こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはマルセル・デュシャンという人物をご存知ですか?
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)は、フランスのノルマンディー地方に生まれ、のちにアメリカの市民権を得た美術家です。市販の男性用小便器に「R. Mutt」と署名した『泉』(1917年)で知られ、既製品を選んで作品とする「レディ・メイド」という考え方を打ち出しました。絵画を25歳で手放し、ガラスの大作『大ガラス』、チェスへの没頭、そして死後に公開された『遺作(与えられたとせよ)』と、その歩みは一筋縄ではいきません。
それでも、ブリタニカ百科事典はデュシャンを「芸術作品と日用品の境界を壊した」美術家と紹介し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)はレディ・メイドがポップ・アート、ミニマリズム、コンセプチュアル・アートへの道を開いたと説明しています。本記事ではそんなマルセル・デュシャンの人生と作品についてご紹介します。デュシャンの作品は日本で現在も著作権で保護されているため、本記事では所蔵館であるフィラデルフィア美術館の公式ページで公開されている画像を、解説のために出典を明記して引用します。
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Toggleマルセル・デュシャンって?
基本情報
| 本名 | アンリ=ロベール=マルセル・デュシャン(Henri-Robert-Marcel Duchamp) |
| 生年月日(没年月日) | 1887年7月28日〜1968年10月2日(81歳没) |
| 国籍・出身 | フランス、ノルマンディー地方ブランヴィル=クレヴォン生まれ。1955年にアメリカの市民権を取得 |
| 学歴 | 1904〜1905年、パリのアカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ(ほぼ独学とされる) |
| 分野 | 絵画、レディ・メイド、ガラス作品、映像、インスタレーション、チェス |
| 傾向 | キュビスムから出発し、ダダ、シュルレアリスムの画家たちと交わる。どの運動にも完全には属さなかった |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 兄ジャック・ヴィヨン(画家)、兄レーモン・デュシャン=ヴィヨン(彫刻家)。交友のあった人物にフランシス・ピカビア、ギヨーム・アポリネール、マン・レイ |
| 主な所蔵館 | フィラデルフィア美術館(アレンズバーグ・コレクションなど、主要作の多くを所蔵) |
英語表記は「Marcel Duchamp」、検索では「マルセル デュシャン」「duchamp」とも書かれます。フィラデルフィア美術館の作品ページでは、デュシャンは「American (born France)」、つまりフランス生まれのアメリカの美術家として記録されています。
マルセル・デュシャンは何の人?
ひとことで言えば、「芸術とは何か」という問いそのものを作品にした人です。デュシャンは1912年の秋に、それまでの油絵の描き方を捨てたとフィラデルフィア美術館は説明しています。その後に手がけたのは、機械の設計図のような絵、ガラスの上に組み立てた大作、そして店で売っている品物をほぼそのまま作品とするレディ・メイドでした。
デュシャン自身、絵を量産したり、たびたび展覧会を開いたりすることを好みませんでした。ブリタニカは、デュシャンが一つの様式を習慣にすることに価値を見いださなかったと書いています。作品の数は多くありませんが、その一つひとつが、のちの美術の前提を揺さぶりました。

経歴と作品
芸術家きょうだいのなかで育つ(1887〜1904)
デュシャンは1887年7月28日、フランス北部ルーアンに近いブランヴィル=クレヴォンで生まれました。父は公証人でしたが、家には芸術の伝統があったとブリタニカは伝えています。祖父は海運の仕事をしながら本格的に版画を手がけていたそうです。
デュシャン家の子どものうち4人が芸術家になりました。長兄ガストンは画家ジャック・ヴィヨンとして、次兄レーモンは彫刻家レーモン・デュシャン=ヴィヨンとして知られます。マルセルと、1889年生まれの妹シュザンヌは、デュシャンの名前のまま芸術家として活動しました。テートの作家解説も、デュシャンを画家ジャック・ヴィヨンとキュビスムの彫刻家レーモン・デュシャン=ヴィヨンの弟として紹介しています。
