こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはバレエ衣装の歴史をご存知ですか?
バレリーナと聞くと、ふんわりと広がるチュチュを身につけ、トウシューズで踊る姿を思い浮かべる方が多いかもしれません。けれども昔のバレリーナは、くるぶしまで隠れる長いスカートにかかとのある靴、ときには仮面までつけて踊っていました。
いまの衣装の形は、踊り手や振付家が少しずつ改革を重ねてたどり着いたものです。スカートを短くした18世紀の踊り手、仮面をやめさせた振付家、そして1832年に初めてチュチュを着て踊ったといわれるバレリーナ。昔のバレエの衣装がどのように変わってきたのかを、美術館が公開している版画や絵画とともにたどります。
本記事ではそんなバレエ衣装の歴史と、バレリーナの衣装の名前についてご紹介します。年代や名前は、百科事典と美術館・劇場の公式情報で確認したものだけを書いています。
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Toggleバレエ衣装って?
バレエは、せりふを使わず、踊りと身ぶり(マイム)だけで物語を進める舞台芸術です。平凡社の世界大百科事典は、バレエの登場人物はそれぞれの役にふんし、その役が求める衣装を身につけると説明しています。衣装は、観客が一目で役柄を知るための大切な手がかりです。
同時に、バレエの衣装は「踊るための道具」でもあります。脚の動きがよく見えること、跳んだり回ったりしやすいこと。この2つの条件が、歴史の中で衣装の形を大きく変えてきました。
バレエの衣装の役割
バレエの衣装には、大きく分けて次の2つの役割があります。
- 役柄を伝えること(妖精、王子、村娘など、誰を演じているかを見せる)
- 踊りを助け、見せること(脚の動きを妨げず、観客に動きがよく見えるようにする)
ロンドン博物館のブログで、衣装製作者で研究者のキャシー・キンセルは、初期のバレエ衣装は宮廷の正装とほとんど変わらず、特に女性にとってはとても動きにくいものだったと書いています。踊り手の柔軟性や動きやすさが重視され、それが衣装のデザインに影響し始めたのは、18世紀の後半になってからだといいます。
バレリーナの衣装の名前(名称の表)
まずは、いまのバレエで使われる主な衣装の名前を整理しておきます。これを知っておくと、歴史の話がぐっと分かりやすくなります。
| 名前 | どんなものか |
|---|---|
| チュチュ(tutu) | 薄い布を何枚も重ねた、バレエ独特のスカート |
| ロマンティック・チュチュ | 丈の長い、釣鐘形のチュチュ。1832年の『ラ・シルフィード』に始まる |
| クラシック・チュチュ | 丈が短く、平らに張り出したチュチュ。19世紀の終わり近くに生まれた。円盤のような形から「パンケーキ・チュチュ」とも呼ばれる |
| ボディス(胴着) | 上半身に着る、衣装の上の部分 |
| バスク(ヨーク) | 腰にぴったり合わせ、スカートを支える部分 |
| パンツ(ニッカーズ) | チュチュの内側の下ばき。見苦しくないようにし、チュチュを所定の位置に固定する |
| タイツ | 脚を包む衣類。今日タイツと呼ばれるものは19世紀の初めに発明された |
| トウシューズ(ポアント) | つま先で立つための靴。「ポアント」は「つま先で立つこと」の意味でも使われる |
| チュニック | 古代風の軽い衣装。18世紀にサレがモスリンのチュニックを着て踊った |
※ 表の内容は、世界大百科事典の「バレエ」の解説、日本大百科全書の「サレ」の解説、ロンドン博物館のブログ、イングリッシュ・ナショナル・バレエの動画説明による。
チュチュという名前の由来には諸説あります。ロンドン博物館のブログでは、フランス語でお尻を意味する幼児語「キュキュ(cucu)」から来たとする説が紹介されています。
バレエ衣装の歴史

