【徹底解説】伊藤若冲とは?青物問屋から生まれた奇想の天才絵師の人生と作品を解説!

【徹底解説】伊藤若冲とは?青物問屋から生まれた奇想の天才絵師の人生と作品を解説!
画像:『紫陽花双鶏図』・『老松孔雀図』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは伊藤若冲という人物をご存知ですか?

江戸時代の京都で青物問屋(野菜の卸売市場を取り仕切るお店)の主人として生まれ、40歳で家業を弟に譲ってからは絵を描くことに人生を捧げた画家です。

鶏をはじめとする動植物を、驚くほど細かな描写と鮮やかな色彩で描いた『動植綵絵』は、2021年に国宝に指定されました。いまや展覧会を開けば長蛇の列ができる、日本美術屈指の人気画家といえます。

本記事ではそんな伊藤若冲の人生と作品についてご紹介します。

伊藤若冲って?

基本情報

本名伊藤汝鈞(じょきん)。字(あざな)は景和。家業を継いでからは枡屋(伊藤)源左衛門、隠居後は茂右衛門と名乗る
生年月日(没年月日)1716年3月1日(正徳6年2月8日)-1800年10月27日(寛政12年9月10日)(数え年85歳没)
国籍/出身日本 京都・錦小路(現在の京都府京都市中京区)
学歴記録なし
分野日本画(花鳥画・水墨画・版画)
傾向写生にもとづく濃彩の花鳥画、水墨画、奇想の画家
師事した人物/影響を受けた人物大典顕常(禅の師)、売茶翁、宋・元・明の中国絵画、狩野派(大岡春卜に学んだとする記録あり)など

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経歴と作品

京都・錦小路の青物問屋に生まれて

伊藤若冲は1716年、京都の錦小路にあった青物問屋「枡屋(ますや)」の長男として生まれました。家名とあわせて「枡源(ますげん)」とも呼ばれたお店です。

錦小路といえば、現在も「京の台所」として知られる錦市場がある場所です。

当時の問屋は、お客さんに直接野菜を売る小売店とは少し違います。農家や仲買人、小売の商人たちに売り場を提供し、商人どうしの関係を取りまとめながら、場所代を受け取る流通業者でした。

枡屋は多くの商人を抱えていたとされ、家業はたいへん安定していたようです。この経済的なゆとりが、のちに若冲が最高級の画材を惜しみなく使って絵を描くことを可能にしました。

23歳のときに父の源左衛門が亡くなり、若冲は4代目の枡屋源左衛門を継ぎます。

ただ、若冲の友人で禅の師でもあった相国寺の僧・大典顕常が書き残した記録によると、若冲は絵を描くこと以外の世間のことにほとんど関心を示さなかったといいます。

商売には熱心ではなく、芸事もせず、お酒も飲まず、生涯妻をめとらなかったと伝えられています。まさに絵ひとすじの人物だったのです。

ちなみに、よく知られる若冲の肖像画は、若冲が亡くなってから80年以上後の明治時代に、京都の画家・久保田米僊が描いたものです。若冲本人を目の前にして描かれたものではない点には注意が必要です。

狩野派から中国絵画、そして実物の写生へ

『芍薬群蝶図』(1757〜1760年頃)

伊藤若冲『芍薬群蝶図』(1757〜1760年頃)
伊藤若冲『芍薬群蝶図』(1757〜1760年頃)『動植綵絵』のうち 皇居三の丸尚蔵館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

若冲がどのように絵を学んだのかについては、はっきりしないことも多く残っています。

江戸時代の人物事典には、若冲が狩野派(室町時代から続く、幕府や大名に仕えた日本最大の画派)の画家・大岡春卜に学んだという記述があります。大典が記した若冲の墓碑銘にも、狩野派に学んだと書かれています。

一方で、残っている若冲の作品から狩野派らしさを見つけるのは難しく、どれほど深く学んだのかは諸説あります。

墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法を身につけたあと、それを捨てて宋や元の時代の中国絵画、特に色鮮やかな花鳥画を手本にして模写に励みました。

相国寺をはじめとする京都の寺院には、中国から渡ってきた名画が数多く伝わっていました。大典との交流を通じて、若冲はこうした名品を目にする機会を得たと考えられています。

