【徹底解説】サンドロ・ボッティチェリとは?『ヴィーナスの誕生』を描いたフィレンツェの画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】サンドロ・ボッティチェリとは?『ヴィーナスの誕生』を描いたフィレンツェの画家の人生と作品を解説!
画像:『ヴィーナスの誕生』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはサンドロ・ボッティチェリという人物をご存知ですか?

ボッティチェリは、15世紀後半のイタリア・フィレンツェで活躍した初期ルネサンスを代表する画家です。

貝殻の上に立つ女神を描いた『ヴィーナスの誕生』や、花咲く森で神々が集う『プリマヴェーラ(春)』は、教科書などで目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

メディチ家をはじめとするフィレンツェの有力者たちに愛され、ローマのシスティーナ礼拝堂の壁画も任された人気画家でしたが、その生涯は華やかさだけでは語れない、大きな転換を経験したものでもありました。

本記事ではそんなサンドロ・ボッティチェリの人生と作品についてご紹介します。

サンドロ・ボッティチェリって?

サンドロ・ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』より部分、右端でこちらを見る人物が自画像とされる(1475年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』より部分(1475年頃)ウフィツィ美術館。右端でこちらを見る人物が自画像とされる/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano di Vanni Filipepi)
生年月日(没年月日)1445年頃(1444年とする説もあり)〜1510年5月17日
国籍/出身イタリア(フィレンツェ共和国)/フィレンツェ
学歴不明(画家フィリッポ・リッピの工房で修業)
分野絵画(祭壇画、神話画、肖像画、フレスコ画)、素描
傾向初期ルネサンス(フィレンツェ派)
師事した人物・影響を受けた人物フィリッポ・リッピ(師)、アントニオ・デル・ポッライオーロ、アンドレア・デル・ヴェロッキオ

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経歴と作品

なめし革職人の家に生まれて

ボッティチェリは1445年頃、フィレンツェに生まれました。

生まれた年ははっきりとは分かっておらず、当時の税の申告記録から1444年から1446年の間と考えられています。そのため「1445年頃」と書かれることが一般的です。

父のマリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピは皮なめし職人で、のちに金箔を打ち延ばす仕事にも関わったとされます。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピといい、「サンドロ」はアレッサンドロの愛称です。

では「ボッティチェリ」という名前はどこから来たのでしょうか。

これは本名ではなく、あだ名です。イタリア語で「小さな樽(たる)」を意味する言葉に由来し、もともとは兄ジョヴァンニのあだ名「ボッティチェッロ」だったものが、やがて一家の呼び名のようになり、サンドロにも受け継がれたと言われています。1470年頃には、すでにこの名前で呼ばれていたことが記録から分かっています。

はじめは金細工師のもとで学んだとする説もありますが、画家としての本格的な修業は、1460年代前半ごろからフィリッポ・リッピ(1406頃-1469)の工房で始まったと考えられています。

フィリッポ・リッピは、もともと修道士でありながら画家として活躍した人物で、やわらかな表情の聖母像で知られています。「ルネサンスの三大巨匠」よりもひとつ前の世代にあたり、以前ご紹介したフラ・アンジェリコとも同時代の画家です。

ボッティチェリが描く、どこか物憂げで優美な女性の顔立ちや、流れるような線の美しさには、師リッピからの影響が色濃く表れていると言われています。

リッピの工房を離れたのは1467年頃とされ、その後はフィレンツェで人気を集めていたアントニオ・デル・ポッライオーロや、レオナルド・ダ・ヴィンチの師としても知られるアンドレア・デル・ヴェロッキオの作風からも刺激を受けたと考えられています。

独立と、記録に残る最初の公的な仕事

師のフィリッポ・リッピが1469年に亡くなると、ボッティチェリはまもなく自分の工房を構えて独立します。

そして1470年、若き画家にとって大きなチャンスとなる仕事が舞い込みます。

フィレンツェの商人たちの争いごとを裁く「メルカンツィア(商事裁判所)」の法廷の間に飾る、7枚の「美徳」の擬人像のうち1枚を任されたのです。

『剛毅』(1470年)

サンドロ・ボッティチェリ『剛毅』(1470年)
サンドロ・ボッティチェリ『剛毅』(1470年)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『剛毅』は、困難に負けない心の強さ(剛毅)という美徳を、鎧を身につけ、指揮棒を手にした女性の姿で表した作品です。記録に残るボッティチェリの作品としては、最も早いものとされています。

