こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはマルセル・デュシャンという人物をご存じですか?
マルセル・デュシャンはフランス生まれの画家で、ニューヨーク・ダダイズムの発展に大きく貢献した人物です。コンセプチュアル・アートやインタラクション・アートなど、現代アートの先駆けとも言えるジャンルを切り開いたことでも有名です。
本記事ではそんなマルセル・デュシャンの人生と作品についてご紹介します。
目次
マルセル・デュシャンって?
基本情報
本名 | マルセル・デュシャン(Henri-Robert-Marcel Duchamp) |
生年月日 | 1887年7月28日〜1968年10月2日(81歳没) |
国籍/出身 | フランス ノルマンディー地方出身/1955年、アメリカ国籍を取得 |
学歴 | 高校卒業後、アカデミー・ジュリアンで学ぶ |
分野 | 絵画、コンセプチュアル・アート、ポップ・アート |
傾向 | ニューヨーク・ダダイズム |
師事した/影響を受けた人物 | フランシス・ピカビア等 |
経歴と作品
生まれと環境
デュシャンは、1887年にフランスの裕福な家庭で生まれました。
デュシャンの家は7人兄弟で、その三男として育ちます。父が公証人であったこともあり、進路について縛られることはあまりなく兄たちの影響でデュシャンは絵画に触れます。
高校を卒業し、アカデミー・ジュリアンという美術アカデミーで絵画を学んだデュシャンは、生まれには苦労せず、順調に画家への道を歩み始めました。
芸術運動との関わり
『ポートレイト(1911)』
デュシャンは1911年、フランシス・ピカビアと出会います。画家でありつつ詩人でもあったピカビアにデュシャンは影響を受け、印象派やキュビズムといった芸術運動の傾向を織り交ぜながら作品を手掛けます。
この頃のデュシャンは先述した印象派やキュビズムだけでなく、未来派やフォービズムなど多種多様な運動に影響され、さまざまな表情を持つ作品を残しているのが印象的な時代です。
モダニズムの才能
『階段を降りる裸体 No.2(1912)』
この頃のデュシャンの代表作といえば、この『階段を降りる裸体 No.2(1911)』でしょうか。キュビズムの単一焦点と未来派の連続的な動きをとらえた構成という要素を組み合わせたようなこの作品は、モダニズム絵画の古典として知られています。
フランスで行われたアンデパンダン展に出品されましたが、キュビストから、未来派の影響が強いことを指摘され良い意味での注目は集めることができませんでした。
これには国間で芸術運動のスタイルが異なっていたことに原因の一つがあります。イタリアなどの中心的なキュビストは、外国の画家の影響を容認し、むしろ発展と楽しみを期待するようなスタイルでしたが、フランスのキュビストは外国の画家の影響を避け、独自で表現を模索するようなスタイルを好んでいました。
デュシャンはフランスで活動しながらも、フランス独自の文化によって酷評を受けてしまったのです。
マルセル・デュシャンは何の人?
