こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはフランシス・ベーコンという人物をご存知ですか?
20世紀のイギリスで活躍した、アイルランド生まれの画家です。エリザベス朝時代の哲学者・政治家に同じ名前の人物がいますが、別の人です。教皇の肖像や、3枚で1組の「三幅対(さんぷくつい)」で、人間の身体や顔をゆがめた形で描きました。
美術学校には通いませんでした。家具や室内装飾の仕事から画家になり、ロンドンの路地の奥にある元は馬のための建物を、30年以上にわたって住まいとアトリエにしました。そのアトリエは、いまはダブリンの美術館に移されています。
本記事ではそんなフランシス・ベーコンの人生と作品についてご紹介します。ベーコンの作品は現在も著作権が保護されているため、この記事では作品の画像を載せず、図解と表、公式の映像でご案内します。
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Toggleフランシス・ベーコンって?

まずは全体像です。ベーコンは1909年にダブリンで生まれ、1927年にパリで見たピカソの素描展をきっかけに、画家を志しました。名前が広く知られるようになったのは、1944年に描いた三幅対からです。そこから約40年、ロンドンを拠点に描き続け、1962年と1985年にはロンドンのテート・ギャラリーで大きな回顧展が開かれました。
基本情報
| 本名 | フランシス・ベーコン(Francis Bacon) |
| 生年月日(没年月日) | 1909年10月28日〜1992年4月28日(82歳没) |
| 国籍・出身 | イギリス/アイルランドのダブリン生まれ。両親はイギリス人です |
| 学歴 | 美術学校には通わず、絵は独学。学校教育は、チェルトナムのディーン・クローズ校に1924年秋から1926年春まで寄宿したのが唯一長く続いたものでした |
| 分野 | 絵画(油彩)。三幅対の大作が多くあります |
| 傾向 | 人間の身体や顔をゆがめて描く具象絵画。教皇、宗教画の主題、友人の肖像が主な題材です |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 師と呼べる人物はいません。ピカソの素描展が画家を志すきっかけでした。ベラスケスの肖像画、エイゼンシュテイン監督の映画『戦艦ポチョムキン』、写真家マイブリッジの連続写真、ゴッホ、古代ギリシャの劇作家アイスキュロスの『オレステイア』などから着想を得ました。油彩の最初の手ほどきは、画家ロイ・ド・メストル(Roy de Maistre)が与えました |
ベーコンが画家を志すきっかけになったピカソや、1957年に連作の題材にしたゴッホについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
ベーコンの代名詞となった教皇の連作
ベーコンの作品のなかで、とくによく知られているのが、ベラスケスの教皇像をもとにした連作です。ベーコンの遺産を管理するエステート(The Estate of Francis Bacon)は、これらを「screaming popes」と呼ばれる一群として紹介しています。
ただし、この呼び名はベーコンの仕事の一部しか表していません。教皇のほかにも、宗教画の主題や、親しい人たちの肖像を何度も描きました。どの絵も、人の身体と顔を、整った写実の形にせず扱っている点が共通しています。
経歴と作品
ダブリンに生まれ、16歳でロンドンへ(1909〜1928年)
ベーコンは1909年10月28日、ダブリンのロウアー・バゴット通り63番地の産院で生まれました。5人きょうだいの2番目で、両親はアイルランドに移り住んだばかりのイギリス人です。父は元陸軍少佐で、馬の繁殖と調教を仕事にしようとしていました。母は、鉄鋼業で財を成したシェフィールドの家の出でした。エステートの公式の伝記によれば、ベーコンの一族は、同名の哲学者の傍系の子孫にあたるとのことです。
家族はキルデア州などアイルランドの田舎を転々としました。ベーコンは幼いころから重い喘息(ぜんそく)を抱えていました。学校に長く通ったのも、前の表にあるディーン・クローズ校だけです。
1926年、16歳のときに実家を出てロンドンに向かいました。父との関係は、こじれたままでした。しばらくは母から週3ポンドの仕送りを受け、定まった仕事のない日々を送ります。
1927年の春にはベルリンへ、その後パリへ移りました。パリ近郊のシャンティイでは、約3か月を過ごしています。エステートの伝記によれば、ここでニコラ・プッサンの『The Massacre of the Innocents』(シャンティイ城のコンデ美術館)を見て、強い印象を受けました。
