【徹底解説】ジョン・シンガー・サージェントとは?『Madame X』で知られる肖像画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ジョン・シンガー・サージェントとは?『Madame X』で知られる肖像画家の人生と作品を解説!
ジョン・シンガー・サージェントの徹底解説(『Madame X(Virginie Amélie Avegno Gautreau)』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

アートコンシェルジュ|最初の一枚から、一生のコレクションまで。無料で相談する

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはジョン・シンガー・サージェントという人物をご存知ですか?

アメリカ人の両親のもとイタリアのフィレンツェで生まれ、パリで学び、ロンドンを拠点に活躍した画家です。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大西洋の両岸の裕福な人々がこぞって肖像を依頼した画家として知られています。

ただ、サージェントは「きれいな肖像画の名人」というだけの画家ではありません。パリのサロンで大スキャンダルを起こした『Madame X』、少女たちが提灯に火を灯す夕暮れを追いかけた『Carnation, Lily, Lily, Rose』、そして第一次世界大戦で毒ガスに目をやられた兵士たちを描いた『Gassed』。同じ人物の仕事とは思えないほど、描く世界の幅が広いのです。

本記事ではそんなジョン・シンガー・サージェントの人生と作品についてご紹介します。

ジョン・シンガー・サージェントって?

基本情報

本名ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)
生年月日(没年月日)1856年1月12日、フィレンツェ生まれ/1925年4月15日、ロンドンで死去(69歳没)
国籍・出身アメリカ合衆国籍(生涯アメリカ市民のまま)/イタリア・フィレンツェ生まれ。パリを経て、1880年代半ばからロンドンを拠点に活動
学歴1873〜74年の冬にフィレンツェのアカデミア・ディ・ベッレ・アルティで学び、1874年5月からパリのカロルス=デュランのアトリエで学ぶ
分野絵画(油彩、水彩)、壁画
傾向肖像画、風景、旅先の水彩画、戦争画。ベラスケスなど巨匠の筆づかいと、印象派の戸外制作の両方を取り込んだスタイル
師事した人物・影響を受けた人物カロルス=デュラン(師)、ディエゴ・ベラスケス、フランス・ハルス、エドゥアール・マネ、クロード・モネ

サージェントが学んだ巨匠や、交流のあった画家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【徹底解説】ディエゴ・ベラスケスとは?『ラス・メニーナス』を描いた「画家の中の画家」の人生と作品を解説!

エドゥアール・マネとは?本名・代表作・死因をわかりやすく解説

クロード・モネとは?出身・本名・代表作と生涯をわかりやすく解説

【徹底解説】メアリー・カサットとは?母と子と浮世絵に出会った印象派画家の人生と作品を解説!

「旅する家族」が育てた画家

サージェントを語るうえで外せないのが、国境をまたいで育ったという事実です。国籍はアメリカですが、生まれたのはフィレンツェで、少年時代はヨーロッパ各地を転々としました。人生の大半を過ごしたのはロンドンです。

それでも、アメリカとのつながりは切れませんでした。ロンドンを拠点にしながら、ボストンの図書館や美術館の壁画を引き受け、ヨーロッパとアメリカの両方に顧客を持ち続けます。どちらの世界の言葉も話せるという立場が、のちの成功を支えたと考えられます。

経歴と作品

フィレンツェに生まれて

サージェントの家は、アメリカ東部に古くから根を張る一族でした。祖父は商船業に失敗してフィラデルフィアへ移り、その息子のフィッツウィリアム・サージェントが医師になります。1850年にメアリー・ニューボールド・シンガーと結婚した夫妻は、最初の子を亡くした悲しみと、健康によい気候を求めて、1854年の晩夏にヨーロッパへ渡りました。滞在は一時的なはずでしたが、そのまま国外に暮らす人々になります。

ジョンが生まれたのは1856年1月12日、フィレンツェです。一家は冬をフィレンツェ、ローマ、ニースで、夏をアルプスなどの涼しい土地で過ごしました。正規の学校教育はほとんど受けておらず、メトロポリタン美術館はこれを、旅行案内書の名を借りて「ベデカー教育」(Baedeker education)と呼んでいます。それでも彼はイタリア語、フランス語、ドイツ語を身につけ、ピアノの腕前も確かでした。母は絵を描くアマチュアで、息子にスケッチをすすめ、旅先の景色がそのまま題材になりました。

