【徹底解説】青木繁とは?『海の幸』で明治浪漫主義を駆け抜けた28歳の洋画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】青木繁とは?『海の幸』で明治浪漫主義を駆け抜けた28歳の洋画家の人生と作品を解説!
画像:『海の幸』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは青木繁という人物をご存知ですか?

明治時代に活躍した洋画家で、福岡県久留米市の生まれです。東京美術学校(現在の東京藝術大学)に在学中、日本の神話に取材した作品で画壇に登場し、卒業した1904年の夏には、千葉の漁村で代表作『海の幸』を描きました。『海の幸』と『わだつみのいろこの宮』は、いずれも国の重要文化財に指定されています。

しかし、華々しいデビューとは対照的に、晩年は九州各地を転々とする暮らしになります。そして1911年、肺結核のため28歳でこの世を去りました。

本記事ではそんな青木繁の人生と作品についてご紹介します。

青木繁って?

基本情報

本名青木繁(あおき しげる)
生年月日(没年月日)1882年(明治15年)7月13日〜1911年(明治44年)3月25日(満28歳没)
国籍/出身日本 福岡県久留米(現在の久留米市荘島町)
学歴久留米中学明善校を1899年に退学。1900年に東京美術学校西洋画科(選科)に入学し、1904年に卒業
分野洋画(油彩・水彩)
傾向日本の神話や古代に取材した、浪漫的で幻想的な画面。明治浪漫主義を代表する画家とされています
師事した人物/影響を受けた人物森三美(洋画の手ほどき)、小山正太郎(不同舎)、黒田清輝(東京美術学校)。ラファエル前派やギュスターヴ・モローの影響

【徹底解説】菱田春草とは?朦朧体と批判されながら重文4点を残した日本画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】黒田清輝とは?西洋に影響を受けた日本近代洋画の父の生涯と作品を解説!

クロード・モネとは?出身・本名・代表作と生涯をわかりやすく解説

経歴と作品

久留米に生まれ、坂本繁二郎と出会う

青木繁『自画像』(1904年)
青木繁『自画像』(1904年7月)東京藝術大学大学美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

青木繁は1882年(明治15年)7月13日、福岡県の久留米に生まれました。久留米市の公式ページによると、生まれた場所は久留米市荘島町です。『世界大百科事典』によれば、父は有馬藩の武士だった青木廉吾で、繁はその長男でした。

久留米高等小学校では、のちに洋画家となる坂本繁二郎が同級生でした。2人は同じ年の生まれで、同じ高等小学校で学び、同じ洋画塾で画家を志したと、アーティゾン美術館や久留米市美術館は紹介しています。その洋画塾を開いていたのが、久留米の画家・森三美(みよし)です。青木は久留米中学明善校に進み、級友と文芸雑誌を出しました。『世界大百科事典』は、早くから文芸に関心が傾いていたと書いています。

この「絵と文学の両方に向かう気質」は、青木の作品を理解するうえで大切な手がかりになります。のちに青木は、日本神話や外国の物語を材料に、物語性の強い絵を次々に描くからです。

1899年、青木は中学を退学し、画家を志して上京します。久留米市の旧居の案内によれば、芸術の道を志して上京するまでの17歳まで、青木は久留米の家で過ごしました。この家は復元整備され、2003年(平成15年)3月15日に「青木繁旧居」として開館しています。館内には写真や解説のパネル、作品の複製などが展示されています。

画像は、青木が東京美術学校の学生だった1904年7月の自画像です。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースでは、「学生制作品」として登録されています。暗い茶色の画面に、やや斜めを向いた、口ひげのある青年の顔が浮かび上がります。

上京と東京美術学校での学び

上京した青木は、洋画家・小山正太郎が開いていた画塾「不同舎」に入門しました。翌1900年(明治33年)には、東京美術学校の西洋画科に入学します。ここで、黒田清輝らの外光派(屋外の明るい光を画面に取り込む画風)の表現を学びました。