そして1927年夏、パリのポール・ロザンベール画廊でピカソの素描展を見ます。エステートの伝記は、ベーコンが画家になることを考え始めたのはこの展覧会を見てからだと記しています。
家具デザイナーから画家へ(1929〜1943年)
1928年末にロンドンへ戻ったベーコンは、画家ではなく、室内装飾家と家具デザイナーとして働き始めました。サウス・ケンジントンのクイーンズベリー・ミューズ西17番地にスタジオを構え、クロームめっきの鋼とガラスを使った近代的な家具を作ります。1930年8月には、雑誌『The Studio』が、その作品を「1930年のイギリス装飾」の例として紹介しました。
油彩の描き方は、オーストラリア出身のポスト・キュビズムの画家ロイ・ド・メストルに教わりました。
1933年、23歳のベーコンは、最初の本当に独創的な作品といえる『Crucifixion』を描きました。ピカソの生物のような形を思わせる小さな絵で、美術評論家ハーバート・リードの本『Art Now』に掲載され、収集家のマイケル・サドラー卿が購入しています。
しかし、順調だったのは最初だけです。1934年2月のトランジション・ギャラリーでの個展は売れ行きが悪く、タイムズ紙の批評も見下すような調子でした。1936年夏には、ロンドンの国際シュルレアリスム展に出品を断られます。理由は、作品が「シュルレアリスムとしては不十分」というものでした。以後、制作は減り、描いた作品の多くはベーコン自身が捨ててしまいました。グッゲンハイム美術館ビルバオの教材は、1936年から1943年の間、ほとんど描かなかったと説明しています。
喘息のため兵役には就けず、民間防衛の仕事に一時就いたのち、1943年に辞めています。この時期にベーコンは、T・S・エリオットの戯曲『The Family Reunion』から、古代ギリシャの悲劇『オレステイア』に出会います。この古代の物語は、のちにベーコンの絵の着想源になります。
三幅対で名を上げる(1944〜1949年)
『Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion』(1944年)
1943年の暮れ、ベーコンはサウス・ケンジントンのクロムウェル・プレイス7番地の1階に移りました。ここで描かれた絵が、ベーコンの名前を広く知らせることになります。
『Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion』は、3枚の板に描かれた三幅対です。テート(ロンドン)の所蔵で、各パネルは縦94cm、横74cm、エステートの目録では油彩とパステルとされています。1945年4月にロンドンのレフェーヴル・ギャラリーのグループ展に出品されると、観客と批評家の注意を一手に集めました。
題名には「十字架の下」とありますが、描かれているのは人の姿ではありません。イングリッシュ・ヘリテージの紹介では、人間とは思えない3つの姿が、オレンジ色の背景の前に置かれていると説明されています。エステートの伝記によれば、これは『オレステイア』に登場する復讐の女神フューリーズ(エウメニデス)から着想を得たものです。この絵は、収集家エリック・ホールが購入し、のちにテートに寄贈しました。
『Painting』(1946年)
翌1946年、ベーコンは『Painting』を描きます。ベーコン自身の説明では、畑に降りる鳥を描こうとして始めた絵が、描き進めるうちに、傘の下に立つ人物の絵へと変わったということです。
この絵に強い感銘を受けた画家グレアム・サザーランドの勧めで、画商のエリカ・ブラウゼン(Erica Brausen)が1946年の初秋にこの絵を購入しました。1948年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)が収蔵しました。ブラウゼンのハノーヴァー・ギャラリーでの最初の個展は、1949年11月に開かれています。
『Head VI』(1949年)
1949年の個展では、おもに灰色と黒の落ち着いた色の頭部の絵が並びました。そのなかで、1点だけ色が違ったのが『Head VI』です。紫色のマントをまとった姿で、ベラスケスが1650年に描いた『教皇インノケンティウス10世の肖像』を元にしています。アーツカウンシル・コレクション(ロンドン、サウスバンク)の所蔵です。