動きにくくて重たい衣装と仮面(16〜17世紀)
バレエは、ルネサンス期のイタリアの宮廷で、宴会の余興として生まれたと考えられています。世界大百科事典によると、この流行は、フィレンツェのメディチ家からフランス王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによってフランスの宮廷に持ち込まれました。1581年にパリで上演された『王妃のバレエ・コミック』は、バレエ史上、記録に残る最初の作品とされています。
日本大百科全書によると、『王妃のバレエ・コミック』は宮廷の結婚の祝いとして催され、魔女キルケの魔法にかけられた水の精や海の精たちが、神ユピテルによって解放されるというギリシア神話の物語でした。初期の宮廷バレエでは、踊り手が登場人物に扮するようになると、衣装も物語に合わせて工夫されます。同全書は、17世紀の天上界を描くバレエで、踊り手が霧、霰(あられ)、雷、流星などに扮していたことを紹介しています。
17世紀には、自らも踊ったことで知られるルイ14世のもとで、バレエはさらに盛んになりました。1661年には王立舞踊アカデミーが設立され、職業的な踊り手を育てる仕組みが整っていきます。いまも使われる「足の5つのポジション」が定められたのも、この時代です。1669年に設立された音楽アカデミーと合体して、1672年に王立音楽舞踊アカデミーが生まれます。これが現在のパリ・オペラ座の始まりです(日本大百科全書)。
当時の衣装は、とても重く、長いものでした。世界大百科事典は、この時代の振付が水平の動きばかりで、跳ぶような垂直の動きがなかったのは、重く長い衣装の制約を受けていたためだと説明しています。また、劇場のバレエでは女性の役を、仮面をつけた少年が演じていたとも書かれています。
次の素描は、フランスのジャン・ベラン(1640〜1711年)による、バレエ衣装を着た女性の姿です。何段にも重なった装飾、床まで届くスカート、羽根飾りのついた頭飾り。踊るための衣装というより、宮廷の正装そのものだったことがよく分かります。

スカートを短く、かかとを取る:カマルゴとサレ(18世紀前半)
重い衣装に最初に大きな変化をもたらしたのは、18世紀前半のパリ・オペラ座で人気を二分した2人の女性舞踊家でした。世界大百科事典によると、1720年代のパリ・オペラ座では、それまで優位を占めていた男性舞踊家に並んで、この2人の女性舞踊家が人気を競うようになりました。
ひとり目は、マリー・カマルゴ(1710〜1770年)です。ブリュッセルに生まれ、1726年にパリ・オペラ座でデビューしました。世界大百科事典によると、カマルゴは速い動きの踊りを得意とし、そのためにかかとのない舞踊靴を考案し、くるぶしまで隠れていた衣装の裾を、ひざとくるぶしの間ほどまで短くしました。この改革は当時非難も受けましたが、足を自由に動かせるようになったことで、跳躍の技法が大きく発展します。日本大百科全書は、脚が自由になって初めて可能になった技として、カマルゴが演じた「アントルシャ・カトル」を挙げています。

