【徹底解説】エドゥアール・マネの人生と作品に迫る〜スキャンダル上等の革命家〜

【徹底解説】エドゥアール・マネの人生と作品に迫る〜スキャンダル上等の革命家〜

こんにちは。ユアムーン 編集部です。

皆さんはエドゥアール・マネという人物をご存知ですか?

マネはフランスで活躍した印象派画家です。

印象派として有名なモネやドガと親交があり、互いに影響を受けながらもマネはサロンを中心に活動していたためにあまり知名度が高くない印象があります。

しかし彼は「近代絵画の父」「西洋美術の革命家」と呼ばれるほどの功績を残した偉大な人物で、数々のスキャンダルを越えて自分の表現を社会に訴え続けました。

本記事ではそんなエドゥアール・マネの人生と作品についてご紹介します。

エドゥアール・マネって?

Edouard Manet

 

基本情報

本名 エドゥアール・マネ(Édouard Manet)
生年月日 1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)
国籍/出身 フランス王国 パリ
学歴 コレージュ・ロラン中学校
分野 画家
傾向 印象派
師事した/影響を受けた人 エドガー・ドガ、ベラスケス

人生と作品

生まれと環境

1832年1月23日、マネはフランスのパリで生まれます。1789年のフランス革命以降、ブルジョワと呼ばれる富裕層が資本主義を推し進めフランス社会を引っ張っていこうとしていました。

マネはまさにこのブルジョワにあたる裕福な家庭で、祖父はパリの北部にあるジュヌヴィリエの市長、父は法務省を務める高級官僚でした。

なに不自由なく育ったマネは、1844年に名門中学校コレージュ・ロランに入学。ここで生涯の友となるアントナン・プルースト(1832-1905)と出会います。

マネは美術好きの伯父フルニエに連れられ、プルーストと共にルーヴル美術館へ度々出かけ美術への興味を育てていきました。

とりわけマネは17世紀スペイン絵画に見られるレアリスム(リアリズム、写実主義)に触れて衝撃を受け、本格的に画家を志すようになっていきました。

残された道は画家しかなかった

両親はマネの夢を簡単には応援できなかったようで、1848年、16歳のマネに海軍兵学校を受験させます。しかし受験に失敗したマネは見習い船員として航海を経験したのち、再度試験を受けますが再び失敗してしまいます。

結局、両親は息子の夢を応援することに決め、マネはプルーストと共にトマ・クチュール(1815-1879)のアトリエに入門することになりました。

マネはアトリエで、かつて見たルーヴル美術館での古典美術への憧れからか過去の巨匠たちの作品の模写と研究に注力していました。

とりわけヴェネツィア派のティツィアーノ・ヴェツェッリオ(1490頃-1576)、スペインの画家ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)などに学び、強く影響を受けます。

約6年の修行を経て1856年にはクチュールのアトリエを離れ、翌年にはイタリアを訪れます。

はじめてのサロンと出逢いの季節

『アブサンを飲む男(1859)』

The absinthe drinker, 1859 - Edouard Manet

イタリアにやってきたマネはさっそく『アブサンを飲む男(1859)』を仕上げ、サロンに応募します。

結果は落選に終わりましたが、初出品にもかかわらずシャルル・ボードレール(1821-1867)ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)には高い評価を受けました。

ちなみにアブサンとは、ニガヨモギなどのハーブを用いたリキュールです。中毒症状からフランスでは製造・販売が1914年に禁止されましたが、退廃的な雰囲気の中で好まれ絵のモチーフとしてもよく登場しています。

以降、マネはサロンに出品を続けることになります。

画家としてのキャリアを積み始めたマネには、ルーヴル美術館でたびたび模写をする仲となったエドガー・ドガ(1834-1917)と出会い互いに研鑽を重ねます。

マネは1862年に父の死去に心を痛めましたが、同時期に長い内縁関係を経て、シュザンヌという女性と入籍を果たしたマネは、妻を肖像として多くの作品に残しています。

また、マネが長い間モデルとして重用することとなるヴィクトール・ムーラン(1844-1927)ともこの頃に出会っており、マネにとってはまさに挑戦と出会いに満ちた時期であったようです。

サロン入選を果たす

『スペインの歌手(1860)』

The Spanish Singer, 1860 - Edouard Manet

1861年、マネが出品した『オーギュスト・マネ夫妻の肖像(1860)』『スペインの歌手(1860)』がサロンに初入選を果たします。

『スペインの歌手(1860)』は、当初サロンの展示室の高い場所に架けられていましたが民衆の評判を受けて目の届きやすい低い場所に架け直されました。

ベラスケスなどに見られるレアリスムを用いて17世紀を生きたスペイン人のありのままの姿を描いたこの作品は、当時のパリで流行していた「スペイン趣味」とあいまってマネの代表作となりました。

