こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジョン・バルデッサリという人物をご存知ですか?
ジョン・バルデッサリ(John Baldessari)は、1931年にアメリカのカリフォルニア州ナショナル・シティで生まれ、2020年に亡くなった美術家です。1960年代半ばに、写真と文字を組み合わせた絵画を発表し、コンセプチュアル・アート(作品の「考え」を何よりも重んじる美術)のもっとも早い例の一つとして知られるようになりました。
その後は写真、映像、版画、インスタレーションへと表現を広げ、1980年代には映画のスチル写真に色の丸を重ねる作品で、多くの人に記憶される作家になりました。カリフォルニア芸術大学(CalArts)やカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で長く教え、後の世代の美術家にも大きな影響を与えています。
ユーモアにあふれ、それでいて「美術とは何か」を鋭く問い続けた人でした。本記事ではそんなジョン・バルデッサリの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleジョン・バルデッサリって?

基本情報
| 本名 | ジョン・アンソニー・バルデッサリ(John Anthony Baldessari) |
| 生年月日(没年月日) | 1931年6月生まれ、2020年1月2日没(88歳) |
| 国籍・出身 | アメリカ/カリフォルニア州ナショナル・シティ(サンディエゴとメキシコ国境のあいだの町) |
| 学歴 | サンディエゴ州立カレッジ(現サンディエゴ州立大学)で学士号と修士号を取得。カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、オーティス美術学校、シュイナード美術学校でも学ぶ |
| 分野 | 絵画、写真、映像、版画、インスタレーション、彫刻 |
| 傾向 | コンセプチュアル・アート。写真と文字の組み合わせ、映画のスチル写真の引用、顔を覆う色の丸 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 特定の師は確認できませんでした。教え子にはデイヴィッド・サーレ、トニー・アウスラー、マイク・ケリーらがいます |
| 主な受賞 | ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞(生涯功労、2009年)、アメリカ国家芸術勲章(2014年) |
バルデッサリと同じ時代に「考え」の美術を切り開いた作家や、関連する美術の動きについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
国境の町で育ち、教えながら描いた画家(1931年〜1950年代)
ジョン・バルデッサリは1931年6月、カリフォルニア州ナショナル・シティに生まれました。ナショナル・シティはサンディエゴと、メキシコ国境の町ティフアナのあいだにある町です。ロサンゼルスのザ・ブロード美術館は、バルデッサリがアメリカとメキシコの国境に接するこの町で育ったと紹介しています。
両親はともに移民でした。ニューヨーク・タイムズの追悼記事によると、父はオーストリアから、母はデンマークからアメリカに渡り、こちらで出会いました。父は廃品を扱う仕事をしており、家族は野菜や果物を育て、生ごみを堆肥にして暮らしていました。バルデッサリは後に、この子ども時代のせいで物を捨てられないのだと語っています。2008年のインタビューでは「何かを捨てようとするたびに、それがいま取り組んでいる作品の一部にならないかと考えてしまう」「なぜそれが美術ではないのか。なぜそれが美術になれないのか」と話しました。
バルデッサリはサンディエゴ州立カレッジで美術教育を専攻し、同じ学校で修士号を取りました。ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)によると、カリフォルニア大学のバークレー校とロサンゼルス校、オーティス美術学校、シュイナード美術学校でも学んでいます。
ザ・ブロード美術館は、バルデッサリが1956年にサンディエゴ州立カレッジで絵画の授業を受け持ち、その後も生涯、制作と並行して教え続けたと書いています。中学校や短期大学でも美術を教え、やがてカリフォルニア大学サンディエゴ校の教員になりました。この時期の作品は、半ば抽象的な絵画でした。
コンセプチュアルアートとは?
