【徹底解説】マックス・ベックマンとは?自画像で時代を見つめたドイツの画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】マックス・ベックマンとは?自画像で時代を見つめたドイツの画家の人生と作品を解説!
マックス・ベックマンの徹底解説(『赤いスカーフの自画像』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはマックス・ベックマンという人物をご存知ですか?

マックス・ベックマン(Max Beckmann、1884〜1950)は、ドイツのライプツィヒに生まれた画家です。第一次世界大戦のあと、フランクフルトで、角ばった形と強い輪郭で人物や街を描く独自の画風を築きました。自分自身をさまざまな役に見立てた自画像を数多く残したことでも知られ、フランクフルトのシュテーデル美術館は、ベックマンが本格的な自画像をおよそ35点描いたと紹介しています。

1937年、ナチス政権に「退廃芸術」の画家と名指しされたベックマンはドイツを離れ、アムステルダムで約10年を過ごしたのち、アメリカで最晩年を迎えました。国を追われながらも描くことをやめなかった画家です。

本記事ではそんなマックス・ベックマンの人生と作品についてご紹介します。

マックス・ベックマンって?

マックス・ベックマン『Selbstbildnis mit Sektglas』(1919年)。黒っぽい上着の男性が葉巻とシャンパングラスを手に、オレンジ色の壁のバーに座る。背後で男が大きく笑っている
マックス・ベックマン『Selbstbildnis mit Sektglas(シャンパングラスのある自画像)』(1919年)油彩・カンヴァス、65×55.5cm、シュテーデル美術館(フランクフルト)。作品:パブリックドメイン、画像:Städel Museum(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

ベックマンの代表作の一つ『Selbstbildnis mit Sektglas(シャンパングラスのある自画像)』です。葉巻とシャンパングラスを手に、夜のバーに座る画家自身が描かれています。シュテーデル美術館は、この絵を両大戦間の時代とヴァイマル共和国を象徴する一枚と位置づけています。くわしくは、のちほど経歴のなかで見ていきます。

基本情報

本名マックス・ベックマン(Max Beckmann)
生年月日(没年月日)1884年2月12日〜1950年12月27日(アメリカ・ニューヨークで没)
国籍・出身ドイツ/ライプツィヒ生まれ。1937年にドイツを離れ、アムステルダムを経てアメリカへ渡った
学歴ヴァイマルの大公立美術学校(Großherzogliche Kunstschule)で1900年から1903年まで学ぶ
分野絵画(油彩)、版画(リトグラフ・エッチング・ドライポイント)、素描、彫刻
傾向第一次世界大戦後、角ばって単純化された形と強い輪郭による画風へ転じる。自画像、都市の風景、劇場やサーカス、仮面の人物をくり返し描いた。1930年代からは三連祭壇画(トリプティク)の形式で大作を残す
師事した人物・影響を受けた人物1903年から1904年のパリ滞在で、古い時代の美術と同時代の美術に触れた。ベルリンでは画家団体「ベルリン分離派」に加わった

同じ時代のドイツで、戦後の社会を鋭く描いた画家オットー・ディックスについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【徹底解説】「新即物主義」や「七つの大罪」で知られるオットー・ディックスとは?人生と作品に迫る

自画像を描き続けた画家

ベックマンを知るうえで欠かせないのが、自画像です。

シュテーデル美術館によれば、ベックマンは古典的近代の画家のなかでも、とりわけ多くの自画像を残しました。絵画、素描、版画、彫刻と、あらゆる技法で自分を描き、その数は絵画だけでおよそ35点にのぼります。若いころから晩年まで、自画像は画家としての歩みの節目ごとに描かれています。

ベックマンの自画像は、自分の顔を写すことだけが目的ではありませんでした。同館は、ベックマンが絵のなかで、サーカスの座長、見世物の呼び込み役、旧約聖書のアダム、何気ない傍観者といった役を演じていると説明しています。自画像は、社会のなかで芸術家がどんな役割を担うのかを考え、人間の根本的な葛藤を描くための手段でもあったといいます。

自分を役者のように画面に立たせる。この発想を頭に置いて作品を見ていくと、ベックマンの絵の読み方が少し変わってきます。

経歴と作品

ライプツィヒに生まれ、ヴァイマルで学ぶ(1884〜1903年)

