こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはモホリ=ナジ・ラースローという人物をご存知ですか?
一風変わった名前で聞き馴染みのない方も多いかもしれませんが、彼はハンガリー出身の写真家・タイポグラファーで、19世紀に起こったモダンデザインの発展を先導したバウハウスにおいて重要な人物でした。
実験的なフォトグラフを多く発明した人物で、写真表現においても強い影響を与えていることでも有名です。
本記事ではそんなモホリ=ナジの人生と作品についてご紹介します。
モホリ=ナジって?
基本情報
本名 | ヴェイス・ラースロー(Weisz László) 通称:モホリ=ナジ(モホリ=ナギ) |
生年月日z | 1895年7月20日〜1946年11月24日(51歳) |
国籍/出身 | ハンガリー バーチボルショード町 |
学歴 | ブダペスト大学(現エトヴェシュ・ロラーンド大学) |
分野 | フォトモンタージュ、タイプグラフ、画家 |
傾向 | モダンデザイン、シュプレマティズム、構成主義 |
師事した/影響を受けた人物 | エルンスト・B・ハース |
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経歴と作品
生まれと環境
1895年、ナジはハンガリーの首都ブダペストから200キロほど離れた小さな町・バーチボルショードに生まれます。
一般家庭であったラースロー家でしたが、ナジが2歳のころに父が突然失踪し、母方の実家のあるモホル村に移り住むことになります。さらに10歳になると叔父の家のあるセゲド市に移り、環境の移り変わりの激しい少年時代を過ごすことになります。
ギムナジウム(ドイツのエリート教育機関)に通うようになったナジは、環境が慣れないせいか不安と孤独を感じる日々でした。
そんなナジを救ったのは「詩」でした。
12歳のころから詩を書き溜めドストエフスキーなどに憧れて文学や詩を嗜んでいたナジは、後に芸術の道に進む素地を作り上げた感性もここで養われていたのかもしれません。
ありふれた名前?
ナジの聞き馴染みのない名前は、もちろん本名(出生名)ではありません。
本名は「ヴェイス=ラースロー(Weisz -László)」で、「モホリ(moholy)」と名乗り始めたのにはとあるきっかけがあったからでした。
それがナジが2歳の頃に起こった、父の失踪によるモホル村への移住です。
実家であったモホル村への移住は親戚と住むことになった兄弟とも離れ離れになる大きな出来事も伴ったこともあり、実際の生まれ故郷でないにも関わらず故郷と感じられるほどの思い入れがあったのでしょう。
そして15歳ごろになってナジ・ラースローという名前がハンガリーではありふれた名前であったことから、「モホリ(moholy)」を名前に入れることにします。
このモホリとは、育ちの場所であったモホリ村からきており、モホリ村(Moholi)を形容詞化して「モホリ育ちのナジ」と読めるようにした「Moholy Nagy-László」という名前を名乗ることになります。発音によっては「モホイ」とも読めますが、本記事では出身のハンガリーでの発音に合わせて「モホリ」で統一しています。
14歳ごろまでは「ヴェイス=ナジ・ラースロー(Weisz -Nagy László)」と名乗っていたようです。このNagyとは父の失踪後に保護者となった叔母の姓です。こちらも発音によっては「ナギ」とも読めますが「ナジ」で統一しています。
日本では聞き馴染みのない名前ですが、それもそのはず、ナジ自身の造語であったのです。
芸術への転向
ブダペスト大学(現エトヴェシュ・ロラーンド大学)で法律を学んだナジですが、第一次世界大戦に召集を受けるも負傷で前線を離れ、回復までにスケッチをしていたことがきっかけになって芸術に興味を持ち始めます。
第一次世界大戦後におきたハンガリー・ルーマニア戦争を受けてドイツに亡命したナジは、バウハウス創立者であるウォルター・グロピウスと出会ったことで以前から抱いていた芸術への興味を高め、1919年にバウハウスへ招待を受けます。
1920年には前衛芸術運動に参加するなどシュルレアリスムや構成主義に基づいた写真制作を行なっていたナギは、バウハウス設立後すぐに教授のポストに就き教鞭を執ることになります。
また1922年には職業を同じくする写真家の女性ルチア・シュルツと結婚し、以降は前衛芸術や構成主義といった芸術運動そのものからは離れ、それらを踏まえた実験的なフォトグラフの制作に打ち込みます。
