こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはヴァロットンという人物をご存知ですか?
フェリックス・ヴァロットンは、スイスのローザンヌに生まれ、16歳でパリに出て活動した画家・版画家です。のちにフランス国籍も取り、ナビ派の一員として作品を発表しました。黒一色の木版画で名を上げ、のちには絵画に専念した、二つの顔を持つ作家です。
本記事ではそんなヴァロットンの人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggleヴァロットンって?

基本情報
| 本名 | フェリックス・エドゥアール・ヴァロットン(Félix Édouard Vallotton) |
| 生年月日(没年月日) | 1865年12月28日〜1925年12月29日(60歳没) |
| 国籍・出身 | スイス/ローザンヌ生まれ。1900年にフランス国籍も取得(スイス国籍も保持)。没地はパリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌ |
| 学歴 | ローザンヌのコレージュ・カントナル(1875〜1882年)、パリのアカデミー・ジュリアン(ジュール・ルフェーブル、ギュスターヴ・ブーランジェに師事) |
| 分野 | 絵画(油彩)、木版画、リトグラフ、新聞・雑誌の挿絵と風刺画、小説・戯曲・美術批評 |
| 傾向 | ナビ派。黒と白の面で構成する大胆な木版画と、冷ややかなほど静かな構成の絵画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | アカデミー・ジュリアンの師のほか、木版画の手ほどきをしたシャルル・モラン。デューラー、ホルバイン、クラーナハ、プッサン、アングルに手本を求めました。木版画では日本の浮世絵の影響も指摘されています。エドゥアール・ヴュイヤールとは親しい友人でした |
ヴァロットンと同じナビ派の画家や、同時代のパリの版画家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
二つの顔を持つ画家
ヴァロットンの仕事は、おおまかに二つの時期に分かれます。1890年代は、木版画と新聞・雑誌の挿絵で知られた時期です。1900年代からは、肖像、裸婦、風景、静物といった昔ながらの主題を、新しい構成で描き直す画家になりました。
ローザンヌ州立美術館によると、ヴァロットンは1905年から亡くなるまでの20年間、同時代の近代美術の流れからは離れ、独立した立場で制作を続けました。
スイス歴史事典(Dictionnaire historique de la Suisse)は、1905年からのヴァロットンの絵について、主題こそ伝統的でも、描き方があまりに冷ややかで考え抜かれているため、イタリアの形而上絵画やスイス・ドイツの新即物主義を先取りしたように見える、と説明しています。
経歴と作品
ローザンヌからパリへ(1865〜1880年代)
ヴァロットンは1865年、ローザンヌのプロテスタントの家に生まれました。父アドリアンは薬局を営み、のちに製チョコレート工場も手がけた人物です。ローザンヌ州立美術館の年譜によると、ヴァロットンは1882年、16歳でパリに出て、そのままパリに定住しました。学んだのはアカデミー・ジュリアンです。
1885年には、サロン・デ・ザルティスト・フランセに初めて出品します。この時期の油彩は肖像が中心でした。
『Autoportrait à l’âge de vingt ans』(1885年)
ローザンヌ州立美術館が所蔵する20歳の自画像が、その最初期の代表作です。本記事では権利の確認が取れた図版のみを掲載しているため、この絵は文章でご紹介します。画面の人物は体を横に向け、青白い顔だけをこちらに向けています。暗い色の上着に、糊のきいた白い襟。背景は大きな青い面で、同館はこれを、少年期に何度も眺めたレマン湖を背にした姿だと読み解いています。
手本としたのは、北方ではクラーナハ、デューラー、ホルバイン、フランスではプッサンやアングルといった、対象をくっきりと捉える画家たちでした。同館は、誠実さと正直さを大切にするプロテスタントの倫理が、ヴァロットンの出発点にあったと説明しています。この自画像は1896年にローザンヌの美術館が購入し、ヴァロットンの絵として、公的なコレクションに入った最初の作品になりました。
木版画で名を上げる(1891〜1890年代なかば)