デュシャンはこれ以降、数点の絵画作品を手掛けたのち油絵の制作をやめてしまいます。
今でこそ評価されている『階段を降りる裸体 No.2(1911)』ですが、保守的なフランスのキュビストグループとソリが合わず、予定していたグループ展への出品を断念するほど、反響は芳しいものではありませんでした。
しかし、絵画を手がけた期間が短いにも関わらずデュシャンの代表作として『階段を降りる裸体 No.2(1911)』が知られているのは、この時の反響が後に再評価されたことが大きいでしょう。
自由を求めてアメリカへ
第一次世界大戦中の1915年、デュシャンはアメリカへ渡ります。ニューヨークにアトリエを構え、アレンスバーグ夫妻というパトロンと親交を深めながら制作を進めます。
また同じ頃、アメリカの写真家マン・レイなどとも出会っています。
『大ガラス』を通した芸術のみつめかた
後の時代に、抽象表現主義を基点にしたコンセプチュアル・アートを手がけるようになるデュシャンの芸術論は1915年から制作された『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』(通称『大ガラス』)に求めることができます。
高さ約2.7メートルの2枚の透明ガラスの間に、油彩、鉛の箔などで色付けされた『大ガラス』は、それ単体では何を表現しているのか曖昧な作品で、これを解読するためには制作における膨大な量のメモ(通称『グリーンボックス』)と併せて解読する必要があります。
デュシャンは全部で94点にも登るメモを観客自身が自由に並べ、『大ガラス』に描かれたビジュアルにストーリーを見出すという鑑賞方法を想定したようです。
デュシャンはインタビューで「美学的に鑑賞されるものではなく、『メモ』と一緒に見るべきものである」「出来上がった視覚美術だけで終わらず、完了にいたるまでの思考のプロセスも美術だ」と主張しています。
制作者であるデュシャンと鑑賞する立場にいる観客が思考プロセスを共有し、作品がそこにあるにも関わらず、そこに新たな作品が生まれることを望んでいたようです。
これがまさしくコンセプチュアル・アートの先駆けであり、現代における芸術のあり方を生み出したと言っても過言ではないかもしれません。
レディ・メイド
『泉(1917)』
デュシャンは『大ガラス』を大きな転機に絵画作品を全く放棄し、レディ・メイド作品をつくることに没頭しました。美術分野におけるレディ・メイドとは、既製品(レディ・メイド)に少し手を加えただけ(あるいは全くそのまま)の物を作品とするもので、ひとりの表現者によって一点ものの作品をつくるというこれまでの芸術の概念を大きく揺るがすものでした。
中でも特に有名なのは、1917年に制作されニューヨーク・アンデパンダン展に出品された『泉(1917)』でしょう。これは既製品の男子用小便器に「R.Mutt」というサインを施したのみの状態で展示され、物議を醸した作品です。
しかしデュシャンはこの反応を待ち望んでいたかのように思え、「みるものが芸術をつくる」というデュシャンのテーマから狙いすまされたパフォーマンスかのようでした。批判や物議も作品の価値に変えてしまうデュシャンの制作スタイルは、『階段を降りる裸体 No.2(1911)』からも見てとれますが、この『泉(1917)』が20世紀以降の芸術家に与えた影響は甚大でした。
『遺作』に込めた思い
『1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(1944-1966)』
出典:Given: 1. The Waterfall, 2. The Illuminating Gas, WIKIART, https://www.wikiart.org/
デュシャンは『泉(1917)』の制作後、『大ガラス』の出展や『グリーンボックス』の出版などをしながら、ある作品に没頭していました。それは『1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(1944-1966)』。通称『遺作』です。
実に20年以上の年月をかけ、デュシャンが死去するほんの2年前に完成を迎えた『遺作』はまさに、難解ながらもデュシャンの視覚と芸術に対する思考のプロセスを具現化したような作品です。
デュシャンの死後に発表されたこの『遺作』は、少女の裸像とガスランプ、自然豊かな風景が広がる光景を扉から覗き込むインスタレーションで、人によって様々な解釈を想起させる夢の中のような印象を与える作品です。
扉を覗き込むという行為を通して作品を鑑賞する観客の意識を集中させ、様々な解釈を呼び起こすというデュシャンが望んだ鑑賞方法をコントロールしているようです。
この作品に答えはないのかもしれませんが、デュシャンはダダイズムの「反芸術」というスタイルに違和感を持ち、自身の作品を「無芸術」と称していました。
それならば、デュシャンが求めるのは作品そのものではなく、我々が鑑賞時に持った感想こそが芸術であると呼びかけているようです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
一見難解なデュシャンの作品でしたが、それもそのはず。
難解だからこそ一つの答えを導き出すことができず、そしてその解釈のグラデーションこそが芸術であると主張したデュシャンは、現代アートが認知された現在の我々の心理にマッチしているように思えます。