バルデッサリの仕事を知るうえで欠かせないのが、「コンセプチュアル・アート(Conceptual Art)」という言葉です。ロンドンのテート美術館は、コンセプチュアル・アートを「作品の背後にある考え(コンセプト)が、完成した物としての作品よりも重要な美術」と説明しています。1960年代に美術の動きとして現れ、ふつうは1960年代半ばから1970年代半ばの作品を指します。
テートはこの動きの初期の例として、ジョセフ・コスースの連作「Titled (Art as Idea as Idea)」(1966〜1967年)などと並んで、1968年にロサンゼルスで展示されたバルデッサリの文字の絵画を挙げています。絵具の扱いの巧みさではなく、何を考えて作ったかを見せる。バルデッサリはその入り口に立った一人でした。

写真と文字の絵画(1966〜1968年)
LACMAは、バルデッサリが1960年代半ばに発表した文字と画像の絵画を「コンセプチュアル・アートのもっとも早い例の一つとして広く認められている」と紹介しています。白いキャンバスに写真を焼き付けたり、文字だけを書き入れたりした作品です。
『A Painting That Is Its Own Documentation』(1966〜1968年)
題名を訳すと「自分自身の記録である絵画」となります。サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)が所蔵する、6枚のキャンバスからなる横長の作品で、全体の幅は5メートルを超えます。
1枚目のキャンバスには、この絵が生まれた経緯が黒い文字で書かれています。「1968年6月19日 午前10時25分 カリフォルニア州ナショナル・シティでジョン・バルデッサリが着想」「7月30日 キャンバスを作り下地を塗る」「7月31日 文章を用意し編集」「8月1日 絵画を発注」「8月3日 絵画が完成」「10月6日 ロサンゼルスのモリー・バーンズ画廊で初公開」。
その下には「この絵画を展示するたびに、日付と場所を下に書き加えること。余白が足りないときは、キャンバスを追加すること」という注意書きがあります。実際に2枚目以降のキャンバスには、ニューポート・ハーバー美術館(1969年)から、ニューヨークのメトロポリタン美術館(2010〜2011年)、サンフランシスコ近代美術館(2016年)まで、展示された美術館と会期がずらりと並んでいます。
この作品が描いているのは、風景でも人物でもなく、作品そのものの来歴です。展示されるたびに文字が増え、キャンバスが増えていく。つまり作品は完成した瞬間に終わらず、見られることで育ち続けます。「絵画とは何か」という問いを、絵画自身に答えさせたような作品です。

『Looking East on 4th and C, Chula Vista, Calif.』(1966〜1968年)
こちらは、白いキャンバスの中央に白黒の街角の写真を焼き付け、その下に「LOOKING EAST ON 4TH AND C CHULA VISTA, CALIF.」(カリフォルニア州チュラビスタ、4番街とC通りの角から東を見る)と書いただけの作品です。
写真には、走り去る白い車、何本も立つ電柱と電線、平たい建物が写っています。名所でも、美しい景色でもありません。それでも写真と文字が並ぶと、見る人は「これは何の場所か」「なぜこの角なのか」と考え始めます。SFMOMAはこの作品を、アクリルと写真乳剤によるキャンバス作品として所蔵しています。

『Tips for Artists Who Want to Sell』(1966〜1968年)
ロサンゼルスのザ・ブロード美術館が所蔵する『Tips for Artists Who Want to Sell(売りたい画家へのヒント)』は、淡い黄色のキャンバスに、黒い文字だけが並ぶ作品です。題名の下には、箇条書きで3つの「ヒント」が書かれています。「一般に、明るい色の絵は暗い色の絵より早く売れる」「よく売れる主題は、聖母子、風景、花の絵、静物などである」「主題は大切だ。牛やめんどりを描いた絵はほこりをかぶるが、同じ絵でも雄牛やおんどりなら売れると言われている」。
ザ・ブロード美術館の解説によると、バルデッサリはこの絵に一度も触れていません。絵を描いたのも、文字を書いたのも本人ではなく、看板職人が仕上げました。書かれている言葉も、美術業界の雑誌から取った文章です。バルデッサリは「アトリエを必要としない種類の仕事がある。それは頭の中でなされる仕事だ。美術家は作品の仲立ちをする人であればよく、実際に作るのは別の話だ」と語っています。
