こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはトゥールーズ=ロートレックという画家を知っていますか?
名門貴族に生まれながらも画家としての道を歩み、ポスター画家の第一人者として19世紀のパリを一世風靡した人物です。
▼この記事ではトゥールーズ=ロートレックの『人生』と『作品』についてご紹介します!▼
目次
ロートレックとは?
ロートレック基本情報
本名 | アンリ=マリ=レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック |
国籍/出身 | フランス・タルン県・アルビ |
生年月日 | 1864年11月24日〜1901年9月9日(37歳) |
学歴 | フォンテーヌ中学 |
関連サイト | https://www.henritoulouselautrec.org/ |
経歴と作品
幼少期
1864年11月24日、アンリ=マリ=レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレックは南仏の最も古い貴族家系である父アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵と、名門タピエ・ド・セレイラン家から嫁いだ母アデルの間に生まれました。
実の従兄妹同士で結婚した2人はやがて別居するようになりますが、アンリは大勢のいとこたちの間でのびのびと育ちました。天性の自由奔放さと快活さは周りの人々を魅了し、『小さな宝石』という愛称で呼ばれていたそうです。この性格は大人になってからも変わらず、多くの友人に囲まれた人生を送ることとなります。
1872年、アンリが8歳のころ、フォンテーヌ中学に通うために一家でパリに移り住みました。この頃には既にデッサンを始めており、アンリの手帳やノートは常に馬や犬、身近な人物のスケッチで溢れていたそうです。
アンリは優秀な成績を収めていましたが、健康状態の悪化により帰郷しました。さらに、1878年5月30日に悲劇が襲います。当時13歳のアンリが椅子から立ちあがろうとした拍子にバランスを崩して左足を骨折、更に翌年には溝に転落して右脚の大腿骨を骨折してしまうのです。元々遺伝性の骨格の病を患っていたため、それ以降両足が萎縮する障害を抱えることとなり、152cmで身長が止まってしまいました。
アンリはこれをきっかけに更に絵画制作に没頭するようになり、1881年にはついに画家になることを決心します。家族の友人だった動物画家ルネ・プランストーのアトリエに通い始め、本格的な絵画の道を歩み始めるのです。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック自画像(1880年)
16歳で描いた自画像です。本格的な自画像を描くことが少なく、こちらはその数少ない一つです。骨折をした翌年に描かれており、暗い色調で描かれた表情からは内面の苦悩が表されているように感じられます。
4頭立て馬車を駆るアルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック(1880年)
こちらも16歳で描かれた作品です。プランストーから動物を描く技法や知識を吸収し、多くのクロッキーや油彩を残しました。この作品では、尊敬する父との療養中の想い出が描かれており、右下にもアンリの直筆で「Souvenir(思い出)」と記されています。この作品で注目したい点は正確な動物の写生と力強い対角線構図です。
4頭の馬はプランストーから学んだ技術によって力強く、優美に描かれており、今にも動き出しそうな迫力が伝わってきます。また、右上から左下に向かって対角線を描くような構図が勢いを持った馬車のスピード感を増強させています。
乗馬や狩猟が趣味だった父の影響で、ロートレックは幼少期から馬に憧れを募らせていました。故郷にも「ガゼル」と名付けて可愛がっていた馬がいましたが、彼にとって馬は心の傷を慰める親友のような存在だったのかもしれません。生涯を通して頻繁に馬が描かれています。
モンマルトルでの修行時代
