こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジュディ・シカゴという人物をご存知ですか?
ジュディ・シカゴ(Judy Chicago)は、1939年にアメリカのシカゴで生まれた美術家です。1970年代、女性の美術教育のための「フェミニスト・アート・プログラム」をアメリカで初めて立ち上げ、歴史に埋もれた女性たちをたたえる大作インスタレーション『ディナー・パーティー(The Dinner Party)』を完成させました。フェミニズム・アートの先駆者として知られています。
一方で、キャリアの出発点はミニマル・アートの彫刻でした。自動車の板金塗装の学校でエアブラシの技術を学んで絵を描き、花火や煙を使った野外の作品を手がけ、近年はファッションブランドのディオールとも協働しています。素材も方法も大きく変えながら、60年以上にわたって制作を続けてきました。
本記事ではそんなジュディ・シカゴの人生と作品についてご紹介します。代表作『ディナー・パーティー』がどのような構造の作品なのかも、詳しく見ていきます。
コンテンツ
Toggleジュディ・シカゴって?

基本情報
| 本名 | ジュディ・コーエン(Judy Cohen)として生まれ、1970年に姓を「シカゴ」に改める |
| 生年月日(没年月日) | 1939年7月20日生まれ(2026年10月時点で存命) |
| 国籍・出身 | アメリカ/イリノイ州シカゴ生まれ |
| 学歴 | シカゴ美術館附属美術大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で学ぶ |
| 分野 | インスタレーション、彫刻、絵画、ドローイング、テキスタイル、ニードルワーク、陶磁器、ステンドグラス、花火・煙のパフォーマンス、美術教育、執筆 |
| 傾向 | フェミニズム・アート。刺繍や陶磁器の絵付けなど、女性の手仕事とされてきた技法を大規模な共同制作で用いる |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 特定の師は公式の資料で確認できませんでした。1970年代初めには、美術家ミリアム・シャピロとともにフェミニスト・アート・プログラムを率いました |
| 拠点 | アメリカ・ニューメキシコ州(2026年10月時点の公式サイトの連絡先による) |
ジュディ・シカゴの記事とあわせて、同じ時代に女性の経験を作品にした美術家や、インスタレーションという表現については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
シカゴで生まれ、ロサンゼルスで美術家に(1939年〜1960年代)
ジュディ・シカゴは1939年7月20日、イリノイ州シカゴに生まれました。生まれたときの名前はジュディ・コーエンです。ワシントンの国立女性美術館(NMWA)によれば、シカゴ美術館附属美術大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で学びました。
1960年代、シカゴは南カリフォルニアで制作を始めます。作家の公式サイトによれば、キャリアの初めにはミニマル・アートの作品をまとまって制作していました。幾何学的な形をごく限られた要素に絞り込み、色の見え方を探る作品です。NMWAは、シカゴがニューヨークのユダヤ博物館で1966年に開かれた画期的な展覧会「Primary Structures」に参加したと紹介しています。この展覧会の年を、作家の公式サイトは1965年と書いています。
公式サイトによれば、この時期のミニマルな作品群は長いあいだあまり知られていませんでした。2002年にロサンゼルス現代美術館の展覧会「A Minimal Future」で数点が紹介されたことをきっかけに、改めて注目が集まりました。
『Rainbow Pickett』(1965年)
『Rainbow Pickett』は、キャンバスで覆った合板にラテックス塗料を塗った6本の角柱を、壁に立てかけて並べた立体作品です。公式サイトに載る大きさは、126×126×110インチ(約320×320×279センチ)。1965年に作られ、2004年に再制作されました。
角柱は、壁際の長いものから順に短くなり、淡い緑、水色、薄紫、ピンク、オレンジ、黄色と、虹のように色が移っていきます。同じ形をくり返しながら、長さと色だけを少しずつ変えていく構成は、まさにミニマル・アートの手法です。公式サイトは、1965年から1973年の作品について、限られた幾何学の形で色を探究する姿勢が見られると紹介し、この時期のミニマリズムがのちの作品にも組み込まれていったと述べています。