ただ、青木が夢中になったのは、画法だけではありませんでした。千葉県館山市の「青木繁『海の幸』記念館を保存する会」が公開する年譜には、この頃から上野の図書館に通い、哲学、宗教、神話、文学の本に親しんだと書かれています。平凡社の『世界大百科事典』は、『古事記』などの日本神話、ギリシア神話、インドの物語を読みふけり、さらにラファエル前派にひかれていったと説明しています。ラファエル前派とは、同じ事典によれば、1848年にロンドンで、芸術の革新を唱える青年たちが結成したグループです。

アーティゾン美術館も、「読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました」と紹介しています。学校で教わる洋画の技術に、自分で集めた神話の世界を重ねていく。この組み合わせが、青木の画風の出発点でした。

青木には、もう1つ大切な縁がありました。アーティゾン美術館によれば、坂本繁二郎は1902年に青木に誘われて上京し、画家の道を歩み始めています。故郷を同じくする2人は、離れても互いを意識し続けました。

1903年、神話を描いて第1回白馬賞

青木の名が画壇に知られるきっかけは、1903年(明治36年)の白馬会第8回展でした。ここに神話に取材した作品群を出品し、第1回白馬賞を受賞します。白馬会は、『日本大百科全書』によれば、1896年(明治29年)に黒田清輝や久米桂一郎らが結成した美術団体です。東京文化財研究所が公開している黒田清輝の日記には、1903年10月8日の会合で「白馬賞ヲ青木ニ与フルコト」が可決されたと記されています。なお、この賞を「白馬会賞」と書く百科事典もあります。

『日本大百科全書』は、このときの出品作として『黄泉比良坂(よもつひらさか)』や『闍威弥尼(じゃいみに)』などをあげ、日本やインドの古代神話や伝説から着想を得た作品だったと述べています。

『黄泉比良坂』(1903年)

『黄泉比良坂』は、『古事記』に取材した作品で、東京藝術大学大学美術館が所蔵しています。同館の収蔵品データベースによると、紙に色鉛筆、パステル、水彩で描かれ、大きさは48.5×33.5cm。左下にサインがあり、裏面には「花園に立つ女」という別の絵が描かれているとのことです。

油絵の大作ではなく、縦が50cmに満たない紙の作品です。色鉛筆、パステル、水彩という3つの画材を組み合わせて描かれています。画壇に名前を知られるきっかけになったのが、こうした小さな紙の上の神話だったことは、覚えておきたい点です。

目に見える風景を写すのではなく、本で読んだ神話の場面を画面にする。この姿勢は、のちの『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』にもつながります。

1904年、房州・布良で『海の幸』が生まれる

1904年(明治37年)7月半ば、22歳の青木は東京美術学校西洋画科を卒業したばかりでした。アーティゾン美術館によれば、青木は友人の画家である坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともに、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけます。太平洋の黒潮に向き合う漁村に約1か月半滞在し、その間に描かれたのが、代表作『海の幸』です。

福田たねは、アーティゾン美術館が展覧会の紹介文で「恋人」と書いている人物です。『日本大百科全書』によれば、翌1905年には、2人の間に幸彦が生まれました。のちに音楽家となる福田蘭童(らんどう)です。

『海の幸』(1904年)

青木繁『海の幸』(1904年)
青木繁『海の幸』(1904年)石橋財団アーティゾン美術館 重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『海の幸』は、油彩、カンヴァスの作品で、横長の画面です。アーティゾン美術館の解説では、画面には10人の裸体の男が描かれ、3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へ行進しています。中ほどの人物は、正面から強い光を浴びていると説明されています。

制作の経緯も興味深いものです。アーティゾン美術館によると、後年、坂本繁二郎は、自分が目にした大漁の陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、青木は翌日からこの作品に取りかかったと証言しています。ただし坂本は、青木の絵は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだとも語っています。つまり、この絵は漁村のスケッチではありません。友人から聞いた話に、青木の想像力が火をつけた結果の絵なのです。