さらに模写にも飽きた若冲は、最後に実物を見て描く写生へと進んだと伝えられています。

当時の日本では、薬や動植物を研究する本草学(ほんぞうがく)が流行しており、ものを実際に観察して確かめようとする空気が高まっていました。若冲の写生への傾倒には、こうした時代の雰囲気も影響していたと言われています。

若冲は庭で鶏を飼い、その姿をじっくり観察して描いたと伝えられています。上の『芍薬群蝶図』でも、芍薬の花びらの重なりや、蝶の羽の模様の一つひとつまで、驚くほど丁寧に描き分けられています。

なお「若冲」という名前は、中国の古典『老子』にある「大盈若沖(だいえいはむなしきがごとし)」という言葉から取られたものです。「本当に満ち足りたものは、かえって空っぽのように見える」という意味で、大典、あるいは売茶翁から与えられた居士号(出家せずに禅を学ぶ人の名前)と推定されています。

40歳で隠居、絵師として生きる道へ

『紫陽花双鶏図』(1759年)

伊藤若冲『紫陽花双鶏図』(1759年)
伊藤若冲『紫陽花双鶏図』(1759年)『動植綵絵』のうち 皇居三の丸尚蔵館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

40歳になった若冲は、家督を3歳下の弟に譲り、早々と隠居します。当時の40歳は「初老」と呼ばれる年齢でした。

とはいえ、現代の感覚でいえば働き盛りの年齢です。商売から離れた若冲は、ここから本格的に絵の道へと進んでいきます。

若冲は「心遠館(しんえんかん)」という号も用いています。中国の詩人・陶淵明の詩の一節に由来するとされ、心を俗世から遠ざけるという意味が込められています。

そして40代から50歳頃にかけての若冲が全力を注いだのが、若冲の代名詞ともいえる『動植綵絵(どうしょくさいえ)』です。

「動物と植物を彩り豊かに描いた絵」という意味のこの作品は、全30幅(掛け軸30本)からなる大作です。宝暦7年(1757年)頃から明和3年(1766年)頃まで、およそ10年をかけて描き継がれました。

上の『紫陽花双鶏図』は、その初期に描かれた1幅です。画面上部を青い紫陽花の花が覆うなか、雄鶏と雌鶏の番(つがい)が描かれています。

雄鶏の尾羽のしなやかな曲線、羽毛の一枚一枚の重なり、そして紫陽花の小さな花びらの一つひとつ。細部に目を凝らすほど、その描き込みの密度に驚かされます。

一方で、画面全体を見ると、紫陽花はまるで模様のように配置されており、現実の庭をそのまま写した絵とは少し違う不思議な印象を受けます。写生をもとにしながらも、若冲独自の感覚で色や形が組み立てられている点が、若冲の花鳥画の大きな魅力です。

大典との縁と、金閣寺の障壁画

『老松孔雀図』(1757〜1760年頃)

伊藤若冲『老松孔雀図』(1757〜1760年頃)
伊藤若冲『老松孔雀図』(1757〜1760年頃)『動植綵絵』のうち 皇居三の丸尚蔵館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『動植綵絵』の制作と並行して、若冲はもう一つの大仕事を手がけています。

1759年、44歳のときに、大典との縁から鹿苑寺(金閣寺)大書院の障壁画(襖や壁に描かれた絵)50面を描いたのです。

こうした場所には松や竹、梅などのおめでたい画題が選ばれることが多いなか、若冲は葡萄や芭蕉といった珍しい植物を水墨で描きました。月夜に大きく葉を広げる芭蕉を描いた「月夜芭蕉図」などが知られています。

この50面は現在、国の重要文化財に指定され、相国寺の承天閣(じょうてんかく)美術館で保管されています。

上の『老松孔雀図』は、『動植綵絵』のなかでもひときわ華やかな1幅です。

松の古木と紅白の牡丹を背景に、真っ白な孔雀が大きく尾羽を広げています。白い羽の一枚一枚まで細やかに描き込まれ、深い緑の松を背にした孔雀の姿は、画面のなかでひときわ輝いて見えます。

『動植綵絵』には、当時手に入る最高品質の絹や絵具が惜しみなく使われました。そのため、描かれてから200年以上がたった現在でも保存状態が良く、色あせが少ないことでも知られています。