見る人は確かに一枚の絵画を受け取ります。けれども、その中身は「絵画はどんな中身であるべきか」を指図する文章です。ザ・ブロード美術館は、美術といえば絵画、彫刻、素描を意味した1966年に、バルデッサリが乾いたユーモアでその思い込みに挑んだと説明しています。先に見た『A Painting That Is Its Own Documentation』の「絵画を発注」という一行も、この考え方とつながっています。

『Wrong』(1966〜1968年)
同じ時期の作品で、LACMAが所蔵する『Wrong(間違い)』もよく知られています。写真乳剤とアクリルによるキャンバス作品で、バルデッサリ本人が、頭からヤシの木が生えているように見える位置に立って写っています。
LACMAの解説によると、これは写真の構図でよく知られた失敗の例をそのまま見せたものです。題名はいくつもの意味での「間違い」を指しており、皮肉も込められていると考えられます。前衛美術には、作品を作り、考え、評価するうえで破ってはならない決まりはない、という考え方があるからです。バルデッサリ自身は「誰かが、これは正しい、これは間違いだと言い切る考え方が大好きだ。だから私は、間違っている美術作品を作ることにした。それが私には正しく思えた」と語っています。
ニューヨーク・タイムズによると、1968年には、フランク・ステラの絵を表紙に載せた美術雑誌『アートフォーラム』の表紙を描き写し、看板職人に頼んでその下に「This is not to be looked at(これは見るためのものではない)」という言葉を書き入れた作品も作っています。言葉と画像を対立させ、見ているものを本当に信じてよいのかと問いかける試みでした。
絵画を燃やした「Cremation Project」(1970年)
1970年、バルデッサリは美術界を驚かせる行動に出ます。テートによると、この年の夏、手元にあった1953年から1966年までの13年間の絵画をすべて、地元の施設で焼却したのです。多くの作品はあらかじめスライドに撮っていましたが、燃やした作品の正確な数は分かっていません。
バルデッサリは、この焼却そのものを『Cremation Project(火葬プロジェクト)』という一つの作品として構想しました。直後に批評家へ宛てた手紙では「これまでで最高の作品だと本気で思っている」と書いています。ニューヨーク・タイムズによると、灰の一部はクッキーの生地に混ぜて焼かれ、同じ1970年にニューヨーク近代美術館で開かれたコンセプチュアル・アートの展覧会「Information」に展示されました。
後年のバルデッサリは、この行為について少し気恥ずかしそうに「とても公の、象徴的な行為だった。ダイエットを続けるために、始めると周りに宣言するようなものだ」と振り返っています。手で描く絵画から離れ、写真や言葉の作品へ進むという決意を、あとに引けない形で示したのでした。
CalArtsの「ポスト・スタジオ」と映像作品(1970年代)
同じ1970年の夏、バルデッサリはサンディエゴからサンタモニカへ移り、カリフォルニア芸術大学(CalArts)で教え始めました。CalArtsは、バルデッサリを創立時の教員の一人として紹介しています。
ニューヨーク・タイムズによると、バルデッサリがCalArtsで担当したのは「ポスト・スタジオ」と呼ばれる授業でした。絵画や素描といった決まった分野に結びつかない授業です。バルデッサリは学校が所有する携帯型のビデオ装置を使って、短い映像作品を作り始めました。
もっともよく知られているのが、罫線入りのノートに「I will not make any more boring art(もう退屈な美術は作りません)」という同じ一文を、まるで罰の書き取りのように何度も書き続ける映像です。1972年の『Teaching a Plant the Alphabet(植物にアルファベットを教える)』では、鉢植えの植物の前で大きな文字カードを掲げ、根気よくアルファベットを読み上げます。もちろん植物は何も反応しません。テートは、この作品と1971年の『I Am Making Art(私は美術を作っている)』を所蔵しています。テートは、バルデッサリが『I Am Making Art』で、機知と皮肉によってコンセプチュアル・アートをからかうと同時に、それを実践してみせたと書いています。
『Throwing Three Balls in the Air to Get a Straight Line (Best of Thirty-Six Attempts)』(1973年)
