こんにちは、ユアムーン編集部です。
皆さんは、「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」という人物をご存知でしょうか?
ホイッスラーはくすんだ色彩を用いて、輪郭線を曖昧にした光と大気の効果を描いた19世紀の画家で、彼の後期の作品スタイルはトーナリズム(色調主義)とも言われています。
また、ホイッスラーは日本美術にも影響を受けており、お気に入りの画家だった葛飾北斎の構図を参考に制作された絵画も存在します。
今回はそんなジェームズ・マクニール・ホイッスラーの人生と作品についてご紹介します!
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ジェームズ・マクニール・ホイッスラーってどんな人?
本名 | ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler) |
生年月日 | 1834年7月10日 |
出身 | アメリカ マサチューセッツ州 ローウェル |
学歴 | 帝国美術アカデミー |
分野/芸術動向 | 絵画 / トーナリズム |
人生と作品
生まれと環境
ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは1834年7月10日、マサチューセッツ州ローウェルでエンジニアのジョージ・ワシントン・ホイッスラーと2番目の妻、アンナ・マクニールの長男として生まれます。
子供の頃のホイッスラーは気性が荒く気分が変わりやすかったようですが、彼の両親は絵を描かせることでホイッスラーを落ち着かせることができることに気付き、幼少の頃から絵に親しむ生活を送っていたようです。
1842年、ホイッスラーの父親が鉄道設計のためロシア皇帝のニコライ1世にスカウトされると、ホイッスラーは父、母、弟とともにロシアのサンクトペテルブルクに移り住みます。
ここでホイッスラーはピョートル大帝の肖像画を描くために皇帝に雇われたスコットランド人画家、「ウィリアム・アラン」に自分の絵を見せたいと懇願します。
その願いが叶い、ウィリアム・アランに才能を伸ばすよう助言をもらったホイッスラーは1845年、11歳で帝国美術アカデミーに入学しました。
ホイッスラーの母親は日記に「偉大な画家は私に”あなたの息子は類まれな才能を持っているが、その才能を超えるようなことをしてはいけない”といった。」と記していました。
学校では石膏の模型や生身のモデルからデッサンをするという伝統的なカリキュラムに従って美術を学び、年上の仲間たちとも仲良く過ごしていたと言います。
しかし、その4年後、父親がコレラで亡くなると一家はアメリカに戻りコネチカット州ポンフレットに定住します。
権威を嫌い、芸術家への道を追求
1851年に父親が製図の教官として勤めていたウェストポイントの陸軍士官学校に入学しますが、1854年に退学処分となります。ホイッスラーはそこでアメリカ人芸術家のロバート・W・ウィアーにデッサンと地図作成を学びますが、権威を嫌って規則を違反したり学業成績も悪かったようです。
退学処分後、ホイッスラーはウェストポイントで培った地図作成のスキルを生かし、米国沿岸測地測量局の地形製図技師として最初の仕事に就きますが、2ヶ月という短い期間で辞めてしまいます。
ホイッスラーはここで職業として芸術を追求する意志を固め、1855年にヨーロッパへ旅立ちます。
パリに到着したホイッスラーはエコール・インペリアルで短期間学んだあと、後に印象派の「クロード・モネ」や「カミーユ・ピサロ」の師となる「シャルル・グレール」のアトリエに通いました。
シャルル・グレールはホイッスラーが今後のキャリアで使用することになる2つの原則、「線は色よりも重要である」と「黒は調性調和の基本色である」ということを教えます。
パリに来て最初の年はほとんど売れず借金も絶えなかったホイッスラーは、17世紀のオランダやスペインの巨匠を崇拝しており、ルーヴル美術館に展示されている彼らの作品を模写し、それを売ることで経済的負担を軽減していました。
Portrait of Whistler with a Hat (1858)
この作品は1858年にホイッスラーが描いた最初の自画像です。レンブラントを彷彿とさせるような暗く厚く描かれた作品です。
At the Piano (1859)
同年、ルーヴル美術館でフランスの画家「アンリ・ファンタン=ラトゥール」と出会うと、彼を通じて「ギュスターヴ・クールベ」のサークルに紹介されます。
この時期の作品は上の「At the Piano」の土のような色彩と繊細な質感に見られるように、クールベの写実主義に深く影響を受けているように見て取れます。
この絵はホイッスラーが移り住んだロンドンの自宅の音楽室にいる、異母姉と姪の親子を描いています。