1882年3月26日、ロートレックの才能を間近で見ていたプランストーは、もっとアカデミックな教育を受けさせようとしました。当時肖像画で名声を上げていたレオン・ボナに紹介し、4月から彼の画塾に通うようになります。そこで多くの若者とともに古典技法を学び必死にデッサンを書き続けましたが、ボナにロートレックの才能が認められることはありませんでした。
しかしその5ヶ月後、ボナが国立美術学校の教授に任命されたことでアトリエが閉館し、1887年までフェルナン・コルモンのアトリエに通うようになります。コルモンもボナと同じくアカデミックな作品を制作していましたが、新たな芸術様式にも寛容な視点を持っていました。
そんなコルモンの下でエミール・ベルナールやフィンセント・ファン・ゴッホといった仲間と切磋琢磨し、古典技法の習得を通じて自ら才能を開花させます。この頃から、ロートレックは当時現代絵画とされた印象派に魅了され、暇さえあれば展覧会や美術館を巡り歩く日々を送っていました。
ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの「聖なる森」のパロディ(1884年)
この作品は、ロートレックが前衛芸術に関心を寄せる中で、古い芸術から決別して彼独自の芸術様式を生み出すきっかけとなった作品です。元の作品は1884年に発表され、画廊で絶賛されたものです。アトリエの中では賛否両論を巻き起こしたそうですが、ロートレックは仲間に協力を経てパロディ作品を制作することを決めます。
このパロディ作品には興味深い点が多くあります。
一点目は、本来の作品に登場する女神たちはそのままに、背景にロートレックと仲間たちが描かれている点です。小柄で背を向けている人物がロートレック自身で、過去の芸術に背を向けることを意味しているのではないでしょうか。
二点目は、本来の作品の中心に立つ柱に、パロディでは時計を描き足している点です。古代ギリシャ様式の柱に時計を付け足すことで、伝統ある技法やテーマに対して時代遅れだと示しているように思われます。
三点目は、たったの二日間で完成させたという点です。従来の芸術様式に従った作品を描くことがどれほど簡単であるか証明するために、この短期間で完成させたそうです。批判にも持ち前のユーモアを含ませているところが、なんともロートレックらしいと言えます。
二日酔い<シュザンヌ・ヴァラドン>(1887年)
1880年代後半になると、ロートレックは都市に住む庶民の生活を切り取って描くようになりました。この作品でモデルとなったシュザンヌ・ヴァドランはロートレックの初恋の人とも言われています。彼女の奔放な性格に惹かれ、先ほどのパロディ画を含む多くの作品でモデルを務めています。
当時、女性の飲酒は社会的にタブー視されていました。今後女性を扱う作品は多く制作されていますが、どの作品においても社会の枠組みから疎外された女性がテーマとして扱われており、どこか自身が感じていた孤独と重ねていたのかもしれません。
ファン・ゴッホの肖像(1887年)
ゴッホとロートレックは1886年の3月にモンマルトルのコルモンのアトリエで出会いました。育ちも性格も異なる二人でしたが、日本美術の愛好者という点で意気投合し、二人で展覧会を開催するまでの仲になります。この作品では、ゴッホの色調や筆跡がオマージュされており、彼への敬愛が感じられます。
モンマルトルではゴッホの他にもアルフォンス・ミュシャやテオフィル・スタンランといった多くの若い画家と出会い、持ち前の快活さと陽気なキャラクターで彼らとの親睦を深めていました。
人気ポスター作家へ
1880年代は、モンマルトルが娯楽文化の中心となった時代でもありました。あちこちにキャバレーやバー、ダンスホールが立ち並び、ロートレックをはじめとする多くのアーティストもその賑やかで華々しい雰囲気に魅了されました。なかでも1889年に開店したダンスホール「ムーラン・ルージュ」はとりわけ華やかで、多くの人々が夜な夜な集まり、ロートレックも常連客となっていました。
ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ(1891年)
ムーラン・ルージュの店主にポスター制作を依頼されて完成したリトグラフ(石版画)作品です。このポスターが街に張り出されると一気に町中の注目を集め、ポスター画家としての最初の成功を収めることとなりました。
中央で踊っているのは「ラ・グーリュ(大食い女)」と呼ばれたメインダンサーで、手前に黒い影で描かれた「骨なしヴァランタン」という男性ダンサーとペアを組んで莫大な人気を博していました。