ベーコンはこの教皇の主題を、その後の10年にわたって繰り返し描き、1960年代にも時折戻っています。ベラスケスの絵は、実物ではなく複製図版で知っていました。エステートの伝記は、実物を見ていないことがかえってベーコンに大胆な改変を許した、と見ています。もう一つの重要な元になったのが、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)に出てくる1コマです。この映像も、教皇像の重要な元になりました。翌1950年の『Study after Velázquez』は長く行方が分からなくなっていましたが、エステートが回収し、1998年に公開しました。
また、この時期のベーコンは、画布の下地を塗った面ではなく、塗っていない裏側に描くようになりました。エステートの伝記によれば、下地を塗ったキャンバスを使い切り、ためしに裏返してみたところ、生地が絵具をしっかりつかむことに気づいたのがきっかけです。以後、生涯この方法を続けました。
教皇、肉、そしてゴッホ(1950年代)
1950年代のベーコンは、各地を行き来しました。1953年から1954年にかけては、大スフィンクスを元にした作品を4点描きました。
1953年にはニューヨークで初の個展を開き、1954年にはベン・ニコルソン、ルシアン・フロイトとともに、ヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館で展示されました。1957年にはパリで初の個展を開いています。
この頃から、写真の影響が強まります。ベーコンは、エドワード・マイブリッジの連続写真集『The Human Figure in Motion』を「視覚の辞書」のように使いました。組み合う男たちの姿を元にした『Two Figures』(1953年)や、動物の連続写真を元にした犬の絵がその例です。
『Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X』(1953年)
ベーコンの教皇のなかでも、とくに知られているのが1953年の『Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X』です。アイオワ州のデモイン・アート・センターが所蔵しています。エステートは、ベーコンの教皇のなかでもとくに動きのある作品の一つと紹介しています。
エステートによれば、ベーコンはローマを訪れた際にも、ベラスケスの実物を意図的に見なかったとされます。複製だけを頼りに描いたことが、あの自由な変形につながったと考えられています。
『Figure with Meat』(1954年)

シカゴ美術館が所蔵する『Figure with Meat』(1954年、油彩、129.9×121.9cm)は、教皇の連作の一つです。同館の解説によると、ベラスケスの教皇が、気高い布のカーテンに囲まれているのに対して、ベーコンの教皇は、2つの牛の半身に挟まれています。教皇はヴェール越しに見るようにぼやけ、ガラスの箱のような空間に置かれています。
牛の半身は、17世紀オランダのレンブラントと、20世紀ロシア出身のシャイム・スーティンの絵を引いたものです。ベラスケスの教皇像を下敷きに、まわりの設定を作り替えた一点です。
『Study for Portrait of Van Gogh IV』(1957年)
1957年3月、ベーコンはハノーヴァー・ギャラリーで、ゴッホの『タラスコンへの道のゴッホ』(1888年。現存しない作品です)を元にした6点の絵を発表しました。うち3点は、展覧会の納期に追われて急いで描かれました。
この展覧会で、ベーコンの絵は大きく変わりました。絵具は荒く、盛り上がりは厚くなり、色は強くなります。ゴッホのほか、スーティンがセレ(フランス南部)で描いた作品や、モロッコの強い光が刺激になったと、エステートの伝記は説明しています。それまでの、幽霊のような形と暗い背景から、はっきり離れる転換でした。この連作の1点『Study for Portrait of Van Gogh IV』は、テートの所蔵です。
1958年10月には、ロンドンのマールボロ・ファイン・アートと契約しました。ハノーヴァー・ギャラリーに負っていた1,242ポンドの借金を、マールボロが引き受けたことがきっかけです。
ここまでに出てきた代表作と所蔵先を、表にまとめました。所蔵先はエステートの作品目録などによるもので、展示の有無は各館の公式サイトでご確認ください。
| 作品名 | 制作年 | 所蔵 |
| Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion | 1944年 | テート(ロンドン) |
| Painting | 1946年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| Head VI | 1949年 | アーツカウンシル・コレクション(ロンドン) |
| Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X | 1953年 | デモイン・アート・センター(アイオワ州) |
| Figure with Meat | 1954年 | シカゴ美術館 |
| Study for Portrait of Van Gogh IV | 1957年 | テート(ロンドン) |
| Three Studies for a Crucifixion | 1962年 | ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク) |
| In Memory of George Dyer | 1971年 | バイエラー財団(リーエン/バーゼル) |
| Triptych August 1972 | 1972年 | テート(ロンドン) |
| Triptych May-June 1973 | 1973年 | 個人蔵 |
| Portrait of Michel Leiris | 1976年 | ポンピドゥー・センター(パリ) |
| Second Version of Triptych 1944 | 1988年 | テート(ロンドン) |
リース・ミューズのアトリエと三幅対(1960年代)

1961年、ベーコンはサウス・ケンジントンのリース・ミューズ7番地に入居しました。もとは馬車や馬のための建物で、エステートの伝記は「改装された馬車置き場」と表現しています。2階のスタジオは、ベーコンの生涯でもっとも大切な部屋になり、イングリッシュ・ヘリテージによれば、ベーコンは1992年まで31年間ここで暮らし、仕事をしました。2017年には、同団体の青い銘板が建物に取り付けられています。
この部屋は、時間とともに、絵具の跡と物で埋まっていきます。壁やドアには絵具が飛び、床には破れた写真や本の切れ端が積もりました。ベーコンはこの散らかった部屋のほうが描きやすいと語っていた、とグッゲンハイム美術館ビルバオの紹介ページは引用しています。
『Three Studies for a Crucifixion』(1962年)
リース・ミューズに入ってから数か月で、ベーコンは最初の大型の三幅対『Three Studies for a Crucifixion』(1962年)を描きました。各パネルは198.1×144.8cmで、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館が所蔵しています。エステートの伝記によれば、この作品は2週間ほどで描き上げられました。
グッゲンハイム美術館ビルバオの教材は、この作品を、宗教的な主題を扱った三幅対と説明しています。伝統的な祭壇画と違い、3枚のパネルは一つの物語ではなく、それぞれが独立しています。ただし、橙や赤のほぼ単色の背景が、3枚を結びつけています。
ベーコンは1979年に、三幅対が最も好きな形式で、自分の作品に質があるとすれば、それは三幅対にもっとも出ていると思う、という趣旨のことを語っています。
この作品は、1962年5月24日から7月1日までロンドンのテート・ギャラリーで開かれた回顧展に、ほかの90点とともに出品されました。エステートの伝記によれば、この回顧展で、ベーコンは同時代のイギリスの画家のなかでの第一人者としての地位を固めました。
写真に頼った肖像画の時代
1963年の暮れ、ベーコンはジョージ・ダイアーと出会います。ダイアーは、1960年代のベーコンの絵に繰り返し登場する人物になりました。
この頃のベーコンは、実物を前に描くことはほとんどなくなっていました。写真家ジョン・ディーキンが撮った友人たちの写真、ヘンリエッタ・モラエス(Henrietta Moraes)、イザベル・ロースソーン(Isabel Rawsthorne)、ルシアン・フロイト、ミュリエル・ベルチャー(Muriel Belcher)らの写真を元にしています。エステートの伝記は、写真を使うことで、モデルの生き生きした様子を捉えながら、批判的な距離を保てたと説明しています。
1968年にはベーコンが初めてニューヨークを訪れ、マールボロ画廊で開かれた近作の個展に立ち会いました。批評家の評価は分かれましたが、1週間のうちに20点が売れています。
パリの回顧展と三幅対(1970年代)
1971年、ベーコンは、存命の画家としては異例の栄誉であった、パリのグラン・パレでの回顧展を迎えます。会期は1971年10月26日から1972年1月10日まででした。開幕の直前に、ダイアーが亡くなりました。
1970年代の三幅対には、『In Memory of George Dyer』(1971年11月、バイエラー財団)、『Triptych August 1972』(テート)、『Triptych May-June 1973』(個人蔵)などがあります。
