こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんは佐伯祐三という画家を知っていますか?
大阪府出身の洋画家で、30年という短い人生をパリでの制作活動に捧げた人物です
▼この記事では佐伯祐三の『人生』と『作品』についてご紹介します!▼
佐伯祐三とは?
佐伯祐三基本情報
本名 | 佐伯祐三 |
出身 | 大阪府北区中津 |
生年月日 | 1898年4月28年〜1928年8月16日(享年30歳) |
学歴 |
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関連サイト | 佐伯祐三アトリエ記念館 |
経歴と作品
1898年の4月、現在の大阪府北区中津に浄土真宗光徳寺の次男として生まれました。
1912年、14歳から北中学校(現・大阪府立北野高等学校)に通い始め、その頃から油絵を描き始め、赤松麟作の洋画塾に通います。
1917年に中学校を卒業すると、上京して藤島武二に師事します。
彼は日本の洋画において長らく指導的役割を果たし、最初の文化勲章を受章した人物です。
翌年の1918年には東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科に入学し、本格的に油絵を学びます。
1920年、22歳で美術商の娘である池田米子と結婚し、翌年には現在の東京都新宿区中落合に念願のアトリエ付きの家を完成させます。
1922年に長女の彌智子(やちこ)が誕生し、翌年美術学校を卒業します。
『彌智子像』(1923年)
1922年に誕生して翌年に描かれたものですが、明るいピンク色で可愛らしく描かれており、娘への愛情や幸せな家庭の様子が伺えますね。
3月に美術学校を卒業してからすぐ、11月には妻と長女を連れてパリに出発します。
しかし、パリに到着した1924年からわずか5年後の1928年に亡くなります。
その短い5年間でどれほどの作品を遺すことができたのでしょうか。
念願のパリへ
1924年の1月にパリに到着してからグランド・ショミエール芸術学校の自由科に通い始めます。
この学校はパリにある美術学校で、授業形態自由なことや同じくパリの名門美術学校のアカデミー・ジュリアンと比べて月謝が安かったことが特徴です。
有名画家が歴代通っており、岡本太郎もそのうちの一人です。
初夏頃にはフランス出身の画家でフォービズム運動を率いたモーリス・ド・ヴラマンクを訪れたのですが、
その出会いは佐伯祐三の作品に大きく影響を与えることとなります。
裸婦 (1925年)
フランスに渡ってすぐに描かれたものです。
裸の女性が横たわっている様子が描かれています。
ピンクや黄色といった明るい色彩で、輪郭が柔らかく、はっきりとした印象を受けます。
しかし、こちらをヴラマンクに見せたところ、「アカデミズム」と批判されたそうです。
衝撃を受けた佐伯はアカデミーに通うことをやめ、自分の作品を色彩や構成といった点において一から見つめ直すこととなります。
試行錯誤の結果、ヴラマンクのような野生的で力強いタッチや暗い色彩技術を伴った風景画を描くようになりました。
オワーズ河周辺風景(1924年)
こちらは佐伯が作風を見つめ直している時期に描かれたものです。
先程の『裸婦』に対して力強くて素早い筆跡と暗い色彩が特徴的で、タッチが大きく変わっています。
ヴラマンクのフォービズムに影響を受けて佐伯自身に大きな変化が起きたことが伺えまね。
ヴラマンクと、フォービズム
佐伯に大きな影響を与えたヴラマンクと彼が大成したフォービズムについて少しご紹介します。
本名はモーリス・ド・ヴラマンクで、1876年生まれのフランス人画家です。
10代後半から絵を描き始め、当時はゴッホに影響を受けて大胆なタッチで多様な色彩を用いていました。
そして1905年、ある展示サロンに仲間のアンリ・マティスらと参加しました。
そこで披露した鮮やかで不自然な色合いや野性的なタッチの作品に対し、ある批評家が「フォーヴ(野獣)だ」と驚嘆したそうです。
その件をきっかけにフォービズム運動が始まりました。
こちらが当時の『セーヌ河の橋』という作品です。大胆な色使いや、感じたままの筆使いに圧倒されます。
ヴラマンクの作品と佐伯の作品を比べると、尚更、与えた影響の大きさを見て取ることができます。
暫しの帰国
では、佐伯祐三のお話に戻りましょう。
彼は1925年に結核を患い、兄に療養を促されて日本へ帰国します。
しかし、病に蝕まれても制作の手は止まりませんでした。
1926年の4月に帰宅してからすぐに画家の仲間たちと「1930年協会」を設立しました。
1930年協会はフォービズムの作風を示す美術団体で、当時流行していた現実的な作風を主張する写実主義に相反する形で活動していました。
下落合風景(1926年)
当時自宅があった下落合の風景画です。
この頃になると、作品からは野性味だけでなく、細かな輪郭や色使いから繊細さも感じます。
帰国して仲間たちと切磋琢磨していく中で、佐伯独自の表現を見出したのでしょう。
再びパリへ
1927年の8月、パリへの想いが大きい佐伯は再び渡欧します。
かつてフォービズムが誕生したサロン・ドートンヌに『広告のある家』『新聞屋』が入選し、続々と作品を誕生させました。
カフェレストラン(1927年)
パリの何気ない風景を描いたものです。
帰国した頃の作品には佐伯の初期の作風が感じられましたが、
パリに戻ると再び、フォービズムが色濃くなっていますね。
自分がいる場所によって、心境の変化が作品に現れているのかもしれません。
郵便配達夫(1928年)
こちらは亡くなる4ヶ月前に描かれたもので、佐伯の最後の作品とも言われています。
2月にオープンした中之島美術館のポスターで多くの方々が目にしているのではないでしょうか。
自宅を訪れた白髭の配達夫に制作意欲を掻き立てられて、その場でモデルを依頼したそうです。
配達夫の強い眼差しや荒々しい筆跡から、死を目前にして振り絞った画家としての情熱や生命力が感じられます。
1928年の8月、佐伯は30歳という若さで亡くなります。
更に長女の彌智子も同月に結核で亡くなります。
早すぎる死を多くの人が惜しんだに違いありません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は大阪府の洋画家佐伯祐三についてご紹介しました。
作品に込められた芸術とパリへの情熱が今日まで多くのファンを集めているのですね。
もし結核を煩わなければ、もっと多くの優れた作品を世に残してくれたはず、と大変惜しく感じます。
佐伯祐三の画家としての人生は5年間という大変短いものでしたが、彼の作品はこれからも時代を超えて感動を与え続けることでしょう。
参考文献
『超コレクション展 99のものがたり』ー中之島美術館