マックス・ベックマンは1884年2月12日、ドイツ東部の都市ライプツィヒで生まれました。ドイツ歴史博物館が公開する人物年表(LeMO)と、ドイツの人名事典『新ドイツ人名事典(NDB)』は、いずれもこの日付と出生地を記しています。

1900年、ベックマンはヴァイマルの大公立美術学校に入り、1903年まで学びました。

『自画像』(1899年)

マックス・ベックマン『自画像』(1899年)。短い金髪の少年が、暗い赤の背景の前で緑がかった上着を着て正面を見つめる小さな油彩
マックス・ベックマン『自画像』(1899年)油彩、25×19cm、シュプレンゲル美術館(ハノーファー)/出典:Wikimedia Commons(シュプレンゲル美術館の画像、パブリックドメイン)

美術学校に入る前年、15歳ごろのベックマンが描いた自画像です。縦25センチ、横19センチほどの小さな画面に、短い金髪の少年が正面を向いて描かれています。暗い赤の背景に、緑がかった上着と明るい顔が浮かび上がり、右上には「M. Beckmann 1899」の署名と年記が入っています。のちの角ばった画風はまだ見られませんが、まっすぐこちらを見る視線には、のちの数多くの自画像につながるものが感じられます。

パリからベルリンへ(1903〜1914年)

美術学校を終えたベックマンは、1903年から1904年にかけてパリへ研究の旅に出ました。LeMOによれば、ここで古い時代の美術と同時代の美術の両方に出会っています。

1905年にはベルリンに移り、画家団体「ベルリン分離派」に加わりました。分離派は、当時の公的な美術展から距離を置いた芸術家たちのグループです。1906年には、フィレンツェでの滞在がついたヴィラ・ロマーナ賞を受けています。NDBによれば、1907年からはベルリン郊外のヘルムスドルフに住みました。

若いベックマンは、早くから画壇で認められていきます。LeMOによれば、1910年には分離派の役員会に、最年少の会員として選ばれました。1913年にはベルリンの画商パウル・カッシーラーのもとで大規模な回顧展が開かれ、同じ年に、分離派から分かれた「自由分離派」に移っています。

1914年に第一次世界大戦が始まると、ベックマンは志願して衛生兵となり、ベルギーのフランドル地方に赴きました。翌1915年に任務を解かれ、フランクフルトへ移ります。ここから1933年まで、フランクフルトがベックマンの拠点になりました。

フランクフルトで生まれた新しい画風(1915〜1919年)

シュテーデル美術館の資料によれば、フランクフルトに来たベックマンを迎え入れたのは、友人の夫妻ハインリヒ(ウギ)・バッテンベルクとフリーダ(フリーデル)・バッテンベルクでした。ベックマンは二人のもとに身を寄せ、この街で制作を再開します。

LeMOは、1917年ごろからベックマンの画風が、より単純で角ばったものに変わったと記しています。戦前の、柔らかな筆づかいの写実的な絵から、輪郭の強い、緊張感のある絵への転換です。

『赤いスカーフの自画像』(1917年)

マックス・ベックマン『赤いスカーフの自画像』(1917年)。白いシャツに赤いスカーフを巻いた男性が、窓の前で上半身をひねり、見開いた目でこちらを振り返る
マックス・ベックマン『Selbstbildnis mit rotem Schal(赤いスカーフの自画像)』(1917年)油彩・カンヴァス、80×60cm、シュトゥットガルト州立美術館/出典:Wikimedia Commons(シュトゥットガルト州立美術館の画像、パブリックドメイン)

この転換をよく示すのが、1917年の『赤いスカーフの自画像』です。白いシャツの首もとに赤いスカーフを巻いた画家が、窓の前で上半身をひねり、見開いた目でこちらを振り返っています。窓の外には教会の尖塔と淡い太陽が見え、左下には植木鉢が置かれています。腕や顔の輪郭は硬く、画面全体に張りつめた空気が漂います。

シュテーデル美術館は、この絵を、ハーバード大学の美術館にある『タキシードの自画像』とならぶ、ベックマンのよく知られた自画像の一つに挙げています。現在はシュトゥットガルト州立美術館が所蔵しています。