パリでの修業と画風の模索(1904〜1911)
1904年10月、デュシャンはパリへ出ます。ポンピドゥー・センターの作家解説によると、父から仕送りを受けての上京でした。パリのアカデミー・ジュリアンで絵画を学びましたが、通ったのは1年ほどで、熱心な生徒ではなかったとされ、ポンピドゥー・センターは「本質的には独学」と書いています。テートとグッゲンハイム美術館(ヴェネツィア)は、在籍を1904〜1905年としています。
この時期のデュシャンは、雑誌に風刺漫画を描きながら、当時の主な絵の流れを次々と試しました。ブリタニカは、ポスト印象派、セザンヌの影響、フォーヴィスム、そしてキュビスムと、短いあいだに通り抜けたと説明しています。1909年にはサロン・デ・ザンデパンダンとサロン・ドートンヌに初めて出品しました。
『画家の父の肖像(Portrait of the Artist’s Father)』(1910)
この時期の代表例としてブリタニカが挙げるのが、父を描いた『画家の父の肖像』です。ブリタニカは、フォーヴィスムの運動そのものが下火になってから3〜4年後に、デュシャンがこの様式で初期の優れた作品を描いたと述べています。画面には、椅子に腰かけ、頬杖をつく父の姿が描かれています。のちの「描かない」デュシャンを知ると意外ですが、出発点は確かな腕を持つ画家でした。

『チェス・プレイヤーの肖像(Portrait of Chess Players)』(1911)
1911年になると、デュシャンの絵にキュビスムの影響がはっきり表れます。『チェス・プレイヤーの肖像』は、2人の兄がチェス盤をはさんで向き合う姿を描いた作品です。フィラデルフィア美術館によると、左がレーモン・デュシャン=ヴィヨン、右がジャック・ヴィヨンで、横顔がくり返されて、時間とともに移っていく2人の集中を表しています。間に浮かぶ駒は、対局者の頭の中に描かれた盤面です。デュシャンは、この紫がかった灰色の色調を、ちらつくガス灯の下で描くことで得たと語ったといいます。

同館は、デュシャンがチェスの知的な厳密さを高く評価し、芸術にも同じような概念的な土台を求めたと説明しています。このチェスへの関心は、のちの人生で大きな意味を持つことになります。
このころ、デュシャンは詩人ギヨーム・アポリネールや画家フランシス・ピカビアと親しくなりました。ブリタニカによると、デュシャンとピカビアはキュビスムを「体系的すぎ、静的すぎる」と感じていた点で通じ合っていました。また、2人の兄はパリ郊外ピュトーの芸術家の集まり(ピュトー・グループ)に加わっており、キュビスムの画家や詩人が行き来していたとポンピドゥー・センターは伝えています。
『階段を降りる裸体 No.2』と絵画との決別(1912)
『階段を降りる裸体 No.2(Nude Descending a Staircase (No. 2))』(1912)
デュシャンの名を最初に世に広めたのが、『階段を降りる裸体 No.2』です。フィラデルフィア美術館は、この絵が裸体画の伝統的な美しさや肉体性を取り去り、動いている人の体の見え方を広げようとした作品だと説明しています。1911年の『肖像(デュルシネア)』で試した、一つの体の動きの段階を重ねて描く方法を、さらに推し進めたものでした。
ところが1912年、パリのサロン・デ・ザンデパンダンに出品しようとした際、展示の担当だった仲間のキュビスムの画家たちは、この作品を外そうとしました。ブリタニカによると、委員会はデュシャン家の友人たちで構成されていました。ポンピドゥー・センターは、友人や兄たちを含むキュビスムの画家たちに拒まれたと書いています。フィラデルフィア美術館は、その理由として、動きを描くという考え、階段を降りる裸体という見慣れない主題、画面の下に大きな文字で書かれた題名などが考えられると述べています。この作品は、同じ年の「セクション・ドール」展で展示されました。
この出来事は、デュシャンがキュビスムの画家たちと距離を置くきっかけになりました。ポンピドゥー・センターによると、失望したデュシャンは絵画から離れ、パリのサント=ジュヌヴィエーヴ図書館で働きながら知識を深めていきます。なお、本作はフィラデルフィア美術館の所蔵です。
