、昔の木版の挿絵を思わせます。

メトロポリタン美術館の記録によれば、これらの原画は1926年にロジャーズ基金によって館の所蔵となりました。本の中の小さな挿絵が、原画として美術館に残されていることからも、パイルの線の仕事が早くから評価されていたことがうかがえます。
メトロポリタン美術館には、このほかにも『The Wonder Clock』のための原画として、扉絵、鍛冶屋がカラスを選んで逃げ出す場面、王女が水辺を歩き、そのかごに指輪が飛び込む場面、魔法の名人のいたずらの結末を描いた場面などが所蔵されています。お話ごとに、冒頭の場面から結末までをペン一本で描き分けていたことがわかります。
パイルは子ども向けの雑誌にも童話と挿絵を寄せていました。デラウェア美術館は、1888年7月24日発行の児童雑誌『ハーパーズ・ヤング・ピープル』に載ったパイル自身のお話「The Princess on the Glass Hill」のための、見出し飾りと題字の原画を所蔵しています。
| 刊行年 | 書名 | 出版社 |
|---|---|---|
| 1883年 | The Merry Adventures of Robin Hood(ロビン・フッドのゆかいな冒険) | スクリブナー社 |
| 1885年 | Pepper & Salt, or Seasoning for Young Folk | ハーパー・アンド・ブラザーズ社 |
| 1887年 | The Wonder Clock | ハーパー・アンド・ブラザーズ社 |
| 1888年 | Otto of the Silver Hand | スクリブナー社 |
| 1903年 | The Story of King Arthur and His Knights | スクリブナー社 |
| 1907年 | The Story of Sir Launcelot and His Companions | スクリブナー社 |
| 1921年(没後) | Howard Pyle’s Book of Pirates | ハーパー・アンド・ブラザーズ社 |
アメリカの歴史を描く(1880年代〜1900年代)
パイルが雑誌で多く手がけたもう一つの主題が、アメリカの歴史です。スミソニアン・アメリカ美術館の解説が「植民地時代のアメリカの暮らし」を主題の一つに挙げているように、パイルはヨーロッパから人々が移り住んだころの町や人物を、衣装や建物の細部まで調べて描きました。ドレクセル大学の資料館も、パイルの作品の特徴として、想像力に富んだ色彩ゆたかな写実と、歴史の細部への注意を挙げています。
『The Evolution of New York, II』の章末カット(1893年)
ノーマン・ロックウェル美術館が所蔵する、1893年の『The Evolution of New York, II』のための章末カット(記事の最後に添える小さな挿絵)は、紙にインクで描かれた作品です。かつては「ピーター・ストイフェサント」と呼ばれていました。ストイフェサントは、ニューヨークがオランダの植民地ニューアムステルダムだったころの総督です。
画面の手前では、つば広の帽子に羽根飾りをつけ、マントをまとって腰に剣を下げた人物が歩いています。その後ろには、太鼓を打ち鳴らす人々や、旗を掲げ、銃を肩にかついだ人々が列をつくって続き、背景には石造りのアーチの門と建物が見えます。17世紀の服装や持ち物が、細いペンの線で一つ一つ描き分けられています。

教師パイルと「ブランデーワイン派ってなに?」(1894年〜1905年)
1890年代の半ばから、パイルの人生の中心には教えることが加わります。スミソニアン・アメリカ美術館の解説は、1894年以降、教えることがパイルの大きな関心事になったと書いています。
ドレクセル大学の資料館によれば、パイルは1894年から1900年まで、フィラデルフィアのドレクセル学院(現在のドレクセル大学)で挿絵の学校を率い、教えました。ハグレーの資料は、このほかシカゴのアート・インスティテュートやニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグでも教えたと記しています。
同じハグレーの資料によれば、1898年、パイルはドレクセルの資金援助を受けて、ペンシルベニア州チャッズ・フォードで夏の美術学校を開きました。この夏の学校は好評で、1903年まで続きます。1900年にはドレクセルの職を辞し、地元ウィルミントンに自分の学校を開きました。1905年に教えることから退いた後も、パイルは講演を続け、かつての教え子たちに助言を与えていたといいます。
チャッズ・フォードの夏の学校では、古い水車小屋(ミル)がアトリエとして使われました。デラウェア美術館のハワード・パイル資料に残る1902年夏の写真には、つたのからまる石造りの大きな建物の前に、パイルと教え子たちが並んでいます。帽子をかぶった若者、自転車を押す若者、地面に腰を下ろした若者たちの姿からは、田園の中で絵を学んだ夏の学校の雰囲気が伝わってきます。