題名を訳すと「一直線を得るために3つのボールを空中に投げる(36回の試みのうちの最良のもの)」となります。青い空を背景に、宙に浮かぶ3つのオレンジ色のボールを写した写真12枚からなる作品です。SFMOMAが所蔵するのは、オフセット・リトグラフで刷られた版です。
12枚を見比べると、ボールが縦に並んだもの、斜めに並んだもの、ばらばらに散ったものがあり、きれいな一直線になっているものはほとんどありません。作品の中身は、題名が説明しているとおりです。「3つのボールを投げて一直線に並べる」という自分で決めたルールに、偶然の結果を組み合わせる。バルデッサリの作品が、計画と偶然のずれをユーモアに変えていることがよく分かる作品です。
ザ・ブロード美術館は、バルデッサリの次のような言葉を紹介しています。「作品は、はっきりした形のない、ひらめきや直感から始まる。自分で作ったルールのある状況を組み立て、それを解こうとする。その中に発見の喜びがある」。

映画のスチル写真と色の丸(1980〜1990年代)
1980年代のバルデッサリは、報道写真やハリウッド映画のスチル写真を使ったフォト・コラージュに取り組みました。ニューヨーク・タイムズによると、スチル写真は、カリフォルニア州バーバンクにある映画関係の書店で1枚10セントで買い集めたものでした。テートも、バルデッサリが捨てられた資料を探して、映画のスチルを取り入れた写真作品を作ったと紹介しています。
やがて、バルデッサリを代表する手法が生まれます。ニューヨーク・タイムズによると、1985年のある日、値札に使う丸い白いシールで遊んでいるうちに、気に入らない著名人の写真の顔の上にシールを貼ってみたのが始まりでした。これが、写真の人物の顔を白や黒、さまざまな色の丸で塗りつぶす手法へと発展します。
SFMOMAは、目で見て重要な情報をあえて取り除くこの手法が、画像の新しい見方を促すと説明しています。顔が隠されると、人物が誰なのか、どんな表情なのかは分かりません。そのかわりに、手の動き、服、持ち物、人と人との距離といった、ふだんは見過ごしている部分に目が向きます。
『Perrier (With Figures)』(1990年)
SFMOMAが所蔵する『Perrier (With Figures)』は、大きさの違う3枚の写真を組み合わせた作品です。高さは2メートルを超えます。左の縦長の写真には、透明な瓶を手にした若い男性が、顔を半分だけのぞかせています。中央の大きな写真では、黒い上着を着て腕を組んだ人物の肩に別の人の手が置かれ、2人の顔は白い丸で隠されています。右下の写真には、男性の肩越しに笑う女性と、赤く塗られた手が写っています。
題名の「ペリエ」は、左の写真の瓶を思わせます。けれども作品は、広告のように何かを売り込むことはありません。顔を消された人物たちは誰なのか、3枚の写真にどんなつながりがあるのか。答えは示されず、見る人がつながりを考えることになります。SFMOMAは、写真に油彩の着色とビニール塗料をほどこし、メゾナイト(硬質の板)に貼った作品として所蔵しています。

SFMOMAの音声解説では、バルデッサリ自身が1990年の講演で、切り取ること(トリミング)が自分の仕事の根本的な問題だと語っています。同じくCalArtsで教えていたビデオ・アーティストのナム・ジュン・パイクから「君の作品でいちばん興味深いのは、何を省いたか、何を見せなかったかだ」と言われ、それをほめ言葉として受け取ったという話も紹介されています。
教育者としてのバルデッサリ
バルデッサリは、作家であると同時に、優れた教師でもありました。ニューヨーク・タイムズによると、CalArtsで1970年から1988年まで教え、1996年から2005年まではカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でも教えました。
教え子には、デイヴィッド・サーレ、トニー・アウスラー、マット・マリカン、ジャック・ゴールドスタイン、ジム・ショー、マイク・ケリー、ジェームズ・ウェリングらがいます。LACMAとテートは、バルデッサリがシンディ・シャーマン、バーバラ・クルーガーらの世代にも影響を与えたと紹介しています。
学生には「物を見るな。物と物のあいだを見よ」と伝えていたといいます。教えることについては「教えていると思っているとき、たぶん私は教えていない。教えていないと思っているとき、たぶん教えている」と、さらりと語りました。
デンマークのルイジアナ近代美術館が運営する「Louisiana Channel」のこのインタビュー(2016年公開)で、バルデッサリは長い制作の歩みと、1960年代に絵画をやめて写真と言葉の組み合わせに向かった理由を振り返っています。