アーモリー・ショーで名が知られる(1913)
翌1913年、ニューヨークで「アーモリー・ショー」(国際近代美術展)が開かれます。フィラデルフィア美術館によると、近代美術をニューヨークの大勢の観客に示したこの展覧会で、『階段を降りる裸体 No.2』は敵意に満ちた反応にさらされ、デュシャンは「挑発する芸術家」として評判を固めました。ブリタニカも、数百点の衝撃的な出品作のなかで、この絵がとりわけ注目を集めたと書いています。
出品したのは、この1点だけではありません。フィラデルフィア美術館の来歴記録には、同館が所蔵するデュシャンの絵画のうち3点が、アーモリー・ショーの会場で画家本人から買い取られたことが記されています。
| 作品(制作年) | アーモリー・ショーでの買い手と日付 | 現在の所蔵 |
|---|---|---|
| 『チェス・プレイヤーの肖像』(1911) | アーサー・ジェローム・エディ(シカゴ)、1913年3月1日 | フィラデルフィア美術館 |
| 『急速な裸体たちに囲まれた王と女王』(1912) | アーサー・ジェローム・エディ(シカゴ)、1913年3月2日 | フィラデルフィア美術館 |
| 『階段を降りる裸体 No.2』(1912) | フレデリック・C・トーリー(サンフランシスコ)、1913年3月5日 | フィラデルフィア美術館 |
一方、同じ1913年につくられた『自転車の車輪』は、アーモリー・ショーの出品作ではありません。MoMAの解説によると、デュシャンは1913年、台所用の丸椅子に自転車の車輪を取りつけ、パリのアトリエに置いていました。表の3点はいずれも、のちにウォルター・アレンズバーグとルイーズ・アレンズバーグ夫妻のコレクションに入り、1950年にフィラデルフィア美術館へ贈られました。夫妻は1913年にこの展覧会で『階段を降りる裸体 No.2』を見て以来、この絵を欲しがっていたと同館は伝えています。
機械の図面のような絵とレディ・メイドの誕生(1913〜1915)
『チョコレート磨砕器 No.2(Chocolate Grinder (No. 2))』(1914)
1913年、デュシャンはルーアンの菓子店のショーウィンドーに飾られていたチョコレート磨砕器(チョコレートをすりつぶす機械)に偶然出会います。フィラデルフィア美術館によると、デュシャンはこの機械を主題に2点の絵を描き、技術者の図面のような正確さを思わせる描き方を選びました。画面は平らにされ、画家の手の跡と機械的な複製とが重ね合わされています。No.2には、油彩と鉛筆に加えて糸も使われています。

同じころ、デュシャンは『大ガラス』のための習作に取りかかっていました。ブリタニカは、デュシャンがこの作品のために、自ら「網膜的な芸術」と呼んだものを退け、工業デザインの幾何学的な方法を取り入れたと説明しています。目を楽しませる絵から、考えを組み立てる絵への移行が、この1点に表れています。
『自転車の車輪』(1913)
同じ1913年、デュシャンは台所用の丸椅子の座面に穴をあけ、自転車の車輪を逆さまに差し込みました。MoMAの解説によると、本人は「特別な理由はなかった」と振り返り、車輪が回るのを眺めるのは「アトリエに暖炉があるようなものだった」と語っています。この最初の『自転車の車輪』は捨てられて残っておらず、MoMAが所蔵するのは1951年にニューヨークでつくられた3つ目のバージョンです。
レディ・メイドとは
レディ・メイドとは、大量生産された既製品を選び、署名や銘文を加えるなどして作品とする方法です。テートは、ときに少し手を加えた日用品を、作家が芸術作品として指定したものと説明しています。
「レディ・メイド」という言葉が記録に初めて現れるのは、1916年1月15日付で妹シュザンヌに宛てた手紙です。MoMAによると、デュシャンはこの手紙で、パリのアトリエに残した『自転車の車輪』と1914年の『瓶乾燥器』を「レディ・メイド」と呼びました。つまり、考え方としての名前は、作品より後からついたことになります。MoMAは、レディ・メイドが、技術の見事さや見た目の快さではなく考えこそが作品の存在理由になりうると示し、西洋美術の土台にあった前提を覆したと述べています。テートは、デュシャンが既製品を使うことで、決まった様式や好みを育ててしまう「罠」から自由になれたと語っていたことも伝えています。
| 作品(制作年) | 使われた既製品 |
|---|---|