1974年にはパリに住まいを買い、詩人で批評家のミシェル・レリスの肖像『Portrait of Michel Leiris』(1976年)などを描きました。
1975年には、批評家デイヴィッド・シルヴェスターとのインタビュー集が出版されました。1962年から1974年にかけて行われた対話で、1980年と1987年に増補されています。ベーコンは自分の絵について、偶然や事故の役割を強調して語りました。ただ、アトリエに残されたメモや下絵を見ると、本人が語る以上に計画的な画家だったことがうかがえる、とエステートの伝記は指摘しています。
世界各地の回顧展と晩年(1980〜1992年)
1970年代の半ばには、ジョン・エドワーズとの交流が始まりました。エドワーズは、のちにベーコンの唯一の相続人になります。
1978年のマドリードとバルセロナを皮切りに、ベーコンの個展と回顧展が世界各地で開かれました。1985年のテート・ギャラリーでの回顧展は125点で、テート・ギャラリーでの2度目の回顧展でした。1988年にはモスクワの新トレチャコフ美術館で、西側の主要な作家としては初めてソ連での個展が開かれました。
70代に入ってからも、作風は変わり続けました。1980年代には絵を切り詰め、人体は脚と胴だけの断片に、あるいは床に残された跡だけに縮められます。エアゾールの吹きつけで、ガーゼのような表面を作る試みも加わりました。
最晩年の傑作として挙げられるのが、2つの肖像の三幅対、『Three Studies for a Portrait of John Edwards』(1984年)と、『Study for Self-Portrait, Triptych』(1985〜86年)です。どちらにも、堂々とした静けさがあると、エステートの伝記は評しています。1988年には、1944年の三幅対を描き直した『Second Version of Triptych 1944』も制作しました。テートの所蔵で、同館の記録では、1991年にベーコン本人から寄贈されています。
1992年4月28日、滞在先のマドリードで亡くなりました。82歳でした。
ベーコンの描き方

ベーコンの描き方の特徴は3つあります。1つめは、写真と図版が出発点だったことです。エステートの伝記は、アトリエにあった破れた写真、図版の切れ端、展覧会のカタログが、ベーコンの視覚的な素材のほぼすべてだったと説明しています。ベーコン自身も、自分はあらゆるものを見ている、という趣旨の言葉を残しています。写真の汚れや折り目、本のページに付いた絵具の跡までが、絵の歪みの源になったといいます。
2つめは、画布の下地のない面に描いたことです。下地を塗らない生地は絵具をしっかりつかむ、というのがきっかけでした。3つめは、三幅対です。ベーコン自身が最も質が高いと感じていた形式でした。
ベーコンは、自作を厳しく見る画家でした。気に入らない絵は破棄したため、ダブリンに移されたアトリエからは、切り裂かれたキャンバスが100枚見つかっています。小さな絵はベーコン自身が、大きな絵は本人の頼みでエドワーズが壊したと、エステートは説明しています。切られた絵は、完成前のキャンバスがどう見えたかを教えてくれる貴重な資料になっています。
制作の様子を知る手がかりとして、エステートの公式YouTubeチャンネルの映像をご紹介します。完成作と最初の状態を並べた書籍『Revisions: Francis Bacon in the Act of Painting』(2024年刊)の紹介映像で、ベーコンが絵を描き換えた跡を知る手がかりになります。
アトリエが美術館になる(没後)

ベーコンの没後、リース・ミューズ7番地のアトリエは、1998年まで手つかずのまま残されました。この年、唯一の相続人ジョン・エドワーズと、遺産管理者のブライアン・クラークが、アトリエの中身のすべてを、ダブリンのヒュー・レーン・ギャラリー(Dublin City Gallery The Hugh Lane)に寄贈しました。ベーコンの生まれた街です。
同ギャラリーの公式ページによれば、館長バーバラ・ドーソンが、アトリエのすべてを、建築部分も含めてそのままダブリンに移す構想を立てました。1998年8月、考古学者が部屋の図面を描いて物の位置を記録し、学芸員が一つずつ札を付けて梱包します。ほこりまで運ばれ、壁、ドア、床、天井も取り外されました。
運び出された物は7,000点を超え、その後3年をかけて目録が作られ、デジタル化されました。内訳は上の図のとおりで、書簡、雑誌、新聞、レコードも含まれます。2001年5月に一般公開が始まり、この作業は新しい研究に大きく貢献したと、同ギャラリーは説明しています。