NMWAによれば、シカゴは1960年代のロサンゼルスで、車やサーフボードを改造する文化と並行して生まれた「ロサンゼルス・ルック」と呼ばれる動きにも加わっていました。エアブラシの技術を身につけるために自動車の板金塗装の学校に通い、その丁寧な仕上げと光沢のある色のグラデーションが、のちの作品の美的な土台になったと美術館は解説しています。
一方でNMWAは、当時の南カリフォルニアの美術界は男性中心で、シカゴは自分の感性の居場所がないと感じていたとも書いています。公式サイトも、シカゴが1960年代の終わりに花火に向かった理由の一つを、ほとんど男性だけだった南カリフォルニアの美術界の雰囲気を変えたいと考えたことだと説明しています。
フェミニスト・アート・プログラムと「ウーマンハウス」(1970年代前半)
1970年、彼女は姓を「シカゴ」に改めました。NMWAによれば、父親や夫に定められた存在ではなく、自立した一人の女性であることを示すための改名で、新しい姓は、強いなまりから付いたあだ名でもありました。
同じ1970年、シカゴはカリフォルニア州立大学フレズノ校で、女性の美術学生のためのフェミニスト・アート・プログラムを始めます。NMWAは、これがアメリカで初めての取り組みだったと紹介しています。翌1971年には、美術家ミリアム・シャピロとともに、カリフォルニア芸術大学(CalArts)でもフェミニスト・アート・プログラムを立ち上げました。

このプログラムから生まれたのが、1972年の「ウーマンハウス(Womanhouse)」です。公式サイトによれば、シカゴとシャピロは学生や地元の美術家とともに、ロサンゼルスの荒れ果てた一軒の家を、想像力に富んだインスタレーションの舞台に作り変えました。1か月の公開期間に1万人以上が訪れ、映画監督ヨハンナ・デメトラカスのドキュメンタリーによって、世界中に知られるようになりました。
ブルックリン美術館は、この家で21人の女性美術家が、床磨きやアイロンがけ、料理、裁縫といった「女性の仕事」とされてきた作業を主題に作品を発表し、演じたと解説しています。家庭という私的な場所を、政治的な意味をもつ主題として取り上げた展覧会でした。

公式サイトによれば、1970年代初めのシカゴは、それまでの抽象的な図像に、女性としての経験を率直に表現したいという決意を重ねていきました。歴史上の重要な女性たちを描いた「Great Ladies」の連作もこの時期のものです。そして独学で歴史を調べるうちに、女性たちの業績が歴史から消されてきたことに気づきます。この発見が、次の大作『ディナー・パーティー』につながりました。シカゴはこの頃の自分の歩みを、自伝『Through the Flower: My Struggle as a Woman Artist』にもまとめています。
『ディナー・パーティー』(1974年〜1979年)
1974年、シカゴは女性の歴史を主題にした作品に取りかかります。それが、もっともよく知られた代表作『ディナー・パーティー』です。公式サイトによれば、制作は1974年から1979年まで続き、数百人のボランティアが参加しました。NMWAは、シカゴの指揮のもとで400人を超える人々が制作に関わったと紹介しています。
『ディナー・パーティー(The Dinner Party)』(1974〜1979年)
所蔵するブルックリン美術館によれば、作品の中心は、1辺が48フィート(約14.6メートル)の三角形のテーブルです。三角形は平等の象徴とされています。テーブルには合計39人分の席が用意され、3つの辺(ウイング)に13人ずつ、時代順に「主賓」の女性たちが並びます。
それぞれの席には、その女性の時代にふさわしい様式で刺繍されたテーブルランナーが敷かれ、金色の陶器の杯とカトラリー、縁に刺繍をほどこしたナプキン、直径14インチ(約36センチ)の絵付けをした磁器の皿が置かれています。テーブルは「ヘリテージ・フロア」と呼ばれる白いタイルの床の上に据えられ、床には金色の文字で、さらに999人の女性の名前が記されています。