実はこの7枚の連作は、もともとポッライオーロ兄弟の弟、ピエロ・デル・ポッライオーロの工房が請け負っていた仕事でした。

そこにメルカンツィアの役員であったトンマーゾ・ソデリーニの後押しがあり、ボッティチェリにも1枚が回ってきたと言われています。ピエロ側の反発もあって、ボッティチェリが描いたのは結局この1枚だけでした。

残る6枚(慈愛、信仰、節制、賢明、希望、正義)はピエロの工房が手がけ、現在は7枚そろってフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されています。

1470年からは、フィレンツェのヴィア・ヌオーヴァ(現在のポルチェッラーナ通り)に住まいを構え、亡くなるまでこの地域で暮らしました。近所にはヴェスプッチ家(アメリカ大陸の名の由来となったアメリゴ・ヴェスプッチの一族)が住んでおり、この一家はのちにボッティチェリの重要な注文主の一つとなっていきます。

また1472年には、亡き師フィリッポ・リッピの息子、フィリッピーノ・リッピがボッティチェリの工房に弟子入りしました。フィリッピーノはのちに独立し、フィレンツェを代表する画家の一人となります。師の息子を今度は自分が育てるという、不思議な縁が結ばれたのです。

メディチ家の時代と『東方三博士の礼拝』

当時のフィレンツェで絶大な力を持っていたのが、銀行業で富を築いたメディチ家です。

ボッティチェリの生涯は、このメディチ家と、その周りに集まる人々との関わりを抜きにしては語れません。ナショナル・ギャラリーの解説でも、ボッティチェリは画業の大半をメディチ家とその関係者のために働いたと紹介されています。

『東方三博士の礼拝』(1475年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』(1475年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』(1475年頃)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

「東方三博士の礼拝」とは、イエス・キリストの誕生を知った東方の三人の賢者(博士)が、贈り物を携えて幼子イエスを拝みに訪れる、聖書の有名な場面です。

この作品は、両替商組合に関わる実業家ガスパーレ・デル・ラーマが、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に設けた自分の礼拝堂のために注文したものです。制作年については、ウフィツィ美術館は1470年から1475年、ほかの資料では1475年から1476年頃としており、見解に幅があります。

この絵のおもしろいところは、聖書の登場人物の中に、当時のフィレンツェの人々の顔が描き込まれている点です。

ウフィツィ美術館の解説によると、幼子イエスの足元にひざまずく老人はメディチ家の繁栄を築いたコジモ・デ・メディチ、その手前で赤い衣をまとってひざまずくのが息子のピエロ、白い衣の人物がジョヴァンニとされています。さらに画面の中には、若き日のロレンツォ・デ・メディチ(のちの「豪華王」)や、その弟ジュリアーノとされる人物も描かれています。

コジモたち3人は、この絵が描かれた時点ですでに亡くなっていました。この祭壇画は、宗教画でありながら、メディチ家を中心とする有力者たちの肖像画のような性格も持っていたのです。

そして画面の右端に目を向けると、黄色の長い衣をまとい、金色がかった髪の若い男性が、こちらをまっすぐ見つめています。

この人物こそ、ボッティチェリ自身の自画像と考えられている人物です。本記事の冒頭に載せた肖像は、この部分を拡大したものです。聖なる場面の中から鑑賞者に視線を送るこの人物は、自分の腕に対する画家の自信を感じさせます。

ちなみにこの頃、フィレンツェでは大きな事件が起きています。1478年、メディチ家の打倒を狙ったパッツィ家の陰謀が起こり、ジュリアーノ・デ・メディチが殺害されたのです。ボッティチェリは、処刑された首謀者たちの姿を描いた大きな壁画をフィレンツェの税関の建物に描いたとされますが、この壁画は現存していません。

ローマへ、システィーナ礼拝堂の壁画

1481年、ボッティチェリはローマへ向かいます。背景には、パッツィ家の陰謀をきっかけに対立していたロレンツォ・デ・メディチとローマ教皇シクストゥス4世との和解があったと言われています。

教皇シクストゥス4世は、自分の名を冠した新しい礼拝堂、システィーナ礼拝堂を建てていました。その壁面を飾るため、フィレンツェなどから当代一流の画家たちが呼び集められたのです。

ヴァチカン美術館によると、この壁画はペルジーノ、ボッティチェリ、ドメニコ・ギルランダイオ、コジモ・ロッセッリらが、それぞれの工房の助手とともに手がけ、1481年に始まり1482年に完成しました。壁には旧約聖書のモーセの物語と、新約聖書のキリストの物語が向かい合うように描かれています。

システィーナ礼拝堂といえば、のちにミケランジェロが描いた天井画や『最後の審判』が有名ですが、それより前に、ボッティチェリたちの壁画がこの空間を彩っていたのです。

『キリストの試練』(1481-1482年)