枡屋の主人として築いた経済的な余裕があったからこそ、若冲は時間と画材に糸目をつけずに、この大作に向き合うことができたのです。

小さな命へのまなざし『動植綵絵』の世界

『池辺群虫図』(1761〜1765年頃)

『動植綵絵』に描かれているのは、鶏や孔雀のような華やかな鳥だけではありません。

『池辺群虫図』では、瓢箪がたわわに実る池のほとりに、蛙、蛇、イモリ、蜘蛛、トンボ、蝶など、たくさんの小さな生き物たちが集まっています。

画面のあちこちに生き物が散りばめられ、一つひとつを探しながら眺めていると、時間を忘れてしまうほどです。

ふだんなら見過ごしてしまうような虫たちにも、若冲は鳥や花と同じだけの熱量を注いで描いています。

『諸魚図』(1765〜1766年頃)

伊藤若冲『諸魚図』(1765〜1766年頃)
伊藤若冲『諸魚図』(1765〜1766年頃)『動植綵絵』のうち 皇居三の丸尚蔵館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『諸魚図』には、蛸や甘鯛、鰹など、さまざまな海の生き物が描かれています。

面白いのは、魚たちの多くが同じような向きにそろえて描かれていることです。本物の海の中の様子というより、魚を一匹ずつ標本のように並べた図鑑のような構成になっています。

青物問屋のあった錦小路の周辺には魚を扱うお店も多くありました。若冲は、そうした身近な場所で魚や野菜を目にする機会に恵まれていたと考えられています。

また『動植綵絵』のうち、上の『諸魚図』とは別の幅である『群魚図』では、画面左下に描かれたルリハタという魚の青色に、ヨーロッパで生まれた人工の青色顔料「プルシアンブルー(ベロ藍)」が使われていることがわかっています。日本の絵画で確認されている最も早い使用例の一つとして注目されています。

新しい画材にもいち早く目を向けていたことから、若冲の好奇心の強さがうかがえます。

相国寺への寄進と『釈迦三尊図』

『釈迦三尊図』(1765年までに制作)

1765年、若冲は完成していた『動植綵絵』24幅と、『釈迦三尊図』3幅を相国寺に寄進しました。残りの幅もその後描き上げられ、1770年までに『動植綵絵』30幅と『釈迦三尊図』3幅、あわせて33幅が相国寺に納められました。

『釈迦三尊図』は、中央にお釈迦さま、左右に獅子に乗る文殊菩薩と白い象に乗る普賢菩薩を描いた3幅の仏画です。当時東福寺にあった、中国の画家・張思恭の作と伝わる仏画を見て感銘を受けた若冲が、その原画をもとに描いたものと言われています。

若冲は原画をただ写すだけでなく、衣のしわの線や色の対比を強めて、より華やかな画面に仕上げました。

これら33幅は、若冲の両親と弟、そして若冲自身の永代供養(お寺に末永く供養してもらうこと)を願って寄進されたものです。

寄進と同じ1765年の12月には、若冲は相国寺と死後の永代供養の契約を交わし、翌1766年には大典が文章を撰した生前墓(寿蔵)を相国寺の境内に建てています。自分が亡くなった後のことまで、早くから準備していたのです。

相国寺では、毎年行われる観音懺法会(かんのんせんぽうえ)という法要の際に、この33幅が堂内に掛けられて参拝者に公開されていたと伝えられています。

つまり『動植綵絵』は、単なる美術作品として描かれたのではなく、お釈迦さまを囲んで、この世に生きるあらゆる命を荘厳(しょうごん:仏さまの周りを美しく飾ること)するための絵だったのです。

錦市場を守った町年寄としての顔

『動植綵絵』を描き上げたあと、若冲の画業には新しい広がりが生まれます。

1767年頃から、若冲は木版画の制作にも取り組みました。1767年春に大典とともに京都から淀川を舟で下った旅をもとに、川沿いの景色を描いた「乗興舟(じょうきょうしゅう)」がよく知られています。大典が詩を添えた、二人の友情を感じさせる作品です。

