こんにちは、ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはパウル・クレー(Paul Klee)というアーティストをご存知でしょうか。
クレーは、スイス出身で表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなどを含む前衛芸術運動の影響を受けた20世紀の重要な画家のひとりです。
この記事では、そんな激動のヨーロッパを生きた作家パウル・クレーの『人生』と『作品』を中心にご紹介します。
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Toggle3行でわかるパウル・クレー
- パウル・クレー(1879〜1940年)はスイス出身の画家で、特定の流派に属さずバウハウスでも教えた20世紀を代表する作家です。
- 代表作に《さえずり機械》(1922年、ニューヨーク近代美術館)、《新しい天使》(1920年、イスラエル博物館)などがあります。
- 日本では宮城県美術館や東京国立近代美術館、アーティゾン美術館など複数の美術館でクレーの作品を見ることができます。
パウル・クレーとは?
パウル・クレー基本情報
| 本名 | パウル・クレー |
| 国籍/出身 | スイス、ミュンヘンブーフゼー |
| 生年月日 | 1879年12月18日-1940年6月29日 |
| 分野/芸術動向 | 表現主義、キュビスム、シュルレアリスム、ダダイズム、バウハウス |
| 学歴/出身大学など | Städtische Literarschule(ベルンの文科学校)、ハインリヒ・クニルの私設美術学校、ミュンヘンアカデミー |
| 公式サイト/関連サイト |
パウル・クレー年表
| 年 | 出来事 |
| 1879年 | 12月18日、スイス・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれる |
| 1906年 | ピアニストのリリー・シュトンプと結婚 |
| 1911年 | カンディンスキーらの芸術家団体「青騎士」に参加 |
| 1914年 | アウグスト・マッケ、ルイ・モワイエとチュニジアを旅行し、色彩表現に目覚める |
| 1916年 | 第一次世界大戦に召集され、航空隊などで終戦まで勤務 |
| 1921年 | バウハウスの教授に就任(1931年まで) |
| 1931年 | デュッセルドルフ美術アカデミー教授に就任 |
| 1933年 | ナチスにより教授職を解雇され、スイス・ベルンへ移る |
| 1937年 | ナチスの「退廃芸術展」に作品が展示される |
| 1940年 | 6月29日、スイス・ムラルトで死去(スイス国籍は死後に認められる) |
若き日のクレー
個性派の画家へ
音楽家の両親のもとスイスに生まれる
1879年、スイスの首都ベルン郊外の街に生まれたクレー。ドイツ人の父は音楽教師で、フランス生まれでスイス人の母は声楽家という音楽一家で育ちます。ヴァイオリンの才に恵まれたクレーは、ベルンの交響楽団で演奏したこともあります。ベルンの文科学校では、詩や戯曲を書くなど多方面で才能を発揮していました。
少年時代のクレーは、繊細な風景画を描くのが好きで、両親もその才能を認めていました。クレーのノートは、イラストで埋め尽くされていたといいます。ベルンの学校を出ると、すぐに芸術の中心地ミュンヘンへ移ります。美術学校に通いながら、ドイツの芸術家たちのハインリヒ・クニルやフランツ・フォン・シュトゥックなどの指導を受けます。

その後、半年間のイタリア滞在で古代ローマやルネサンス芸術に影響を受けたり、パリで印象派のゴッホやセザンヌに触れるなど、さまざまな芸術スタイルの影響を受けながらも、型にはまらない自由で個性的な表現の礎を築いていきます。1906年には、ピアニストのリリー・シュトンプと結婚します。
キュビズムの影響
キュビズムの流れ、色彩感覚
カンディンスキーとともに
1911年、ロシアの画家ワシリー・カンディンスキーや、ドイツ人画家フランツ・マルクらがミュンヘンで設立した芸術家団体「青騎士(ブラウ・ライター、Blaue Reiter)」に参加します。展示会に参加しながら、クレーはこの時期にキュビズムなどの前衛芸術の流れを取り入れます。特に、フランスの画家ロベール・ドローネーのオルフィスム(色彩を重視した抽象絵画の様式)に感銘を受けます。
1914年には、ドイツ人画家のアウグスト・マッケらとチュニジアへ旅行へ行き、この旅を機にそれまで自信がなかった色彩感覚を確立し、色を用いた絵画を制作しはじめました。