記録に残る最初の本格的な美術教育は、1873年から74年の冬にフィレンツェのアカデミアで受けたものです。1874年の春、父は息子の才能を伸ばすため、当時の美術の中心地だったパリへ連れて行く決断をします。

パリで、カロルス=デュランの弟子になる

1874年5月、サージェントはカロルス=デュランのアトリエに入ります。カロルス=デュランは第三共和政下のフランスで人気を集めた若く洒落た肖像画家でした。教え方の特徴は、下描きを重ねず、いきなり絵の具で描かせることです。広い面を粘りのある絵の具で置き、スケッチのような新鮮さを完成作にも残すように、と生徒に求めました。

手本にすべき画家としては、フランス・ハルス、レンブラント、ヴァン・ダイク、レノルズ、そして何よりスペインのディエゴ・ベラスケスを挙げました。サージェントはこの師に近い作風を身につけ、愛弟子になりました。メトロポリタン美術館は、1877年のサロン入選をはじめ、サージェントの作品でこの師や巨匠たちの影響が見えないものはほとんどないと述べています。テート美術館の解説によれば、サージェントは1874年から1878年まで、師のもとで生徒、のちに助手として過ごしました。

1876年には母と妹エミリーとともに初めてアメリカを訪れ、フィラデルフィアの万国博覧会やナイアガラの滝を見ています。同じころ、クロード・モネと出会っていた可能性もあります。メトロポリタン美術館は、1876年の第2回印象派展でサージェントがモネに会ったようだと書いています。のちに彼はジヴェルニーのモネを何度も訪ねるほど、この画家を意識するようになります。

スペインとヴェネツィアで学ぶ

1879年の秋ごろから、サージェントは授業にはあまり出なくなり、キャリアを築くための旅に出ます。行き先はスペイン、オランダ、ヴェネツィアでした。目的は、巨匠の作品を実際に見ることと、絵になる題材を集めることです。テート美術館は、1879年から80年にスペインとモロッコを、1880年にはオランダのハールレムを訪れ、ベラスケスとフランス・ハルスの作品を模写したとしています。

ボストン美術館は、サージェントが1879年にマドリードへ旅し、プラド美術館でベラスケスの作品を模写したと記しています。このときの学びは、のちにご紹介する『The Daughters of Edward Darley Boit』に生かされます。

『El Jaleo』(1882年)

ジョン・シンガー・サージェント『El Jaleo』(1882年)
ジョン・シンガー・サージェント『El Jaleo』(1882年)イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。Commons上の出典は同館の公式サイト)

暗い部屋の奥にギターを抱えた男たちが並び、その前で白いスカートの踊り手が身を反らせ、片腕を前へ伸ばしています。灰色の壁に落ちる黒い影、下からの強い光を受けた白い裾。暗い色調のなかに浮かぶ白が、踊りの動きそのもののように見えます。

この絵は、1879年に南スペインで描いた素描をもとにしています。題名はアンダルシア地方の踊りの名前で、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館は「大騒ぎ」ほどの意味だと説明しています。同館は、この絵を「見るだけでなく聞こえる絵」とも書いています。かかとを打つ音、指を鳴らす音、手拍子、歌、ギターの音が画面から聞こえてくる、という意味です。

ガードナー美術館では、この絵は専用に作られた空間に収められています。1914年、イザベラ・ガードナーは館のこちら側を改装し、ムーア風のアーチに縁取られた壁龕(へきがん)を用意しました。左の鏡が空間を広げ、手前の床には日用品がさりげなく置かれています。見る人が酒場に迷い込み、そのまま観客になったような仕掛けです。

面白いのは、この時点で絵の持ち主はガードナーではなく、姻戚のT・ジェファソン・クーリッジだったことです。同館によれば、クーリッジはあつらえられた空間を見て、その場で絵を彼女に贈ったようです。

『Street in Venice』(1882年)

ジョン・シンガー・サージェント『Street in Venice』(1882年)
ジョン・シンガー・サージェント『Street in Venice』(1882年)ワシントン・ナショナル・ギャラリー(1962.4.1、CC0)/出典:Wikimedia Commons

ヴェネツィアの狭い路地を、黒いショールをまとった女性がこちらへ歩いてきます。右手の壁際には、黒い外套の男たちが二人。観光名所の華やかな運河ではなく、裏通りのひんやりした空気を切り取った小品です。

サージェントは旅先で出会った風景や人々を題材にした「風俗画」も、肖像画と並べて展覧会に出していました。メトロポリタン美術館は、1877年から82年のサロンで、サージェントが肖像画と主題のある絵の両方で評価を得たと述べています。ただし、しだいに肖像画の依頼が増え、画家としての名前を決めていくことになります。

