こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはヴァルター・グロピウスという人物をご存知ですか?
モダンデザインを世界的に広めた学校「バウハウス」の創立者にして初代校長も務めた彼は、ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の四大巨匠とも呼ばれる有名なデザイナー・建築家です。
著書『国際建築(1925)』で示した「造形は機能に従う」という主張は国境を超えて建築界隈に大きな影響を与えており、デザインを語るのには欠かせない人物です。
本記事ではそんなヴァルター・グロピウスの人生と作品についてご紹介します。
ヴァルター・グロピウスって?
基本情報
本名 | ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グローピウス (Walter Adolph Georg Gropius,) |
生年月日 | 1883年5月18日-1969年7月5日(86歳没) |
国籍/出身 | ドイツ→アメリカ合衆国 |
学歴 | ミュンヘン工科大学 |
分野 | 建築、プロダクトデザイン |
傾向 | ドイツ工作連盟、モダニズム建築 |
師事した/影響を受けた人物 | ペーター・ベーレンス等 |
経歴と作品
生まれと環境
1883年5月18日、グロピウスはドイツ ベルリンで建築家の父の元に生まれます。父の仕事に憧れを抱いていたグロピウスは、ベルリンの工科大学およびミュンヘン工科大学に進み建築を学びます。
卒業後グロピウスはドイツの建築家であるペーター・ベーレンスの事務所で働き、ミース・ファン・デル・ローエと出会っており、互いに影響を与え技術を磨きました。
建築への興味は父の影響だけではなかったようです。
大叔父にあたるマルティン・グロピウスは同じくベルリンの工科大学で学んだ建築家で、ドイツの新古典主義建築の代表作家であるカール・フリードリッヒ・シンケルの弟子でもありました。
マルティンおよびシンケルの活躍した時代はグロピウスよりも半世紀以上も昔のことではあります。しかし彼らの主題であった新古典主義建築は、幾何学図形を重んじる厳格なデザインはモダニズム建築が発展する土壌として大きく影響していると考えられています。
ドイツ工作連盟
『ヘルマン・ムテジウス(1861~1927)』
1907年、グロピウスはドイツ工作連盟に参加します。
ドイツ工作連盟はドイツ ミュンヘンで発足された団体で、建築家やデザイナーをはじめ実業家や評論家も広く参加していました。
リーダー的存在であったヘルマン・ムテジウスがイギリスで起こった芸術運動アーツ・アンド・クラフツ運動からの影響で、団体の目的は「近代社会における芸術と産業のあり方を見つめ直し、統一すること」でした。
具体的には、産業革命による大量生産品が出回ったことを受けての「工業製品の規格統一・基準化」を目指して活動していました。
ヴァン・デ・ヴェルデ、ペーター・ベーレンス、ブルーノ・タウトなどの著名な建築家が参加したことでドイツ工作連盟は工業デザインにおいて力を持つようになり、この運動をきっかけに「工業生産可能性」という概念が生まれ、今日でいうインダストリアルデザインが誕生したと言われています。
1933年にナチスによって解散させられましたが、第二次世界大戦後に復活します。
グロピウスの初期作品にはこのドイツ工作連盟の影響が強く見られ、その影響はバウハウスの理念にも色濃く残っています。
つまり今のモダンデザインを辿っていくと、このドイツ工作連盟が興した「工業製品の規格統一・基準化」に行き着くといっても過言ではありません。
初期モダニズム建築の蠢動
『ファグス靴工場(1911)』
先述の通り、グロピウスの初期作品にはドイツ工作連盟の「工業製品の規格統一・基準化」という理念が大きく影響しています。
その代表的な作品が『ファグス靴工場(1911)』です。
ドイツ アルフェルトに建てられたファグス靴工場は、グロピウスがアドルフ・マイヤーと共に設計されました。
現在の社名はファグス=グレコン・グレテン社(Fagus-Grecon Greten GmbH & Co.KG)で、今でも工場として稼働している歴史ある建築物です。
その希少性は当時の初期モダニズム建築の設計をそのまま残す重要な実証として、2011年、UNESCOの世界遺産リストに登録されているほどです。
グロピウスは師事したペーター・ベーレンスとドイツ工作連盟の影響が見られるポイントは次の3つです。
1:支柱を廃した丸い角
剥き出しの支柱を建築から無くしたことは、グロピウスをはじめとするモダニズム建築家の最大の功績と言っても良いでしょう。
建築において慣習的に、あるいは技術的に用いられてきた「構造上のシステム」は当時の建物には欠かせないものでした。それはたとえ室内の雰囲気にそぐわない支柱であっても、空間を狭める間仕切りであってもです。