ヴァロットンが木版画を始めたのは1891年です。スイス歴史事典によると、きっかけはシャルル・モランの手ほどきでした。同年にアンデパンダン展(サロン・デ・ザンデパンダン)、翌1892年にはバラ十字展(サロン・ド・ラ・ローズ=クロワ)に木版画を出品し、大胆な造形と、社会批判を含む力強い内容が、画家にも批評家にも注目されました。
木版画は、ルネサンス期に栄えたあと、19世紀半ばには芸術の技法として顧みられなくなっていました。シカゴ美術館は、ヴァロットンがこの技法を復活させ、黒と白の対比だけで、模様や奥行き、形を示したと解説しています。
ローザンヌ州立美術館の作品解説は、その特徴を三つに整理しています。第一に、デューラーを敬愛していたヴァロットンが、木目に沿って切り出した板を小刀で彫り、輪郭のはっきりした大きな面をつくったこと。第二に、色を使わず、深い黒と紙の白だけで勝負したこと。同じ時代にナビ派の友人たちが、色鮮やかなポスターやカラー版画を好んだのとは対照的でした。第三に、浮世絵の影響を受けた、簡潔で図案的な表現です。
『街頭デモ(La Manifestation)』(1893年)

1893年の木版画『街頭デモ』(三菱一号館美術館の表記による邦題。原題は La Manifestation)は、都市の群衆を描いた一枚です。高い位置から見下ろした通りを、黒い服の人々が、一斉に同じ方向へ駆けていきます。手前にはシルクハットの男の背中があり、その左では、帽子を落とした男が身をかがめています。左上の建物の扉の前には、倒れた人影が見えます。
人物のほとんどが黒いシルエットで、顔は小さな白い線で表されるだけです。画面の右下は大きく空いており、そのぶん、人々の動きが際立ちます。ニューヨークのメトロポリタン美術館は、この作品を、当時パリで発行された版画集『L’Estampe originale』(レスタンプ・オリジナル)の一枚として所蔵しています。
『L’Estampe originale』は、1893年から1895年にかけて、パリで限定版として発行された版画集です。三菱一号館美術館の説明によると、ロートレック、ボナール、ドニ、ゴーギャンらが参加し、さまざまな技法の版画が約100点収められました。
『怠惰(La paresse)』(1896年)

1896年の『怠惰』(三菱一号館美術館の表記による邦題)は、木版画の技法がよくわかる一枚です。暗がりの中から、ソファに横たわる女性の白い体と、後ろ脚で立ち上がった猫が浮かび上がります。ソファを覆う布には、幾何学的な模様がびっしりと彫り込まれました。黒い面の中に、白い線で細かな模様を浮かせる、ヴァロットンらしい手法です。
ローザンヌ州立美術館は、この作品を、ヴァロットンが技の頂点にあったことを示す一枚だと評しています。白い体でつながる女性と猫は、芸術家と同じように、ブルジョワ社会の道徳に飼いならされず、のんびりと自由に生きる存在の象徴だ、というのが同館の読みです。同館は所蔵する一枚を、およそ180部の刷りのうちの18番と記録しています。
新聞・雑誌の挿絵と、ナビ派の仲間たち(1890年代)
木版画の成功と並行して、ヴァロットンは新聞や雑誌の仕事に深く関わっていきます。ローザンヌ州立美術館の年譜では、1894年から風刺画家・挿絵画家としての活動を始め、1895年には文芸誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』の専属の挿絵画家に迎えられ、1902年まで風刺画や素描を寄せ続けました。
画家としての仲間も増えました。ヴァロットンは1893年にナビ派に加わります。ナビ派は、輪郭線をはっきりと引き、陰影のない平らな色の面が持つ喚起力を重んじた、象徴主義的な前衛の集まりです。同館の年譜によると、ヴァロットンはこの時期に画家のエドゥアール・ヴュイヤールと親しくなりました。スイス歴史事典は、ヴァロットンがナビ派と1900年まで定期的に展覧会を開いたと記しています。
さらに、ヴァロットンは書き手でもありました。同事典は、1890年から1897年まで『ガゼット・ド・ローザンヌ』紙のパリ通信員として美術について書いたこと、1900年を少し過ぎたころに小説3作と、辛辣な調子の戯曲数本を書き、これらは没後に出版されたことを伝えています。
『Bain au soir d’été』(1892〜93年)
この作品は、掲載方針の確認が取れた図版のみを載せているため、文章でご紹介します。
