マルセル・デュシャンとは?代表作『泉』『大ガラス』の意味と生涯・年表を解説

マルセル・デュシャンとは?代表作『泉』『大ガラス』の意味と生涯・年表を解説

アートコンシェルジュ|最初の一枚から、一生のコレクションまで。無料で相談する

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはマルセル・デュシャンという人物をご存じですか?

マルセル・デュシャンはフランス生まれの画家で、ニューヨーク・ダダイズムの発展に大きく貢献した人物です。コンセプチュアル・アートやインタラクション・アートなど、現代アートの先駆けとも言えるジャンルを切り開いたことでも有名です。

本記事ではそんなマルセル・デュシャンの人生と作品についてご紹介します。

3行でわかるマルセル・デュシャン

  • 既製品に署名しただけの『泉』(1917年)で「選ぶことも芸術である」というレディ・メイドの概念を打ち立てた、フランス生まれの芸術家です。
  • 『階段を降りる裸体 No.2』(1912年)で物議を醸し、1915年に渡米。『大ガラス』(1915〜1923年)や遺作『(与えられたとせよ)』(1946〜1966年)で知られます。
  • 1955年にアメリカ国籍を取得し、1968年に81歳で死去。コンセプチュアル・アートの先駆者として、現代アートに大きな影響を残しました。

マルセル・デュシャンって?

基本情報

本名マルセル・デュシャン(Henri-Robert-Marcel Duchamp)
生年月日1887年7月28日〜1968年10月2日(81歳没)
国籍/出身フランス ノルマンディー地方出身/1955年、アメリカ国籍を取得
学歴高校卒業後、アカデミー・ジュリアンで学ぶ
分野絵画、コンセプチュアル・アート、ポップ・アート
傾向ニューヨーク・ダダイズム
師事した/影響を受けた人物フランシス・ピカビア等

【まるっと理解!】コンセプチュアルアートってなんですか?

マルセル・デュシャン 年表

1887年7月28日、フランス・ノルマンディー地方のブランヴィル=クレヴォンで誕生
1904年パリへ移り、アカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ
1911年フランシス・ピカビアと出会う
1912年『階段を降りる裸体 No.2』を制作
1913年『自転車の車輪』を制作(最初のレディ・メイド作品。原作は現存せず)。ニューヨークのアーモリー・ショーに出品され話題に
1915年渡米し、ニューヨークにアトリエを構える。『大ガラス』の制作を開始(1923年まで)
1917年『泉』を制作し、独立芸術家協会展に出品するも展示を拒否される
1919年『L.H.O.O.Q.』を制作
1934年『大ガラス』制作のためのメモをまとめた『グリーンボックス』を刊行
1946年遺作『(与えられたとせよ)』の制作を開始(1966年まで)
1955年アメリカ国籍を取得
1968年10月2日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去(81歳)
1969年遺作『(与えられたとせよ)』がフィラデルフィア美術館で公開
マルセル・デュシャンの歩みを、1904年のパリでの絵画修業、1912年の階段を降りる裸体、1913年の自転車の車輪、1915年の渡米、1917年の泉で示した図
図:デュシャンの歩み 5つの節目

経歴と作品

生まれと環境

デュシャンは、1887年にフランスの裕福な家庭で生まれました。

デュシャンの家は7人兄弟で、その三男として育ちます。父が公証人であったこともあり、進路について縛られることはあまりなく兄たちの影響でデュシャンは絵画に触れます。

高校を卒業し、アカデミー・ジュリアンという美術アカデミーで絵画を学んだデュシャンは、生まれには苦労せず、順調に画家への道を歩み始めました。

芸術運動との関わり

『ポートレイト(1911)』

デュシャンは1911年、フランシス・ピカビアと出会います。画家でありつつ詩人でもあったピカビアにデュシャンは影響を受け、印象派やキュビズムといった芸術運動の傾向を織り交ぜながら作品を手掛けます。

この頃のデュシャンは先述した印象派やキュビズムだけでなく、未来派やフォービズムなど多種多様な運動に影響され、さまざまな表情を持つ作品を残しているのが印象的な時代です。