美術教育にもたらした革命
バウハウスの教育方針に基づき建築や絵画を教えていたナジでしたが、教育内容に写真を積極的に取り入れたりもしました。これは当時の美術学校としては新しい試みで、バウハウスは視覚芸術を学ぶことができる貴重な環境でした。
また、映画や舞台装置などにも造詣が深く教育に取り入れることがありました。これは後にナジ自身も劇場の舞台美術の仕事を多く手掛けることに繋がります。
そんな幅広い知識を持つナジの集大成とも言えるのが、1925年に刊行されたデザイン叢書『絵画・写真・映画(Malerei, Fotografie, Film)』です。
ナジ自身の実験的なフォトグラフやタイポグラフ、バウハウスでの活動を経たデザイン理念が詳細に書かれた本書は、今日に至る美術業界に大きな影響を与えるほど革新的な内容でした。
それほどに当時のモダンデザインとはプロダクト、主にインダストリアル(製品)デザインや建築に偏ったもので、写真や舞台美術といった視覚芸術は黎明期の段階にありました。その中でナジは自身の実験的な制作とバウハウスで学び教えたモダンデザインを折衷し、新しい美術を世界に打ち出した偉大な人物と言えるでしょう。
ニュー・バウハウスへの歩み
1928年、ウォルター・グロピウスの辞任と共にナジはバウハウスを去ります。1933年にバウハウスはミース・ファン・デル・ローエによって閉校されますが、ナジはナチス政権から逃れるために亡命した米国で、新しいバウハウスを始めようとしていました。
バウハウスのデザイン教育理念をヨーロッパから更に外へ広めようと考えていたナジは、1937年、アメリカのシカゴ芸術産業協会から誘いを受けアメリカ・シカゴに「ニュー・バウハウス」を設立します。
翌年には資金不足で閉校に追い込まれますが、1938年に「シカゴデザイン学校」と名を変えて再開。1944年に「シカゴデザイン研究所」へと拡大します。
1949年、「イリノイ工科大学」に吸収されることになり現在まで学科の一部として現存しています。イリノイ工科大学はシカゴにある理工系総合大学で、1890年からの長い歴史を持ちながらも工学や建築に重点を置いた研究機関でバウハウスの理念を受け継ぐにふさわしい大学といえるでしょう。
写真表現の革命児
ナジの主要な功績といえば、これまでにない写真表現を求めて繰り返された実験的なフォトグラフでしょう。
前述したようにバウハウス以前の美術業界は、視覚芸術の黎明期とも言える時期にあり、ナジがフォトグラフやタイポグラフにおいて先達を務めたことがそのまま今日の視覚芸術への影響力につながると言っても良いでしょう。
それではモホリ=ナジ・ラースローの写真家としての影響力はどのような部分にあったのでしょうか。
まずはナジが起こした写真表現の革命として最も有名なのは「フォトグラム(Photogram)」でしょう。
フォトグラムとは、簡単に言えばカメラを使わずに写真を撮る手法です。
カメラで写真を撮る原理は、被写体から反射する光をもとに穴を通して感光フィルムに像を写し描くというものですが、フォトグラムは感光紙の上に直接モチーフを置き、太陽光に当てることで像を写し描くというものです。
光と影の実像性と透明性がフォトグラフ(いわゆるピンホール写真)よりも色濃く描かれ、感光紙の具合も作者が自作することも多いことから同じ作品が二つと無いという特徴を持っています。
この新しい撮影方法を生み出したナジは、次々とフォトグラムを用いて実験的な制作を進めていき「フォトグラム」という名前をつけて撮影方法を確立しました。
余談ですが、同じ頃に同じ撮影方法を思いついていた写真家がいます。
それはマン・レイというアメリカの写真家で、同じくダダイズムなどの前衛芸術運動に影響を受けたのち写真家として活動し、実験的な写真表現を数多く残しています。
彼はナジのフォトグラムと似た撮影方法で「レイヨグラフ」という表現を作りました。
また彼とナジはこだわりからペンネームを名乗っているという奇妙な共通点もあります。
Typo Photo の発明
ナジの視覚芸術への情熱は写真だけに向けられたものではありませんでした。
ナジのもう一つの功績として知られる「タイポグラフィ」について見ていきましょう。
デザインされた文字を構成する「タイポグラフィ」はナジがバウハウスの教授を務めていた頃から手掛けていた領域であり、写真制作と相互に影響を与えあった領域でもあります。
