こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはラファエロ・サンティという人物をご存知ですか?
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと共に盛期ルネサンス期を代表するイタリアの画家で、建築家としても知られています。
ラファエロはこの頃に主流だった「工房システム(たくさんの弟子をとり作品を分業で仕上げる方法)」を極め、異例な若さで巨大な工房を持っていました。
その巨大な工房でもって多くの有名絵画を世に出し、現在の絵画のイメージを作り上げたと言っても過言ではないほど影響力のある人物です。
本記事ではそんなラファエロの人生と作品についてご紹介します。
目次
ラファエロって?
基本情報
本名 | ラファエロ・サンティ(Raphael Santi) |
生年月日 | 1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没) |
国籍/出身 | イタリア(ウルビーノ) |
学歴 | ー |
分野 | 絵画、建築 |
傾向 | 盛期ルネサンス芸術 |
師事した/影響を受けた人 | ペルジーノ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ |
人生と作品
生まれと環境
1483年4月6日に、ラファエロはイタリアの小国家ウルビーノで生まれます。
ウルビーノは1443年に公国としてモンテフェルトロ家によって統治された国家で、ウルビーノ伯に任命された歴代の君主、特にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがウルビーノに文化人を招き入れて芸術文化を根付かせようとしたことで現在でも多くの歴史的な芸術品が残る都市として知られています。
そんな、ルネサンス芸術の起源とも言えるフェデリーコの下で宮廷画家として活躍していたのがラファエロの父にあたるジョヴァンニ・サンティです。
ラファエロは王様に仕えて絵を描いていた偉い画家の息子だったわけですね。
芸術といっても当時は絵画よりも文学が重んじられていて、父ジョヴァンニは宮廷画家でありながら文人としても活躍しており、演劇の脚本と装飾を手がけることもありました。
そんな生まれのラファエロは、幼い時からウルビーノ宮廷を訪れる文化人と交流をしており、芸術家への希望は不思議なことではありませんでした。
手にした才能と、失った家族
当時のラファエロは父ジョヴァンニや、その仕事仲間であったウッチェロ(1397-1475)などの手仕事を目の前で見て、自身も画家になるために絵を描き始めました。
その才能は瞬く間に開花し、ラファエロは10歳にして父の絵を手伝うほどの腕前に成長しました。
しかしラファエロはその代償とも言うべきか、母マジアを8歳の頃に、父ジョヴァンニも11歳の頃に亡くしています。
孤児となったラファエロは聖職者バルトロメオに引き取られ、父の意向で弟子入りしたピエトロ・ペルジーノ(1448-1523)の工房で絵を描き始めることになります。
1501年にはペルジーノとの姉弟関係を終え、マスターの位につき独立しています。
弟子入りからわずか7年後のことです。
しかも弟子入りし始めた時のラファエロは推定10歳。独立したのはまだ17歳でした。
ラファエロは恐るべきスピードで師であるペルジーノの技術を吸収し、当時ラファエロをはじめとする芸術家についての伝記を記したジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)によって「この時期のラファエロとペルジーノの作品を区別することは不可能」と書かれています。
師匠からの卒業のために
『聖母の結婚(1504)』
独立後のラファエロは、当時の多くの画家がそうしたのと同じように、教会から依頼を受けて礼拝堂の壁画を多く担当しました。
初期ラファエロの代表作といえば挙げられるのがこの『聖母の結婚(1504)』です。
新約聖書の一幕、聖母マリアと聖ヨセフの婚礼を描いた作品で、ラファエロ以前にも多くの画家が手がけたことのある普遍的なテーマです。