1918年、シュテーデル美術館の館長ゲオルク・シュヴァルツェンスキーは、同館に付属する市立美術館のために、初めてベックマンの作品を購入しました。同館によれば、ここから、ベックマン作品の公的なコレクションとして最大規模のものが育っていきます。1919年、ベックマンはヴァイマルの美術学校から教職に招かれましたが、これを断り、フランクフルトにとどまりました。

『Die Synagoge in Frankfurt am Main(フランクフルトのシナゴーグ)』(1919年)

マックス・ベックマン『Die Synagoge in Frankfurt am Main』(1919年)。三日月の下、緑のドームを持つ赤い建物が傾いて立ち、通りを小さな三人連れが歩く。手前には猫がいる
マックス・ベックマン『Die Synagoge in Frankfurt am Main(フランクフルトのシナゴーグ)』(1919年)油彩・カンヴァス、89.8×140.4cm、シュテーデル美術館(フランクフルト)/出典:Wikimedia Commons(シュテーデル美術館の画像、パブリックドメイン)

同じ1919年に描かれたのが、フランクフルトの街を描いた『Die Synagoge in Frankfurt am Main』です。シュテーデル美術館によれば、描かれているのはフランクフルトのユダヤ教の共同体のシナゴーグ(礼拝堂)で、旧ボルネ広場に建っていました。

画面の左には、緑のドームを頂いた赤い建物がそびえ、右側の家並みや街灯、広告塔までが、地面ごと揺れるように傾いています。空には三日月が浮かび、手前では一匹の猫が通りを見ています。通りの奥を歩く小さな三人は、同館によれば、謝肉祭の夜から帰る画家自身と、友人のバッテンベルク夫妻です。シナゴーグでは朝の祈りが始まっている時刻だといいます。

同館はこの場面を、第一次世界大戦後の不安な時代を映したものとして読んでいます。この絵は1972年、フランクフルト市と個人の寄付者の資金で同館が購入しています。

『Selbstbildnis mit Sektglas(シャンパングラスのある自画像)』(1919年)

冒頭でご紹介した『Selbstbildnis mit Sektglas』も、この年の作品です。画面左上には「Beckmann / Frankfurt a/M / Sept. 19.」と、制作地と年月が書き込まれています。

シュテーデル美術館の資料によれば、これは第一次世界大戦後に描かれた3点目の自画像です。それまでのベックマンは、自分を看護人や、アトリエで描く画家として描いていました。この絵で初めて、夜の店にいる優雅な遊び人として自分を描いたのです。場所はおそらく、ホテル「フランクフルター・ホーフ」のバーで、当時を知る人の証言では、ベックマンはそこでシャンパンを好んで飲んでいたといいます。

強い照明を浴びた画家は、泡立つシャンパングラスと葉巻を手にしています。ただし、気取った手つきと冷たい笑みからは、くつろいだ楽しさは伝わってきません。背後ではグロテスクな男が大笑いし、左側の鏡には、その顔がこだまのように映り込んでいます。同館は、ベックマンがここで、のちにくり返し演じることになる「夜の娯楽の世界を距離をおいて見つめる観察者」の役を引き受けたと解説しています。

この絵は1921年、フランクフルト芸術協会で開かれたベックマン展で初めて公開されました。遅くとも1928年には、クレーフェルトの絹織物業者で、ラインラント地方を代表する近代美術の収集家ヘルマン・ランゲの持ち物になっています。その後も長くランゲ家の手にあり、2011年からシュテーデル美術館に貸し出されたのち、2020年に同館が購入しました。同館は、この購入を200年を超える館の歴史でも最も重要なものの一つと発表しています。画面は一度も裏打ちされたことがなく、ニスを塗っていない当初の表面がそのまま残っているそうです。

同じ1919年には、版画の連作『Die Hölle(地獄)』も生まれています。同館によれば、ベックマンが自分を呼び込み役として描いた表紙に、10点の謎めいた場面が続く大判のリトグラフで、フランクフルトの印刷所C.ナウマンで刷られました。素描と版画を通して手に入れた、角ばった形の新しい言葉が、同じ年の油彩にも通じています。

街と夜を描く1920年代(1920〜1925年)

『Fastnacht(謝肉祭)』(1920年)