アーティゾン美術館は、この光景を思い浮かべたきっかけについて、青木自身が何も語っていないと述べています。そのため、パルテノン神殿のフリーズ彫刻(帯状に連なる浮き彫り)、ラファエル前派、当時の雑誌に載った医薬品の広告、布良の神社の祭礼など、多くの研究者がさまざまな可能性を指摘しているそうです。1つに決められないことが、この絵の魅力の一部になっているともいえます。

見どころは、荒々しい筆づかいです。男たちの肌は赤茶色で大づかみに塗られ、輪郭の線がそのまま見えるところもあります。背景は海の青と砂浜の明るい色だけで、左右に長い画面のなかを、行列が前へ前へと進んでいく感覚があります。アーティゾン美術館はこの作品を、青木が地勢や風俗を体全体で受け止め、荒々しい筆づかいと若々しい題材で再創造したものと紹介しています。

『海の幸』は、文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば、1967年(昭和42年)6月15日に重要文化財に指定されました。所有者は公益財団法人石橋財団です。同データベースの解説は、この作品を1904年の白馬会第9回展の出品作としています。『日本大百科全書』は、白馬会に出品されて青木は一躍名声を得たと述べています。

『海景(布良の海)』(1904年)

青木繁『海景(布良の海)』(1904年)
青木繁『海景(布良の海)』(1904年)石橋財団アーティゾン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

この夏の布良では、『海の幸』のほかにも、海を描いた作品がいくつも生まれました。アーティゾン美術館が所蔵する油彩の『海景(布良の海)』は、その1つです。波が打ち寄せる岩場を、赤茶色の岩と白い波しぶき、暗い青緑の海面で描いています。

同じ頃に描かれた『海』(1904年)について、アーティゾン美術館は、熱い日差しに輝く岩が太平洋の激しい波を受け止めているさまを描いたものと説明し、荒々しく鮮やかな点描の表現は、1880年代のクロード・モネを思い起こさせると述べています。そして、青木は何らかの方法でモネの作品を知っていたに違いないが、本人は何も語っていない、と続けます。『世界大百科事典』も、この夏の海景を「モネの影響を思わせる数点の海景」と書いています。

神話を描く青木と、光る海を描く青木。どちらも、同じ夏に生まれました。『世界大百科事典』は、1904年を青木の生涯で「最も豊饒な年」と評しています。

1904年の幻想の画面、『天平時代』と『運命』

『世界大百科事典』は、1904年の青木について、日本古代に想を得た『享楽』や『天平時代』などの、ラファエル前派の影響が濃い幻想的な秀作が描かれた年とも述べています。また、この年に詩人の蒲原有明との交友が始まり、その詩集の口絵や挿絵を描いたとも書いています。絵と文学を結びつけるという、青木の気質がよく出た関係です。

『天平時代』(1904年)

青木繁『天平時代』(1904年)
青木繁『天平時代』(1904年)石橋財団アーティゾン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『天平時代』は、アーティゾン美術館の所蔵する油彩の作品です。画面には、飾りのある布を敷いた室内に、裸や半裸の女性たちが集まっています。真ん中近くには大きな白い鳥もいます。奥の格子窓からは緑と黄色の光がのぞき、室内は赤や黄色、橙の色で埋められています。

『海の幸』の荒々しい筆づかいと比べると、こちらは色彩を重ねた装飾的な画面です。同じ年の作品でありながら、題材も描き方も大きく違います。青木が1つの型に収まらず、そのときに自分が惹かれた世界へ飛び込んでいく画家だったことが分かります。

『運命』(1904年)

青木繁『運命』(1904年)
青木繁『運命』(1904年)東京国立近代美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

東京国立近代美術館が所蔵する『運命』は、文化遺産オンラインによれば、1904年(明治37年)の油彩、板の作品で、大きさは23.2×33.0cmです。小さな画面のなかで、長い髪の人物たちが、うねる波のような緑と赤の流れに包まれています。画面にはシャボン玉のような透明の丸いものも浮かんでいます。

この作品の主題や制作の事情について、確認できた公式資料には解説がありません。そのため、本記事では絵の内容の説明にとどめます。小さな板の上で、色と筆の勢いだけで見る人をひきつけるところは、青木の別の一面を伝えてくれます。