2つの世界大戦
戦争と創作活動
1916年、ドイツ国籍のクレーは第一次世界大戦に召集されます。フランツ・マルクやアウグスト・マッケら同世代の画家が相次いで戦死したことを受け、バイエルン王家が画家を前線の戦闘任務から外す措置をとったため、クレーは前線での戦闘を免れ、航空隊の整備工場や航空学校の事務方として終戦まで勤務しました。戦時中は、戦争が悪魔などの形で間接的に登場する、ロマンチックで子どもっぽい風景画を描き、人気を得ます。《Flower Myth》(1918)は、この時期のクレーの重要な作品のひとつです。

戦後のクレー作品で最も印象的なのは、1919年に考案した独特の技法による油彩転写画です。水彩画の上に描いた絵を、黒いインクや絵の具を塗った転写紙でなぞり、色をつける技法です。曖昧に広がるクレーの線は、同時代の他のものとは異なり特徴的です。とりわけ《Room Perspective with Inhabitants》 (1921)や《Twittering Machine》 (1922)が有名です。
1920年には、ドイツの総合美術学校のバウハウスにて教鞭を取ります。1920年代半ばには、クレーの評判が国際的に広がり、1925年にはパリで初の個展を開催しました。


しかしながら、1933年にヒトラーが政権を握ると、ドイツでの創作活動が不可能となりました。左翼思想があるとして、当時教えていたデュッセルドルフ・アカデミーを解雇。クレーのアトリエは捜索の対象となりました。情勢は悪化する一方でしたが、クレーはこのような困難にもめげず、スイスに戻り、制作を続けました。軍国主義、政治的暴力などを皮肉り、当時の政治情勢を直接的に反映した作品が多く見受けられます。
晩年のクレー
ピカソの影響を受けて
クレーの晩年の絵画やデッサンは、1920年代から30年代にかけてのパブロ・ピカソの作品の特徴である歪みの影響を強く受けています。ナチス政権下での亡命生活による精神的・経済的な不安に加え、1935年頃から強皮症(皮膚が硬くなる全身性の病気)を患ったクレーは、その切迫感を芸術で表現する方法を、ピカソの作品から学びとっていました。

より晩年になると、それまでの作品に特徴的な洗練さを与えていた繊細な陰影や色合いは、より大胆でシンプルなタッチと新たな色彩に取って代わられました。クレー最期の作品群は天使たちを皮肉的に描いた作品や、死と終焉をイメージとしたものでした。特に、亡くなった年に描いた《Death and Fire》(1940年)が有名です。

パウル・クレーの代表作
| 作品名 | 制作年 | 所蔵先 |
| さえずり機械(Die Zwitscher-Maschine) | 1922年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| 新しい天使(Angelus Novus) | 1920年 | イスラエル博物館(エルサレム) |
| 花の神話(Blumenmythos) | 1918年 | シュプレンゲル美術館(ハノーファー) |
| 死と火(Tod und Feuer) | 1940年 | パウル・クレー・センター(ベルン) |
| ハマメットのモチーフ(Motiv aus Hammamet) | 1914年 | バーゼル市立美術館 |
よくある質問
パウル・クレーは何派の画家ですか?
特定の一派には属していません。芸術家団体「青騎士」のグループ展に参加し、キュビスムや表現主義、ダダイスムの作家たちとも交流しましたが、生涯を通じて独自の画風を追求しました。
パウル・クレーの代表作は何ですか?
《さえずり機械》(1922年)、《新しい天使》(1920年)、《死と火》(1940年)などが広く知られています。
パウル・クレーの作品は日本のどこで見られますか?
宮城県美術館が国内最大規模となる35点のクレー作品を所蔵しているほか、東京国立近代美術館、愛知県美術館、アーティゾン美術館、新潟市美術館などでも見ることができます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
さまざまな芸術表現から、自由で個性的な自分の画風を追い求め、流派やスタイルは確立することなかったクレー。それにもかかわらず、今も20世紀で重要な画家のひとりと評価されています。
日本でも、愛知県美術館、高知県立美術館、新潟市美術館、そして東京のアーティゾン美術館に、クレーの作品が所蔵されています。
とりわけ宮城県美術館は、国内の美術館として最大規模となる35点のクレー作品を所蔵しています。東京国立近代美術館にも《ペルセウス(悲しみに勝る才気)》をはじめとする15点が収蔵されており、国内でも複数の美術館でクレーの作品に出会うことができます。
皆さんも実際にクレーの作品をご覧になってはいかがでしょうか。