マネは、『アブサンを飲む男』がサロンに落選した時にプルーストにこう話しています。

僕はパリの人間の一典型を描いたんだ。ベラスケスのなかに見出した簡素な手法を使ってね。でも誰も判ってくれない。もしスペイン人の典型を描いていればより判ってもらえるのだろうね

プルースト『エドゥアール・マネの芸術』

マネはこのように、サロン落選の反省を活かしてパリの流行を読み取りつつも、自分が表現したいものをどうやったら理解してもらえるか模索していたことが伺えます。

彼が目指した、人物を時間から切り取ったようなリアリティは後年「近代性(モデルニテ)」と呼ばれるものです。この作風も、最初はサロン落選の悔しさから生まれたものだったんですね。

サロンの規範に抗い、芸術表現を切り開くような芸術家が注目されがちな中で、マネは自分の表現と社会の需要を正確に把握して作品を世の中に発表していきました。

落選者から革命家へのはばたき

『草上の昼食(1863)』

The Luncheon on the Grass, 1862 - 1863 - Edouard Manet

1863年はサロンを取り巻く西洋美術の歴史の中で重大な年でした。

3000点あまりの落選作品を出したサロンへの反発が高まったことで、審査方法に疑問を呈する声が多く挙がったのです。

民衆の意見を汲み取ったナポレオン三世によって、落選者の作品を集めた展覧会「落選者展(サロン・デ・ルフュゼ)」が開かれました。

マネも、先の入選までに多くの落選を経てきたため、この落選者展に出品されることになります。

出品された『草上の昼食(1863)』は、元々は「沐浴」というタイトルで描かれた水辺に佇む男女をモチーフにした作品です。

沐浴は神話画でも多く用いられるテーマであり、その理由のひとつは絵の登場人物を神話のキャラクターとすることで裸婦画を堂々と販売することができたことにあります。

裏を返せば、神話や文学といった切り口を用いずに、一般人の裸を描くことはタブーというのが社会の通念でした。

サロンのアカデミックな規範はこのようなテーマを抑圧するという背景もあり、西洋美術の成り立ちに大きな影響を与えたキリスト教的宗教観に根ざしています。

このようなサロンの規範は、ありのままの人物像を重んじるマネの心情とは当然相入れず、むしろ一般人の風俗を描いたことを強調するように落選後の「落選者展」のカタログでタイトルを『草上の昼食』へと変更したのです。

さらにこの年には、未だに古めかしいアカデミックな教育を行っていた国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で行われる、画家としての登竜門的なコンクール、ローマ賞から「歴史的風景画」というジャンルが廃止されることが決まりました。

絵画のヒエラルキーが崩壊して新しい評価基準の制定に向けて揺れ動く中で開かれた「落選者展」は、まさに美術のこれまでとこれからを作り出す歴史的瞬間と言っても過言ではないでしょう。

しかし、革命にスキャンダルは付きもので、マネの作品にも数多くの批判を受けました。これこそマネが「革命家」とも「スキャンダル・メーカー」とも呼ばれる所以です。

世間の連中は僕を八つ裂きにするだろう。だが何とでもいうがいいさ!

プルースト『マネの想い出』

マネのさらなる挑戦と、ヴィーナスの系譜

『オランピア(1863)』

Olympia, 1863 - Edouard Manet

さらに、マネはサロンを挑発するかのように『草上の昼食』に続いて『オランピア(1863)』を発表します。

『オランピア』はマネが重用したモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランをモデルにした裸体画で、一糸纏わぬ女性がベッドに寝そべった赤裸々な主題の作品です。

神話性や文学的解釈の余地のないベッドや侍従といった文化的事物を散りばめるだけに飽き足らず、マネはメインの女性にアクセサリーを身につけさせ、花束を届けられたシーンを切り取ることで彼女が娼婦であることをむしろアピールしているようにも見えます。

当然、当時の美術界に強烈な拒否反応を巻き起こし、スキャンダル・メーカーの名を不名誉にも恣にしました。

ひらべったくて肉付けがされていない。

まるで風呂からあがったトランプのスペードの女王みたいだ

クールべ(1865年サロン公開時の批評)

この『オランピア』は今では西洋美術史の転換点を象徴する有名な絵画として知られていますが、サロンに出品された時は観衆によって破壊されないように守衛が作品の前に立たされたと言われるほどの問題作でした。

しかしマネの死後、行先を失ったこの作品を買い取って国家財産にするようにかけ合ったのが他でもないモネだったのです。

当時、近代美術館だったリュクサンブール美術館に寄贈された『オランピア』はモネの意向通りに国家財産として認められ、1907年にはマネがプルーストと研鑽を共にしたルーヴル美術館に、新古典主義の巨匠ドミニク・アングル(1780-1867)『グランド・オダリスク(1814)』の隣に並べられるようになりました。