サンドロ・ボッティチェリ『キリストの試練』(1481-1482年)
サンドロ・ボッティチェリ『キリストの試練』(1481-1482年)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン市国)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ボッティチェリがシスティーナ礼拝堂で担当したのは、『キリストの試練』(『キリストの誘惑』とも呼ばれます)、『モーセの若き日の出来事』『コラの子らの懲罰』の3つの場面です。

『キリストの試練』は、荒野で修行するキリストが悪魔から3度の誘惑を受け、それを退ける物語を描いたものです。画面の奥の左上、中央上、右上に誘惑の場面が配置され、手前には大勢の人々が集う儀式の場面が大きく描かれています。

大仕事を終えたボッティチェリは、フィレンツェに戻って再び制作に打ち込みます。

神話の世界を描く『プリマヴェーラ』

ボッティチェリの名前を不動のものにしたのは、ギリシャ・ローマ神話を題材にした大画面の作品です。

中世の絵画の題材はほとんどがキリスト教に関わるものでしたが、ルネサンス期のフィレンツェでは古代の文学や哲学を学び直す動きが盛んになり、教養ある人々の間で神話の世界が好まれるようになります。ボッティチェリは、こうした神話の場面を等身大に近いスケールで描いた先駆けの一人でした。

『プリマヴェーラ(春)』(1480年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春)』(1480年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春)』(1480年頃)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『プリマヴェーラ』はイタリア語で「春」を意味します。縦2メートル、横3メートルを超える大きな板絵で、制作年はウフィツィ美術館では1480年頃とされていますが、1470年代後半から1480年代初めまで、研究者によって見解が分かれています。

オレンジの実がなる森の中に、9人の神々や精霊が集う情景が描かれています。登場人物を右から順に見ていきましょう。

画面の右端で、青い肌をした西風の神ゼフュロスが、ニンフ(精霊)のクロリスを捕まえようとしています。クロリスの口からは花がこぼれ、その隣で花柄のドレスを着た女性、花の女神フローラに姿を変えていきます。ひとつの画面の中で、変身の前と後が並んで描かれているのです。

中央に立つのは、愛と美の女神ヴィーナスです。その頭上では、目隠しをした愛の神クピドが矢を放とうとしています。

左側では、薄い衣をまとった三美神が手を取り合って輪になって踊り、画面の左端では神々の使者メルクリウスが、杖を掲げて空の雲を払っているように見えます。

ウフィツィ美術館によると、画面の中には少なくとも42種類の植物が描かれており、その多くが正確に描き分けられているそうです。植物図鑑のような資料を参考にした可能性もあると言われています。

この絵はもともと、ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)のまたいとこにあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの邸宅に飾られていました。その後、メディチ家のカステッロの別荘に移され、1550年頃にヴァザーリがそこで目にしたことを記録しています。

全体としては「愛と平和と豊かさを讃える絵」と考えられていますが、細かな意味については今も解釈が分かれており、完全には解き明かされていません。

『パラスとケンタウロス』(1482年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『パラスとケンタウロス』(1482年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『パラスとケンタウロス』(1482年頃)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ローマから戻った直後の1482年頃に描かれたと考えられているのが、『パラスとケンタウロス』です。

知恵の女神パラス(アテナ)が、上半身が人間で下半身が馬の怪物ケンタウロスの髪をつかみ、おとなしくさせている場面です。ケンタウロスは本能や欲望の象徴とされることから、「理性が欲望に打ち勝つ」ことを表した作品と考えられています。

パラスの衣には、メディチ家の紋章として使われたダイヤモンドの指輪を組み合わせた模様が散りばめられています。このことから、メディチ家のための作品だったと考えられています。

この絵は長い間その存在が忘れられていましたが、1895年にフィレンツェのピッティ宮殿で再発見され、現在はウフィツィ美術館に所蔵されています。

『ヴィーナスの誕生』と円熟期

1480年代半ば、ボッティチェリは画家として最も充実した時期を迎えます。そして生まれたのが、彼の代名詞とも言える作品です。

『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『ヴィーナスの誕生』は、海の泡から生まれた女神ヴィーナスが、大きなホタテ貝に乗って岸へたどり着く場面を描いています。

画面の左では、西風の神ゼフュロスと、そよ風の精アウラとされる人物が、風を吹きつけてヴィーナスを岸へ運んでいます。右側で花模様の衣を広げてヴィーナスを迎えるのは、季節の女神ホーラ(あるいは三美神の一人)とされる女性です。