| 『自転車の車輪』(1913) | 自転車の車輪と台所用の丸椅子 |
| 『瓶乾燥器』(1914) | 瓶を乾かすための台 |
| 『折れた腕の前に』(1915) | 雪かき用のシャベル |
| 『泉』(1917) | 男性用小便器(「R. Mutt」と署名) |
ニューヨークと『泉』(1915〜1918)
第一次世界大戦が始まると、兵役を免除されていたデュシャンはフランスを離れ、1915年6月にニューヨークに着きました。ブリタニカによると、アーモリー・ショーで名が知られていたデュシャンは、記者たちに有名人として迎えられたといいます。詩人で収集家のウォルター・アレンズバーグが自宅にアトリエを用意し、デュシャンはすぐに『大ガラス』の制作に取りかかりました。画廊からの誘いは多くありましたが、すべて断り、フランス語を教えて生計を立てたそうです。
1915年には、雪かき用のシャベルを使ったレディ・メイド『折れた腕の前に』もつくっています(テート)。ニューヨークでの交友は、キャサリン・ドライヤー、マン・レイ、アレンズバーグ夫妻、ピカビアらに広がり、1920年にはドライヤー、マン・レイとともに「ソシエテ・アノニム」を設立しました(グッゲンハイム美術館)。
『泉(Fountain)』(1917)
1917年、ニューヨークで「独立芸術家協会」の第1回展が開かれました。会場はグランド・セントラル・パレスで、会期は4月10日から5月6日までです(ジョージア・オキーフ美術館の展覧会記録)。ボウディン大学美術館によると、この協会は「審査なし、賞なし」を掲げ、会費と出品料を払えば誰の作品も作家名のアルファベット順に並べると約束していました。
デュシャンはこの展覧会に、市販の小便器に「R. Mutt」と署名し、「1917」と書き入れた作品『泉』を送ります。ブリタニカによると、デュシャンは協会の創設メンバーでしたが、偽名で出したため作品は拒まれました。フィラデルフィア美術館は、『泉』が展示委員会に拒否され、その直後に原作が失われたと説明しています。
原作は残っていないのに、『泉』は20世紀でもっとも悪名高い作品の一つになりました。フィラデルフィア美術館によると、その名を広めたのは複製でした。デュシャンはまず『トランクの中の箱』(1935〜1941年)のためにミニチュアをつくり、1950年にはシドニー・ジャニス画廊の展覧会のために、ジャニスがパリで中古の小便器を買うことを認め、元の銘文を書き入れました。これが同館の所蔵品で、1950年代から60年代にかけて、ジョン・ケージやロバート・ラウシェンバーグらが展覧会で目にした『泉』だといいます。テートが所蔵する『泉』も、1964年のレプリカです。

この時期、デュシャンはアレンズバーグ、アンリ=ピエール・ロシェとともに雑誌『ザ・ブラインド・マン』を出版しました(ブリタニカ)。1918年には、まだ未完成だった『大ガラス』をアレンズバーグに売り、そのお金などで9か月間ブエノスアイレスに滞在しています。
『大ガラス』と「決定的な未完成」(1915〜1923)
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)』(1915〜1923)
デュシャンが最も重要な作品と考えていたのが、通称『大ガラス』です(テート)。フィラデルフィア美術館によると、2枚のガラス板の上に、油彩、ワニス、鉛の箔、鉛の線、そしてほこりまで使って組み立てられ、高さは約2.8メートル(277.5センチ)あります。1912年の秋に従来の絵画を捨てたデュシャンは、まもなくこの作品を構想し、1915年から8年をかけて制作しました。
画面は上下に分かれています。上には機械と昆虫を合わせたような「花嫁」、下には9人のマネキンのような「独身者たち」と、さまざまな機械装置が置かれ、両者は永遠に隔てられています。同館は、機械、偶然、ユーモア、言葉遊び、絵の中のイリュージョンなど、デュシャンがこだわり続けた主題をまとめた作品だと説明しています。ブリタニカは、象徴的な機械の設計図のようなものだと表現しています。
デュシャンは1923年2月、この作品の制作を止め、「決定的に未完成」のものとしました(ブリタニカ)。その後、ガラスは1920年代後半か1930年代前半の輸送中に一部が割れてしまいます。デュシャンは1936年にこれを修復し、のちに左右対称に走るひびを「改良」だと言ったそうです。1954年には、デュシャン自身が立ち会ってフィラデルフィア美術館に恒久的に設置されました。