| 年 | 教えた場所 |
|---|---|
| 1894〜1900年 | ドレクセル学院(フィラデルフィア)の挿絵の学校 |
| 1898〜1903年 | チャッズ・フォード(ペンシルベニア州)の夏の美術学校 |
| 1900年〜 | ウィルミントンに開いた自分の学校 |
| 1905年 | 教えることから退く(その後も講演や助言を続ける) |
では、「ブランデーワイン派」とは何でしょうか。ブランデーワイン川は、ペンシルベニア州からデラウェア州ウィルミントンへ流れる川で、チャッズ・フォードもこの流域にあります。ドレクセル大学の資料館は、パイルが晩年の多くの時間を、次の世代の「アメリカのブランデーワイン派」の挿絵画家たちを教えることに注いだと書き、その例としてマックスフィールド・パリッシュ、フランク・E・スクーノーヴァー、ジェシー・ウィルコックス・スミス、N・C・ワイエスの名前を挙げています。
ハグレーの資料は、パイルのかつての教え子に、この時代の最もよく知られたアメリカの挿絵画家たちが多く含まれるとして、ヴァイオレット・オークリー(1874〜1961)、N・C・ワイエス(1882〜1945)、ゲイル・ポーター・ホスキンス(1887〜1962)、フランク・スクーノーヴァー(1877〜1972)の名前を挙げています。生まれた年を見ると、パイルより20歳から30歳以上も若い世代が、その教室に集まっていたことがわかります。
この流れを本にまとめたのが、ヘンリー・C・ピッツ(1895〜1976)です。チャッズ・フォードのブランデーワイン美術館の研究センターには、ピッツが1969年の著書『The Brandywine Tradition』と、1975年の著書『Howard Pyle』のために集めた資料が保管されています。後者の資料の題には「Howard Pyle, Writer, Illustrator, Founder of the Brandywine School(作家、挿絵画家、ブランデーワイン派の創始者)」とあります。
パイルは教え子たちに何を教えたのでしょうか。デラウェア美術館は、パイルの人気の理由を、物語の劇的な要点をつかんで表す、すぐれた才能にあったと書いています。そして、言葉を尽くし、厳しく指導する教師だったパイルは、この力を多くの教え子に伝え、彼らに「絵の中に入り込む(in the picture)」ことを教えたと紹介しています。
教え子たちは、時代の新しい技術にも敏感でした。スミソニアン・アメリカ美術館の解説によれば、パイルの教え子たちは師と同じように、当時の新しい印刷の技術をよく理解しており、それによって自分たちの作品を、かつてない忠実さで多くの人々に届けることができました。描いた絵が雑誌の誌面でどう刷られるかまで考えることも、パイルの教室で受け継がれたものだったといえるでしょう。

チャッズ・フォードにあるブランデーワイン美術館は、公式YouTubeで、館のコレクションのパイルの作品を紹介する動画を公開しています。
アーサー王の物語(1903年〜)
教師として忙しい時期にも、パイルは自分の本をつくり続けました。その集大成ともいえるのが、アーサー王と円卓の騎士たちの物語です。
1903年、ニューヨークのスクリブナー社から『The Story of King Arthur and His Knights』が刊行されました。デラウェア美術館は、この物語のための1903年の原画『King Arthur of Britain』を所蔵しており、児童雑誌『セント・ニコラス』の1903年1月号に載ったものと記録しています。
『Sir Launcelot and Elouise the Fair』(1905年)
メトロポリタン美術館が所蔵する『Sir Launcelot and Elouise the Fair』は、騎士ランスロットと「美しきエルーイーズ」を描いた、続く物語『The Story of the Champions of the Round Table』のための、1905年のペンとインクの原画です。
画面の上には、飾り文字で題が書き込まれています。その下では、甲冑を着けた騎士ランスロットが、石畳の道で馬のそばに立ち、長い衣の女性と向き合っています。背後には石造りの建物の窓が見え、地面の石の一つ一つ、衣のひだの一本一本まで、細い線で丁寧に描かれています。文字と絵を一つの画面に組み合わせる作り方は、中世の写本を思わせます。メトロポリタン美術館の記録では、紙の大きさは縦46センチメートル、横28.1センチメートルで、『The Wonder Clock』の原画よりずっと大きな紙に描かれています。