町中の目を惹いたきっかけは、この大胆な構図ではないでしょうか。奥には黒いシルエット、中央に鮮やかな色彩、手前にまたシルエットを配置することで、自然と中心部に視線が集まるような視覚的効果が生み出されています。また、大胆に黄色で丸く描かれたスポットライトも、アクセントとして画面にリズムを与えています。
アンバサドゥール、アリスティド・ブリュアン(1892年)
ローレックは、モンマルトルを代表するスターを多く描き、ポスターの制作を担当していました。この男性は荒々しい語り口と圧倒的な存在感で『モンマルトルのナポレオン』とも呼ばれた歌手です。彼はロートレックの大胆な作風を大いに気に入っていました。この作品でも色彩と構図によって背景とのコントラストがうまく働き、ブリュアンの存在感が際立っています。
1890年代のポスター版画に共通するのが、日本の浮世絵の影響です。1860年代から西欧でジャポニズムが人気を集め、ロートレックもその魅力に引き込まれていました。日本美術の展覧会に足繁く通って日本人形や浮世絵を収集し、その手法を自身の作品にも取り入れました。
この作品にも写楽の役者絵を彷彿とさせるような太くて単純化された輪郭が見て取れます。また、平塗りの技法も特徴的ですが、点描でなく均一に色をのせることで、絵の内容をより際立たせることができ、それはポスターを作成する上で大きな武器となりました。ヨーロッパで主流とされていたようなアカデミックな技法とはかけ離れた様相は、当時の人々を一時困惑させましたが、同時に多くの評判を集めることとなりました。
54号室の乗客(1896年)
この作品で描かれているのはジャヌ・アヴリルというムーラン・ルージュで活躍したダンサーです。生命力あふれるダンスで注目され、ロートレックは彼女のデッサンや版画を多く制作しました。
ここでも人物は単調な輪郭と平面的な色彩で描かれ、見る人の視線を集約します。更に手前にコントラバスを持った音楽家がはみ出して描かれており、遠近感と臨場感が演出されています。また、多くのリトグラフ作品で共通する中心を外して置かれた消失点は、極端な遠近感を生み出し、ポスターにインパクトを与える上で非常に効果を発揮しました。こちらも浮世絵に影響を受けた点で、当時ヨーロッパでは使われていない技法だったため、人々に目新しく感じられました。
ムーラン・ルージュにて(1892/95年)
この時代、ロートレックは版画だけでなく油彩画も描いています。ロートレックは、動きをとらえてスナップ写真のように細かく記憶し、それを絵に正確に再現することができました。彼の作品からはガヤガヤした声が聞こえ、今にも人々が動き出しそうに感じられますよね。
この作品の特徴は、人々の表情にあると言えます。まず、右端の女性の表情に注目してください。照明に照らされて青く光る様子がインパクトを与えますが、その表情はモンマルトルを訪れる上流階級の人々の堂々とした外見の下に隠された欲望や悲哀が感じられます。
そして、中央部に座る5人グループの目線に注目すると、誰一人交錯していないように見えます。それは都市部の人々の他人への無関心や孤立が表されていると言えます。上流階級出身でありつつも、そのハンディキャップによって感じる孤独や不平等とともに生きるロートレックだからこそ叶った表現ではないでしょうか。
パリの片隅に生きる女性を描く
一流のポスター作家としての地位を獲得したロートレックは、次なる題材に社会の底辺を生きる娼婦を選びました。19世紀末から第一次世界大戦にかけての『ベル・エポック』と呼ばれた時代は売春が最も盛んな時期を迎え、ロートレック自身も足繁く通いました。当時マネやドガといった多くの画家も娼婦を題材に作品を制作しました。
社会階級格差とそれに伴う性への古い考えが色濃く残っていたその時代において、売春宿は日常に溶け込んでいました。ロートレックは、住み込みで働く娼婦たちと数ヶ月に及ぶ共同生活を送り、彼女たちの生きる美しい姿をいくつもの作品に描きました。
ムーラン街のサロンにて(1894年)
互いに目線を合わさずに順番が来るのをただ待つ姿からは、諦めのようなどこか哀愁の漂う雰囲気が感じられます。共同生活を送る中でロートレックは「アンリ」と呼ばれる程親睦を深め、時には彼女たちの相談役にもなっていたそうです。そんなロートレックだからこそ、毎日を必死に生きる彼女たちの孤独や虚無を絵に引き出すことができたのではないでしょうか。