モダニズムの才能

『階段を降りる裸体 No.2(1912)』

この頃のデュシャンの代表作といえば、この『階段を降りる裸体 No.2(1912)』でしょうか。キュビズムの単一焦点と未来派の連続的な動きをとらえた構成という要素を組み合わせたようなこの作品は、モダニズム絵画の古典として知られています。

1912年のアンデパンダン展への出品にあたり、未来派的すぎるという理由で、審査に関わった友人や兄を含む委員からタイトル変更や取り下げを求められ、良い意味での注目は集めることができませんでした。

これには国間で芸術運動のスタイルが異なっていたことに原因の一つがあります。イタリアなどの中心的なキュビストは、外国の画家の影響を容認し、むしろ発展と楽しみを期待するようなスタイルでしたが、フランスのキュビストは外国の画家の影響を避け、独自で表現を模索するようなスタイルを好んでいました。

デュシャンはフランスで活動しながらも、フランス独自の文化によって酷評を受けてしまったのです。

マルセル・デュシャンは何の人?

デュシャンはこれ以降、数点の絵画作品を手掛けたのち油絵の制作をやめてしまいます。

今でこそ評価されている『階段を降りる裸体 No.2(1912)』ですが、保守的なフランスのキュビストグループとソリが合わず、予定していたグループ展への出品を断念するほど、反響は芳しいものではありませんでした。

しかし、絵画を手がけた期間が短いにも関わらずデュシャンの代表作として『階段を降りる裸体 No.2(1912)』が知られているのは、この時の反響が後に再評価されたことが大きいでしょう。

自由を求めてアメリカへ

第一次世界大戦中の1915年、デュシャンはアメリカへ渡ります。ニューヨークにアトリエを構え、アレンスバーグ夫妻というパトロンと親交を深めながら制作を進めます。

また同じ頃、アメリカの写真家マン・レイなどとも出会っています。

『大ガラス』を通した芸術のみつめかた

後の時代に、抽象表現主義を基点にしたコンセプチュアル・アートを手がけるようになるデュシャンの芸術論は1915年から制作された『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』(通称『大ガラス』)に求めることができます。

高さ約2.7メートルの2枚の透明ガラスの間に、油彩、鉛の箔などで色付けされた『大ガラス』は、それ単体では何を表現しているのか曖昧な作品で、これを解読するためには制作における膨大な量のメモ(通称『グリーンボックス』)と併せて解読する必要があります。

デュシャンは全部で94点にも登るメモを観客自身が自由に並べ、『大ガラス』に描かれたビジュアルにストーリーを見出すという鑑賞方法を想定したようです。

デュシャンはインタビューで「美学的に鑑賞されるものではなく、『メモ』と一緒に見るべきものである」「出来上がった視覚美術だけで終わらず、完了にいたるまでの思考のプロセスも美術だ」と主張しています。

制作者であるデュシャンと鑑賞する立場にいる観客が思考プロセスを共有し、作品がそこにあるにも関わらず、そこに新たな作品が生まれることを望んでいたようです。

これがまさしくコンセプチュアル・アートの先駆けであり、現代における芸術のあり方を生み出したと言っても過言ではないかもしれません。

レディ・メイドとは

レディ・メイドとは、工業製品など既製品(レディメイド)を、作家がほとんど手を加えずに「選ぶ」ことで作品とする手法です。デュシャンは1913年の『自転車の車輪』を皮切りに、1915年頃から「レディ・メイド」という語を使い始めました。職人的な技術ではなく「選択」という行為そのものを芸術の核に据えた点で、20世紀以降の現代アートに大きな影響を与えました。

レディ・メイド

『泉(1917)』

デュシャンは『大ガラス』を大きな転機に絵画作品を全く放棄し、レディ・メイド作品をつくることに没頭しました。美術分野におけるレディ・メイドとは、既製品(レディ・メイド)に少し手を加えただけ(あるいは全くそのまま)の物を作品とするもので、ひとりの表現者によって一点ものの作品をつくるというこれまでの芸術の概念を大きく揺るがすものでした。