ヴァロットンは1892年の終わりごろから、木版画で培った表現を絵画に移し替えはじめます。その最初の大作が、チューリッヒ美術館が所蔵する、縦97センチ、横131センチの油彩『Bain au soir d’été』(夏の夕べの水浴の意)です。スイス歴史事典は、この謎めいた絵がアンデパンダン展でスキャンダルになったと記しています。
画面では、赤い煉瓦で縁取られた水辺に、たくさんの女性たちが集い、白い布で体を覆ったり、水に入ったり、さまざまな姿勢で過ごしています。背景には緑の野原が広がり、赤と緑の大きな色の面が、画面を引き締めています。チューリッヒ美術館の解説によると、この複雑な構図は、油彩の習作を経てつくられ、クラーナハ、ボッティチェリ、ルノワールなど、さまざまな過去の絵の記憶を、ナビ派らしい皮肉な調子で取り込んでいるとのことです。
1893年のアンデパンダン展には、「L’Été(夏)」で始まる題で出品されました。同館は、このとき画家が意図的に引き起こした「スキャンダルの成功」があったと記しています。
連作『アンティミテ』(1897〜98年)
ヴァロットンの木版画で、最もよく知られているのが連作『アンティミテ(Intimités)』です。ローザンヌ州立美術館は、これを現代の男女の暮らしを描いた十の場面と紹介しています。三菱一号館美術館は、2014年の展覧会の解説で、ブルジョワ風の室内を舞台に男女の怪しい緊張関係を描いたこの連作を、ヴァロットン木版画の頂点と位置づけました。題の「アンティミテ」は「親密さ」を意味します。
シカゴ美術館は、連作の1枚目を1897年、残りの9枚を1898年の作とし、発行元を『ラ・ルヴュ・ブランシュ』と記録しています。三菱一号館美術館によると、連作は1898年に限定30部で刊行されました。同館のコレクションデータベースは、10点の題を順に、嘘、勝利、きれいなピン、もっともな理由、お金、最適な手段、5時、訪問の支度、他人の健康、取り返しのつかないもの、としています。
同館は10点のほかに、厚紙の紙ばさみ(ポートフォリオ)と、「版木破棄証明のための刷り」と題された一枚も所蔵しています。
『お金(L’Argent)』(アンティミテⅤ、1898年)
連作の5枚目が『お金』です。画面の左端の窓辺に、白いドレスの女性が立ち、そのすぐ後ろに黒い服の男性が寄り添っています。男性の体は背後の闇と溶け合い、画面の右側の大半は、何も描かれない黒の塊です。
三菱一号館美術館は、10の場面の大部分が黒い平塗りの面に侵食されていると表現し、日常の場面に裏切りや無関心といった不穏な要素が潜んでいると解説しています。
なお、この連作については、権利の確認が取れた図版が見つからなかったため、本記事には掲載していません。三菱一号館美術館のコレクションデータベースで、全10点の画像を見ることができます。
結婚と、室内の絵画(1899〜1900年)
1899年、ヴァロットンはガブリエル・ロドリーグ=アンリーク(旧姓ベルネーム)と結婚します。ガブリエルは、パリの著名な画商アレクサンドル・ベルネームの娘でした。ローザンヌ州立美術館の年譜は、この結婚が経済的な安定をもたらし、画家としての才能が広く認められた時期と重なったと記しています。1900年にはフランス国籍を取得しましたが、スイス国籍も手放しませんでした。
スイス歴史事典は、1897年から1899年にかけて、ヴァロットンが鮮やかな色調の風俗画で人々に衝撃を与えたと述べ、その雰囲気を、イプセンやストリンドベリの戯曲に重ねています。1899年には、ナビ派との合同展がデュラン=リュエル画廊で開かれました。ローザンヌ州立美術館によると、ヴァロットンはこのとき「アンティミテ」の新しい連作を、今度は絵画で示しました。強烈な色彩、冷たいほど分析的な形の切り分け、どこか不穏な主題を特徴とする「人物のいる室内」6点で、世紀の変わり目のヴァロットンの芸術の核心といえるものだと、同館は評しています。連作の最初の一枚は、同館が所蔵する1898年の『La chambre rouge』です。
『ボール(Le Ballon)』(1899年)

同じ1899年に描かれたのが、『ボール』(三菱一号館美術館の表記による邦題。原題は Le Ballon)です。所蔵するオルセー美術館は、ヴァロットンの最も有名な絵の一つと紹介しています。板に貼った厚紙に油彩で描かれ、縦49.2センチ、横62センチ。1953年にカルル・ドレフュスの遺贈で収蔵されました。
画面は、公園を高い位置から見下ろした眺めです。同館の解説によると、明るい黄土色の小道に木々の影が落ち、背を向けた子どもが、強い日差しを受けて走っています。赤いリボンのついた黄色い帽子に、白い上着。追いかけているのは赤いボールです。奥には、青と白の服を着た二人の女性が小さく並んでいます。