ダブリン市の公式ページによれば、ヒュー・レーン・ギャラリーは、改修のため2025年9月28日から休館しており、少なくとも3年は閉まる見込みです。アトリエは館内に残され、休館中も保護されるとされています。2026年10月時点では、見学はできないとみられます。再開の時期は、必ず公式サイトでご確認ください。
没後も、2008年のテート・ブリテン、2009年のプラド美術館とメトロポリタン美術館など、世界の大きな美術館で展覧会が開かれています。
日本とベーコン
日本では、1983年に東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、愛知県文化会館美術館(名古屋)の3館で、ベーコンの展覧会が開かれました。国立新美術館が公開している展覧会情報のデータベースにも、この3館の会期が記録されています。
それから30年後の2013年には、東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」が開かれ、豊田市美術館に巡回しました。国立新美術館の展覧会情報データベース(アートコモンズ)に載る紹介文では、没後アジア初の回顧展とされています。1940年代から晩年までの作品30数点で構成され、三幅対は大きなサイズが4点、小さなサイズが2点出品されました。大スフィンクスを描いた4点が一堂に揃うのは世界初とも説明されています。会場では、舞踊家の土方巽と振付家ウィリアム・フォーサイスのダンス映像も上映されました。
| 年 | 展覧会名 | 会場 | 会期 |
| 1983年 | フランシス・ベーコン展:現代具象絵画の鬼才 | 東京国立近代美術館 | 6月30日〜8月14日 |
| 1983年 | フランシス・ベーコン | 京都国立近代美術館 | 9月13日〜10月10日 |
| 1983年 | フランシス・ベーコン | 愛知県文化会館美術館 | 11月12日〜11月28日 |
| 2013年 | フランシス・ベーコン展 | 東京国立近代美術館 | 3月8日〜5月26日 |
| 2013年 | フランシス・ベーコン展(巡回) | 豊田市美術館 | 6月8日〜9月1日 |
まとめ
いかがだったでしょうか。フランシス・ベーコンの人生と作品を、時代を追ってご紹介しました。
家具デザイナーとして出発し、独学で画家になり、1944年の三幅対で名を知られたベーコンは、その後も教皇、宗教画の主題、友人の顔という限られた主題を、繰り返し描き直しました。散らかったアトリエで、写真と図版を手がかりに、下地のない面へ描く。その方法は、のちの1980年代まで大きくは変わりませんでした。
作品はテート、シカゴ美術館、グッゲンハイム美術館などに所蔵されています。実物の前で、絵具の質感を確かめてみてください。展示の有無は各館の公式サイトでご確認ください。
Euphoric " " の視点
ベーコンは、批評家デイヴィッド・シルヴェスターとの対話で、自分の絵について、偶然や事故の役割を強調して語りました。ところが、アトリエに残されたメモや下絵を見ると、本人が語る以上に計画的な画家だったことがうかがえると、エステートの伝記は指摘しています。
その手がかりを残したのが、リース・ミューズ7番地のアトリエです。中身はダブリンのヒュー・レーン・ギャラリーに移され、7,000点を超える物の目録が作られました。ベーコンが破棄した絵も、完成前のキャンバスがどう見えたかを教えてくれる資料になっています。
作り手の言葉は、作品を知る大切な入口です。ただ、仕事の実像は、作業場に残された過程のほうに、より多く刻まれていることもあるのかもしれません。メモや途中の段階を手元に残しておくことは、未来の読み手への手がかりになりうると考えます。ベーコンのアトリエは、そのことを示しているように思います。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品や関連情報は、次のページで確認できます。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- テート『Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion』作品ページ(ロンドン・英語)
- テート フランシス・ベーコン 作家ページ(ロンドン・英語)
- グッゲンハイム美術館ビルバオ「The Studio at 7 Reece Mews」(英語)
- ダブリン市 ヒュー・レーン・ギャラリー(休館のお知らせ・英語)
展示替えや貸し出しがあるため、作品の展示状況は各館の公式サイトでご確認ください。ダブリンのベーコンのアトリエは、上の節のとおり、ギャラリーの改修のため2026年10月時点では見学できない見込みです。






