【徹底解説】草間彌生とは?水玉と網目で無限を描いた前衛芸術家の人生と作品を解説!

【徹底解説】草間彌生とは?水玉と網目で無限を描いた前衛芸術家の人生と作品を解説!

アートコンシェルジュ|最初の一枚から、一生のコレクションまで。無料で相談する

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは草間彌生という人物をご存知ですか?

草間彌生(くさま やよい)は、水玉と網目の模様、鏡を使った部屋のような作品、黄色いかぼちゃの彫刻などで世界中に知られる日本の前衛芸術家です。絵画だけでなく、彫刻、インスタレーション、版画、映画、詩や小説まで、表現の領域を自分の手で広げ続けました。

1950年代の終わりにニューヨークへ渡り、1973年の帰国後は東京を拠点に制作を続けました。そして2026年8月14日、97歳で亡くなりました。公式サイトの告知は、亡くなる直前まで絵筆を手放さなかったことを伝えています。

本記事ではそんな草間彌生の人生と作品についてご紹介します。名前の読み方や「彌」という字についても、最初に整理しておきます。

草間彌生って?

基本情報

名前(読み方)草間 彌生(くさま やよい/Yayoi Kusama)
生年月日(没年月日)1929年3月22日〜2026年8月14日(97歳)
国籍・出身日本/長野県松本市
学歴京都市立美術工芸学校で日本画を学ぶ
分野絵画、彫刻、インスタレーション、版画、パフォーマンス、映画、詩、小説
傾向水玉や網目といった一つのモチーフを、強迫的なまでに反復し増殖させる表現
師事した人物・影響を受けた人物渡米前にアメリカの画家ジョージア・オキーフと手紙をやり取りし、励まされました。1950年代には批評家の瀧口修造らに高く評価されています
主な受章・受賞高松宮殿下記念世界文化賞(2006年)、文化功労者(2009年)、文化勲章(2016年)

草間彌生の読み方と「彌」の字

名前の読み方は「くさま やよい」です。英語では Yayoi Kusama と表記されます。

「彌」は「弥」の旧字体で、新聞や書籍などでは「草間弥生」と書かれることもあります。本人の公式サイトや草間彌生美術館は「彌」の字を使っているため、本記事も「草間彌生」で統一します。「彌生とは何を意味するのか」と気になる方もいるかもしれませんが、ここでは字体の違いだけを押さえておけば十分です。

同じように日本の現代美術や、草間彌生と同時代のニューヨークで活動した作家については、以下の記事でもご紹介しています。あわせてご覧ください。

【徹底解説】村上隆とは?スーパーフラットを唱えた現代美術家の人生と作品を解説!

【徹底解説】奈良美智とは?あおもり犬で知られる美術家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ドナルド・ジャッドとは?箱の立体とマーファの空間をつくった彫刻家の人生と作品を解説!

アンディ・ウォーホルとは?生涯・代表作とポップアートをわかりやすく解説

草間彌生の歩みを示す流れ図。1929年に長野県松本市で生まれ、1957年に渡米、1973年に帰国して東京を拠点に、1993年にヴェネチア・ビエンナーレの日本館で個展、2017年に草間彌生美術館が開館した。
図:草間彌生の歩み(松本からニューヨーク、そして東京へ)

どんな芸術家として知られているのか

草間彌生の公式サイトは、本人を「前衛芸術家」「小説家」と紹介しています。前衛芸術家とは、それまでの美術の常識を疑い、新しい表現を切り開こうとする芸術家のことです。

公式の略歴によれば、草間彌生は幼いころから水玉や網目をモチーフにした絵を描きはじめ、水彩やパステル、油彩を使って早くから独自の表現を形づくっていました。のちにニューヨークで、一つのモチーフを強迫的に繰り返し、増やしていくことで自分自身を消していく、という「自己消滅」の芸術哲学を打ち立てます。

この「同じものを繰り返し、増やしていく」という発想は、生涯を通じて形を変えながら続きました。キャンバスを埋め尽くす網目の絵画も、鏡によって光が果てしなく続いて見える部屋も、網目や水玉で埋め尽くされた版画も、根は同じところにあります。作品の見た目は時代ごとに大きく変わっても、一本の筋が通っているのが草間彌生の大きな特徴です。