この作品は1860年にロイヤル・アカデミーに出品され高い評価を得ますが、ホイッスラーは数年のうちにこの写実主義の視点を捨てて耽美主義に近い気まぐれなスタイルを好むようになっていきます。
夜想曲の誕生〜日本美術との融合
1866年、思いがけずチリのバルパライソへと旅に出たホイッスラーは現地でいくつかの海景を描き、当初は「月明かり(moonlights)」と題され、後に「夜想曲(nocturnes)」と改題されました。
ホイッスラーはロンドンに戻った後も「夜想曲」をいくつか描くことになり、その多くはテムズ川や花火大会が開催される遊園地でした。
ホイッスラーが印象派の存在を知ったのは1870年頃、普仏戦争を避けるために一時的にロンドンに滞在していた「クロード・モネ」と「カミーユ・ピサロ」のおかげでした。
Nocturne: Blue and Gold – Old Battersea Bridge (1872)
ロンドンのテムズ川の夜景が描かれており、橋の向こうでは花火が空に現れているこの「夜想曲」は、印象派の手法を応用して作られており明るい斑点を散りばめて遠くの光や船を暗示しています。
ホイッスラーは東洋的な小道具を取り入れたり、日本的な美学を信奉しており、作品の中で歌川広重や葛飾北斎の構図やテーマなどの類似点が見られます。
この作品はホイッスラーの夜想曲の中で最も日本的と言われており、葛飾北斎の冨嶽三十六景「深川万年橋下」と構図が似ていることからホイッスラーの日本的美意識への称賛が伺えます。
Nocturne in Black and Gold: The Falling Rocket (1875)
ホイッスラーが生涯に描いた「夜想曲」の中で最後の作品となったこの作品は、夜空に打ち上げられた花火が描かれており、具体的な描画ではなく打ち上がった花火の光の効果を見ている人に与えることで、興奮と祝賀の感覚を捉えています。
ホイッスラーが「夢見心地で物思いに耽るような気分」を表現したというこの作品は、明確な物語性ではなく「芸術のために芸術」を体現しているようです。
この作品はホイッスラーの最も重要な作品の一つとされていますが、公開時にはあまり評判はよくなかったようです。
美術評論家のジョン・ラスキンがこの絵について否定的な批評をすると、ホイッスラーはジョン・ラスキンを名誉毀損で訴え、他の「夜想曲」も含めて証拠として提出しました。
ホイッスラーは勝訴したものの、高額な裁判費用を支払う必要があり経済的破綻を余儀なくされます。
インテリアデザインにも携わる
Harmony in Blue and Gold: The Peacock Room (1876-1877)
ホイッスラーは建築家のトーマス・ジェッキルの依頼を受け、パトロンであったフレデリック・レイランドの自宅のダイニングルームのインテリアデザインを担当しました。
この部屋はレイランドの中国磁器コレクションとホイッスラーの作品「The Princess from the Land of Porcelain (1863-64)」を展示するために設計され、絵画は暖炉の絵に飾られました。
部屋のデザインは日本の絵画をテーマとして作られ、制作にあたるわずかな変更はレイランドによって承認されました。
しかし、レイランドがリバプールへ向かうとホイッスラーは16世紀の革製壁掛けをプルシアンブルーに塗ったり、棚にメタリックな金箔を貼ったりとレイランドの承認なしに大きな変更を加えました。
このプロジェクトでは報酬に対するホイッスラーとレイランドの意見の相違が生まれ、ホイッスラーは画家とパトロンを表すと思われる2羽の孔雀が戦う姿を描いた壁画を制作し、レイランドへの不満を表現しました。
ホイッスラーはこの部屋を2度と見ることはなく、レイランドとの関係もここで終わってしまいました。
晩年
Gold and Brown [Self portrait] (1896)
ホイッスラーは晩年は海景や肖像画を描き続け、最後の自画像は油彩で描きました。
1898年に美術学校を設立するホイッスラーですが、健康状態が悪く学校にあまり赴かなかったため1901年に閉校となり、69歳の誕生日の6日後、1903年7月17日にロンドンで亡くなります。
まとめ
いかがでしたか?
今回は後にトーナリズムと呼ばれるスタイルで人気を博した画家、「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」の人生と作品についてご紹介させていただきました。
感情豊かな作品を多く作り出したホイッスラーですが、時折見せる彼の反抗的・支配的な性格が彼の人間関係や経済状況に多大な影響を及ぼしており、波乱な人生を送っていたことが伺えます。
ホイッスラーについて気になった方は、さらに深掘りしてみてはいかがでしょうか?
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