これらは「拓版画(たくはんが)」と呼ばれる珍しい技法で作られています。ふつうの木版画とは逆に、描いた線の部分を彫り込み、紙を乗せて上から墨をつけることで、黒い地に白い線が浮かび上がる仕上がりになります。石碑の文字を写し取る拓本(たくほん)に似た方法で、濃彩の『動植綵絵』とは対照的な、白と黒だけの静かな世界です。

画家としての名声も高まり、京都の学者や文人、画家などを紹介した名簿『平安人物志』には、円山応挙らと並んで、画家の部の上位に名前が掲載されました。当時から、若冲が京都を代表する画家の一人と見なされていたことがわかります。

ところで、長いあいだ「隠居後の若冲は絵だけを描いて暮らしていた」と考えられてきました。しかし近年の研究で、意外な一面が明らかになっています。

1771年、若冲は枡屋のあった町の隣、帯屋町の町年寄(まちどしより:町の代表者)を務めていたことがわかったのです。

この頃、錦小路の市場は、商売上のライバルであった五条の青物問屋の働きかけなどもあって、奉行所から営業停止を命じられるという大きな危機に直面していました。

若冲は奉行所との交渉を重ね、周辺の村々に市場の存続を願い出るよう呼びかけるなど、市場の再開に向けて奔走します。途中、自分の町だけが営業を許されるという条件を持ちかけられても、ほかの町に対して不誠実だとして断ったと記録されています。

こうした粘り強い活動の末、1774年に冥加金(みょうがきん:営業を認めてもらう代わりに納めるお金)を納めることを条件として、錦市場はついに公認されました。

「絵のこと以外には関心がなかった」と伝えられる若冲ですが、自分が育った市場と、そこで働く人々を守るために力を尽くしていたのです。

この市場をめぐる騒動の期間は、確実にこの時期に描かれたとわかる作品がほとんど残っていません。それだけ、若冲がこの問題に力を注いでいたのかもしれません。

現在も多くの人でにぎわう錦市場を歩くとき、そこに若冲の尽力があったことを思い出してみるのも面白いかもしれません。

天明の大火を越えて、晩年の挑戦

『果蔬涅槃図』(1794〜1800年頃と推定)

伊藤若冲『果蔬涅槃図』(18世紀)
伊藤若冲『果蔬涅槃図』(18世紀)京都国立博物館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1788年、京都の大半を焼き尽くした天明の大火が起こり、若冲も自宅を失ってしまいます。すでに70代に入っていた若冲にとって、大きな痛手だったことでしょう。

それでも若冲は筆を置きませんでした。大火の後、大阪の文化人・木村蒹葭堂(きむらけんかどう)ら交流のあった人々の支えを受けながら、大作の障壁画を次々と手がけていきます。

大阪府豊中市の西福寺には、金箔を貼った襖6面に、両端のサボテンと12羽の鶏を描いた『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』(1789年頃)が残されています。国の重要文化財に指定され、現在も年に一度だけ一般公開されることで知られています。

当時の日本では珍しかったサボテンを取り入れるところにも、若冲らしい好奇心があらわれています。

上の『果蔬涅槃図(かそねはんず)』は、晩年の水墨画を代表する作品の一つです。

涅槃図とは、お釈迦さまが亡くなる場面を描いた仏画のことです。本来はお釈迦さまを囲んで弟子や菩薩、動物たちが嘆き悲しむ姿が描かれますが、若冲はそのすべてを野菜や果物に置き換えました。

中央でかごの上に横たわるお釈迦さまは二股の大根、周りを囲む沙羅双樹はトウモロコシで表されています。そのほかにも、60種類以上の野菜や果物が描き込まれています。

一見するとユーモラスな絵ですが、墨の濃淡やにじみ、かすれを巧みに使い分けることで、もの言わぬ野菜たちが本当に悲しんでいるかのように見えてくる、不思議な作品です。

青物問屋に生まれ、野菜とともに育った若冲だからこそ描けた涅槃図といえるでしょう。亡くなった家族の冥福を祈り、家業の繁栄を願う思いが込められているとも言われています。

制作時期はかつて若冲の母が亡くなった1779年頃と考えられていましたが、現在では押された印の状態などから、1794年以降の最晩年の作とする説が有力になっています。京都国立博物館が所蔵し、国の重要文化財に指定されています。