公式の略歴は、草間彌生が一貫して「自然、愛、生と死を超えた無限」をテーマに創作を続けたと記しています。水玉の一つひとつは小さくても、それが際限なく増えていくことで、見る人は「終わりのなさ」を目で感じることになります。

経歴と作品

松本で絵を描きはじめる(1929年〜1950年代)

草間彌生は1929年3月22日、長野県松本市に生まれました。公式の略歴は、幼少期から幻視や幻覚を体験し、水玉や網目をモチーフとする絵を描きはじめたことを、作家の出発点として記しています。

国立新美術館の2017年の展覧会解説によれば、幼いころから絵を描くことが好きだった草間彌生は、京都市立美術工芸学校で日本画を学び、故郷の松本で創作活動を始めました。日本画は、岩絵具や墨、和紙や絹など伝統的な素材を使う絵画です。CNNの報道も、草間彌生が京都の美術学校で近代的な日本画の様式を学んだこと、そしてキャリアのごく初期から抽象的な表現や反復する水玉の模様を試みていたことを伝えています。

同じ国立新美術館の解説は、1950年代の作品について、抽象的でありながら、動植物、人間、天体、都市など多様なモチーフをテーマに、生命感と宇宙的な広がりを感じさせると説明しています。草間彌生はこの時期、詩人で美術評論家の瀧口修造らに高く評価され、東京でも何度か個展を開きました。

それでも、草間彌生は日本での活動に限界を感じるようになります。CNNの報道によれば、アメリカの画家ジョージア・オキーフとの手紙のやり取りに励まされたことも、海外へ出る決意を後押ししました。

ニューヨークへ(1957年〜1958年)

国立新美術館の解説によれば、草間彌生は1957年の秋、単身でアメリカへ渡り、翌年にはニューヨークに住まいを移しました。CNNの報道は、アメリカへ移ったあと、シアトルを経て、ポップアートの運動が生まれつつあったニューヨークへ移ったと書いています。ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)の解説も、草間彌生が1958年にニューヨークへ移ったことを記しています。

当時のニューヨークでは、絵の具を勢いよく画面にぶつける抽象表現主義の画家たちが大きな存在感を持っていました。CNNの報道は、草間彌生がその伝統を根底から覆していったと書いています。日本から来た若い画家は、細かな網目で巨大な画面を埋め尽くすという、まったく別の方向の絵画を持ち込みました。

網目で画面を埋め尽くす「インフィニティ・ネット」(1958年〜1960年代前半)

公式の略歴は、草間彌生が渡米の翌年からニューヨークを拠点に、ネット・ペインティングを発表したと記しています。ネット・ペインティングは、小さな弧を描く筆の跡をいくつも連ねて、網の目のような模様で画面全体を覆う絵画です。英語では「インフィニティ・ネット(無限の網)」と呼ばれ、草間彌生を代表する作品群になりました。

国立新美術館の解説によれば、草間彌生が最初に高い評価を受けたのは、巨大なカンヴァスを小さな網目状のストロークで埋め尽くした、中心も際限もなく、構成を排したモノクロームのネット・ペインティングでした。モノクロームとは、一つの色だけで画面をつくることです。

LACMAは、所蔵する1960年の油彩『No. C.A.9』の解説で、めまいがするほど反復する筆づかいが「インフィニティ・ネット」の特徴であり、それが彫刻やインスタレーション、パフォーマンスへ広がる草間彌生の制作の土台になったと説明しています。

『Infinity Nets Yellow』(1960年)

アメリカのワシントンD.C.にあるナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵する『Infinity Nets Yellow』は、縦240cm、横294.6cmの大きなキャンバスに油彩で描かれた作品です。黄色の細かな網目が、暗い点のまわりをびっしりと取り巻き、近づいても離れても、画面のどこにも中心が見つかりません。