世界大百科事典は、カマルゴの踊る姿は画家ランクレの絵によって広く知られていると書いています。この絵でも、スカートの裾から足首がのぞいているのが分かります。
短いスカートには、思わぬ副産物もありました。世界大百科事典によると、カマルゴは短いスカートを採用すると同時に、当局の要請で「用心のためのパンツ」と呼ばれる下ばきを考案しました。いまのチュチュの内側にはくパンツ(ニッカーズ)を思わせる話です。カマルゴは1751年に引退し、イギリスで1930年に設立されたバレエ振興団体「カマルゴ協会」は、彼女にちなんで名づけられています(日本大百科全書)。
ふたり目は、マリー・サレ(1707〜1756年)です。日本大百科全書によると、サレは1734年にロンドンのコヴェント・ガーデン劇場で『ピグマリオン』に出演したとき、それまでの鯨骨で張り広げたバロック風のスカートと渦巻状の髪形をやめ、古代風のモスリンのチュニックを着て踊りました。カマルゴが技巧の踊り手だったのに対し、サレは繊細で表現豊かな演技で知られ、演劇的なバレエの始まりを開いた人とされています。ブリタニカ国際大百科事典は、サレが女性として初めて自ら振付をして踊った、革新的な舞踊家だったと紹介しています。日本大百科全書によると、哲学者ヴォルテールは彼女のために詩を書き、作曲家ヘンデルは彼女のために曲を書きました。
仮面を脱ぎ去る:ノヴェールの改革(18世紀後半)
18世紀の後半には、振付家ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727〜1810年)が登場します。ノヴェールは、歌やせりふを使わず、踊りと身ぶりだけで物語を表現する「バレエ・ダクシオン」を実践し、今日のバレエの基礎を築いた人物です。1760年に出版した著書『舞踊とバレエについての手紙』で、その理論を示しました。世界大百科事典によると、ノヴェールはリヨン、パリ、ロンドン、シュトゥットガルト、ウィーンなど各地を巡り、およそ150のバレエを振り付けました。イギリスの名優デイヴィッド・ギャリックと親しく交わり、その教えを受けたことも知られています。1776年には、パリ・オペラ座のバレエ・マスターに就任しました(日本大百科全書)。
日本大百科全書によると、ノヴェールは仮面や紋切り型の衣装を排しました。表情を隠す仮面がなくなったことで、踊り手は顔の表情と身ぶりで感情を伝えるようになります。世界大百科事典は、この時代に衣装の改革が進んで仮面が廃止され、今日タイツと呼ばれるものも19世紀の初めに発明されて、舞踊技術の進歩を促したと書いています。
タイツによって脚の線がそのまま見えるようになり、踊り手の動きは観客にとって、ずっと分かりやすいものになりました。
ロマンティック・チュチュの誕生(1830年代)
バレエ衣装の歴史で最も大きな出来事が、1832年のロマンティック・チュチュの誕生です。
前の年の1831年、パリ・オペラ座で上演されたマイヤーベーアの歌劇『悪魔のロベール』の中で、バレリーナのマリー・タリオーニ(1804〜1884年)は「尼僧の亡霊」の場面を踊り、ロマンティック・バレエの到来を告げたとされています(世界大百科事典)。この場面は、のちに画家エドガー・ドガも描いています。薄暗い舞台に、白い衣装の踊り手たちが浮かび上がっています。

そして翌1832年、タリオーニはパリ・オペラ座で、父フィリッポ・タリオーニが振り付けた『ラ・シルフィード(空気の精)』の主役を初演しました。世界大百科事典によると、このバレエで初めて使われた特殊なスカートこそが、今日バレエの制服と考えられているチュチュです。純白のオーガンディーとチュールを何枚も重ねた、釣鐘形のふわふわとした軽いスカートでした。
ロンドン博物館のブログは、この衣装を手がけたのはウジェーヌ・ラミで、胴着(ボディス)と軽やかなスカートから成り、当時流行していた服の一種だったと書いています。日本大百科全書は、白いロマンティック・チュチュを着けたタリオーニが「天上的舞姫」と呼ばれたことを伝えています。

この版画でも、ひざの下まで届く釣鐘形のスカートと、背中の小さな羽が描かれています。世界大百科事典は、『ラ・シルフィード』以降、つま先で立つ「ポアント」の踊りが目立つようになったとも書いています。ただし、タリオーニの靴は先端に固いものが入っていなかったため、つま先で立つのはおそらく一瞬だったと考えられています。
白いチュチュが舞台で特に美しく見えた背景には、照明の変化もありました。ロンドン博物館のブログは、19世紀初めにガス灯が劇場に導入されたことが、重ねた布で宙に浮かんでいるように見せる効果を高めたと説明しています。
妖精の衣装と地上の踊り子:ロマンティック・バレエの時代
『ラ・シルフィード』の成功から、バレエはロマン主義の時代に入ります。日本大百科全書によると、ギリシア風のチュニックを着た神話の人物や魔女は舞台から消え、ヨーロッパ各地の民間伝承が主題になりました。踊り手は薄いサテンのスカートを着け、野の花の冠を頭に飾って、妖精として舞台に現れたといいます。『ジゼル』に登場するウィリも、空気と森の精が混ざった妖精です。
同全書は、この時代にトウシューズが初めて使われるようになったとも書いています。主題が妖精の世界なら、踊り手は宙に浮いて見えなければなりません。それを可能にしたのがトウシューズで、細かな足運びで舞台を進むと、床に足がついていないように見えたといいます。詩人で舞踊評論家のテオフィル・ゴーティエは、タリオーニの踊りを「天国の花の上を、花びらをたわめることなく、バラ色のつまさきで歩く幸福な魂に似ている」と書きました。
一方で、ロマンティック・バレエには地上の踊りもありました。オーストリア生まれのファニー・エルスラーは、スペインのカチューチャやポーランドの民族舞踊を得意とし、ロマンティック・バレエの異国趣味に合った踊り手でした。日本大百科全書によると、当時の観客はタリオーニ派とエルスラー派の2つに分かれて争ったといいます。白いチュチュの妖精と、民族衣装の踊り子。ひとつの時代の中に、正反対の衣装が並んでいたのです。
世界大百科事典によると、1841年には『ジゼル』をカルロッタ・グリジが踊り、タリオーニ、エルスラー、グリジの3人がしのぎを削った19世紀前半は、バレエの輝かしい全盛時代でした。『ジゼル』は、民俗色あふれる第1幕と、白いロマンティック・チュチュで踊られる幻想的な第2幕が対照をなす作品として知られています(日本大百科全書)。
ドガが描いたチュチュ(1870年代)
ロマンティック・チュチュの時代の衣装を、鮮やかに記録した画家がいます。フランスの画家エドガー・ドガ(1834〜1917年)です。ロンドン博物館のブログも、初期のチュチュの多くはドガによって美しく記録されていると書いています。