謝肉祭(ファストナハト)は、ベックマンがくり返し描いた題材の一つです。ロンドンのテートが所蔵する1920年の『Fastnacht』(英題『Carnival』)は、縦186.4センチ、横91.8センチの縦長の油彩です。購入を支援した英国の美術支援団体アート・ファンドによれば、この絵は謝肉祭を主題にしたベックマンの一連の作品の最初のもので、にぎやかな祭りの題材を使いながら、祝祭の楽しさよりも孤立や寂しさを伝えています。

同団体の解説では、アルルカン(道化役)の姿で描かれているのは、ベックマンの画商イスラエル・ベア・ノイマンです。そしてその足もとには、仮面をつけて道化に扮したベックマン自身が加わっています。ここでも画家は、自分を絵の中の一つの役として登場させているのです。同団体は、とがった形、息苦しいほど狭い室内、鋭い色づかいに、ベックマンがゴシック美術から学んだものが表れているとも述べています。権利の確認が取れた図版のみを掲載しているため、この作品の画像はありません。

仮装した人物が狭い室内にぎっしりと詰め込まれた構図は、先に見た『Die Synagoge in Frankfurt am Main』の、謝肉祭の夜から帰る三人の姿ともつながっています。仮面や扮装は、このあとも晩年まで、ベックマンの絵の大切な道具立てになっていきます。

『Eisgang(Ice on the River)』(1923年)

マックス・ベックマン『Eisgang』(1923年)。三日月の冬の朝、氷の板が浮かぶマイン川と鉄の歩道橋、奥に赤い大聖堂の塔とフランクフルトの家並みが広がる
マックス・ベックマン『Eisgang(Ice on the River)』(1923年)油彩・カンヴァス、47.5×59.5cm、シュテーデル美術館(フランクフルト)/出典:Wikimedia Commons(シュテーデル美術館の画像、パブリックドメイン)

ベックマンはフランクフルトで、日々の散歩をしながら街を歩き、いくつもの街の風景を描きました。1923年の『Eisgang』は、その代表的な一枚です。シュテーデル美術館によれば、三日月の残る静かな冬の朝、マイン川を下流側の橋から上流へ眺めた景色で、旧市街、聖バルトロメオ大聖堂、鉄の歩道橋「アイゼルナー・シュテーク」、右手にザクセンハウゼン側の岸が描かれています。

主役は、川を埋めるように浮かぶ大きな氷の板です。同館は、両岸のあいだの川が「暗いリボン」のように横たわっていると表現しています。一方で、この絵は見たままの写生ではありません。大聖堂の塔は、1867年の火災より前の姿で描かれていると同館は指摘しています。現実の風景に、画家の記憶や意図が重ねられているのです。

教授として、名声の頂点へ(1925〜1932年)

1925年、フランクフルト市はベックマンに、美術工芸学校(クンストゲヴェルベシューレ)で最初のマイスタークラス(上級クラス)を任せ、アトリエも用意しました。LeMOによれば、1929年には教授の称号を受けています。同じ1929年には、市から大賞(グローサー・エーレンプライス)も贈られました。シュテーデル美術館の資料によれば、フランクフルト時代のベックマンの作品は、市内で開かれた18の個展とグループ展で紹介されています。

ベックマンの交友は、街の新聞、産業、文化行政の中心人物にまで広がっていました。同館は、企業家のカール夫妻、出版人のハインリヒ・ジーモン、館長のシュヴァルツェンスキー、ジャーナリストのベンノ・ライフェンベルクやケーテ・フォン・ポラーダらを、友人であり収集家でもあった人々として挙げています。1928年にはマンハイムで、大規模な回顧展も開かれました。LeMOによれば、1929年から1932年までは、毎年9月から翌年5月までをパリで過ごしています。

『Stillleben mit Saxophonen(サクソフォンのある静物)』(1926年)

マックス・ベックマン『Stillleben mit Saxophonen』(1926年)。横長の画面に二本の大きなサクソフォン、楽譜、燭台、メガホン、花や人形が所狭しと並ぶ
マックス・ベックマン『Stillleben mit Saxophonen(サクソフォンのある静物)』(1926年)油彩・カンヴァス、85.5×195.3cm、シュテーデル美術館(フランクフルト)/出典:Wikimedia Commons(シュテーデル美術館の画像、パブリックドメイン)