横長の画面全体を、黄色の細かな網目が埋め尽くす抽象画。網目のすき間に小さな暗い点が無数に散らばり、中心となる形はどこにもない
草間彌生『Infinity Nets Yellow』(1960年)、油彩、カンヴァス、240×294.6cm、所蔵:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)、Gift of the Collectors Committee。画像出典:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート公式サイトの作品ページ(引用)

この作品には興味深い来歴があります。同館の記録によれば、この絵は1960年にニューヨークの画家フランク・ステラが購入し、2002年に同館が購入しました。のちにミニマリズムを代表する一人となる画家が、若いころに草間彌生の網目の絵を手元に置いていたことになります。

網目の一つひとつは小さな筆の跡にすぎませんが、それが何千、何万と集まることで、壁のような大きな画面が生まれます。草間彌生の「反復と増殖」を、最も純粋な形で見られるのが、この時期の網目の絵画です。

彫刻と鏡の部屋へ広がる表現(1960年代)

公式の略歴によれば、草間彌生はニューヨークで、ネット・ペインティングに続いて、布などを使った柔らかい彫刻であるソフト・スカルプチャー、鏡や電飾を使ったインスタレーションを次々と発表しました。インスタレーションとは、空間全体を作品として構成し、見る人がその中に入って体験する表現のことです。

国立新美術館の解説は、この時期の仕事として、同じものを集め積み重ねる「アキュミュレイション」や、オブジェやイメージで空間を埋め尽くす「エンヴァイラメント」を挙げています。どれも、網目の絵画で平面の上に行っていた反復を、立体や部屋の大きさへと押し広げた試みです。

鏡を使った部屋は、のちに「インフィニティ・ミラー・ルーム」と呼ばれるシリーズに育っていきます。四方を鏡で囲んだ空間に小さな光や水玉を置くと、映り込みが映り込みを生み、空間が果てしなく続いているように見えます。網目の絵画で描いていた「終わりのなさ」を、人が立てる空間そのものに置き換えた作品だといえます。

公式の略歴はまた、ボディ・ペインティング、ファッション・ショー、ハプニングと呼ばれるパフォーマンス、映画制作、新聞の発行まで、草間彌生が活動の領域を自ら切り開いたと記しています。1967年の映画『草間の自己消滅』は、翌1968年にベルギーの国際短編映画祭で入賞し、アン・アーバー映画祭で銀賞を受けています。

草間彌生の表現の広がりを示す流れ図。網目で画面を覆う絵画から、柔らかい彫刻、鏡と光の部屋、野外の大きなかぼちゃの彫刻へと、同じ反復の発想が形を変えて広がっていく。
図:反復の発想が形を変えて広がる

ヴェネチア・ビエンナーレと『ナルシスの庭』(1966年)

美術手帖の報道によれば、草間彌生は1966年の第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加しました。ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネチアで2年に1度開かれる、世界で最も歴史のある国際美術展の一つです。

このとき草間彌生が展示したのが『ナルシスの庭』です。作家を扱うオオタファインアーツの略年譜によれば、屋外に鏡面の球を多数敷き詰めた作品でした。題名の「ナルシス」は、水面に映った自分の姿に見とれたギリシャ神話の青年に由来します。鏡の球の一つひとつに、会場の風景と見る人自身が映り込む仕掛けです。

それから27年後、草間彌生は同じヴェネチアの国際展で、日本館の個展の作家として再び登場することになります。

東京へ戻り、言葉と版画でも表現する(1973年〜1980年代)

公式の略歴によれば、草間彌生は1973年に日本へ帰国し、詩や小説の執筆にも新たに取り組みました。1983年には小説で野性時代新人賞を受けています。公式サイトが本人を「前衛芸術家」と並べて「小説家」と紹介しているのは、このためです。

国立新美術館の解説によれば、帰国後の草間彌生は、水玉やネットといった従来のモチーフを大胆に解釈し直し、具象的なイメージと組み合わせた色彩豊かな作品を生み出しました。コラージュ、版画、小説や詩といった新しい分野にも挑戦しています。