回顧展「Pure Beauty」と晩年(2000年代〜2020年)
2000年代に入ると、バルデッサリの評価はますます高まりました。2006年には、LACMAの展覧会「Magritte and Contemporary Art: The Treachery of Images」の会場構成を手がけ、床にマグリット風の雲の模様のカーペットを敷き、天井を高速道路の写真で覆いました。LACMAのロゴも、バルデッサリが1960年代に作った鉛筆とヤシの木の画像をもとにしたものです。
ニューヨーク・タイムズによると、2008年にはアメリカ芸術文学アカデミーの会員に選ばれています。2009年には、ヴェネチア・ビエンナーレで生涯の功績をたたえる金獅子賞を受けました。同じ年の10月13日から2010年1月10日まで、ロンドンのテート・モダンで回顧展「Pure Beauty」が開かれ、その後、バルセロナ現代美術館(MACBA)、LACMA、ニューヨークのメトロポリタン美術館へと巡回しました。LACMAでの展示は、150点を超える作品で約50年の歩みをたどるものでした。2014年には、アメリカ国家芸術勲章を受けています。
晩年にも、古い巨匠の絵画を素材にした連作などを発表し続けました。バルデッサリは2020年1月2日、ロサンゼルスで亡くなりました。88歳でした。LACMAは追悼の文章で、同館が絵画、写真、映像、版画、彫刻などバルデッサリの作品を60点以上所蔵していると記しています。
| 年 | 主なできごと |
|---|---|
| 1931年 | カリフォルニア州ナショナル・シティに生まれる |
| 1956年 | サンディエゴ州立カレッジで絵画の授業を受け持つ |
| 1966〜1968年 | 写真と文字の絵画を制作。1968年にロサンゼルスで展示 |
| 1970年 | 『Cremation Project』。CalArtsで教え始める(1988年まで) |
| 1985年 | 写真の顔に丸いシールを貼る試みを始める |
| 1996年 | UCLAで教え始める |
| 2009年 | ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞(生涯功労)。回顧展「Pure Beauty」開幕(テート・モダン) |
| 2014年 | アメリカ国家芸術勲章 |
| 2020年 | 1月2日、ロサンゼルスで死去 |

まとめ
いかがだったでしょうか。ジョン・バルデッサリの人生と作品について、ご紹介してきました。
バルデッサリは1931年にカリフォルニア州ナショナル・シティに生まれ、教師として働きながら絵を描き始めました。1960年代半ばには写真と文字を組み合わせた絵画を発表し、それはコンセプチュアル・アートのもっとも早い例の一つになりました。1970年には自分の古い絵画を焼却する『Cremation Project』で、手で描く絵画から離れる決意を示しました。
その後は、CalArtsでの「ポスト・スタジオ」の授業や短い映像作品、3つのボールを投げ続ける写真作品、映画のスチル写真の顔を色の丸で隠す作品へと進みました。どの作品にも、自分で決めたルールと、それがうまくいかないことへのユーモアがあります。
バルデッサリの作品は、何が写っているかだけでなく、何が隠されているか、何が書かれているかを見ることで面白さが増します。機会があれば、ぜひ作品の前で「物と物のあいだ」を探してみてください。
Euphoric " " の視点
バルデッサリは1970年、13年分の絵画を焼き、その焼却さえも一つの作品として構想しました。描くことを捨てたのではなく、何を作品と呼ぶのかを問い直したのだと言えます。一直線を求めて3つのボールを投げ、ほとんど一直線にならない12枚をそのまま並べた作品にも、失敗や偶然を面白がるまなざしが表れています。
その問いは、CalArtsやUCLAでの授業を通じて、多くの教え子にも手渡されました。「物を見るな。物と物のあいだを見よ」という言葉は、美術に限らず、見慣れたものの中に新しい意味を見つけるための、いまも有効な手がかりです。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などが所蔵しています。2026年10月時点で、各館の作品ページでは「展示されていない」と表示されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