1905年から1906年、神話の題材を広げる

1905年(明治38年)、青木は福田たねとともに、ふたたび房州を訪れます。保存会の年譜によれば、伊戸の円光寺に滞在し、板戸に焼き絵を描いたそうです。幸彦が生まれたのも、この年です。

この時期の作品には、『日本武尊(やまとたけるのみこと)』(1906年)があります。文化遺産オンラインによれば、カンバスに油彩で描かれた縦長の作品で、大きさは71.3×38.1cm、東京国立博物館が所蔵しています。『古事記』などに登場する英雄を主題に選ぶところは、これまでの青木の関心と地続きです。

次に紹介する『わだつみのいろこの宮』は、そうした神話への関心が、大きな画面に結実した作品です。

1907年、『わだつみのいろこの宮』と三等賞

『わだつみのいろこの宮』(1907年)

青木繁『わだつみのいろこの宮』(1907年)
青木繁『わだつみのいろこの宮』(1907年)石橋財団アーティゾン美術館 重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『わだつみのいろこの宮』は、縦に細長い油彩の作品です。アーティゾン美術館の解説では、題材は『古事記』にあります。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探して海の底へ降りていきます。すると、「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけます。水を汲みに宮殿から出てきた侍女が、桂の木にすわる山幸彦に気づき、海神の娘である豊玉姫を呼びます。画面の左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。山幸彦と視線を交わしています。

画像を見ると、木の上に腰かける山幸彦、水がめを抱える赤い衣の姫、こちらに背を向けて見上げる白い衣の侍女が、細長い画面にひと続きに収められています。背景は暗い緑の木の葉で埋められ、足元には石の縁があり、小さな泡が立ちのぼっています。

この縦長の構図について、アーティゾン美術館は、3人の人物を配した構図には、青木が日本に入ってきた印刷物などを通じて学んだ、イギリスのラファエル前派の影響が見て取れると述べています。さらに、ギュスターヴ・モローの色づかいにも感化されていることを、青木自身が語っていたそうです。日本にいて遠く離れた西洋の世紀末美術の特質を鋭敏に感じ取っていた、と同館は評しています。

この作品は、1907年(明治40年)春に開かれた東京勧業博覧会に出品するために制作されました。久留米市美術館によれば、東京府が主催した博覧会です。アーティゾン美術館は、未完成の作品が多い青木のなかで、完成度の高い作品だとも述べます。

会場でこの絵を見た夏目漱石は、2年後の小説『それから』に、次の一節を書きました。アーティゾン美術館が紹介している文です。

「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った」

漱石の登場人物が心に留めたのは、青木の絵の、海の底に立つ背の高い女性の姿でした。

ところが、審査の結果は三等賞でした。久留米市美術館は、この博覧会の結果が青木と坂本の明暗を分けたと書いています。保存会の年譜は「三等賞末席」とし、青木は審査への不信や不満を新聞などに発表して、中央画壇を痛烈に批判したと記しています。『世界大百科事典』も、夏目漱石らの賞賛はあったものの3等賞にとどまり、これが転機となって悲劇的な晩年に向かったと述べます。

『わだつみのいろこの宮』は、国指定文化財等データベースによれば、1969年(昭和44年)6月20日に重要文化財に指定されました。所有者は、『海の幸』と同じく石橋財団です。博覧会の審査が決して高くは評価しなかった絵が、のちに国の重要文化財になりました。

帰郷、そして九州各地を放浪する日々

1907年の夏、青木は父の危篤の知らせを受けて久留米へ帰郷します。アーティゾン美術館は、父が亡くなると、青木が家族を養うという問題に直面したと説明しています。その解決策を見出せないまま、九州各地を放浪し、中央画壇への復帰を図りますが、その希望はかなわなかった、と続けます。