1874年の『The Dance Class』では、稽古場の少女たちが、ひざの下まで届く白いチュチュを着ています。腰には色とりどりのリボンが結ばれています。ロンドン博物館のブログによると、20世紀の初めまで、チュチュのおもな素材はターラタンと呼ばれる目の粗い綿の布で、多くの場合でんぷんのりでかたく仕上げられていました。
クラシック・チュチュへ(19世紀末)
19世紀の後半になると、バレエの中心はフランスからロシアへ移ります。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場では、振付家マリウス・プティパが『眠れる森の美女』をはじめとする古典バレエの傑作を次々に生み出しました(百科事典マイペディア)。世界大百科事典によると、プティパがフランスからペテルブルグに招かれたのは1847年のことです。プティパはそこで数多くの名作を上演し、この劇場を世界のバレエの中心にしました。
この時代、チュチュの丈は短くなっていきました。世界大百科事典によると、『ラ・シルフィード』のときにはくるぶし付近まであったチュチュの丈は、19世紀の終わり近くにはひざが見えるほどの長さになりました。前者を「チュチュ・ロマンティック」、後者を「チュチュ・クラシック」と呼びます。

ロンドン博物館のブログは、いまはタリオーニ風のロマンティック・チュチュも見られる一方で、「パンケーキ・チュチュ」とも呼ばれるクラシック・チュチュのほうが一般的になっていると書いています。短く、平らで、円盤のようなこの形は、脚の動きをより多く見せ、細かな足さばきや運動能力を際立たせます。
ロマンティック・チュチュも舞台から消えたわけではありません。日本大百科全書は、ロマンティック・バレエの代表作『ジゼル』の幻想的な第2幕が、白いロマンティック・チュチュを着けて踊られると紹介しています。
アンナ・パヴロワと20世紀のチュチュ
20世紀の初め、チュチュの姿を世界中に広めたバレリーナのひとりが、ロシア出身のアンナ・パヴロワです。ロンドン博物館のブログによると、パヴロワは1912年にロンドンに移り住み、イギリスでバレエとチュチュを広めるうえで大きな役割を果たしました。