作品を読み解く手がかりとして、デュシャンは1934年に『グリーン・ボックス』を刊行しています。『大ガラス』に関わるメモや資料を箱に収めたもので、ブリタニカによると、これを見た詩人アンドレ・ブルトンが作品の重要性に気づき、1935年に雑誌『ミノトール』で初の本格的なデュシャン論を書きました。なお、1965〜1966年には、画家リチャード・ハミルトンがデュシャンとともにレプリカを制作し、テートが所蔵しています。
パリ・ダダとローズ・セラヴィ(1919〜1920年代)
1919年、デュシャンはパリに戻り、ピカビアのもとに滞在して、パリのダダの画家たちと交わります。ブリタニカによると、このとき生まれたのが、モナ・リザの複製に口ひげとあごひげを描き加えた『L.H.O.O.Q.』です。過去の芸術をからかうこの作品は、ダダの精神をよく表すものとされています。
1920年にはニューヨークでモーターで動く装置をつくり、女性の分身「ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)」を生み出しました(グッゲンハイム美術館)。ポンピドゥー・センターは、このローズ・セラヴィそのものを、デュシャンの作品の一つとみなせると書いています。1921年にはマン・レイとともに雑誌『ニューヨーク・ダダ』を1号だけ出版しました。
1920年代半ばには、光学の実験から短い映画『アネミック・シネマ』(1926年)もつくっています。ブリタニカは、デュシャンが「一種のアマチュア技術者」として動く機械に取り組んだと説明しています。言葉が作品の中心にあることも、デュシャンの大きな特徴です。ポンピドゥー・センターは、言葉が画像に注釈をつけたり、無数の解釈へ開いたりすると述べています。
チェスに打ち込んだ時代(1923〜1930年代)
『大ガラス』の制作を止めた1923年、デュシャンはパリに移り、芸術をやめて大好きなチェスに打ち込むと周囲に知らせました(フィラデルフィア美術館)。グッゲンハイム美術館は、芸術を捨ててチェスを選んだように見えて、実は芸術の実験を続けていたと書いています。
チェスへの打ち込み方は本格的でした。国際チェス連盟(FIDE)の資料館によると、デュシャンは1920年代半ばにチェスへ軸足を移し、フランス選手権に出場したほか、1928年から1933年までチェス・オリンピアードに出場しました。1933年にイギリスのフォークストンで開かれた第5回チェス・オリンピアードでは、世界チャンピオンのアレクサンドル・アレヒンらとともにフランス代表の一員として写真に収まっています。通信チェスにも取り組み、記事を書き、「芸術的な意味で解のない」チェスの問題もつくったと、同資料館は紹介しています。ブリタニカによると、1932年にはチェスの研究書も出版しています。
若いころの『チェス・プレイヤーの肖像』で描いた盤面は、ここで現実の舞台になりました。チェスの知的な厳密さに芸術の手本を見ていたという、フィラデルフィア美術館の説明とも重なります。
『トランクの中の箱』と亡命(1935〜1942)
1930年代半ばから、デュシャンはシュルレアリスムの画家たちと協力し、展覧会に参加しました(グッゲンハイム美術館)。1938年にはパリの「国際シュルレアリスム展」の構成に関わっています(テート)。
この時期にまとめたのが『トランクの中の箱(Box in a Valise)』(1935〜1941年)です。自作の小さな複製を革のスーツケースに収めたもので、フィラデルフィア美術館は、自らの作品をミニチュアにした「持ち運べる美術館」と紹介しています。第二次世界大戦でドイツがフランスを占領すると、デュシャンは何度かに分けて材料を国境の外へ運び出し、最終的にニューヨークへ持ち込みました。1942年10月から11月にニューヨークで開かれたシュルレアリスム展の企画にも関わっています(ブリタニカ)。
ニューヨークに定住、再評価へ(1942〜1960年代)
デュシャンは1942年からニューヨークに定住し、1955年にアメリカの市民権を得ました(グッゲンハイム美術館、ブリタニカ)。戦時中、MoMAで『大ガラス』が展示されたことが評価の回復を助け、1945年には美術雑誌『ヴュー』がデュシャン特集号を出しています(ブリタニカ)。
