こんにちは、ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはパウル・クレー(Paul Klee)というアーティストをご存知でしょうか。
クレーは、スイス出身で表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなどを含む前衛芸術運動の影響を受けた20世紀の重要な画家のひとりです。
この記事では、そんな激動のヨーロッパを生きた作家パウル・クレーの『人生』と『作品』を中心にご紹介します。
パウル・クレーとは?
パウル・クレー基本情報
本名 | パウル・クレー |
国籍/出身 | スイス、ミュンヘンブーフゼー |
生年月日 | 1879年12月18日-1940年6月29日 |
分野/芸術動向 | 表現主義、キュビスム、シュルレアリスム、ダダイズム、バウハウス |
学歴/出身大学など | Städtische Literarschule(ベルンの文科学校)、ハインリヒ・クニルの私設美術学校、ミュンヘンアカデミー |
公式サイト/関連サイト |
若き日のクレー
個性派の画家へ
音楽家の両親のもとスイスに生まれる
1879年、スイスの首都ベルン郊外の街に生まれたクレー。ドイツ人の父は音楽教師で、フランス生まれでスイス人の母は声楽家という音楽一家で育ちます。ヴァイオリンの才に恵まれたクレーは、ベルンの交響楽団で演奏したこともあります。ベルンの文科学校では、詩や戯曲を書くなど多方面で才能を発揮していました。
少年時代のクレーは、繊細な風景画を描くのが好きで、両親もその才能を認めていました。クレーのノートは、イラストで埋め尽くされていたといいます。ベルンの学校を出ると、すぐに芸術の中心地ミュンヘンへ移ります。美術学校に通いながら、ドイツの芸術家たちのハインリッヒ・クニールやフランツ・フォン・シュトゥックなどの指導を受けます。
その後、半年間のイタリア滞在で古代ローマやルネサンス芸術に影響を受けたり、パリで印象派のゴッホやセザンヌに触れるなど、さまざまな芸術スタイルの影響を受けながらも、型にはまらない自由で個性的な表現の礎を築いていきます。1906年には、ピアニストのリリー・シュトンプと結婚します。
キュビズムの影響
キュビズムの流れ、色彩感覚
カンディンスキーとともに
1911年、ロシアの画家ワシリー・カンディンスキーや、ドイツ人画家フランツ・マルクらがミュンヘンで設立した芸術家団体「ブラウ・ライター(Blaue Reiter)」に参加します。展示会に参加しながら、クレーはこの時期にキュビズムなどの前衛芸術の流れを取り入れます。特に、フランスの画家ロベール・ドローネーのオルフィス・キュビズムに感銘を受けます。
1914年には、ドイツ人画家のアウグスト・マッケらとチュニジアへ旅行へ行き、この度を機にそれまで自信がなかった色彩感覚を確立し、色を用いた絵画を制作しはじめました。
2つの世界大戦
戦争と創作活動
1916年、ドイツ国籍のクレーは、第一世界大戦に招集されてしまいます。しかしながら、芸術家は徴兵を免除できるという法律のおかげで参戦を回避します。戦時中は、戦争が悪魔などの形で間接的に登場する、ロマンチックで子どもっぽい風景画を描き、人気を得ます。《Flower Myth》(1918)は、この時期のクレーの重要な作品のひとつです。
戦後のクレー作品で最も印象的なのは、1919年に考案した独特の技法による油彩転写画です。水彩画の上に描いた絵を、黒いインクや絵の具を塗った転写紙でなぞり、色をつける技法です。曖昧に広がるクレーの線は、同時代の他のものとは異なり特徴的です。とりわけ《Room Perspective with Inhabitants》 (1921)や《Twittering Machine》 (1922)が有名です。
1920年には、ドイツの総合美術学校のバウハウスにて教鞭を取ります。1920年代半ばには、クレーの評判が国際的に広がり、1925年にはパリで初の個展を開催しました。
しかしながら、1933年にヒトラーが政権を握ると、ドイツでの創作活動が不可能となりました。左翼思想があるとして、当時教えていたデュッセルドルフ・アカデミーを解雇。クレーのアトリエは捜索の対象となりました。情勢は悪化する一方でしたが、クレーはこのような困難にもめげず、スイスに戻り、制作を続けました。軍国主義、政治的暴力などを皮肉り、当時の政治情勢を直接的に反映した作品が多く見受けられます。
晩年のクレー
ピカソの影響を受けて
クレーの晩年の絵画やデッサンは、1920年代から30年代にかけてのパブロ・ピカソの作品の特徴である歪みの影響を強く受けています。戦時中の精神的、経済的不安により、さまざまな病を患ったクレー自信の切迫感を、芸術で表現する方法をピカソの作品から学びとっていました。
より晩年になると、それまでの作品に特徴的な洗練さを与えていた繊細な陰影や色合いは、より大胆でシンプルなタッチと新たな色彩に取って代わられました。クレー最期の作品群は天使たちを皮肉的に描いた作品や、死と終焉をイメージとしたものでした。特に、亡くなった年に描いた《Death and Fire》(1940年)が有名です。
まとめ
いかかでしたでしょうか。
さまざまな芸術表現から、自由で個性的な自分の画風を追い求め、流派やスタイルは確立することなかったクレー。それにもかかわらず、今も20世紀で重要な画家のひとりと評価されています。
日本でも、愛知県美術館、高知県立美術館、新潟市美術館、そして東京のアーティゾン美術館に、クレーの作品が所蔵されています。
皆さんも実際にクレーの作品をご覧になってはいかがでしょうか。