美術館によれば、第1のウイングは先史時代の「原初の女神」から始まり、古代ギリシャ、ローマ帝国へと進み、女性の力の衰えを示すヒュパティアの席で終わります。第2のウイングは初期キリスト教から宗教改革までで、教育を受ける権利を主張したオランダの学者アンナ・ファン・スフールマンらが並びます。第3のウイングは、アメリカ独立や女性参政権運動の時代へと進み、最後は画家ジョージア・オキーフの席で締めくくられます。

ブルックリン美術館の解説によれば、この作品はもともと、壁に掛ける25枚の絵付けの皿という小さな構想から始まりました。その後、皿はテーブルに並べて見せるものだと気づき、テーブル全体を作品にする形へと広がっていきました。美術館は、シカゴがレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を、料理を用意してきた側の視点から読み替えることに興味をもったとも紹介しています。各辺を13人にしたのは、『最後の晩餐』に描かれた人数と、魔女の集会の人数にならったものだと美術館は説明しています。
素材の選び方にも、はっきりした意図があります。ブルックリン美術館の教育者向け資料は、この作品が、機織りや陶磁器の絵付け、刺繍、裁縫といった、工芸や家庭の技芸とみなされてきた女性たちの仕事をたたえていると説明しています。美術の世界で「低いもの」とされてきた技法を、記念碑的な大きさの作品に用いたことに、この作品の大きな意味がありました。
『ディナー・パーティー』は1979年3月14日、サンフランシスコ近代美術館で初公開されました。ブルックリン美術館によれば、初日には5,000人が訪れ、3か月の会期中におよそ10万人が鑑賞しました。その後、草の根の運動に支えられて各地を巡回し、公式サイトによれば、3つの大陸の6か国16会場で、100万人を超える人々が作品を見ました。2007年からは、ブルックリン美術館のエリザベス・A・サックラー・フェミニスト・アート・センターの中心として、常設で展示されています。
公式サイトによれば、シカゴは当初から、女性の豊かな歴史を三つの形で社会に届けようと考えていました。記念碑的な美術作品、本、そして映画です。美術作品としての『ディナー・パーティー』は、テーブルとヘリテージ・フロアのほか、入口に掛けるバナー、床の999人の業績を説明するパネル、制作に協力した人々の名前を記したパネルで構成されています。
『ディナー・パーティー』から広がった共同制作(1980年代〜1990年代)
『ディナー・パーティー』の巡回は、別の共同制作も生みました。シカゴと非営利団体スルー・ザ・フラワー(Through the Flower)は1980年、作り手が選んだ女性をたたえる小さな三角形のキルトの募集を始めます。「インターナショナル・オナー・キルト(International Honor Quilt)」と呼ばれるこのプロジェクトは、1980年にテキサス州ヒューストンで『ディナー・パーティー』が展示された際に始まりました。
スルー・ザ・フラワーによれば、キルトは『ディナー・パーティー』とともに各地を巡り、会場ごとに数十点ずつ加わって、巡回が終わる頃には約600点になりました。アメリカやカナダのほか、メキシコ、オーストラリア、ドイツ、イタリア、日本などの女性たちも題材になっています。