横幅が2メートル近い大きな静物画です。2本の大きなサクソフォン、楽譜、木の燭台、メガホン、花や人形が、論理的な並び方を無視するように画面を埋めています。シュテーデル美術館によれば、ベックマンは妻への手紙で、自分の絵の「騒がしさ」が聞こえるかと尋ねたことがあります。この絵は、ベックマンが好きだったジャズに捧げられた作品で、1本のサクソフォンにはフランクフルトのジャズクラブ「Bar African」、もう1本には音楽の故郷を思わせる「On New York」の文字が入っています。

楽しげな題材の一方で、同館は、ラッパの下敷きになった人形や、真っ暗な闇をのぞかせる右端など、どこか落ち着かない雰囲気にも目を向けています。この作品は1927年に同館が購入しましたが、1936年に押収され、1955年に買い戻されました。絵そのものが、時代の移り変わりをくぐり抜けてきた一枚です。

『Selbstbildnis im Smoking(タキシードの自画像)』(1927年)

この時期の自画像で最も名高いのが、1927年の『Selbstbildnis im Smoking』です。縦1.4メートルほどの画面に、タキシード姿で腰に手を当てて立つ画家が描かれています。所蔵するハーバード大学のブッシュ=ライジンガー美術館によれば、顔の半分は深い影に沈み、厚く塗られた顔は仮面のようにも見えます。1928年のある批評家は、この絵を「荒々しい」と評しながらも、最近の美術にふさわしいものと認めていました。

同館の記録によれば、この絵は1928年に、ユリウス・マイアー=グレーフェの手からベルリンの国立美術館に売られました。ここでは権利の確認が取れた図版のみを掲載しているため、画像はありません。所蔵館の作品ページで実物の画像を見ることができます。

職を追われ、ドイツを離れる(1933〜1937年)

1930年代に入ると、状況は大きく変わります。LeMOによれば、1931年ごろから、ベックマンへの攻撃がナチスの周辺で強まりました。1933年にナチスが政権をとると、ベックマンは教職を解かれ、フランクフルトを離れることになります。NDBによれば、1933年から1937年まではベルリンで制作を続けました。

この苦しい時期に、ベックマンは新しい形式に取り組みます。3枚のパネルを横に並べる三連祭壇画(トリプティク)です。最初の三連祭壇画『Abfahrt(出発)』は1932年に描き始められ、1935年に完成しました。現在はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。LeMOによれば、ベックマンは生涯に9点の三連祭壇画を描いています。

1937年、ベックマンはナチス政権から「退廃芸術家」と名指しされます。LeMOによれば、509点の作品が押収されました。シュテーデル美術館も、1937年の夏、所蔵していたベックマン作品のほぼすべてを失っています。先ほどの『Selbstbildnis im Smoking』も、ハーバード大学の美術館の記録によれば、1937年7月にベルリンの国立美術館から持ち出され、のちにニューヨークの画廊を経て、1941年にブッシュ=ライジンガー美術館に収まりました。

同じ1937年、ベックマンはドイツを離れました。

アムステルダムの10年(1937〜1947年)

NDBによれば、ベックマンは1937年にまずパリへ移り、1938年から1947年までアムステルダムで暮らしました。ミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネは、2022年から2023年に開いた展覧会の解説で、第二次世界大戦中のベックマンが、移動の自由を大きく制限された亡命生活を送ったと紹介しています。

それでもベックマンは描き続けました。同館は、旅、出発、別れといったテーマが、戦争や移住、亡命の経験とともに、ベックマンの人生と作品を形づくったと述べています。

アメリカでの最晩年(1947〜1950年)

1947年、ベックマンはアメリカに渡り、セントルイスのワシントン大学に客員教授として迎えられました。NDBによれば、同大学からは名誉博士号も受けています。LeMOによれば、1948年にはセントルイスで大規模な回顧展が開かれ、その後アメリカのほかの都市を巡回しました。

1949年からはニューヨークに移り、ブルックリン美術館の付属美術学校で教えました。ピナコテーク・デア・モデルネは、アメリカで名声を得たベックマンが、地質学や神話への関心を持ちながら新しい風景に向き合ったと紹介しています。完成した最後の三連祭壇画は、1949年から1950年にかけて描かれた『Argonauten(アルゴナウタイ)』です。