『世界大百科事典』は、青木が久留米に帰って弟や妹の養育にあたろうとしたものの、父の負債をめぐって家族と衝突し、翌1908年に家を出て天草など九州各地を流浪したと書いています。保存会の年譜は、1908年以降は貧困と病苦のなかで天草や佐賀地方を転々としたと記録します。同じ年譜によると、1909年の7月には、佐賀に旧師の森三美を訪ね、秋からは佐賀で手記や歌集を残しました。その後は小城町の知人を頼り、唐津にも出かけています。久留米市美術館によれば、青木と坂本は1909年の夏に久留米で偶然出会い、それが最後になりました。

青木繁『筑後風景』(1908年)
青木繁『筑後風景』(1908年)東京国立博物館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

画像は、家を出た1908年(明治41年)の『筑後風景』で、東京国立博物館が所蔵しています。幹を傾けた木立と、手前に広がる草地が、緑と黄土色を中心に描かれています。木立の右には、馬に乗った小さな人影が見えます。神話の人物は登場しません。東京で描いた作品とは違う、静かな風景画です。

こうした暮らしのなかでも、青木は絵筆を置きませんでした。『世界大百科事典』は、貧困や病気に苦しみながらも、大作『漁夫晩帰』などを制作したと述べています。

1910年に描かれた『朝日』は、2019年(平成31年)4月26日に佐賀県の重要文化財に指定されました。文化遺産オンラインによれば、カンヴァスに油絵具で描かれた縦72.5×横115.0cmの作品で、佐賀県立小城高等学校の同窓会「黄城会」が所有しています。久留米市美術館は、この作品を青木の絶筆として紹介しています。国の重要文化財となった2作とは別に、最後の作品が地元の文化財として守られていることが分かります。

東京の画壇から遠く離れて描いた絵が、いま地域の財産として大切にされている事実は、青木の仕事が中央の評価だけで測れないことを示しているように思います。

1911年、28歳で亡くなる

保存会の年譜によれば、病状が悪化した青木は、小城や古湯での療養のかいなく、福岡の松浦病院に入院します。そして1911年(明治44年)3月25日、28歳でこの世を去りました。死因は、アーティゾン美術館によれば肺結核です。『日本大百科全書』は、窮乏のうちに28歳の生涯を閉じたと書いています。

この年の9月には、日本画家の菱田春草も、36歳で亡くなっています。同じ1911年に、明治の美術の新しい表現を探った2人の画家が世を去ったことになります。春草の生涯については、こちらの記事でもご紹介しています。

【徹底解説】菱田春草とは?朦朧体と批判されながら重文4点を残した日本画家の人生と作品を解説!

没後に守られた青木繁の作品

青木が亡くなったあとも、作品が人々の記憶から消えることはありませんでした。その背景には、旧友の働きがあります。アーティゾン美術館によると、坂本繁二郎は青木の没後、遺作展の開催や画集の編纂など、その顕彰に力を尽くしました。

さらに坂本は、石橋財団の創設者・石橋正二郎にも働きかけました。アーティゾン美術館の創設者紹介には、若くして亡くなった同郷の画家・青木繁の作品が散らばっていくことを惜しんだ坂本が、正二郎に、青木の作品を集めて美術館をつくってほしいと語ったと書かれています。石橋正二郎はその言葉に感じ入り、青木を中心に日本近代洋画の収集を始め、およそ10年間で『海の幸』など青木の代表作を購入し、コレクションを形成しました。

こうして集められた作品は、いまは東京のアーティゾン美術館が所蔵しています。同館の展覧会記録によると、1954年10月には『海の幸』『わだつみのいろこの宮』などの所蔵作品を中心に計78点を出品した、戦後初の青木の回顧展が開かれています。この回顧展の会場は、アーティゾン美術館の前身であるブリヂストン美術館でした。2005年には同じ館で「青木繁《海の幸》100年」展が開かれ、国立新美術館の展覧会情報によると、制作100年を機に行われた調査の成果が紹介されました。

そして2022年は、青木と坂本がともに生まれて140年にあたる年でした。久留米市美術館とアーティゾン美術館で、「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」が開かれ、久留米市美術館はこれを、1956年以来66年ぶりの二人展と紹介しています。青木は28年の生涯を駆け抜け、坂本は87年の生涯をゆっくりと絵ひとすじに生きた、と同館は対比しています。同じ町に生まれた2人の生き方は、まったく違うものでした。