1980年から1985年にかけては「Birth Project」に取り組みました。公式サイトによれば、シカゴが図案を描き、全米の150人の熟練したニードルワークの作り手が、その監修のもとで刺繍を仕上げた連作で、100か所以上で展示されました。続く「PowerPlay」では、男らしさという社会的な考え方に目を向けています。1994年に始めた「Resolutions: A Stitch in Time」は、絵画とニードルワークを組み合わせ、昔ながらのことわざを遊び心をもって読み替えた連作で、2000年にニューヨークの美術とデザインの美術館で展覧会が始まりました。
公式サイトは、「Resolutions」が長年ともに仕事をしてきた作り手たちとの最後の共同制作だったと書いています。大人数での共同制作は、『ディナー・パーティー』から20年以上にわたって、シカゴの方法の中心にあり続けたことになります。
花火と煙の作品、そして再評価へ(1960年代末〜2010年代)
シカゴのもう一つの重要な仕事が、花火や煙を使った野外の作品です。公式サイトによれば、1968年から1974年にかけて、カリフォルニア各地で花火を使った作品を次々に発表しました。「Atmospheres」と名づけられた作品の中には、風景を和らげ、環境に女性的な感覚を持ち込むことを意図したものがありました。1974年には、オークランド美術館の依頼で、200フィートの大きさの蝶が17分かけて現れ、色づき、消えていく『A Butterfly for Oakland』を上演しています。
2011年から2012年には、ゲッティ財団の支援による南カリフォルニアの美術を振り返る大型企画「Pacific Standard Time」で、8つの美術館の展覧会に作品が取り上げられました。公式サイトは、この再評価がアメリカとヨーロッパでの新たな関心につながったと書いています。2012年には、1974年以来となる花火の作品『A Butterfly for Pomona』も上演しました。
『A Butterfly for Brooklyn』(2014年)
『A Butterfly for Brooklyn』は、ニューヨークのプロスペクト・パークで上演された花火の作品です。公式サイトの作品データによれば、花火、発炎筒、LEDライトを使い、花火会社パイロ・スペクタキュラーズと組んで実現しました。画面には、夜の地面に赤い光で描かれた蝶の形と、そこから立ち上がる無数の花火の光の筋が写っています。

公式サイトの経歴によれば、この作品はシカゴの75歳を祝う一連の催しを締めくくるもので、1万2,000人が集まりました。本人は「これまでで最も複雑な花火のプロジェクトで、1974年には夢見ることしかできなかった水準で実現できた」と語っています。上演の年を、公式サイトの作品データと経歴は2014年、花火の作品の紹介文は2015年と書いており、本記事では作品データに合わせています。
教える人、書く人として
シカゴは、作品をつくるだけでなく、教えることと書くことにも力を注いできました。NMWAによれば、デューク大学、インディアナ大学、ノースカロライナ大学チャペルヒル校で教え、講演や執筆も数多く行ってきました。公式サイトは、フレズノで始めた女性のための教育の方法を、その後も発展させ続けてきたと紹介しています。
著書には、2冊の自伝『Through the Flower: My Struggle as a Woman Artist』と『Beyond the Flower: The Autobiography of a Feminist Artist』があります。2021年には、グロリア・スタイネムの序文を添えた自伝『The Flowering』がテムズ・アンド・ハドソンから出版されました。2011年には、ペンシルベニア州立大学が、シカゴの美術教育に関する資料を収蔵しています。
2010年代の後半には、評価の高まりを示す出来事が続きました。公式サイトによれば、2015年にはスペインのビルバオで、キャリアを振り返る展覧会「Why Not Judy Chicago?」が開かれ、翌年フランス・ボルドーのCAPCへ巡回しました。2017年には、サンフランシスコ近代美術館のためにドライアイスのインスタレーション『Be No More』を制作し、テート・リヴァプールの依頼で、ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の50周年を記念する巨大な壁画も手がけました。2018年には、アメリカの雑誌タイムの「最も影響力のある100人」に選ばれています。
ディオールとの協働と大規模な回顧展(2020年〜現在)
2020年、シカゴはファッションブランドのディオールと協働しました。公式サイトによれば、マリア・グラツィア・キウリによる2020年春夏オートクチュールのショーのために、パリのロダン美術館の裏手に巨大な女神の形の会場『The Female Divine』を設計しました。公式サイトは、ファッションの世界に芸術が本当の居場所をもてるのかという関心が、この協働の出発点だったと書いています。ショーは女神の体の内側で行われ、ランウェイには『ディナー・パーティー』のアリエノール・ダキテーヌの席のランナーの図案をもとにした大きなカーペットが敷かれました。
『What if Women Ruled the World?』(2020年)
このショーのために、シカゴは「もし女性が世界を治めたら?」という問いを中心に、英語とフランス語で問いかけるバナーの連作をデザインしました。公式サイトによれば、中心となるバナー『What if Women Ruled the World?』は、ベルベットを裏打ちした布に刺繍と錦織をほどこした作品で、インド・ムンバイのチャナキヤ・スクール・オブ・クラフトが制作しました。
画面では、緑と赤の幾重もの縁取りの中央に、クリーム色の地が広がり、筆記体の文字で問いかけが刺繍されています。熟練の作り手に制作を託しながら、問いの言葉そのものを作品の中心に据える方法は、シカゴが長く続けてきた共同制作の延長にあると言えるでしょう。公式サイトによれば、バナーはのちに世界の人々が問いに答える国際的なプロジェクトの土台にもなりました。