ウフィツィ美術館によると、この作品は板ではなくカンヴァス(布)に描かれています。カンヴァスは15世紀、貴族の邸宅を飾る装飾的な作品によく使われた支持体でした。岸辺に描かれたオレンジの木は、その実のイタリア語名がメディチ家の名前と響き合うことから、メディチ家を暗示しているとも言われています。

主題の選択には、メディチ家の周りにいた詩人アンジェロ・ポリツィアーノの影響があった可能性も指摘されています。

よく見ると、ヴィーナスの首は長く、左肩もなだらかに落ち、体のバランスは現実の人間とは少し違っています。しかしそれがかえって、この世のものとは思えない優美さを生み出しています。正確さよりも、線の美しさとリズムを大切にしたボッティチェリらしさがよく表れた部分です。

なお、『ヴィーナスの誕生』と『プリマヴェーラ』は並べて語られることが多いものの、もともと対になる作品として描かれたわけではありません。また、ヴィーナスのモデルは、1476年に22歳の若さで亡くなった美女シモネッタ・ヴェスプッチだという話が広く知られていますが、これは後世に広まった言い伝えで、裏付けは乏しいとされています。

『ヴィーナスとマルス』(1485年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスとマルス』(1485年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスとマルス』(1485年頃)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

同じ頃に描かれた『ヴィーナスとマルス』は、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている横長の作品です。

左に愛の女神ヴィーナスが静かに座り、右では戦いの神マルスがぐっすりと眠り込んでいます。その周りでは、半人半獣の小さなサテュロスたちがマルスの兜をかぶったり、槍を運んだり、耳元でほら貝を吹いたりと、いたずらの真っ最中です。それでもマルスは目を覚ましません。

「愛は戦いに打ち勝つ」というテーマを、ユーモアたっぷりに描いた作品です。マルスの頭の近くには蜂(スズメバチ)が飛んでいますが、イタリア語でスズメバチは「ヴェスパ」と言うことから、注文主はヴェスプッチ家だったのではないかという説もあります。ただしナショナル・ギャラリーは、注文主ははっきりしていないとしています。

このほかボッティチェリは、ダンテの『神曲』の挿絵にも取り組みました。羊皮紙に描いた『神曲』の素描が90枚以上残されており、現在はヴァチカン図書館とベルリンの美術館に分かれて所蔵されています。

サヴォナローラの時代と作風の変化

1492年、フィレンツェの黄金時代を支えたロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)が亡くなります。これをきっかけに、フィレンツェの空気は大きく変わっていきました。

この時代に強い影響力を持ったのが、ドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)です。

サヴォナローラは、ぜいたくや道徳の乱れを激しく批判し、人々に悔い改めを説きました。1494年にフランス軍がイタリアに攻め込み、メディチ家がフィレンツェから追放されると、サヴォナローラの説教は多くの市民の心をとらえ、町の政治にも大きな影響を与えるようになります。

ボッティチェリもサヴォナローラの教えに強く心を動かされた一人だったと考えられています。ナショナル・ギャラリーは、ボッティチェリを「熱心な信奉者だったと考えられている」と紹介しています。

サヴォナローラの支持者たちが、ぜいたく品や美術品を集めて燃やした「虚栄の焼却」はよく知られており、ボッティチェリも自分の神話画を火に投じたという話が語られることがあります。しかし、これを裏付ける確かな記録は見つかっておらず、事実かどうかは分かっていません。

確かなのは、この頃から作風が、優美な神話画から張り詰めた宗教画や寓意画へと変わっていったことです。

『誹謗(アペレスの誹謗)』(1495年頃)

サンドロ・ボッティチェリ『誹謗(アペレスの誹謗)』(1495年頃)
サンドロ・ボッティチェリ『誹謗(アペレスの誹謗)』(1495年頃)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『誹謗』は、古代ギリシャの名画家アペレスが描いたとされる、失われた絵を再現しようとした作品です。その絵の内容は、2世紀の著述家ルキアノスの文章によって後世に伝えられていました。

ロバの耳をした王に「無知」と「疑惑」がささやき、たいまつを手にした「誹謗(悪口)」が、無実の若者の髪をつかんで引きずっていきます。

画面の左端では、黒い衣の老女「悔恨」が振り返り、その視線の先には、衣をまとわない「真実」が天を指さして立っています。しかし、誰も「真実」に目を向けようとはしません。

ウフィツィ美術館は、この作品をボッティチェリ最後の寓意的・神話的な作品と位置づけています。豪華な建築の中で繰り広げられる激しい身ぶりの人物たちからは、それまでの穏やかな神話画とはまったく違う、切迫した空気が伝わってきます。