中でも特に有名なのは、1917年に制作されニューヨーク・アンデパンダン展に出品された『泉(1917)』でしょう。これは既製品の男子用小便器に「R.Mutt」というサインを施したのみの状態で展示され、物議を醸した作品です。

しかしデュシャンはこの反応を待ち望んでいたかのように思え、「みるものが芸術をつくる」というデュシャンのテーマから狙いすまされたパフォーマンスかのようでした。批判や物議も作品の価値に変えてしまうデュシャンの制作スタイルは、『階段を降りる裸体 No.2(1912)』からも見てとれますが、この『泉(1917)』が20世紀以降の芸術家に与えた影響は甚大でした。

レディ・メイドとは、既製品を作家がほとんど手を加えず選ぶことで作品とする手法で、1913年の自転車の車輪に始まり、1917年の泉に至ることを3つの点で示した図
図:レディ・メイドとは

『遺作』に込めた思い

『1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(1946-1966)』

デュシャンは『泉(1917)』の制作後、『大ガラス』の出展や『グリーンボックス』の出版などをしながら、ある作品に没頭していました。それは『1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(1946-1966)』。通称『遺作』です。

実に20年以上の年月をかけ、デュシャンが死去するほんの2年前に完成を迎えた『遺作』はまさに、難解ながらもデュシャンの視覚と芸術に対する思考のプロセスを具現化したような作品です。

デュシャンの死後に発表されたこの『遺作』は、少女の裸像とガスランプ、自然豊かな風景が広がる光景を扉から覗き込むインスタレーションで、人によって様々な解釈を想起させる夢の中のような印象を与える作品です。

扉を覗き込むという行為を通して作品を鑑賞する観客の意識を集中させ、様々な解釈を呼び起こすというデュシャンが望んだ鑑賞方法をコントロールしているようです。

この作品に答えはないのかもしれませんが、デュシャンはダダイズムの「反芸術」というスタイルに違和感を持ち、自身の作品を「無芸術」と称していました。

それならば、デュシャンが求めるのは作品そのものではなく、我々が鑑賞時に持った感想こそが芸術であると呼びかけているようです。

マルセル・デュシャン 代表作一覧

作品名制作年所蔵・現状
階段を降りる裸体 No.21912年フィラデルフィア美術館
自転車の車輪1913年原作は現存せず。1951年制作の「第三ヴァージョン」がニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵
泉1917年原作は現存せず。1964年以降に制作されたレプリカがフィラデルフィア美術館、テート、ポンピドゥー・センターなど各国の美術館に所蔵
大ガラス(彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも)1915〜1923年フィラデルフィア美術館
L.H.O.O.Q.1919年原作の所在は不明。1930年制作のレプリカがポンピドゥー・センターに所蔵
(与えられたとせよ)[遺作]1946〜1966年フィラデルフィア美術館(1969年公開)

よくある質問

マルセル・デュシャンとはどんな人物ですか?

マルセル・デュシャン(1887〜1968)はフランス出身の芸術家で、ニューヨーク・ダダイズムの中心人物の一人です。既製品をそのまま作品とする「レディ・メイド」を生み出し、コンセプチュアル・アート(概念芸術)の先駆けとされています。1955年にアメリカ国籍を取得しました。

『泉』はなぜそんなにすごいと言われるのですか?

『泉』(1917年)は市販の男性用小便器に「R. Mutt」と署名しただけの作品で、「審査なしで誰でも出品できる」と謳っていた独立芸術家協会展で展示を拒否されました。この出来事が「何を芸術とするかを決めるのは誰か」という問いを突きつけ、以後の現代アートのあり方そのものに影響を与えたため、美術史上の重要な転換点とされています。

マルセル・デュシャンはいつ亡くなりましたか?

1968年10月2日、81歳でフランス・ヌイイ=シュル=セーヌにて死去しました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

一見難解なデュシャンの作品でしたが、それもそのはず。

難解だからこそ一つの答えを導き出すことができず、そしてその解釈のグラデーションこそが芸術であると主張したデュシャンは、現代アートが認知された現在の我々の心理にマッチしているように思えます。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に79件 開催中/7日以内に終了 1件展覧会を探す