サン・フランチェスコ教会からの依頼で描かれたラファエロの『聖母の結婚』は、本来はペルジーノに依頼された仕事でしたが、不在であったペルジーノの代わりにラファエロが仕事を引き受けたかたちで制作されたと考えられています。
これを描くにあたり参考にしたと言われるのが、ペルジーノが同じく1504年に描いた『聖母の結婚(1504)』です。
『聖母の結婚(1504)』
少々ややこしいのですが、ペルジーノが描いた『聖母の結婚』はペルージャ大聖堂からの依頼で1499年から制作されたものです。
その完成と同じ年に別の教会からペルジーノの元に同じテーマでの依頼が来て、それをラファエロが引き受けたということになります。
ラファエロはペルジーノの『聖母の結婚』を参考にしたと見られていますが、多くの相違点が発見できます。
婚礼に立ち並ぶ人物の描き方を見てみましょう。
ペルジーノは伝統的な形式にしたがって人物を横に広く並べ、聖書の世界観に没入させるような描き方をしています。
ラファエロは遠近法を効果的に用い、メインとなる聖母マリアと聖ヨセフ、婚姻を取り持つ司祭を中心に取り囲むように半円状に描いています。
メインキャラクターが誰かをわかりやすく描くだけでなく、奥行きを強調することでペルジーノとはまったく真逆のアプローチで見る人が聖書の世界に没入できる仕組みを作ったのです。
また、両者の絵に共に登場している膝を曲げた人物に注目してみましょう。
この人物は聖書のストーリー上でも役目が与えられている人物で、聖母マリアに求婚をするためにやってきたものの、枝に花が咲かなかったために婚約を諦め、苛立って枝を折っているシーンが描かれています。
ペルジーノの絵には左、参列者の中に紛れてひっそりと描かれているのに対し、ラファエロでは右前の目立つところに描かれています。
このアレンジは中心人物3人を取り囲む集団の中でも目立つ動きをさせ、絵に躍動感を与えるために成されたと考えられています。
ヴァザーリは「自身の様式を発展させようとしていたラファエロは、ペルジーノに比肩するだけでなく凌駕している」と書いています。
このように、ラファエロが師の影を超えていこうと工夫を凝らした箇所をいくつも発見できます。
そしてその気持ちを決定づけるのは絵の中心にあるエルサレム宮殿に書かれた署名。
「RAPHAEL VRUBINUS(ウルビーノのラファエロ)」と書かれています。
独立をきっかけにラファエロはひとりの画家として、ペルジーノの代役としてではなく仕事をまっとうするという意思を込めたように思えます。
フィレンツェでの”修行”
『キリストの埋葬(1507)』
1504年ごろからラファエロはイタリアのフィレンツェに度々訪れ、滞在するようになりました。
この頃、1500年からフィレンツェに来ていたダ・ヴィンチと交流し、ラファエロは書簡の中でフィレンツェでの滞在を”修行”と称してダ・ヴィンチから指導を受けていました。
特にラファエロが学んだのはダ・ヴィンチ自身の解剖学の知識からくる正確な人体スケッチで、ラファエロは人体を正確に描くだけでなく、人体をどのように描くか、を突き詰めて自身の技術として取り込んでいきました。
この頃のラファエロの作品で高い評価を受けたのは『キリストの埋葬(1507)』が挙げられるでしょう。
新約聖書でのキリスト磔刑ののちに磔から降ろされ、埋葬されようとするシーンを描いた作品です。
数多くの習作となるスケッチが多く残っており、先述したダ・ヴィンチとの修行で学んだ人体表現に関しては特にスケッチで色濃くみることができます。
スケッチでみると構図も大きく変わっており、構図についてはダ・ヴィンチと共にルネサンス三大巨匠に挙げられるミケランジェロの『キリストの埋葬(1500-1501)』が参考にされていると考えられています。
『キリストの埋葬(1500-1501)』
この『キリストの埋葬』以降、ラファエロはミケランジェロやダ・ヴィンチから受けた影響を自分のものにする機会と捉えていたようで、活動場所から「フィレンツェ時代」、または多く依頼を受けていた町の名前から「ペルージャ時代」とされます。
広大なキャンバスに溢れる才能!