パヴロワの代名詞となったのが、振付家ミハイル・フォーキンによる『瀕死の白鳥』です。パヴロワは1907年にこの作品を初めて踊り、その後24年にわたって、さまざまな「白鳥」のチュチュを着て踊り続けました。ロンドン博物館が所蔵する白鳥のチュチュは、現存が知られる3着のうちのひとつで、ロンドンの衣装製作者マダム・マーニャが手がけたものです。
キンセルは、この白鳥のチュチュがクラシック・チュチュの形が定まっていく転換点に位置すると書いています。いまのチュチュを構成する部分はすべてそろっている一方で、使われている技法は20世紀初めのものだというのです。スカートの層はすべて手縫いで、何時間もの根気のいる作業の跡が残されています。マダム・マーニャがロンドンで作ったチュチュは、のちにほかの製作者たちの手本にもなりました。
素材も変わっていきました。ロンドン博物館のブログによると、ミシンの発明や新しい布の開発によって、チュチュの見た目は大きく変わります。20世紀の初めまで主役だったターラタンはしだいに姿を消し、綿や絹、そして何よりナイロンのチュールに置き換えられて、チュチュの耐久性は大きく高まりました。
バレエ・リュスと画家たちの衣装(1909年〜)
20世紀のバレエ衣装を語るうえで欠かせないのが、ロシアのセルゲイ・ディアギレフが率いたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)です。日本大百科全書によると、ディアギレフは1909年にパリでバレエ・リュスを旗揚げし、画家のレオン・バクストやアレクサンドル・ブノワらと組んで、ロシアの美術や音楽をヨーロッパに紹介しました。
同全書は、フォーキン振付の『シェヘラザード』について、原色を使ったバクストの装置と衣装が、リムスキー=コルサコフの音楽とともに観客を魅了したと書いています。白いチュチュとは正反対の、色彩あふれる衣装です。画家が衣装をデザインすることで、バレエの衣装は舞台美術の一部として、それ自体が見どころになっていきました。
ディアギレフは1910年代後半から、パリに住む芸術家も登用するようになり、バレエ・リュスはより実験的な現代芸術に近づいていきました(日本大百科全書)。20世紀のバレエ衣装は、チュチュだけでなく、作品ごとにまったく違う姿を見せるようになったのです。
その代表例が、1917年の『パラード』です。日本大百科全書によると、振付はレオニード・マシーン、音楽はエリック・サティ、美術はパブロ・ピカソで、ピカソによるキュビスムの装置と、タイプライターの音などを取り入れたサティの音楽が観客を驚かせたといわれています。画家が衣装や装置を手がけることは、バレエ・リュスの大きな特徴でした。
バレエ・リュスは1929年、ディアギレフの死によって解散しました。同全書によると、その後半には振付家ジョージ・バランシンが活躍し、バランシンの振付で1929年に初演された『放蕩息子』は、いまもニューヨーク・シティ・バレエ団のレパートリーに入っています。
チュチュはどうやって作られる?
舞台では軽やかに見えるチュチュですが、その中身は精密な「工作物」です。ロンドン博物館のブログによると、クラシック・チュチュはふつう、ひだを寄せた網状の布をおよそ50メートル重ねたスカート、見苦しくないようにしながらチュチュを所定の位置に固定するパンツ、腰にぴったり合わせるヨーク、そして胴着(ボディス)から成ります。

同じブログで、キンセルは、経験を積んだ製作者でもスカートだけで30〜40時間かかることがあると書いています。次の動画は、英国ロイヤル・バレエの衣装工房が『白鳥の湖』のチュチュを作る様子を紹介したものです。
イングリッシュ・ナショナル・バレエも、衣装担当者が10層のパンケーキ・チュチュの土台を3日間かけて作る様子を、40分ほどの映像で公開しています。網の布を裁ち、形を整え、パンツとバスクの型紙を作るところから始まる、根気のいる作業です。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、バレエ衣装の歴史と、バレリーナの衣装の名前についてご紹介しました。
宮廷の正装と変わらない重く長い衣装から始まったバレエの衣装は、18世紀にカマルゴがスカートを短くしてかかとを取り、サレが軽いモスリンのチュニックを選び、ノヴェールが仮面を排したことで、少しずつ踊るための形になっていきました。1832年、タリオーニが『ラ・シルフィード』で着た釣鐘形の白いスカートがロマンティック・チュチュとなり、19世紀の終わりには脚の技巧を見せる短いクラシック・チュチュが生まれます。
次にバレエを見るときは、ぜひ衣装にも注目してみてください。そのスカートの丈や形には、何百年分の工夫が詰まっています。
Euphoric " " の視点
バレエ衣装の歴史をたどると、大きな変化の多くが、踊り手や振付家の工夫から始まっていることに気づきます。カマルゴはスカートを短くしてかかとを取り、ノヴェールは仮面を排して、踊り手が顔の表情と身ぶりで感情を伝えられるようにしました。
見た目の美しさと踊りやすさ。その二つを両立させようとする試みが、ロマンティック・チュチュからクラシック・チュチュへの変化を生み、いまもスカートだけで30〜40時間かかる手仕事として受け継がれているのだと考えます。
衣装の形に込められた工夫を知ることは、舞台を見る楽しみを一段と深めてくれるのかもしれません。
作品に触れるには
記事で紹介した作品や衣装の情報は、次の美術館・博物館の公式サイトで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