その影響は「ティポフォト(Typo photo)」という表現方法に現れています。
ナジが1925年に発表した『絵画・写真・映画』をきっかけに広く知れ渡ったこの技法は「フォトグラフ」と「タイポグラフィ」を組み合わせたもので、従来は写真家とデザイナーという別の業種が行なっていた作業を相互に交流させた新しい表現方法でした。
その背景には、写真と印刷技術の確立によるグラフマガジンの流行があり、別々の領域であった写真とタイポグラフィが同じ媒体を飾るシーンが増えてきたことにあります。
ティポ フォトに並んでナジが写真表現の一環として行なっていた技法に「フォトモンタージュ」があります。
フォトモンタージュ(Photomontage)とは写真を切り貼りして素材として扱うコラージュや、多重露光を利用した合成写真など、ありのままを写したのではない加工をした写真作品のことです。
広義にはフォトグラムやティポフォトもこのフォトモンタージュに含まれます。
写真の敵は「しきたり」です。
「こうすべき」と固定されたルールにしばられることです。
その状況から写真を救うには「実験」が必要です。
モホリ=ナジはこのように言ったようです。
シュルレアリスム、ダダイズムを原点とする彼らしい考え方ですね。
写真は現実そのままを写し出すことを目的にした道具ですが、その仕上がりは一様ではありません。
むしろそんな現実をありのまま写し出すことこそが写真家の求める機能であり、実験を繰り返しながら頭の中に描く美しさや理想などを表現しようとするのが写真家であると言えるのではないでしょうか。
晩年
1946年死の直前に『動きのなかの視覚(Vision in Motion )』を出版します。
これまでの視覚芸術に関することをまとめた著作ですが、1925年に刊行された『絵画・写真・映画』における構成主義的な影響を踏まえた内容よりも、写真の社会的な役割を中心に書かれ、今なお視覚芸術における名著として知られています。
1946年11月24日に白血病により51歳の短い一生を終えます。
まとめ
いかがだったでしょうか。
写真だけでなくグラフィックデザインやタイポグラフィなど幅広い領域で表現を模索していたモホリ=ナジですが、それらが相互に作用して新しい表現方法を次々と生み出したが大きな功績のようでした。
また本記事では紹介しきれませんでしたが、数は少ないものの映画やインダストリアル、ポスターなど平面的な表現にとどまらずあらゆるデザインに独自のアプローチをしています。
写真家と表現したは良いものの、彼の肩書きに悩む人は少なくないのでは無いでしょうか。
彼の独創的な考えは特にバウハウスでの活躍で発揮されており、写真を美術教育に取り入れたことをはじめバウハウスおよびモダンデザインの考えに大きな影響を与えました。
バウハウスの考えを広めるために設立したニュー・バウハウスは形を変え80年以上もの年月を存続し、ハンガリーあるナジの名前がついた国立モホリ=ナジ芸術大学は、デザインの門をくぐる新世代の人を育てています。
表現者として新しい表現方法を生み出しながらも、次世代の教育と思想の継承に余念がないナジは、晩年には社会論に身を置いていたことから「芸術のあるべき価値」を第一に考えたものではないでしょうか。
これにはナジの育った時代が「芸術のための芸術」というよりも「人のための芸術」という風潮に移り変わりはじめた頃合いだったこともあり、彼をはじめとするバウハウスの理念がその世論を後押ししたのは間違い無いでしょう。
おすすめ書籍
モホリ=ナジ・ラースローをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
モホリ=ナジ (総合への実験)
上記の2冊とは異なり、研究家の方が著した本になります。より客観的に歴史的な背景を交えながらの解説なのでより深くモホリ=ナジを理解するための手がかりになるかもしれません。図版も多く、モホリ=ナジの入門編としておすすめです。
絵画・写真・映画 (新装版 バウハウス叢書)
本記事で触れた、バウハウスに在籍していたモホリ=ナジが視覚芸術の理論を記した『絵画・写真・映画』の新装版です。デザイン業界に今日まで影響を与えていると言っても過言ではないバイブルなので、知識書としての価値のある名著です。
ザニューヴィジョン―ある芸術家の要約
『絵画・写真・映画』に並び「モダン・デザインの標準文法」とも評されるバイブル的デザイン書です。少し専門的な内容になりますが、手元に置いてじっくり読んでみてはいかがでしょうか。