こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
みなさんは『バウハウス』という言葉を聞いたことがありますか?
『バウハウス(BAUHAUS)』は、1919年から1933年のドイツに存在していた美術学校です。
古典的な装飾を排除した合理的・機能的なデザインを追求した芸術運動『モダニズム』を研究により体系立て、世界で初めて取り入れた教育機関として知られています。
特にその功績として有名なのが『モダン・デザイン』というデザイン様式の確立です。特にプロダクトデザイン、建築デザインの分野で大きなムーブメントとなったこのモダン・デザインは、今のデザインにおいても基本的な考えになっているほど影響力の強いものでした。
では具体的にモダン・デザインはバウハウスでどのように生まれ、今の私たちの生活にどのように関わっているのでしょうか。
本記事では、バウハウスとモダン・デザインの歴史についてご紹介します。
目次
バウハウス誕生のきっかけ
モダン・デザインの萌芽
バウハウスが誕生する前に、その先駆けとなった『アーツ・アンド・クラフツ運動』について解説します。
アーツ・アンド・クラフツ運動とは、イギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスが主導した芸術運動です。当時のヨーロッパは産業革命の直後で、機械工業と交通手段が発達したことで、安価で粗悪な製品が大量生産されていました。
デザイナーであったウィリアム・モリスはその現状を批判し、モリス商会を立ち上げて装飾的なインテリア製品を製作し、中世の職人による手仕事の復興を目指して活動していました。
結果としてモリス商会の製品は産業革命直後の「安かろう悪かろう」の製品に比べて非常に高価で、富裕層にしか手の届かないものでした。
しかし、高価である代わりに質が高く美しい製品を生活に取り入れることで、生活と芸術を一体化させようというモリスの思想は国境を越え、各国のデザイナーや思想家に影響を与えました。
例えばヨーロッパ全体で起こった『アール・ヌーヴォー』、ドイツで起こった『ユーゲント・シュティール(青春様式)』などが挙げられます。
これらの芸術運動によって生まれた人の生活に寄り添ったデザインの追求と、大量生産される粗悪なプロダクトへの反発が、バウハウス、およびモダン・デザインの基礎的な考えになっていると考えられます。
名前でみるモダン・デザインの本質
この潮流の本質は、バウハウスの名前にも表れています。
『バウハウス(BAUHAUS)』と言う名前は、創立者であり初代校長でもあるウォルター・グロピウスがつけたものとされています。
もともとはドイツ語で「建築の家」と言う意味の言葉で、中世で大聖堂を建築する時に、職人が寝泊まりするために建てられた小屋「バウヒュッテ」に由来します。
この名前には、中世の大聖堂建築が、建築・工芸・絵画・彫刻を全て統合したように、工業化社会によって個別に分断された芸術を、建築のもとに再び統合しようという理念が込められています。
また、モダン・デザインは、「モダン(MODERN)=今風の〜、当世風の〜」と言う意味になります。どちらも、古典的な今までの様式ではなく、革新的な様式を作ろうとするバウハウスのスタイルをよく示している名前だと言えるでしょう。
バウハウスの歴史
バウハウスの誕生
バウハウスの創立者は、ヴァルター・グロピウスと言うイギリスのデザイナー、思想家です。
工科大学で建築を学び、ドイツ工作連盟(アーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けミュンヘンで起こった芸術運動。グロピウスをはじめ、多くのデザイナーや建築家が参加し、ドイツにおいてインダストリアルデザインが生まれるきっかけになった)などを通してアーツ・アンド・クラフツ運動やモダン・デザインの理念に触れていました。
当時、2つの芸術学校の校長に任命されていたグロピウスは、その二校を統合して「ヴァイマル国立バウハウス」を設立します。
1919年にヴァイマルに設立された後は、スイスの教職員ヨハネス・イッテンや、抽象絵画家であったワシリー・カンディンスキー、ハンガリーの写真家モホリ・ナジ・ラースローなど多様な分野の教官を招きスタート。
当初のバウハウスの教育理念は表現主義と合理主義の中庸的なものでしたが、デ・ステイル(建築の重視や、抽象的な幾何学模様での表現を基本理念とするオランダで起こった芸術運動)の影響を受け、より非装飾的な、強い合理主義・機能主義を基本理念としていきます。
第1回バウハウス展
『アム・ホルンの家(1923)』
1923年、バウハウスが目指した革新的な理念を社会に披露する機会が訪れます。それが『第1回バウハウス展』です。その中の目玉であった「アム・ホルンの家」は、モデルハウスの中の家具・インテリアを全てバウハウス製品で統一し、その場でカップや絵画を見学者が買って帰ることもできると言う意欲的な展示形式でした。
しかし、当時の建築様式と比べるとあまりに簡素なデザインだったため、見学者からは「キャンディーの白い箱」「白モルタルのサイコロ」「手術室」などと揶揄するような意見が多く見られました。