この『グランド・オダリスク』は、いわゆるヴィーナス(理想的な女性像)を描いた裸婦画で、写実的なタッチで理想化された人物や神話の登場人物を描く新古典主義から、デッサンに反する結果になっても画家自身の感性に従って描かれるロマン主義への羽ばたきを象徴する作品です。

こちらも理想化されすぎた結果、歪んだ骨格やくるった構図などに批判が集まったことで知られています。

過去の巨匠に強い影響を受けているマネのこと、当然この『グランド・オダリスク』『オランピア』を描くにあたって参考にしたことでしょう。

さらに、この『グランド・オダリスク』が描かれた背景としてティツィアーノによる『ウルビーノのヴィーナス(1538)』も欠かせません。

ティツィアーノといえばマネがルーヴル美術館で絵画を模写していた頃からリスペクトを示し、影響を受けた人物でもあります。

なんと女性の裸婦画を紐解いていくと、マネの裸婦像から三世代にわたって過去に遡ることができるのです。

そしてこの二つの作品が後世になってモネの働きかけによって並べて飾られることになるとは、奇妙な巡り合わせを感じずにはいられませんね。

戦後とサロン

『アルジャントゥイユ(1874)』

Argenteuil, 1874 - Edouard Manet

1867年、第二回パリ万国博覧会に際してマネは会場の近くで個展を開きましたが、ほとんど黙殺される結果になりました。これは第一回パリ万国博覧会でギュスターヴ・クールべ(1819-1877)が行った手法でしたが、彼ほど振るわなかったようです。

翌年、ポール・セザンヌ(1839-1906)の友人としても知られる小説家エミール・ゾラ(1840-1902)とも親交を深め、彼を描いた『エミール・ゾラの肖像(1868)』がサロンに入選。

画家を目指す女性ベルト・モリゾ(1841-1895)と知り合い、彼女をモデルにした作品をいくつか描くなど更なる出会いと制作に熱中する季節がやってきたように思えます。

しかしポジティブなことばかりではなく、1870年には普仏戦争が始まったことでモネやピサロといった印象派の仲間たちが街を離れて行きました。

親交のあった画家フレデリック・バジール(1841-1870)が戦地で命を落としたこともありマネは気を落としましたが、それでも制作に没頭するしかありませんでした。

モネやセザンヌら印象派の中心人物はやがて第一回印象派展を開きますが、マネはサロンを主戦場に選んでほとんど関わろうとしませんでした。

マネはサロンを主戦場に据えてから、増して貪欲に表現を模索していきました。具体的には、これまでも行ってきていた過去の巨匠からの更なる学び取りに加えて、後輩画家たちとの交流で得られた手法の吸収でした。

屋内での肖像を主に制作していたマネも、この頃はモネら若い画家と共に戸外での制作で色鮮やかな作品をいくつか手がけています。

『浜辺にて(1873)』『アルジャントゥイユ(1874)』はその典型的な特徴が表れた作品で、人物を主題に置いているものの背景に見える豊かな青の色使いは、これまでのマネと一線を画すものでした。

晩年

晩年のマネは体調を悪くし、苦しみながらも静物画や女性モデルを招いての肖像、挿絵などの穏やかな制作活動を行うに留まったようでした。

特に静物画には当時のマネの精神性が如実に見てとれ、花や果物などの生ものを積極的に描いたことについて、自分に刻々と近づいてくる死というタイムアップを感じて、移ろう時間に抗えないモチーフを選んだと考える研究者もいます。

壊疽を起こした左足を切断し、高熱にうなされ苦しみながらマネは1883年3月4日にこの世を去ります。

翌年には早くも国立美術学校でマネの遺作展が開かれ、パリ万国博覧会でも14点の油彩が展示されました。さらに良き友人であったモネが主導でマネの作品が収集され、ルーヴル美術館への寄贈も行われました。

このような活動が身を結び、マネの評価は死後になってうなぎ登りになりました。

マネはその生涯のほとんどをサロン出品に費やし、生前は個展も数えるほどしか行わず、印象派展にも参加しなかったことでサロンのスキャンダルでの知名度に対して画家としての評価はあまり正確に行われていなかったマネの再評価が始まったのです。

芸術とは、ひとつの輪である。

我々は出生の偶然によって、その輪の内側にいたり、外側にいたりする。

エドゥアール・マネ

まとめ

いかがだったでしょうか。

日本でのマネの知名度は、セザンヌやモネといった印象派およびポスト印象派の多くの画家に一歩劣る印象です。

しかし西洋美術史におけるマネの功績は、彼自身と親交の深かったモネやドガと同等に語られるべきと言っても過言ではないでしょう。

特に、スキャンダルのタネである『オランピア』は裸婦画のあり方を衝撃的に世の中に問うたことはサロンが主導したアカデミズムや保守的な伝統文化を断じ、新しい絵画表現を切り開く大きな一石であったはずです。

この機会にマネの人生と作品を振り返ってみるのはいかがでしょうか。


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