同館は、二人の小ささから遠くにいるように思えるのに、空間の表し方は平らで正面的に見える、と指摘しています。なお、同館の作品ページでは、2026年10月時点で展示されていないと表示されています。
『The Red Room, Etretat』(1899年)

シカゴ美術館が所蔵する『The Red Room, Etretat』は、縦49.2センチ、横51.3センチの小さな油彩です。同館によると、この絵は個人的な写真に着想を得ており、ヴァロットンが身の回りの暮らしに目を向けていたことを示しています。
画面の大部分は赤で、肘掛け椅子に腰かけた女性が、うつむきがちに座っています。手前の床には、ピンクの服を着た幼い子どもがいます。同館は、ベッドの赤と子どもの服のピンクのように、大胆な単色の面を使っていることを指摘し、その図案的な簡潔さが、同じ時期につくられた室内の木版画に通じると述べています。
絵画だけの時代へ(1900年代〜1910年代)
1903年、ヴァロットンはベルネーム=ジュヌ画廊で初めての個展を開きます。ローザンヌ州立美術館の年譜によると、この年に『ラ・ルヴュ・ブランシュ』は廃刊となり、ナビ派はそれぞれの道を歩みはじめました。ヴァロットンは、創立会員のひとりだったサロン・ドートンヌの開幕に際して、初めてフランス政府に絵を売っています。
1904年には、念願だった絵画への専念を実現します。同じ年譜によると、このころから、肖像、裸婦、風景、静物、歴史画という昔ながらの主題へ、写実を取り戻すように戻っていきました。スイス歴史事典は、1900年を過ぎるとヴァロットンが前衛と決別し、アングルやプッサンといった過去の巨匠に学びながら、近代的なブルジョワ絵画の形を探りはじめたと説明しています。
1908年には、ヴィンタートゥールの収集家ヘディ・ハーンローザーとアルトゥール・ハーンローザーの夫妻と出会い、夫妻はスイスのドイツ語圏にヴァロットンを紹介しました。同じ年からパリのアカデミー・ランソンで教え、1918年まで続けています。1909年にはスイスで初めての個展をチューリッヒで開き、この年から夏をノルマンディーのオンフルールで過ごすようになりました。1910年には、画商ウジェーヌ・ドリュエの画廊で個展を開き、ドリュエがパリでの正式な画商になります。
『赤い服を着た後姿の女性のいる室内(Intérieur avec femme en rouge de dos)』(1903年)

この時期の室内画を代表するのが、チューリッヒ美術館の『赤い服を着た後姿の女性のいる室内』(三菱一号館美術館の2014年の展覧会での邦題)です。縦92.5センチ、横70.5センチの油彩で、開いた扉の向こうに部屋がいくつも続き、赤い服の女性が背を向けて奥へ歩いていきます。
同館の解説によると、ヴァロットン夫妻は1903年、ブーローニュの森に近いベル=フイユ通りの邸宅に移りました。続き部屋を抜けて寝室へ向かう妻ガブリエルを捉えたこの絵は、一連の室内画のなかで最も大きく、最も複雑な一枚だといいます。奥のベッドの上には、ヴァロットン自身の木版連作『楽器』が掛かっています。
記事の冒頭に掲げた『Autoportrait』も、同じチューリッヒ美術館の所蔵です。同館によると、1905年、40歳の誕生日を機に描かれました。
『The Wind』(1910年)

オンフルールの夏を機に、ヴァロットンは「構成された風景」と呼ぶ考え方を深めました。ローザンヌ州立美術館の年譜によると、ヴァロットンはこれを、自然をそのとおりに写すことから自由になった絵画と考えていました。
1910年の『The Wind』は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する、縦89.2センチ、横116.2センチの油彩で、画面いっぱいに、強い風にあおられた木々の葉が描かれています。灰色の空の下、枝葉は一方向に大きくたわみ、濃淡のある緑の塊が、うねるように並んでいます。
1912年には、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ケル=グザヴィエ・ルーセルとともに、レジオン・ドヌール勲章の授与を辞退しました。1913年にはロシアのサンクトペテルブルクとモスクワを旅し、ニューヨーク、シカゴ、ボストンを巡回したアーモリー・ショーにも参加しています。
戦争と、廃墟の絵(1914〜1917年)