目玉であったモデルハウスが酷評され、経済的には失敗に終わった展覧会でしたが、マスメディアに大量に取り上げられ、バウハウスの知名度には大きく貢献することになる出来事でした。
移転と解任を繰り返す
1925年にヴァイマルからデッサウに場所を移し、校長の任がグロピウスからハンネス・マイヤーに受け継がれます。マイヤーは唯物論の視点からバウエン(規格化・数値化された、審美性ではなく合理性によって製品の形を追求する思想)を唱え、初めての黒字を出すほどの手腕で国際的に名前が知られます。
しかし、マルクス主義者として政治活動に熱心だったマイヤーは右翼勢力に敵対視され、1930年に解任されます。
その後の校長に選ばれたのはルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエです。
ミースはドイツの建築家で、グロピウスとはドイツ工作連盟で出会い、校長就任前から、バルセロナ万国博覧会におけるドイツ館として建てられたバルセロナ・パビリオンなどで名前が知られている人物でした。
ミースが就任してすぐの1932年にデッサウから首都ベルリンへ場所を移し、私立学校となりました。ミースは、マイヤーの唱えたバウエンの理念を受け継ぎつつ、政治色は取り除くような教育に努めました。
バウハウス閉校、その後に残ったもの
しかし、バウハウスの歴史は1933年、ナチス・ドイツの台頭により終わりを告げます。
バウハウスとナチスの関係は深く、ナチス党の前身であるドイツ労働者党の結成が1919年と、バウハウスがヴァイマルに設立された年に被ります。つまりバウハウスはナチス党における政治活動の影響を多分に受けていたのです。
特にバウハウス閉校の直接の原因だったのは、バウハウスの掲げるモダニズム思想とナチス党の掲げる民族社会主義との相反にあります。バウハウスの求めた、新しい文化と芸術のあり方がメディアによって市民に浸透したことでナチス党が危機感を覚えたのです。
これに対してナチス党は、各メディアでバウハウスのモダニズム思想を批判する軽蔑的呼称を広告し圧力をかけます。当時の新聞には『ドイツに根ざさない「アスファルト文化」』『ドイツの「アメリカ化」』などと標榜され、バウハウスは1933年にミースの手により閉校、解散されます。
このようにバウハウスそのものの歴史は14年と、教育機関としては極めて短いものでした。しかし、そこで生まれた理念はモダン・デザインと言う大きな芸術様式へと大成させていきます。
一時的には政治的な圧力により活動を停止したバウハウスでしたが、モダニズム思想は潰えたわけではありませんでした。
ニュー・バウハウス
1937年、アメリカのシカゴに建てられたニュー・バウハウスは、バウハウスの元教官であったモホリ・ナジの主導で設立された、文字通り新しいバウハウスです。
教育理念は元々のモダニズム思想を継承しつつ、モホリ・ナジによる写真やグラフィックの分野は目覚ましい功績を残し、ジョージ・ケペッシュ、ネイサン・ラーナーなど著名な写真家を輩出しています。
財政難により約1年で閉校してしまいますが、このニュー・バウハウスが、モダニズム思想を踏まえたグラフィックや前衛写真といったジャンルの基礎を築き上げたといっても過言ではないでしょう。
バウハウス博物館
バウハウスの閉校から約70年経った1994年。バウハウスの建築や作品を収集・保護する目的でバウハウス・デッサウ財団が設立されます。
作品の保護だけでなく、バウハウスの理念を受け継いでデザインと都市の問題解決を課題として様々なワークショップを運営し、より良いデザインを提案・継承する活動をしています。
そんなバウハウス・デッサウ財団が、バウハウスの100周年を記念してデッサウとヴァイマルの2箇所に建設されたのがバウハウス博物館です。このような形で、100年もの時を超えてバウハウスの理念と作品は人々へ受け継がれているのです。
モダニズム建築の特徴と作品
モダン・デザインの大黒柱
バウハウスの歴史の中で生まれた様々な理念は、かつてのアーツ・アンド・クラフツ運動と同様に国境を越えて各国のデザイナーや建築家を刺激し、ムーブメントを引き起こします。
それらのムーブメントが後世に統合され、今ではモダン・デザインという様式にまとめられています。しかし、見てきたようにバウハウスは様々な分野のデザイナーを教官に迎え入れたり、校長であるグロピウスをはじめとする多くの関係者がドイツ工作連盟やCIAMなどの国際的な芸術に関する運動・会議に参加しているため、実に多様な理念が生まれました。
モダン・デザインといってもその分野も様々と言えます。その中でも特に大きなムーブメントを起こし、現代のデザインにも大きな影響を与えているモダン・デザインの主要な分野に建築が挙げられます。
バウハウスの歴史を踏まえて、モダン・デザインの大黒柱とも言えるモダニズム建築を見ていきましょう。
ル・コルビュジェのモダニズム建築
モダニズム建築の特徴を最も表現している建築家に、ル・コルビュジェが挙げられるでしょう。モダニズム建築の巨匠、近代建築の三大巨匠と位置付けられる、20世紀を代表する建築家で、バウハウスの創立者であるグロピウスとは建築家が集まって都市・建築の将来について討論する国際会議・CIAMの場に共に参加していました。