なかでも版画は、草間彌生の仕事の中で大きな位置を占めます。京都市京セラ美術館で2025年に開かれた「草間彌生 版画の世界」展の案内によれば、草間彌生は1979年に版画作品を初めて発表しました。南瓜、ドレス、葡萄、花や蝶といった身近なモチーフが網目や水玉で構成され、はっきりとした色彩をまとっています。同じ案内は、網目や水玉の増殖が創作の根幹にあった草間彌生と、同じ図柄を何枚も刷ることができる版画は、必然的に出合ったと述べています。

この案内は、近年の版画として、富士山を主題に浮世絵の木版画の技法を用いた連作や、モノクロームの大型シルクスクリーン「愛はとこしえ」シリーズも挙げています。シルクスクリーンは、絹などの網目の版を通してインクを刷る技法です。網目と水玉で画面をつくってきた作家が、版画でも繰り返しの力を生かしていたことがわかります。

CNNの報道によれば、作品の評価が国際的に大きく見直されたのは1980年代後半のことでした。長く忘れられていた絵画が欧米の展覧会で改めて紹介され、1989年にニューヨークで開かれた回顧展が注目を集めます。回顧展とは、一人の作家の長い活動を振り返り、各時期の代表作を集めて見せる展覧会です。

ヴェネチアの日本館と『南瓜』(1993年〜1990年代)

CNNの報道によれば、草間彌生は1993年、ヴェネチア・ビエンナーレで日本代表を務めるよう依頼されました。オオタファインアーツの略年譜は、これが第45回ヴェネチア・ビエンナーレの日本館で初めての個展だったと記しています。前述の版画展の案内も、草間彌生がこのビエンナーレで日本を代表する作家として世界の舞台に立ったと書いています。1966年に参加した同じ国際展に、今度は日本を代表する作家として立ったことになります。

『南瓜』(1994年)

かぼちゃ(南瓜)は、草間彌生の作品のなかでもとくによく知られたモチーフです。香川県の直島にある『南瓜』は、ベネッセハウスで1994年に開かれた企画展「Out of Bounds展」で展示が始まった野外彫刻です。海に突き出た古い桟橋に、黒い水玉に覆われた黄色いかぼちゃが置かれています。

ベネッセアートサイト直島の発表によれば、現在の『南瓜』は2022年に改めて制作されたもので、旧作と同じ場所に展示されています。素材は繊維強化プラスチック、金属、ウレタン塗装で、高さ2メートル、幅2.5メートルです。同じ発表は、海の青や木々の緑のなかで一際目を引く『南瓜』が、直島にしかない風景を見せていると紹介しています。

1998年には、LACMAで回顧展「ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968」が始まりました。LACMAは、この展覧会が草間彌生の批評的な評価を取り戻す助けになったと解説しています。ニューヨーク時代の10年間に光を当てたこの展覧会によって、1960年代の仕事の重要性が改めて確認されました。

同じ1990年代には、ニューヨークの画廊で開かれた個展も高く評価されています。公式の略歴によれば、草間彌生は1996年に、国際美術評論家連盟のベストギャラリー賞(1995/96年と1996/97年)を受けました。

世界を巡る回顧展と「インフィニティ・ミラー・ルーム」(2000年代〜2010年代前半)

2000年代に入ると、草間彌生の評価は国内外でさらに高まりました。公式の略歴によれば、2000年に芸術選奨文部大臣賞、2001年に朝日賞、2002年に紺綬褒章を受けています。2003年にはフランス芸術文化勲章オフィシエを受勲し、2006年には旭日小綬章と高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門を受け、2009年には文化功労者に選ばれました。

2010年代の初めには、ヨーロッパとアメリカの主要な美術館を巡る大規模な回顧展が開かれました。ロンドンのテート・モダンも、その会場の一つです。

『Infinity Mirrored Room – Filled with the Brilliance of Life』(2011/2017年)

テートが所蔵する『Infinity Mirrored Room – Filled with the Brilliance of Life』は、草間彌生の作品のなかでも最大級のインスタレーションの一つです。テートの解説によれば、2012年にテート・モダンで開かれた回顧展のためにつくられました。素材は鏡面ガラス、木、アルミニウム、プラスチック、陶、LEDです。