石版画集『彼女たち』行水の女ーたらい(1896年)
ロートレックは、あくまでも日常生活を送る様子に美しさと共感を見出して作品を制作しました。この作品は娼婦の館での取材を通して制作した石版画集『彼女たち(エレ)』に含まれたものです。化粧や入浴、仕事後の様子といった日常の場面が題材となっています。
この場面はこれから客をとる間に行水のための水を汲んでいる様子です。好色感は一切見られず、明るい色調と優美な装飾性にあふれています。この石版画集には女性の後ろ姿が描かれていることが多いですが、その構図は歌川広重の浮世絵にインスピレーションを受けているそうです。
上:赤毛の女(身繕い)(1889年), 下:浴後、体を拭く女(1890〜95 エドガー・ドガ)
ロートレックは日本美術に影響を受けたことはもちろんですが、エドガー・ドガに強い憧れを持っていたことも知られています。彼はドガのオマージュ作品を多く制作しており、この作品にも主題・構図・技法において共通点が見られます。
主題については、ドガはロートレックに先んじて娼婦をテーマに扱っていました。似た様子が描かれていますが、共に暮らしていたロートレックだからこそなのか、女性の背中からは社会からの孤立感が漂ってくるように感じられます。構図については、上から見下ろすようなアングルと周辺に散らばる布が共通しています。リアルな生活感が垣間見えます。技法については、線上に何度も色が重ねられている点が共通しています。ドガがパステルの名手だった一方でロートレックは油彩を使用していますが、何度も重ねられた色によって身体の立体感や柔らかな雰囲気を生み出しています。
アルコールに蝕まれた晩年
1890年代には社会的にも経済的にも安定した日々を送っていましたが、モンマルトルで毎晩大量に摂取したアルコールによって肉体も精神も蝕まれていきます。制作活動は精力的に行っていたものの、アルコールによる奇怪な行動が目立つようになり、1897年の夏頃からは中毒症状が出始めます。その様子を心配した友人たちによって半ば強引に精神病院への入院が決定しました。
サーカスにて:調教された馬と猿(1899年)
これは、療養中のロートレックを元気づけるために友人が依頼した『サーカスにて』という画集です。「僕は自分のデッサンで自由を買い取ったのだ」と本人が語るほど制作に没頭し、2ヶ月で退院することができました。
記憶だけを頼りに描いたものですが、鉛筆による繊細なタッチが動物と同家の姿をいきいきとさせています。一方で、全盛期の版画に見られたような賑やかさは一切なくがらんとした雰囲気が、どこか不安定な世界と内的な不安を彷彿とさせます。
医学部の試験(1901年)
退院後、ロートレックの元気を取り戻そうと友人たちが競馬場や海水浴に連れ出しましたが、1900年の春になると再び健康状態が悪化しました。1901年、個展の開催を提案され、最後の力を振り絞って100日間に渡って出展作品の選出にかかりました。
その時期に描かれたのがこの作品で、ロートレック最期の作品となりました。医学部の博士論文の口述試験の様子が描かれていますが、本人が病院で受けた取り調べのような医師の診察を重ねていたのかもしれません。暗い色調と重々しい雰囲気が当時の苦しみを物語ります。
この作品を描いた数ヶ月後、母の元で息を引き取りました。
まとめ
いかがでしたでしょうか!
今回は、トゥールーズ・ロートレックについてご紹介しました。
上流階級出身だからこそ分かる孤独や苦悩、そして幼少期からハンディキャップを負って生活していたからこそ感じるアウトサイダーへの共感が、彼の作品に登場する人々の絶妙な表情やその心情を表すような複雑な色彩へと繋がったのではないでしょうか。
また、彼を象徴する鋭い観察眼は日本美術やドガ、印象派といったあらゆるエッセンスを抽出し、独自の芸術様式を生み出しました。ポスターの立役者とし他のアーティストにも影響を与え、彼の作品をオマージュする作品も描かれています。
こちらの記事で、19世紀末に活躍した他のポスター作家についてご紹介しています!
参考文献
高橋朋也,杉山菜穂子〔2011〕,『ロートレック 生涯と作品』;株式会社東京美術.
アチマス・アーノルド〔2001〕,『アンリ・ド・トゥールス=ロートレック』;丸善株式会社.