多くの建築家がこのシステムから解き放たれるのはオーギュスト・ペレ(1874~1954)による鉄筋コンクリートの開発がきっかけでした。
無垢な質感で自由に成形でき、より高い強度を持つ鉄筋コンクリートが生まれたことで建築の自由度は一気に増すという歴史をたどります。
しかしこのファグス靴工場の頃には鉄筋コンクリートは主流ではなく、グロピウスは従来通りのレンガで支柱なしの骨組みを実現させます。
このこだわりは、先述した『国際建築』に記されている「造形は機能に従う」の言葉通りの理念でもあります。
2:幾何学構成されたカーテンウォール
2つ目のポイントは窓ガラスです。
工場の側面は規格化されたガラスが張り巡らされたカーテンウォールで、金属の格子状の窓枠で作られた壁はラーメン構造と呼ばれます。
壁の役割は、雨や寒さや騒音を防ぐために架構の直立柱の間に張られた、単なるスクリーンとしてだけに限定される
グロピウスは壁という建築構造に対してこのように考えを話しています。
このようなシンプルでミニマルなアプローチは機能主義とも呼ばれ、当時では珍しく揶揄されることもある立場にありました。
しかしこれは工場のオーナーが、過去のブランドとは断絶された新規性のあるデザインを注文したという経緯があり、それに規格化によるメリット(質を保証し、大量生産でコストや手間を抑える)が噛み合った建築の好例と言えるでしょう。
3:エーテル化
窓にはもうひとつグロピウスの思惑が隠れています。
先述したグロピウスの考えには書かれていないもう一つの窓の役割に「採光」があります。
当時の労働者が実際に働く工場にとって採光は、労働環境に直結する重大な要素でした。
グロピウスはこの問題を受けて「エーテル化」という概念を提唱しました。
エーテルとはアリストテレスが神学で用いた「第五元素」を意味する言葉で、グロピウスは後年に物理学で用いられた「光を伝達する媒質」という意味からこのエーテル化という言葉を用いています。
工場に理想的な明るさを再現するため垂直方向ではなく水平方向に広い窓で、効率よく日光を取り入れることを狙っています。
こちらもグロピウスの「造形は機能に従う」理論に基づくデザインではありますが、工場という規模もあり社会主義的な考えも取り入れられています。
建築の神は内部に宿る
建築家であったグロピウスは、建物だけにこだわっていたわけではありません。
多くの建築デザイナーと同じようにグロピウスも「内部空間を彩る家具も含めて建築」という考えを持っており、いくつかのデザイナーズチェアを残しています。
ドイツ工作連盟の主題である「工業製品の規格化・基準化」という理念に基づき、幾何学形態をモデルにした直線的なフォルムと、デ・ステイルの影響が見られる鮮やかで目を引くデザインが特徴です。
『アームチェア D-51』
『アームチェア F-51』
教育者としてのグロピウス
1915年、グロピウスの下にヴァイマル工芸学校の指導者になる依頼が舞い込みます。
依頼者は、ドイツ工作連盟のメンバーでもあったベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデでした。アンリはドイツ工作連盟でヘルマン・ムテジウスと衝突し起こった規格化論争のためドイツを離れることになり、自身が創立した工芸学校をグロピウスに託したのです。
グロピウスは快く引き受け、ヴァイマル工芸学校の指導者に就任します。
そして第一次世界大戦後のドイツ革命によってヴァイマル共和国が設立されます。1919年、それに伴ってヴァイマル工芸学校はグロピウスが指導者を兼任していた美術学校と合併し「国立バウハウス・ヴァイマル」が誕生。グロピウスはその創立に携わり初代校長に就任しました。
これが「バウハウス」のスタート地点です。
バウハウスの基礎情報
「バウハウス(BAUHAUS)」と言う名前は、創立者であり初代校長でもあるグロピウスがつけたものとされています。
もともとはドイツ語で「建築の家」と言う意味の言葉で、中世で大聖堂を建築する時に、職人が寝泊まりするために建てられた小屋「バウヒュッテ」に由来します。
「芸術家と職人との間に差はない」という理念を掲げていたグロピウスが、工芸や写真といった職人によってもたらされていたモダンな芸術分野を含めた総合的な美術教育を目指した学校で、スイスの教職員ヨハネス・イッテンや、抽象絵画家であったワシリー・カンディンスキー、ハンガリーの写真家モホリ・ナジ・ラースローなど多様な分野の教官が雇われ今でもモダンデザインを源流とするあらゆる芸術分野のお手本として名前が上がるほどです。
流れる時代とバウハウスとともに
バウハウスはこれまでにない簡素で実用的なデザインを次々に発表しさまざまな芸術分野に影響を与えましたが、一方でアバンギャルド(フランス語で前衛的、革新的)として社会的なプロダクトとしては認めないという意見も多くありました。