1960年ごろになると、アメリカの若い世代の芸術家たちが、デュシャンの中に自分たちの問題への答えを見いだすようになります。ブリタニカによると、世界中から賛辞が寄せられ、アメリカとヨーロッパで回顧展が開かれました。デュシャンの許可のもと、レディ・メイドのレプリカが限定でつくられたのもこの時期です。MoMAの『自転車の車輪』(1951年)やテートの『泉』(1964年)は、こうしてつくられたものです。
MoMAは、レディ・メイドの自由な考え方がポップ・アート、ミニマリズム、コンセプチュアリズムを開き、その影響はロバート・ラウシェンバーグからアンディ・ウォーホル、ジェフ・クーンズまで、DNAのように受け継がれていると述べています。
『遺作(与えられたとせよ)』(1946〜1966)
『(与えられたとせよ)1. 落ちる水、2. 照明用ガス』(1946〜1966)
周囲がデュシャンは芸術をやめたと思っていたあいだも、デュシャンは制作を続けていました。フィラデルフィア美術館によると、1946年から1966年まで、ニューヨーク西14丁目のアトリエで、ひそかに最後の大作に取り組んでいたのです。それが通称『遺作』、正式には『(与えられたとせよ)1. 落ちる水、2. 照明用ガス』です。
鑑賞者は、古びた木の扉にあいた2つの小さな穴から中をのぞきます(ブリタニカ)。扉の向こうには、木々や滝、空の風景を背にした情景がつくり込まれています。素材は、木の扉、れんが、ベルベット、小枝や葉、ガラス、ガス灯、電気モーターなど多岐にわたります。作品には、デュシャンが入念にまとめた設置のためのマニュアルが添えられていました。
1968年にデュシャンが亡くなった後、この作品の存在が知られると、関係者は大きな驚きをもって受け止めたと同館は伝えています。本人の遺志により、作品はキャサンドラ財団が取得してフィラデルフィア美術館に贈り、1969年7月に恒久展示として公開されました。
マルセル・デュシャンは、1968年10月2日、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌで81歳で亡くなりました(ポンピドゥー・センター)。
コンセプチュアル・アートとの関係
デュシャンが「コンセプチュアル・アート(概念芸術)の先駆け」と呼ばれるのは、作品の価値を、手わざや見た目の美しさではなく、考えや選ぶという行為に置いたからです。ポンピドゥー・センターは、デュシャンを、第二次世界大戦後に現れる現代美術の「精神的な父」とみなす人が多く、アイデアが仕上がりより優先される知的な芸術のビジョンが、そこで評価されていると説明しています。
MoMAが言うように、レディ・メイドは「芸術とは何か」「作家の役割とは何か」という問いを残しました。技術や作者の手の唯一性といった、かつて尊ばれた性質が意味を失ったとき、作家には何が残るのか。この問いは今も続いています。
マルセル・デュシャン 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1887年 | 7月28日、フランス・ノルマンディー地方のブランヴィル=クレヴォンで生まれる |
| 1904年 | 10月、パリへ。アカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ(〜1905年) |
| 1909年 | サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドートンヌに初出品 |
| 1910年 | 『画家の父の肖像』 |
| 1911年 | 『チェス・プレイヤーの肖像』『肖像(デュルシネア)』 |
| 1912年 | 『階段を降りる裸体 No.2』。サロン・デ・ザンデパンダンで展示を拒まれ、同年のセクション・ドール展で展示。秋、従来の油絵を捨てる |
| 1913年 | ニューヨークのアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体 No.2』などを出品し話題に。パリのアトリエで『自転車の車輪』をつくる(アーモリー・ショーの出品作ではない) |
| 1914年 | 『チョコレート磨砕器 No.2』『瓶乾燥器』 |
| 1915年 | 6月、ニューヨークへ。『大ガラス』の制作を始める。『折れた腕の前に』 |
| 1916年 | 1月15日付の妹宛ての手紙で、初めて「レディ・メイド」の語を記す |
| 1917年 | 独立芸術家協会の第1回展(グランド・セントラル・パレス)に『泉』を出すが、展示を拒まれる |