1914年に第一次世界大戦が始まると、ヴァロットンの成功は大きく揺らぎ、画家は深い落ち込みに陥りました。ローザンヌ州立美術館の年譜によると、志願して入隊しようとしましたが、年齢を理由に断られています。この年、弟ポールが1913年に開いたベルネーム=ジュヌ画廊ローザンヌ支店で、同支店では初めてとなる個展が開かれました。
三菱一号館美術館は、大戦の勃発がヴァロットンを再び木版画の制作へ向かわせたと説明しています。同館が所蔵する連作『これが戦争だ!』は、1915年から1916年にかけての6点の木版画で、塹壕、有刺鉄線、監視兵といった題が付けられています。
転機は1917年です。ヴァロットンは軍に芸術的な任務を願い出て、シャンパーニュとアルゴンヌの前線に派遣されました。アトリエに戻ると、戦場となった地域に着想を得た風景画を数多く描きます。スイス歴史事典も、1917年のヴェルダン前線の訪問が、非現実的な雰囲気を持つ一連の戦争画を生んだと記しています。
『The Church of Souain』(1917年)

ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する『The Church of Souain』は、縦96センチ、横130センチの油彩です。画面の中央には、屋根を失った教会の石組みが残り、手前には崩れた壁と、散らばった石が描かれています。足元の草は鮮やかな緑で、空は明るい黄色を帯びています。
廃墟を描いているのに、画面は静かで、色は明るく、輪郭ははっきりとしています。スイス歴史事典の言う非現実的な雰囲気は、こうした静けさと、澄んだ色の組み合わせから生まれたのかもしれません。
南仏の冬、そして最後(1920〜1925年)
戦後、ヴァロットンの人気は落ちていきます。スイス歴史事典によると、弟でローザンヌの画商ポールと、パリで画商をしていた義理の息子ジャック・ロドリーグ=アンリークの支えがあっても、成功は戻りませんでした。1920年には健康上の問題から、温暖な土地を求めて、カンヌ近郊のカーニュで最初の冬を過ごします。以後、亡くなるまで、冬は毎年カーニュで過ごしました。
『Cros de Cagnes』(1924年)

チューリッヒ美術館が所蔵する『Cros de Cagnes』は、亡くなる前年の1924年の作で、縦46センチ、横65.5センチの油彩です。砂浜に赤と緑の小舟が引き上げられ、葉を落とした細い木が数本立っています。青い海には黄色い光の点が散り、対岸の山並みは淡い帯になって、黄土色の空に溶けています。
舟も、木も、山も、輪郭のはっきりした平らな形にまとめられ、人の姿はありません。同館の表示では、2026年10月時点で展示中とされています。
カーニュでの最初の冬に描かれた『Le palmier, Cagnes』(1920年)を所蔵するローザンヌ州立美術館は、この土地の絵の特徴を解説しています。同館によると、ヴァロットンがカーニュに着いたのは1920年11月24日でした。カーニュの絵では都市のにぎわいが消え、人はごく小さな影になるか、まったく姿を消します。光は暖かい黄土色を帯び、影の部分の灰色と対比されます。同館は、風景が、幾何学的にまとめた形と、微妙なぼかしのある平らな色面の組み合わせによって構成されていると説明しています。
晩年のヴァロットンは、古い主題にも取り組みました。1922年の『貞節なシュザンヌ(La chaste Suzanne)』(邦題は三菱一号館美術館の2014年の展覧会による)は、旧約聖書の物語に、ほぼ60歳の画家が皮肉を込めて向き合った作品だと、所蔵するローザンヌ州立美術館は解説しています。この絵が、見ること、見られることを主題にしている点に、同館は注目しています。
1925年、ヴァロットンはがんの手術のために診療所に入り、その3日後に亡くなりました。60歳の誕生日の翌日のことです。亡くなった場所はヌイイ=シュル=セーヌ、墓はパリのモンパルナス墓地にあります。
日本で出会うヴァロットン
日本にも、ヴァロットンの版画をまとまって所蔵する美術館があります。東京の三菱一号館美術館は、公式サイトのコレクション紹介で、ヴァロットンの版画約187点を収蔵していると記しています。同館は2014年の展覧会の案内で、ヴァロットンの版画は世界中に点在し、まとめて所蔵する美術館やコレクターはほとんどないと説明していました。『アンティミテ』『楽器』『これが戦争だ!』といった連作は、揃いで収蔵されています。
