こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはローベル・ドローネーという人物をご存知ですか?
ドローネーは20世紀初頭に活躍したフランスの画家で、幾何学模様と鮮やかな色彩が特徴の抽象絵画を多く残しました。
妻ソニア・ドローネーと共に、オルフィスム運動と呼ばれる芸術運動を創始したことで知られています。
キュビズムの異端者と批判されながらも独自の表現方法を貫き、ヨーロッパで抽象絵画を切り拓いて後年に大きな影響を与えた偉大な人物です。
本記事ではそんなローベル・ドローネーの人生と作品についてご紹介します。
ローベル・ドローネーについて
基本情報
本名 | ローベル・ドローネー(Robert Delaunay) |
生年月日 | 1885年4月12日〜1941年10月25日(56歳没) |
国籍/出身 | フランス パリ |
学歴 | 不明 |
分野 | 絵画 |
傾向 | キュビズム、ピュトー派、青騎士、オルフィスム |
師事した/影響を受けた人物 | ジョルジュ・スーラ、青騎士のアーティスト |
経歴と作品
生まれと環境
1885年4月12日、パリに生まれたドローネーは芸術とは縁のない家庭に育ち、正規の芸術教育を受けてはいませんでした。
幼い頃に両親が離別し、親戚夫婦のもとで育ったドローネー。
画家を目指して1902年にパリのベルヴィル地区に移り住み、叔父のロンサンから装飾美術を学びます。19歳になる頃にはロンサンのもとを離れ、絵画に専念しはじめました。
無教養ゆえの大胆な出発地点?
『Landscape with Disc』(1906)
1904年にサロン・ド・アンデパンダンで6枚の作品を展示し、画家デビューを果たします。
その後、ブルターニュを旅してポン=タヴァン派に影響を受けました。
ポン=タヴァン派とは、19世紀から20世紀にポール・ゴーギャン(1848-1903)に影響を受けた芸術運動です。1800年頃にフランスのポン=タヴァンに滞在していたゴーギャンに追随して、ポン=タヴァンに住んでいたエミール・ベルナール(1868-1941)やポール・セリュジェ(1864-1927)などが象徴主義やクロソワニズムを取り込みながら発展していきました。大胆に純色を用い、抽象的な主題を選ぶことが特徴です。
1906年、第22回サロン・ド・アンデパンダンでブルターニュで描いた作品を出品。
このときドローネーはアンリ・マティス(1869-1954)に出会っています。
また、フランスの化学者で色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論を読んで影響を受け、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)らの新印象派にも影響を受けました。
1907年に画廊でジャン・メッツァンジェと展示を行ったドローネーは親睦を深めるようになります。
スーラの筆触分割に強く影響を受けていたこの頃の絵を見た美術批評家のルイス・ヴォクセルからは分割主義の画家とみなされました。
ピュトー派に出会い、キュビズムに色をもたらす
『都市(1911)』
1908年、未来派として活動していたウクライナ人作家のソニア・テルクと出会ったドローネーは1910年に彼女と結婚。
その頃にはフランスでのキュビスム運動に参加。ドローネーは『エッフェル塔(1909~)』『サン・セヴラン寺院』などの連作を描き始めていました。
また、ピュトー派と呼ばれるキュビズムを志向するグループと親交を持ち、ジャック・ヴィヨン(1875-1963)やフランシス・ピカビア(1879-1953)と交流をしています。
他にもこのピュトー派にはマルセル・デュシャン(1887-1968)、アレクサンダー・アーキペンコ(1887-1964)など後に前衛的な芸術表現の先駆けとなる人物が属していました。
ポン=タヴァン派や新印象主義の素養があったドローネーは、これまでのキュビズムには存在していなかった鮮やかな色彩をもたらし、キュビズム以降の抽象絵画にとって大きなターニングポイントになりました。
青騎士に学び、大成功
『エッフェル塔(1911)』
1911年にドローネーはロシアの抽象画家であるワシリー・カンディンスキー(1866-1944)の誘いでミュンヘンで活動していた前衛運動「青騎士」に参加します。
カンディンスキーは1910年に「抽象絵画」にあたる作品をはじめて手がけた、抽象絵画の父と称される美術史上重要な人物です。