晩年の若冲は、京都・伏見の深草にある石峰寺(せきほうじ)の門前に住み、義理の妹とともに暮らしました。

60歳頃からは、この石峰寺の境内に五百羅漢の石像(羅漢:修行を積んだ仏弟子)を造る事業に力を注ぎます。若冲が下絵を描き、石工が彫り上げたもので、完成までにはおよそ10年を要したと言われています。「若冲五百羅漢」と呼ばれるこれらの石像は、現在も石峰寺で見ることができます。

また晩年には、画面を細かなマス目に区切り、一つひとつのマスを塗り分けて動物や植物を表す「升目描き(ますめがき)」という独特の技法も試みています。西陣織の下絵から着想を得たとも考えられていますが、この技法による屏風作品のなかには弟子の手が加わったとされるものもあり、研究者の間でも議論が続いています。

1800年、若冲は85歳(数え年)で亡くなりました。墓は石峰寺と、生前に用意していた相国寺の2か所にあります。

忘れられた画家から「奇想の画家」へ

生前から高い評価を受けていた若冲ですが、没後、その名前は少しずつ美術史の表舞台から遠ざかっていきます。

転機の一つとなったのが、1889年(明治22年)の出来事です。相国寺は『動植綵絵』30幅を明治天皇に献納し、作品は皇室の所蔵品となりました。このとき下賜されたお金によって、相国寺は明治初期の廃仏毀釈(仏教を排斥する運動)で苦しくなった寺の財政を支えることができたと言われています。一方、『釈迦三尊図』は相国寺に残され、33幅は別々に保管されることになりました。

その後、大正時代の末から若冲についての本格的な研究が始まります。そして大きな転換点となったのが、1970年に美術史家の辻惟雄(つじのぶお)が出版した『奇想の系譜』です。

この本で辻は、岩佐又兵衛や曽我蕭白、長沢芦雪らとともに、若冲を常識にとらわれない「奇想の画家」として紹介しました。それまで江戸絵画の主流から外れた存在と見られがちだった若冲に、新しい光が当たったのです。

さらにアメリカの収集家ジョー・プライスが若冲の作品に魅せられ、早くから熱心に収集していたことも、国内外での評価を後押ししました。

2000年には没後200年を記念して京都国立博物館で「若冲展」が開かれ、大きな話題となります。2006年に東京国立博物館で開催された「プライスコレクション『若冲と江戸絵画』展」をきっかけに、若冲の人気は一気に広がりました。

そして生誕300年にあたる2016年、東京都美術館で開かれた「生誕300年記念 若冲展」では、『動植綵絵』30幅と『釈迦三尊図』3幅が東京で初めて一堂に公開されました。入館まで最長5時間20分待ちという行列ができたことは、今でも語り草になっています。

2021年には、『動植綵絵』が国宝に指定されました。宮内庁三の丸尚蔵館(現在の皇居三の丸尚蔵館)の収蔵品が国宝に指定されたのはこのときが初めてで、同じ年に指定された狩野永徳の「唐獅子図屏風」などとともに大きな注目を集めました。

海外でも、2012年にワシントンのナショナル・ギャラリー、2018年にパリのプティ・パレ美術館で展覧会が開かれるなど、若冲は今や世界中で愛される画家となっています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

伊藤若冲は、京都・錦小路の青物問屋に生まれ、40歳で家業を離れてから本格的に絵の道を歩んだ画家でした。

狩野派や中国絵画に学びながら、最後は自分の目で見た生き物の姿を信じて描き続けた若冲。その集大成である『動植綵絵』には、鶏や孔雀だけでなく、虫や魚、貝といった小さな命までが、同じように丁寧に、そして美しく描かれています。

一方で、錦市場の危機には町の代表として奔走し、天明の大火で家を失った後も大作を描き続けるなど、その人生は「絵しか描かない変わり者」というイメージだけでは語りきれない力強さに満ちています。

若冲の作品は、皇居三の丸尚蔵館、相国寺承天閣美術館、京都国立博物館などで見ることができます。展示の時期は限られていることが多いため、気になる方は各館の展覧会情報をチェックしてみてください。

細部に目を凝らすほど新しい発見がある若冲の世界を、ぜひ実物で味わってみてはいかがでしょうか。

参考(公式サイト)

本記事の作品情報は、所蔵館などの公式情報をもとに確認しています。

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