2021年8月には、サンフランシスコのデ・ヤング美術館で、キャリアで初めての回顧展が開かれました。公式サイトは、この展覧会によって、それまで『ディナー・パーティー』の陰に隠れがちだった幅広い作品が知られるようになったと書いています。2023年10月12日から2024年1月14日には、ニューヨークのニュー・ミュージアムで、60年の制作をたどる、ニューヨークの美術館としては最も包括的な展覧会「Judy Chicago: Herstory」が開かれました。
2026年には、アムステルダムのユダヤ文化地区(Jewish Cultural Quarter)のユダヤ歴史博物館で、オランダで初めての個展「Revelations」が2月6日から8月23日まで開かれました。同じ年、ヴェネツィアでも個展「The Materiality of Judy Chicago」が開かれるなど、新しい発表が続いています。作品は、大英博物館、テート・モダン、ポンピドゥー・センター、ホイットニー美術館、ロサンゼルス・カウンティ美術館、スミソニアン・アメリカ美術館などに所蔵されています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ジュディ・シカゴの人生と作品について、ご紹介してきました。
シカゴは1939年にシカゴで生まれ、1960年代のロサンゼルスでミニマル・アートの彫刻から出発しました。1970年には姓を改め、アメリカで初めてのフェミニスト・アート・プログラムを始め、1972年の「ウーマンハウス」を経て、1974年から1979年にかけて『ディナー・パーティー』を完成させました。
39人の席と999人の名前で女性の歴史をたどるこの作品は、刺繍や絵付けといった手仕事を記念碑的な規模で用い、数百人の協力によって形になりました。その後も、キルトやニードルワークの共同制作、花火の作品、ディオールとの協働へと、方法を広げ続けています。
歴史から抜け落ちた名前を一つずつ拾い上げ、多くの人の手で一つの作品にまとめていくこと。シカゴの作品は、何を「美術」と呼ぶのかという問いを、今も投げかけています。機会があれば、ぜひ作品の大きさと細部の両方を、実際に確かめてみてください。
Euphoric " " の視点
『ディナー・パーティー』は、39人の席と999人の名前によって、歴史の中で見えにくくなっていた女性たちに光を当てました。刺繍や絵付けといった、美術の世界で「低いもの」とされてきた手仕事を記念碑的な大きさで用い、数百人の協力で形にしたことは、作品のつくり方そのものが一つの主張になりうることを示しています。
ミニマル・アートの彫刻から出発し、花火の作品やディオールとの協働へと表現を広げてきたシカゴの歩みは、何を「美術」と呼ぶのかという問いを、今も新鮮なまま私たちに手渡しています。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。『ディナー・パーティー』は、2026年10月時点でブルックリン美術館の常設展示として紹介されています。