彼がドイツ人画家フランツ・マルク(1880-1916)と共に起こしたのが「青騎士」と言う芸術運動です。
青騎士(ブラウエ・ライター)とはカンディンスキーとマルクが創刊した年刊芸術誌の名前で、それに関わる何人かの芸術家が行った企画展をきっかけに芸術運動として見なされています。
目に見える個別の形象(フォルム)ではなく、感情の赴くまま激しい色彩を用いることですべての芸術の根底に存在するものを明らかにする表現主義的な理念を特徴とした青騎士は、活動年数が約3年ほどと短いものの、20世紀の現代芸術に大きな影響を与えた芸術運動でした。
青騎士への参加を経てドローネーの作風は抽象表現が発展、ドイツをはじめスイス、ロシアなどでも評価されるようになりました。
ミュンヘンで最初の「青騎士展(1911)」に参加して4点を販売したドローネーの作品は人気を博し、カンディンスキーから著作「芸術における精神的なものについて」を返礼品として送られたり、「青騎士名鑑」で“ロベール・ドローネーの構成法”という紹介記事が組まれたほどでした。
美術評論家の後押しで「オルフィスム」が誕生
『窓(1912)』
当時のフランスではパブロ・ピカソ(1881-1973)やジョルジュ・ブラック(1882-1963)などの大家によってキュビズムがアートシーンの人気の中心でした。
ドローネーの作風は若年期こそキュビズムやフォービズムに影響を受けていたものの、この頃には既に独自の表現を完成させていたのですが、特徴であった鮮やかな色彩や静的なモチーフ選択は、キュビズムに反するとして批判を受けました。
実際ドローネーはキュビズムの特徴であるモノトーンや動的なモチーフに消極的であり、すでに純粋なキュビズムを脱していることがわかります。
ドローネーはドイツを中心に人気を博す一方で故郷フランスで非難を受けていたわけですが、美術評論家ギヨーム・アポリネールが1913年の講演で、ドローネーはすでにキュビズムではなく「オルフィスム」であると擁護します。
この「オルフィスム」とは、ギリシャ神話に登場する音楽家オルフェウスから取られたアポリネールの造語で、ドローネーの作品が音楽と同じような純粋芸術であり、キュビズムとは区別されるべきであるという意味が込められています。
名前のついていない新しいジャンルを、これまでのものと比較して批判してしまうという動きは現代でも見ることができてしまいますね。
作品だけを見ているとあまり存在感がありませんが、芸術批評家はこのようにアーティストの作風やジャンルを見極め、世間に浸透させるという重要な役割を担っているのです。
受け継がれ、発展していく色彩理論
『リズム(1934)』
1912年から1914年にかけて、ドローネーはさらに色彩と筆致をダイナミックにしていき、独自の色彩理論と光学的な特性を活かした作品をつくっていきました。
実際には自身の直感に従った、まさに純粋芸術だったわけですが、彼の色彩理論はパウル・クレー(1879-1940)やオーガスト・マルケ(1845-1904)など青騎士の画家に影響を与えました。
第一次世界大戦の勃発を受け、ドローネーはスペインに亡命。
1920年頃はシュルレアリスム、ダダイスムのグループと交流するようになり、アンドレ・ブルトン(1896-1966)やトリスタン・ツァラ(1896-1963)と親交がありました。
こうした文人・詩人との交流の影響もあってかドローネーの作品は抽象度をさらに高め、代表作としても知られる『リズム』シリーズの連作に没頭します。
晩年
『Rhythm no.1(1938)』
1937年にはパリ万国博覧会で航空館と鉄道館に飾る絵の仕事を受け、『Rhythm no.1〜Rhythm no.3(1938)』を制作。
ドローネーの作品は全国的なものになったのも束の間、1941年に癌によって死去しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
オルフィスムやフランス純粋抽象絵画という絵画ジャンルはあまり聞き馴染みがない人もいるかもしれませんが、抽象絵画というジャンルを築き上げた人物の一人ということで、美術史上でもかなり重要な人物といえます。
今でも抽象絵画を完全に理解することはなかなか難しいですが、どのようなジャンルでも最初は理解されないものです。
実際に、美術史は伝統的で保守的なジャンルの台頭とそれから脱却しようとする革新的で刺激的なジャンルが競り合い、徐々に民衆に浸透していくことの繰り返しであることからもわかります。