ラファエル前派とのつながり
アーサー王の物語のような中世の主題を描くとき、パイルが刺激を受けたのが、19世紀イギリスの画家たち「ラファエル前派」の作品でした。
デラウェア美術館は、パイルの作品と並ぶもう一つの柱として、サミュエル・バンクロフトが集めたイギリスのラファエル前派のコレクションを持っています。同館は展覧会「Pyle and the Pre-Raphaelites」の案内で、パイルとバンクロフトが婚姻による親戚だったことを紹介しています。そして新しい調査によって、二人が考えられていた以上に深く結びついていたこと、パイルがラファエル前派から刺激を受けたのは、バンクロフトが1890年にその作品を集め始めるより前だったことがわかったと書いています。
この展覧会では、アーサー王の物語をはじめ、中世から初期ルネサンスを舞台にしたパイルの挿絵が、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、エドワード・バーン=ジョーンズ、ウィリアム・モリスらの作品と並べて紹介されました。その中には、1907年にスクリブナー社から刊行された『The Story of Sir Launcelot and His Companions』のための原画も含まれています。題の飾り文字と絵を一枚に組み合わせたパイルの騎士物語の挿絵は、ラファエル前派やモリスの本づくりと響き合っているといえるでしょう。
海賊を描いた画家
パイルの名前を語るうえで欠かせないのが、海賊の絵です。デラウェア美術館は、パイルの描いた象徴的な海賊が、今日の大衆文化に登場する海賊の着想源になっていると紹介しています。同館は、1905年の油彩画『The Buccaneer Was a Picturesque Fellow』を所蔵しており、『ハーパーズ・マンスリー』1905年12月号に載ったパイル自身の記事「The Fate of a Treasure Town」のために描かれたものと記録しています。
パイルが雑誌に描いた海賊の物語と絵は、没後の1921年、ハーパー・アンド・ブラザーズ社から『Howard Pyle’s Book of Pirates』としてまとめられました。
壁画への挑戦とイタリアへの旅(1905年〜1911年)
ハグレーの資料によれば、教えることから退いた後も、パイルの挿絵の仕事は順調に続き、壁画の依頼も受けるようになりました。紙の上の小さな挿絵から、建物の壁を飾る大きな画面へと、仕事の幅を広げていったのです。
壁画をより深く学ぶため、パイルは1910年にイタリアへ渡りました。そして1911年11月9日、旅先のフィレンツェで亡くなりました。58歳でした。
スミソニアン・アメリカ美術館は、パイルが残した言葉を紹介しています。パイルはそこで、内緒の話だがと前置きしたうえで、今でも壁の絵より本の中の絵のほうが好きだと書いています。壁画に挑んだ晩年にあっても、パイルの心は本の中の絵とともにあったことがうかがえます。

デラウェア美術館とパイルの遺産
パイルの作品は、没後も地元ウィルミントンで大切に守られてきました。デラウェア美術館は、ウィルミントンを拠点にしたパイルの作品を保存するために設立された美術館です。
同館の挿絵のコレクションは、主に1880年から1940年までにつくられた作品からなり、パイルとその教え子たちの作品を最も豊かに見られる場所になっています。パイルの手紙や講義の記録、写真、新聞の切り抜き、本や雑誌の挿絵をまとめたスクラップブック、美術館で開かれた展覧会の記録を収めた資料のコレクションも持っています。
同館は、パイルの描いた人物や物語の場面が、何世代もの挿絵画家だけでなく、映画の監督たちにも影響を与えたとも紹介しています。本の中の一枚の絵から始まったパイルの仕事は、教え子たちを通じて、そして大衆文化の中の海賊や騎士の姿を通じて、今も受け継がれています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ハワード・パイルの人生と作品について、ご紹介してきました。
パイルは1853年にデラウェア州ウィルミントンに生まれ、フィラデルフィアとニューヨークで絵を学んだのち、雑誌の挿絵で人気を得ました。1883年の『ロビン・フッドのゆかいな冒険』、1887年の『The Wonder Clock』、1903年からのアーサー王の物語と、自分で書き、自分で描いた本を次々に生み出しています。35年の仕事の中で世に出した挿絵は3,300点にのぼりました。
1894年からはドレクセル学院、チャッズ・フォードの夏の学校、ウィルミントンの自分の学校で教え、N・C・ワイエスやマックスフィールド・パリッシュらを育てました。その流れは、ブランデーワイン川の名をとって「ブランデーワイン派」と呼ばれています。
物語の山場をつかみ、自分がその場にいるかのように描く。パイルが教え子に伝えたこの姿勢は、ペン一本で描かれた童話の挿絵にも、海賊や騎士の絵にも息づいています。機会があれば、ぜひデラウェア美術館やブランデーワイン美術館で、その原画をじっくり眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
パイルは35年の仕事の中で3,300点の挿絵を世に出しながら、自分で物語を書き、絵を添えた本もつくり続けました。さらに、ドレクセル学院やチャッズ・フォードの夏の学校、ウィルミントンの自分の学校で教え、N・C・ワイエスら多くの挿絵画家を育てています。
物語の山場をつかみ、自分がその場にいるかのように描く。教え子に伝えたこの姿勢は「ブランデーワイン派」という一つの流れとなり、のちの挿絵画家や映画の監督たちにも受け継がれました。自分の技を惜しまず手渡すことが、仕事の命を長く保つことを、パイルの歩みは示しています。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。メトロポリタン美術館の原画は、2026年10月時点で館のウェブサイトに展示室の表示がないため、作品ページの画像でご覧ください。