同館は版画のほか、1895年の油彩『公園、夕暮れ』(油彩・厚紙、18.5×48.5センチ)も所蔵しています。同館の説明によると、平坦な色面と単純化された構成で、夕暮れの陽光に照らされたリュクサンブール公園の情景を描いた作品です。
同館は2014年6月14日から9月23日まで、オルセー美術館とフェリックス・ヴァロットン財団の監修による回顧展を開きました。同館はこれを日本初のヴァロットンの回顧展と位置づけ、油彩約60点と版画約60点を展示しました。パリのグラン・パレ、アムステルダムのゴッホ美術館から巡回した展覧会で、『ボール』もこのとき紹介されました。2022年10月29日から2023年1月29日までは、所蔵する版画を中心にした展覧会も開いています。
ヴァロットンの絵を見るヒント
ヴァロットンの絵を見るときのヒントを三つ挙げます。
一つ目は、黒い面を、描かれていない部分ではなく、描かれた部分として見ることです。木版画の黒は、版木の彫り残した面にインクをのせて刷られたものです。『街頭デモ』の人影も、『お金』の大きな黒も、画家が意図して残した面で、黒の広さが画面の緊張を決めています。
二つ目は、色の面が、どこで終わるかを見ることです。『Bain au soir d’été』の煉瓦の赤、『ボール』の小道の黄土色、『The Red Room, Etretat』のベッドの赤、『The Church of Souain』の草の緑は、いずれも輪郭がはっきりした大きな面でできています。木版画の「面で組み立てる」発想が、絵の具に置き換わったと考えると、1890年代の版画と油彩がつながって見えてきます。
三つ目は、静けさの理由を探すことです。『The Wind』の強い風も、『The Church of Souain』の廃墟も、画面は静かです。スイス歴史事典が冷ややかで考え抜かれていると評した、その距離の取り方を探してみてください。
まとめ
いかがだったでしょうか。ヴァロットンは1865年にローザンヌで生まれ、16歳でパリに出て、1891年から木版画で名を上げました。1893年にナビ派に加わり、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』の挿絵画家として活動し、1899年の結婚を経て、1904年からは絵画に専念しました。
黒と白の面だけで人間関係を描いた『アンティミテ』、公園を高みから見下ろした『ボール』、色の面で室内を描いた『The Red Room, Etretat』、風にしなう木々の『The Wind』、戦場の廃墟の『The Church of Souain』、南仏の浜辺の『Cros de Cagnes』。画風は変わっても、ものを冷静に見つめ、面で組み立てる姿勢は、どの時期にも通じていました。
2025年10月24日から2026年2月15日まで、生誕の地ローザンヌの州立美術館で、没後100年を記念した回顧展が開かれました。同館はこれを、過去最大のヴァロットン回顧展と位置づけています。次にヴァロットンの絵に出会ったときは、黒い面や色の面が、画面の中でどんな役割を果たしているかに、目を向けてみてください。
Euphoric " " の視点
ヴァロットンは、色を使わず、深い黒と紙の白だけで勝負しました。ナビ派の友人たちが、色鮮やかなポスターやカラー版画を好んだのとは対照的です。
1904年には、念願だった絵画への専念を実現します。その後は亡くなるまでの20年間、同時代の近代美術の流れからは離れ、独立した立場で制作を続けました。
1912年には、ボナールやヴュイヤールらとともに、レジオン・ドヌール勲章の授与を辞退しています。
流行と距離を置き、名を上げた手法にもとどまらず、自分の関心に従う。ヴァロットンの歩みは、仲間の中にいながら独りで立つこともできるのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- チューリッヒ美術館『Bain au soir d’été』作品ページ(英語)(同館の表示では、2026年10月時点で展示中とされています。『赤い服を着た後姿の女性のいる室内』『Cros de Cagnes』も同様です)
- 三菱一号館美術館 コレクション紹介(ヴァロットンの版画約187点と油彩『公園、夕暮れ』)(所蔵作品が展示されるかどうかは、展覧会や小企画展の内容によります)
- ローザンヌ州立美術館『Autoportrait à l’âge de vingt ans』作品ページ(フランス語)(同館による作品解説のページです。展示の有無は公式サイトでご確認ください)