マックス・ベックマンは1950年12月27日、ニューヨークで亡くなりました。

戦後、フランクフルトに戻ってきた作品

ベックマンの作品が押収された街でも、戦後は少しずつコレクションの再建が進みました。シュテーデル美術館によれば、1947年には館長エルンスト・ホルツィンガーが、ベックマンの画商ギュンター・フランケとともに、個人の持ち主から借りた作品でベックマン展を開きました。1949年には、バッテンベルク夫妻の版画コレクションから170点近い紙の作品が加わっています。

ベックマンが亡くなった翌年の1951年、フランクフルト市は『Zirkuswagen(サーカスの車)』(1940年)を購入しました。戦後最初のベックマンの油彩の購入でした。同館は、2021年の時点で油彩11点、彫刻2点、数百点の版画と素描を持ち、世界でも有数のベックマンのコレクションになっていると発表しています。ミュンヘンのバイエルン州立絵画コレクションも、1974年にフランケから寄贈されたベックマンの油彩を所蔵しており、2015年には遺族から写真アルバムや映像などの資料が同コレクションのマックス・ベックマン・アーカイブに寄せられました。

ベックマンの代表作

本記事で取り上げた作品を中心に、代表作と所蔵館を一覧にまとめます。

制作年作品名所蔵
1899年『自画像』シュプレンゲル美術館(ハノーファー)
1917年『Selbstbildnis mit rotem Schal(赤いスカーフの自画像)』シュトゥットガルト州立美術館
1919年『Die Synagoge in Frankfurt am Main』シュテーデル美術館
1919年『Selbstbildnis mit Sektglas(シャンパングラスのある自画像)』シュテーデル美術館
1920年『Fastnacht(謝肉祭)』テート(ロンドン)
1923年『Eisgang(Ice on the River)』シュテーデル美術館
1926年『Stillleben mit Saxophonen(サクソフォンのある静物)』シュテーデル美術館
1927年『Selbstbildnis im Smoking(タキシードの自画像)』ハーバード大学美術館(ブッシュ=ライジンガー美術館)
1932〜1935年『Abfahrt(出発)』(三連祭壇画)ニューヨーク近代美術館(MoMA)

まとめ

いかがだったでしょうか。マックス・ベックマンの人生と作品をご紹介しました。

ライプツィヒに生まれたベックマンは、ヴァイマルとパリで学び、20代でベルリンの画壇に認められました。第一次世界大戦のあと、フランクフルトで角ばった形と強い輪郭の画風を築き、『Selbstbildnis mit Sektglas』のような自画像や、『Die Synagoge in Frankfurt am Main』『Eisgang』のような街の風景を描きます。1925年からは美術工芸学校で教え、名声の頂点に立ちました。

しかし1933年に職を追われ、1937年には「退廃芸術家」と名指しされて、多くの作品を美術館から奪われます。ドイツを離れたベックマンは、アムステルダムで三連祭壇画を描き続け、最晩年はアメリカで教えながら制作しました。

ベックマンの絵を見るときは、画面のどこかに画家自身が紛れ込んでいないかを探してみてください。夜のバーの客、謝肉祭帰りの通行人、タキシードの紳士。役を変えて現れる画家の姿を追っていくと、激しく動いた時代のなかで、ベックマンが自分の立ち位置を確かめ続けていたことが見えてくるかもしれません。

Euphoric " " の視点

ベックマンは、自画像の中でさまざまな役を演じました。サーカスの座長、見世物の呼び込み役、夜のバーの遊び人、謝肉祭の道化。絵画だけでおよそ35点ある自画像は、自分の顔を写すためだけのものではなかったといいます。

1919年の『シャンパングラスのある自画像』で、ベックマンは夜の店の華やかさのただ中に座りながら、その世界を距離をおいて見つめる観察者の役を引き受けました。

自分を一つの役として画面に置くと、その場の熱から半歩だけ離れて、自分の立ち位置を確かめることができるのかもしれません。ベックマンの自画像は、自分を少し外から眺めるという方法を教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えや貸し出しがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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