青木繁の年表

1882年福岡県久留米に生まれる(7月13日)
1899年久留米中学明善校を退学して上京。小山正太郎の不同舎に入る
1900年東京美術学校西洋画科に入学
1903年白馬会第8回展で第1回白馬賞を受賞。『黄泉比良坂』
1904年東京美術学校を卒業。夏に房州布良に滞在し『海の幸』を描く
1905年房州を再訪。幸彦(のちの福田蘭童)が生まれる
1907年『わだつみのいろこの宮』が東京勧業博覧会で三等賞。夏に父の危篤で帰郷
1908年家を出て九州各地を転々とする
1910年『朝日』を描く(のちに佐賀県重要文化財)
1911年福岡の松浦病院で亡くなる(3月25日、満28歳)
1967年『海の幸』が重要文化財に指定(6月15日)
1969年『わだつみのいろこの宮』が重要文化財に指定(6月20日)

青木繁の自画像が教えてくれること

アーティゾン美術館には、1903年の油彩の自画像があります。同館の解説によると、青木はいくつもの印象的な自画像を描き残しており、作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に取りかかるところがありました。この自画像では、暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自分を浮かび上がらせています。背景には不定型な形がいくつも見えますが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられています。

同館は、この自画像を「魔物のような暗い情念を塗り込めた」ものとし、青木の心の在処を私たちに教えてくれると記しています。神話の世界に深く入っていった画家が、自分自身の顔にも同じ濃さで向き合っていたことが分かります。

青木の絵を見るときの手がかりを、編集部なりに3つに整理しておきます。

1つ目は、題材です。神話や古代の物語から場面を選び、実際の風景ではなく想像で組み立てています。2つ目は、画面の形です。『海の幸』は横に、『わだつみのいろこの宮』は縦に、画面の形そのものが物語の動きに合わせて選ばれています。3つ目は、色と筆です。荒々しく筆を走らせるものもあれば、繊細に色を重ねるものもあり、1つの描き方に落ち着きません。

これらは編集部の見方ですが、アーティゾン美術館が述べる「作品ごとに描く方向性をまず考え抜く」という青木の姿勢とも重なると考えています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

青木繁は、福岡県久留米に生まれ、坂本繁二郎という同郷の友と出会い、東京美術学校で学びながら、神話の世界に自分の絵のテーマを見つけた画家でした。1903年には第1回白馬賞を受賞し、1904年の夏には、房州の布良で『海の幸』を描きます。

1907年の『わだつみのいろこの宮』は、東京勧業博覧会の審査では三等賞でしたが、夏目漱石が小説に書き留めるほど、見る人の記憶に残りました。その後は九州各地を転々としながら、1911年に28歳で亡くなります。

けれども作品は残りました。坂本繁二郎が作品の散逸を惜しんで石橋正二郎に語り、石橋財団が収集を続けたことで、『海の幸』は1967年に、『わだつみのいろこの宮』は1969年に、国の重要文化財に指定されました。

青木の作品は、アーティゾン美術館、東京藝術大学大学美術館、東京国立近代美術館、東京国立博物館などで所蔵されています。展示替えがあるため、気になる方は各館の公開情報をご確認ください。

Euphoric " " の視点

『わだつみのいろこの宮』は、東京勧業博覧会で三等賞でした。審査が決して高くは評価しなかったその絵が、のちに国の重要文化財になっています。

会場でこの絵を見た夏目漱石は、2年後の小説『それから』に一節を書きました。青木の没後には、坂本繁二郎が石橋正二郎にも働きかけています。

審査の結果と、作品が人に残すものは、同じではありません。

その場の評価が低くても、見た人の中に残れば、作品は別の道で生き続ける。青木繁の絵は、届く相手は審査員だけではないのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。作品が常に展示されているとは限りません。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に79件 開催中/7日以内に終了 1件展覧会を探す