暗い部屋の中に、無数の小さな光がつり下げられています。周囲の鏡が光を映し合うため、部屋に入った人は、色とりどりの光が上下左右どこまでも続く空間の中に立つことになります。1960年代の鏡の部屋の発想が、半世紀をかけて、より大きく、より没入感のある形に育ったことがわかる作品です。

暗い室内に赤、青、緑、白などの小さな光の粒が無数に浮かび、鏡に映り込んで上下左右どこまでも続いて見えるインスタレーションの内部
草間彌生『Infinity Mirrored Room – Filled with the Brilliance of Life』(2011/2017年)、鏡面ガラス、木、アルミニウム、プラスチック、陶、LED、所蔵:テート、作家・オオタファインアーツ・ヴィクトリア・ミロ寄贈(2015年、2019年収蔵)。© YAYOI KUSAMA。画像出典:テート公式サイトの作品ページ(引用)

テートはこの作品を、作家とオオタファインアーツ、ヴィクトリア・ミロから2015年に寄贈され、2019年に収蔵しました。テート・モダンでは、この作品ともう一つのミラー・ルーム『Chandelier of Grief』を紹介する展示が行われました。テートの展覧会ページには、会期を2024年4月28日まで延長したと記されています。

『わが永遠の魂』と草間彌生美術館(2009年〜2020年代)

公式の略歴によれば、草間彌生は2009年から2021年にかけて、絵画のシリーズ「わが永遠の魂」を制作しました。その数は約900点に及びます。2021年には、新しい絵画シリーズ「毎日愛について祈っている」の制作を始めました。

国立新美術館の解説によれば、「わが永遠の魂」は、一辺194cmにほぼ統一された正方形のカンヴァスに、アクリル絵具で描かれた大型の連作です。具象的なモチーフと抽象的なパターンを自在に行き来しながら、色彩豊かな画面が驚くほどの速さで次々と生み出されました。同館はこの連作の最大の特徴を、驚くべき多様性にあると説明しています。

2017年、国立新美術館は開館10周年を記念して「草間彌生 わが永遠の魂」展を開きました。会期は2017年2月22日から5月22日までで、「わが永遠の魂」のうち日本初公開の約130点を中心に、初期から当時までの約270点で創作の全体を紹介しています。12年余りで約900点という数そのものが、描くことを繰り返し、作品を増やし続けるという草間彌生の姿勢をよく表しています。

2016年には文化勲章を受章しました。翌2017年10月1日には、東京都新宿区に草間彌生美術館が開館します。同館は、草間彌生自身が設立し、一般財団法人草間彌生記念芸術財団が運営する美術館で、草間作品のコレクションを展覧会で紹介しています。

CNNの報道は、ルイ・ヴィトンとのコラボレーションや、2018年公開のドキュメンタリー映画によって、草間彌生の姿や作品が美術館の外でも広く目にされるようになったことを伝えています。

『Dreaming of Earth’s Sphericity, I Would Offer My Love』(2023年)

サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)が2023年に収蔵した『Dreaming of Earth’s Sphericity, I Would Offer My Love』は、草間彌生が90代で制作した大型の作品です。同館の記録によれば、素材は木、ステンレス鋼、アルミニウム、タイル、アクリル、金属、塗料で、高さ約403cm、幅と奥行きは約511cmあります。

白い立方体の外壁には、赤やオレンジ、青の丸い窓が水玉のように開けられています。白い箱の表面に色の丸を散らした姿は、1960年代から続く水玉のモチーフを、建物のような大きさで示しているように見えます。晩年まで、草間彌生が大きな空間の作品に取り組み続けていたことを伝える一点です。

白い展示室に置かれた大きな白い立方体。外壁に赤、オレンジ、青の丸い窓や、下端に黒い半円形の開口が水玉のように配されている
草間彌生『Dreaming of Earth’s Sphericity, I Would Offer My Love』(2023年)、木、ステンレス鋼、アルミニウム、タイル、アクリル、金属、塗料、403.4×510.8×510.8cm、所蔵:サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)。© Yayoi Kusama。画像出典:SFMOMA公式サイトの作品ページ(引用)