『アテナイの学堂(1509-1510)』
1508年になるとラファエロはローマに活動場所を移します。
ヴァチカン宮殿のフレスコ壁画の依頼を受けたラファエロは、4部屋からなるラファエロに任された部屋は、今では「ラファエロの間」と呼ばれています。
「ラファエロの間」には15あまりの壁画が描かれ、その中でも特に有名なのは『アテナイの学堂(1509-1510)』ではないでしょうか。
今も昔もラファエロの代表作かつ最高傑作と呼ばれる『アテナイの学堂』ですが、その大きさはなんと500cm×700cm、ちょっとしたアパートのようなサイズ感です。
この『アテナイの学堂』はフレスコという技法で描かれています。
フレスコはFRESCO(イタリア語で生の、英語で言うフレッシュ)を由来とする言葉で、壁に塗った漆喰が生乾きのうちに顔料で絵を描くという手法です。
漆喰が剥がれ落ちない限り絵が損壊しないため保存に向いた手法である一方で、描き直しができないという欠点も持ち合わせます。
そのためラファエロは同じ寸法の下書きをいくつか用意してから取り掛かったと言われています。
また、ラファエロが依頼を受けた時にはすでに別の画家によって壁画が描かれていたものの、依頼主であるローマ教皇はラファエロの腕を見込んで上描きを頼みました。
これほど巨大な壁画を何点も、しかも失敗が許されないフレスコで描くという依頼を、ラファエロはわずか1年で仕上げてしまいました。
この驚異の作業スピードを支えたのが、他でもないラファエロの代名詞「工房システム」でした。
当時の画家は弟子と一緒に一つの作品を仕上げる分業制が普通に行われており、ラファエロもその例に漏れませんでした。
ラファエロはこの時代では異例の規模の工房を持っており、このラファエロの間でも50人以上いた弟子と共に仕上げたと見られています。
タイトルの「アテナイ」とはギリシャの都市アテナのことで、描かれているのは著名な哲学者ばかりです。
中央に描かれているのはプラトンとアリストテレス、ヘラクレイトスやピタゴラスなど教科書に出てくるようなビッグネームが描かれています。
『アテナイの学堂』に関するトピックとして知られているのは、何人かの哲学者は友人の画家をモデルに描かれているということです。
師事したダ・ヴィンチやミケランジェロ、そしてラファエロ自身も描かれています。
このような工夫もあってか、影響を受けたと考えられるミケランジェロによる『システィーナ礼拝堂天井画(1508-1512)』と比べて人物たちは緻密で正確なプロポーションを保ちながらも、人間らしい自然体で描かれています。
神話の登場人物と実在した哲学者では描き方が異なるのも当然かもしれませんが、ダ・ヴィンチから学んだ正確な人体スケッチと古典的で静謐な世界観が見事に融合した雰囲気は、哲学者という、実在していながらも神格化されるほど偉大な存在を描くにふさわしい表現方法であったのではないでしょうか。
晩年
『シチリアの苦悶(1517)』
「ラファエロの間」を完成させたラファエロはその後もフレスコ壁画を中心に活動しながら、ローマ教皇などの肖像画、サン・ピエトロ大聖堂の建築計画などに参加します。
この頃のラファエロの代表作には『システィーナの聖母(1513-1515)』、『シチリアの苦悶(1517)』などが挙げられます。
『アテナイの学堂』を経てさらに表現方法を研究したラファエロは、これまでの静謐で自然な人物よりもよりドラマチックな効果を生む色彩の対比、誇張された流動的な体の動きなどを特徴とする作品を描くようになります。
この表現方法の変化はルネサンスの後年にやってくる芸術運動「バロック様式」を予感させるもので、ラファエロの先見性が伺えます。
そしてラファエロは1515年頃から病床に伏せることになり、1520年4月6日に病死します。
わずか37歳での夭折でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
宮廷画家の父のもとで育ち、わずか10歳で画家に弟子入りするという、数多くのアーティストの中でも飛び抜けた生まれ育ちを持つラファエロ。
画家として独立した後の人生は堅実に教会から仕事をもらい工房の先生(オールドマスター)として教育する一方で、ローマ教皇のために絵を描くという華やかな面もあるという豊かな人生でした。
しかしその溢れる才能の代償か、わずか37年の人生を病で閉じてしまうことになりました。
ルネサンス三大巨匠の中ではあまり作品や人物の印象がないという方も多いかもしれませんが、時代に求められた作品を職人のように手掛け続けた37年間は、ダ・ヴィンチともミケランジェロとも負けず劣らずの濃密さであるに違いありません。
ラファエロの作品は日本で見る機会はなかなかありませんが、本記事でその一端である人生と作品がお伝えできたなら幸いです。
おすすめ書籍
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ラファエロ ルネサンスの天才芸術家
カラーページで作品が紹介されており、解説と合わせてラファエロの技巧が理解しやすい本です。生涯のエピソードも豊富で短く読みやすいのでおすすめです。
ラファエロ 作品と時代を読む
4名の日本人研究者がラファエロの人生と作品について綴った本です。本書のコンセプトが、ダ・ヴィンチやミケランジェロと比べてラファエロの研究は進んでいないというもので、ラファエロと同じ年代を生きた画家との比較を経てラファエロの特異性について深掘りされています。