1498年、サヴォナローラは失脚し、処刑されてしまいます。

晩年と『神秘の降誕』

『神秘の降誕』(1500年)

サンドロ・ボッティチェリ『神秘の降誕』(1500年)
サンドロ・ボッティチェリ『神秘の降誕』(1500年)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

サヴォナローラの死から2年後に描かれたのが『神秘の降誕』です。

画面の中央には、生まれたばかりのイエスと聖母マリアが描かれ、空ではオリーブの枝を持った天使たちが輪になって舞っています。画面の下の方では、天使と人々が抱き合い、地面の割れ目には小さな悪魔たちが逃げ込んでいく様子が描かれています。

この作品は、ボッティチェリが署名と年記を残した唯一の作品として知られています。画面の上部にはギリシャ語で、おおよそ次のような言葉が書き込まれています。

この絵は、1500年の終わり、イタリアの混乱のさなかに、私アレッサンドロが描いた。
聖ヨハネの黙示録第11章にある、第二の災いのときに……

「イタリアの混乱」とは、フランス軍の侵攻やフィレンツェの政情不安を指していると考えられています。ナショナル・ギャラリーは、この作品に、世の終わりとキリストの再臨を説いたサヴォナローラの考え方が反映されていると解説しています。

聖母子がほかの人物より大きく描かれているのも特徴です。これは、遠近法を重んじたルネサンスの描き方ではなく、大切な人物を大きく描く中世的な表し方です。遠近法を自在に使いこなしてきたボッティチェリが、あえて古い描き方を選んだところに、この時期の彼の心の在り方がうかがえます。

画家で伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリは、『画家・彫刻家・建築家列伝』の中で、晩年のボッティチェリは年老いて働けなくなり、杖なしでは立てないほど衰えて亡くなったと書いています。ただしヴァザーリは没年を1515年としており、実際の記録と食い違っています。晩年も一家の暮らし向きは悪くなかったことを示す資料もあり、この記述をそのまま信じることはできないと考えられています。

ボッティチェリは生涯独身でした。晩年はふさぎ込みがちになったと、ヴァザーリは伝えています。

そして1510年5月17日、ボッティチェリはフィレンツェで亡くなりました。65歳前後だったと考えられます。遺体は、若い頃から暮らした地域にあるオニサンティ聖堂に葬られました。

忘れられた画家から世界の名画へ

生前は大変な人気を誇ったボッティチェリですが、亡くなった後、その名声は急速に薄れていきました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロら「盛期ルネサンス」の巨匠たちが活躍すると、人々の関心はより写実的で力強い表現へと移り、線の美しさを大切にしたボッティチェリの画風は時代遅れと見なされるようになったのです。

その後、300年以上にわたって、ボッティチェリは一部の人を除いてほとんど注目されない画家となりました。

状況が大きく変わったのは19世紀後半のことです。イギリスで、ラファエロ以前の素朴で誠実な絵画を理想としたラファエル前派の画家たちや、批評家ジョン・ラスキンらがボッティチェリに注目し、その再評価が一気に進みました。先ほどご紹介した『パラスとケンタウロス』が再発見されたのも、ちょうどこの時期にあたる1895年のことです。

今ではウフィツィ美術館の『ヴィーナスの誕生』と『プリマヴェーラ』の前に、世界中から人々が訪れています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

初期ルネサンスのフィレンツェを代表する画家、サンドロ・ボッティチェリの人生と作品についてご紹介しました。

皮なめし職人の家に生まれ、フィリッポ・リッピのもとで腕を磨いたボッティチェリは、メディチ家をはじめとするフィレンツェの有力者たちに愛され、システィーナ礼拝堂の壁画を任されるほどの人気画家となりました。

『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』に見られる、流れるような線と夢のように優美な人物表現は、神話の世界を絵画の大きなテーマへと押し上げました。

一方で、メディチ家の時代が終わり、サヴォナローラの登場によって町の空気が変わると、ボッティチェリの絵もまた、祈りと不安が入りまじった厳しい表現へと変わっていきます。華やかな神話画と、晩年の張り詰めた宗教画。その両方を見比べてみると、一人の画家が時代の大きなうねりの中で何を感じ、どう描こうとしたのかが見えてくるのではないでしょうか。

ウフィツィ美術館やナショナル・ギャラリーを訪れる機会があれば、ぜひ実物の前で、その繊細な線の美しさを確かめてみてください。

参考(公式サイト)

本記事の作品情報は、所蔵館などの公式情報をもとに確認しています。

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