| 1919年 | パリへ戻る。『L.H.O.O.Q.』 |
| 1920年 | ドライヤー、マン・レイとソシエテ・アノニムを設立。ローズ・セラヴィを生み出す |
| 1923年 | 2月、『大ガラス』の制作を止める(決定的な未完成)。パリへ移り、チェスに打ち込む |
| 1926年 | 映画『アネミック・シネマ』 |
| 1928〜1933年 | チェス・オリンピアードに出場 |
| 1934年 | 『グリーン・ボックス』を刊行 |
| 1935〜1941年 | 『トランクの中の箱』 |
| 1936年 | 割れた『大ガラス』を修復 |
| 1942年 | ニューヨークに定住 |
| 1946年 | 『遺作(与えられたとせよ)』の制作をひそかに始める(〜1966年) |
| 1954年 | 『大ガラス』がフィラデルフィア美術館に恒久設置される |
| 1955年 | アメリカの市民権を得る |
| 1968年 | 10月2日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去(81歳) |
| 1969年 | 7月、『遺作(与えられたとせよ)』がフィラデルフィア美術館で公開される |
マルセル・デュシャン 代表作一覧
| 作品名 | 制作年 | 所蔵・現状 |
|---|---|---|
| 画家の父の肖像 | 1910年 | フィラデルフィア美術館 |
| チェス・プレイヤーの肖像 | 1911年 | フィラデルフィア美術館 |
| 階段を降りる裸体 No.2 | 1912年 | フィラデルフィア美術館 |
| 自転車の車輪 | 1913年 | 原作は失われた。1951年の3つ目のバージョンをMoMAが所蔵 |
| チョコレート磨砕器 No.2 | 1914年 | フィラデルフィア美術館 |
| 泉 | 1917年 | 原作は失われた。1950年のレプリカをフィラデルフィア美術館、1964年のレプリカをテートが所蔵 |
| 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス) | 1915〜1923年 | フィラデルフィア美術館 |
| トランクの中の箱 | 1935〜1941年 | フィラデルフィア美術館など |
| (与えられたとせよ)1. 落ちる水、2. 照明用ガス[遺作] | 1946〜1966年 | フィラデルフィア美術館(1969年公開) |
まとめ
いかがだったでしょうか。マルセル・デュシャンは、フォーヴィスムやキュビスムの画家として出発し、『階段を降りる裸体 No.2』で注目を集めながら、25歳で従来の油絵を手放しました。その後は、機械の図面のような絵、ガラスの大作『大ガラス』、既製品を選んで作品とするレディ・メイドへと進み、『泉』で「何が芸術なのか」という問いを突きつけました。
1923年からはチェスに打ち込み、チェス・オリンピアードにも出場します。芸術をやめたと思われていたその裏で、20年をかけて『遺作(与えられたとせよ)』を完成させていました。主要な作品の多くは、アレンズバーグ夫妻らのコレクションを通じて、フィラデルフィア美術館に集まっています。
2026年10月時点で、フィラデルフィア美術館では回顧展「Marcel Duchamp」が2027年1月31日まで開かれています。同館によると、アメリカでは50年以上ぶりの大規模な回顧展で、2026年4月12日から8月22日までMoMAで開かれた後の巡回です。2027年春にはパリのグラン・パレで、ポンピドゥー・センターなどによる版が予定されています。作品が少ないからこそ、一点一点の前でじっくり考えることができるのも、デュシャンの面白さかもしれません。
Euphoric " " の視点
デュシャンは一つの様式を習慣にすることに価値を見いださず、絵を量産することも好みませんでした。25歳で従来の油絵を手放し、1923年からはチェスに打ち込むと周囲に知らせながら、その裏では20年をかけて『遺作』をつくり続けています。
手わざや見た目の美しさではなく、選ぶこと、考えることに作品の価値を置く。その姿勢がレディ・メイドを生み、ポップ・アートやコンセプチュアル・アートへ続く道を開いたのだと考えます。
当たり前とされている前提を一度疑ってみることは、新しい表現を生む出発点になるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。