コルビュジェは、『新しい建築のための5つの要点』と言う、モダニズム建築の要点を主張しています。そしてその5つの要点を高い完成度で再現したものが、代表作でもある『サヴォア邸』に見ることができます。
『サヴォア邸(1931)』と『新しい建築のための5つの要点』
1:ピロティ
ピロティとは壁のない柱だけの空間のことで、サヴォワ邸では視覚的に宙に浮いたような建築に見せるために地上一階の駐車場を兼ねたピロティを取り入れています。
これにより、従来の組み石造建築との決定的な差別化と、新しい構造の提案を訴えているのです。
2:自由な立面
ピロティを取り入れたことにより、柱と壁の位置関係が自由になりました。
柱は建物を支える役目を担い、壁は遮蔽物としての本来の役目を担うためだけに配置されることになります。現代の建築に見慣れていると想像がしにくいですが、従来の組み石造の建築では壁と柱が共に建築の骨組みであって、その配置は構造上、デザイナーの自由になるものではありませんでした。
産業革命がもたらした鉄筋コンクリート構造は、デザイナーが夢見た柱と壁の自由な配置を可能にしたのです。
3:屋上庭園
現代ではUI/UX領域で平面的でシンプルなデザインを示すフラットデザインですが、建築におけるフラットデザインの誕生はコルビュジェのこの宣言に見ることができます。
刃物で寸断されたようなフラットルーフに、コルビュジェは屋上庭園という新しいスペースを作りました。
ボックス状の近未来的な外観と空間活用を兼ねるこのフラットルーフと屋上庭園は、モダニズム建築に欠かせない要素になっていきます。
4:水平連続窓
屋上庭園に続いてモダニズム建築に欠かせない要素として挙げられるのがこの水平連続窓です。
柱と壁を分離によって、壁を自由に配置・デザインすることができるようになり、横長の大きな窓を連続して配置する事も可能になりました。
これにはいわゆるフラクタル図案のように、全体のスクエア図形を窓が象っていることで建物全体としての直方体感を強調する効果がありました。
従来の組み石造における縦長窓のように、モダニズム建築には横長な窓が象徴かのように用いられるようになりました。
5:自由なファザード
そしてそれらを統合したものが自由なファザードです。ファザードとは、建物を正面から見た構図のことで、建物の第一印象とも言えるファザードを、柱や壁、窓の配置を自由にデザインできるようになったことは、モダニズム建築の大きな特徴と言えるでしょう。
+1:装飾の排除
加えて、コルビュジェは装飾の排除も徹底的に行いました。
コルビュジェは建築における装飾を「気まぐれ」「虚偽」「堕落」とこき下ろし、不必要なインテリア装飾を排除したシンプルなデザインを目指しました。
ただ装飾を排除するだけではなく、例えば水平連続窓に古典的な装飾のあるカーテンが似合わないように、物理的に装飾がふさわしくないデザインを完成させたのです。
モダニズム建築のまとめ
『第1回バウハウス展』で公開された「アム・ホルンの家」を思い出してみてください。
ピロティと屋上庭園こそ存在しないものの、水平に配置された窓や、水平・垂直に切り出されたようなファザード、シンプルで型のないデザインは、コルビュジェの『新しい建築のための5つの要点』と照らし合わせると後に結実するモダニズム建築の到来を予感させるものだったと感じる事もできます。
このように、コルビュジェが宣言したモダニズム建築の潮流は、現代から見ても清新さと新時代の息吹きを当時の人々にも感じさせ、グロピウスやベーレンスが手がけたオフィスや工場などの『モダン建築』と区別され『モダン住宅』という様式が誕生しました。
1920年を迎えてようやく民衆に受け入れられるようになったモダン住宅に対し、モダン建築はその当時のモダニズム建築の発展を牽引し、時代と共に細分化を迎え構成主義建築、表現主義建築、アールデコ建築などが誕生します。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はモダン・デザインの誕生にまつわる芸術運動と、バウハウスの歴史、モダン・デザインの代表的な領域であるモダニズム建築についてご紹介させていただきました。
本記事ではいわゆるデザイン、工業生産やパブリックな側面を持つ分野における芸術運動を見ていきました。デザインの歴史は芸術・美術の中では非常に浅く、約150年ほどしかありません。
その始まりといっても過言ではないモダン・デザインの誕生は、西洋絵画でいうサロンへの反抗に近い形で、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から始まりました。
そしてそれから約150年、デザインの概念は、生活用品の多様化に伴って拡張され、今では数えることができないほどのデザイン領域が存在します。しかしその基礎である考え方は、このモダン・デザインの中に見ることができるのです。
出典
塚口眞佐子著『モダンデザインの背景を探る バウハウスを軸にみる展開とその思想』近代文藝社、2012年。
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