1925年にバウハウスはデッサウに場所を移し、校長の任がグロピウスからハンネス・マイヤーに受け継がれます。
バウハウスの歴史と変遷について詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
グロピウスは校長の任を降りた後、1925年に著書『国際建築(1925)』、1926年に『デッサウの校舎(1926)』を設計しバウハウスの運営からは手を引きます。
この2つの作品はグロピウスの生涯の中でも円熟した時期に作られたこともあり、モダニズム建築の教科書として今も語り継がれています。
グロピウスの主張するモダニズムはどのようなものだったのか具体的に見ていきましょう。
「造形は機能に従う」
『国際建築(1925)』
グロピウスの著書『国際建築』の中で最も有名な一文といえば「造形は機能に従う」ではないでしょうか。
実はこの一文には元になったと思われる思想があります。
それはアメリカの建築家ルイス・サリヴァンが遺した「形態は常に機能に従う」です。そしてこの思想はフランスの博物学者ジャン=バティスト・ラバルクが、生物学において不要な器官は退化し、必要な機能が備わった器官は発達し受け継がれていくという文脈を汲んだものでもあります。
つまり建築は生き物の進化論と同じように、必要な機能を持つパーツは進化し研ぎ澄まされ、不要なパーツを見つめ直し省いていくという、全てのデザインという作業に共通するアプローチを言語化したことばと言えるかもしれません。
「今」を作ったグロピウス
『デッサウの校舎(1926)』
グロピウスが設計した『デッサウの校舎』は、デッサウ市から潤沢な資金を得られたこともありグロピウスの思想が今までより強く表れた作品のひとつと言えるでしょう。
まず目を引くのは校舎と渡り廊下を覆う「格子状の窓ガラス」。
ファグス靴工場でも用いられたカーテンウォールですが、より幾何学的で細かな水平窓が敷き詰められ、内部空間へ豊かな採光をもたらしています。
一方で目立つ屋根や支柱はいっさい無くシンプルで無機質な外見ですが、内部空間は機能ごとに柱や壁が塗り分けられていて、非常に鮮やかであるようです。
この設計にはデ・ステイル(オランダで興った抽象的な幾何学表現を基本理念とする芸術運動)の影響があると考えられています。
またこの校舎には鉄筋コンクリートが用いられており、これまでの建築に比べて自由度が増したことで、より革新的な建物として目に映ったようです。
現代の鉄筋コンクリート建築に慣れた感覚では何の変哲もない建物に見えるかもしれません。
しかし100年近く前の時代に、現代にあっても違和感のないデザインを生み出していたことを考えると現代建築がどれほどモダニズム建築に影響を受けたものなのか、当時グロピウスのデザインがどれほど斬新なものだったかがよくわかります。
転身地、アメリカ
グロピウスはバウハウス閉鎖を受けてドイツを去り、1934年にイギリスへ亡命します。
その後、グロピウスは1937年にハーバード大学に招かれてアメリカを訪れます。
アメリカで共同設計事務所TACを設立して教鞭を執る傍、アメリカの特徴である摩天楼を活かした超高層ビルの設計などを手掛けました。
晩年
1969年、マサチューセッツ州でこの世を去ります。
まとめ
いかがだったでしょうか。
近代建築の巨匠は三大巨匠とも四大巨匠とも呼ばれますが、グロピウスは三大巨匠のときは省かれることが多いです。それは他のメンバーに比べて実績が乏しいというわけではなく、教育者としての影響力が強いからではないかと考えます。
建築家として、作家として、教育者として様々な立場で芸術を説いてきたグロピウスだからこそ、三人とフィールドは違えどモダニズム思想を広めるという点においては最も影響力を持った人物かもしれません。
おすすめ書籍
ヴァルター・グロピウスをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
国際建築
本記事でもご紹介した、グロピウスの著書です。在野のひとでないと読み進めるのに時間がかかるかもしれませんが「造形は機能に従う」をはじめとする著作ならではのナマの思考に触れることができる貴重な本です。
バウハウスの実験住宅
グロピウスとともにファグス靴工場を設計したアドルフ・マイヤーの著書です。グロピウスを中心にバウハウスのデザイナーが手がけた一般住宅の社会的役割と機能にフォーカスした一冊で、工業化のすすんだ社会において住宅とはどうあるべきか、作品を通して語られています。
バウハウス 歴史と理念
バウハウス創立100周年を記念して復刊された、バウハウスの歴史を辿る一冊。2019年の本なので読みやすく、デザイナー視点と異なり「バウハウスと日本」などユニークなトピックが書かれているのでバウハウスを多角的に知りたい方におすすめです。