故郷・松本とのつながり

草間彌生の故郷である長野県松本市の松本市美術館は、コレクション展示のなかで特集展示「草間彌生 魂のおきどころ」を通年で紹介しています。京都市京セラ美術館の版画展の案内は、松本市美術館を世界最大の草間コレクションを持つ館と紹介し、同館が所蔵する版画作品だけでも340点に及ぶと記しています。

京都で日本画を学び、松本で創作を始めた作家の作品が、ニューヨーク、ヴェネチア、ロンドンを経て、いまも故郷の美術館で一年を通して見られることになります。東京の草間彌生美術館とあわせて、国内で草間彌生の仕事にまとまって触れられる場所です。

2026年、97歳で死去

草間彌生は2026年8月14日に亡くなりました。97歳でした。株式会社草間彌生と株式会社草間彌生スタジオは、8月27日に公式サイトで逝去を告知しています。

告知は、草間彌生の生涯を「美術を中心にパフォーマンス、小説、詩など多方面における前衛芸術家としての国際的な活動にすべてを捧げ、亡くなる直前まで絵筆を手放すことなく、永遠の愛と魂を探究し続けた97年の生涯」と記しています。

草間彌生の作品は、2026年10月時点でも国内外で紹介が続いています。公式サイトによれば、2026年9月から2027年1月にかけてアムステルダム市立美術館で個展が開かれ、東京の草間彌生美術館でも2026年10月から2027年1月まで展覧会が開かれています。

草間彌生の作品を見るときの3つの手がかり。網目や水玉の反復、鏡と光が生む終わりのない空間、身近なモチーフを網目と水玉で構成した版画やかぼちゃ、の3点を示す。
図:草間作品を見る3つの手がかり

草間彌生の主な出来事の年表

年出来事
1929年長野県松本市に生まれる
1957年秋に単身で渡米。シアトルを経て、翌1958年にニューヨークへ
1960年『Infinity Nets Yellow』を制作(同年、フランク・ステラが購入)
1966年第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加、『ナルシスの庭』
1973年日本へ帰国し、東京を拠点に
1979年版画作品を初めて発表
1983年小説で野性時代新人賞
1993年第45回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で個展
1994年直島で『南瓜』の展示が始まる
1998年LACMAで回顧展「ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968」が始まる
2009年絵画シリーズ「わが永遠の魂」を始める(〜2021年、約900点)
2016年文化勲章
2017年国立新美術館で「草間彌生 わが永遠の魂」展。東京・新宿区に草間彌生美術館が開館
2026年8月14日に死去(97歳)

まとめ

いかがだったでしょうか。草間彌生(くさま やよい)は、1929年に長野県松本市に生まれ、京都で日本画を学んだのち、1957年に単身で渡米し、ニューヨークで網目の絵画「インフィニティ・ネット」や鏡を使ったインスタレーションを発表した前衛芸術家です。1973年に帰国してからは、版画や詩、小説も手がけながら東京で制作を続けました。

1993年にはヴェネチア・ビエンナーレの日本館で個展を開き、1994年には直島で『南瓜』の展示が始まります。2009年からの「わが永遠の魂」は約900点に及び、2017年には草間彌生美術館が開館しました。2026年8月14日に97歳で亡くなるまで、一つのモチーフを繰り返し増やしていくという発想は、網目、鏡の部屋、かぼちゃ、色鮮やかな絵画へと形を変えながら続いていました。美術館で作品の前に立ったときは、遠くから全体を眺めたあと、ぜひ近づいて、一つひとつの網目や水玉の筆の跡まで見てみてください。

Euphoric " " の視点

草間彌生は1979年に版画作品を初めて発表しました。京都市京セラ美術館の案内は、網目や水玉の増殖を創作の根幹にした作家と、同じ図柄を何枚も刷れる版画は、必然的に出合ったと述べています。

網目の絵画、鏡の部屋、版画、約900点に及ぶ「わが永遠の魂」。素材も大きさも変わりながら、一つのモチーフを繰り返し増やすという発想は、生涯を通じて手放されませんでした。表現の形を広げ続けられたのは、その中心が一つに定まっていたからだと考えます。

自分の核となる問いを持ち続けることは、新しい挑戦を続けるための確かな支えになるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に109件 開催中展覧会を探す