パリの家族を描いた、不思議な群像

1882年の秋、サージェントはパリで、友人のエドワード・ダーリー・ボイトの娘たち4人を描きました。

『The Daughters of Edward Darley Boit』(1882年)

ジョン・シンガー・サージェント『The Daughters of Edward Darley Boit』(1882年)
ジョン・シンガー・サージェント『The Daughters of Edward Darley Boit』(1882年)ボストン美術館(19.124)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。Commons上の出典は同館の公式サイト)

ほぼ正方形の大きな画面(一辺2メートル余り)の中に、白いエプロンドレスの少女たちが散らばっています。手前の床に座り込む幼い子、少し後ろに立つ子、さらに奥の暗がりで寄り添う二人。中央の左寄りと右端には、有田で作られた背の高い大きな日本の花瓶が据えられています。

ボストン美術館の解説によれば、舞台はボイト家のパリのアパルトマンの玄関ホールです。娘たちはそれぞれ8歳、14歳、12歳、4歳で、描かれた時点の年齢がそのまま記されています。ふつうの肖像画なら、全員が正面を向き、顔がはっきり見えるはずです。ところがこの絵では、二人の顔は影に隠れています。しっかりと観客を見つめるのは、いちばん幼いジュリアだけです。

同館は、手本としてベラスケスの『ラス・メニーナス』を挙げています。陰影の深い広い空間、暗く抑えた色調、そして幼い王女が観客をまっすぐ見返す構図が、この絵に引き継がれているというのです。さらに、ドガの作品に見られる、中心がぽっかり空いた非対称の構図や、人物同士の断絶感も重ねられています。

当時の反応は一様ではありませんでした。ボストン美術館によると、サージェントはこの絵に『Portraits of Children』という題を付け、1882年12月にジョルジュ・プティの画廊で見せ、翌年の春にサロンに出品しました。画廊での評はおおむね良好でしたが、サロンでは技量をたたえる声の一方で、多くの批評家が型破りな構図に戸惑ったといいます。名前の分かっていないある書き手は「四隅と虚空」(four corners and a void)と評しました。一方、サージェントとボイト家の友人だった作家ヘンリー・ジェイムズは、「魅力的な子どもたちのいる一家の、幸せな遊びの世界」(happy play-world of a family of charming children)と書いています。

肖像画でありながら、家族の肖像の約束事をはみ出して、空間と光と影の物語にしてしまった作品です。同館は、これを「開かれていることと謎めいていること、公と私、光と影についての思索」と総括しています。

『Madame X』の大スキャンダル

1883年から84年にかけて、サージェントは、パリ社交界で名の知られた一人の女性の肖像に取りかかります。

『Madame X(Virginie Amélie Avegno Gautreau)』(1883〜84年)

ジョン・シンガー・サージェント『Madame X(Virginie Amélie Avegno Gautreau)』(1883〜84年)
ジョン・シンガー・サージェント『Madame X(Virginie Amélie Avegno Gautreau)』(1883〜84年)メトロポリタン美術館(16.53)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

黒いドレスに身を包んだ女性が、画面いっぱいに立ち、顔を横に向けています。宝飾をあしらった細い肩紐、青白い肌、輪郭のくっきりした横顔。片手は小さな机に軽く添えられています。画面の高さは約2メートルあり、等身大に近い大きさで描かれた立ち姿です。

モデルはヴィルジニー・アメリー・アヴェニョ・ゴートロー。ルイジアナ州の生まれで、フランスの銀行家の妻になった女性です。メトロポリタン美術館は、彼女を巧みに装うことで知られたパリ社交界の著名人と紹介しています。サージェントは、この肖像で名声を高めたいと考え、依頼を受けずに取りかかりました。つまり、これは自分で選んだ、野心の絵でした。

1884年のサロンに出品された絵は、評判が悪く、批評家や観客から冷笑を浴びます。同館の解説では、肌の色、化粧、そしてモデルの描かれ方が人々に衝撃を与えたと説明されています。大きく開いた胸元のドレスも話題になり、特に、右の肩紐が肩からずり落ちかけている姿は物議をかもしました。同館は、サージェントが「職業としての美人」という新しい種類の女性を堂々と描いてしまった点が観客を驚かせた、とも述べています。

ゴートロー夫人と母は、絵を展覧会から下げるようサージェントに頼みましたが、サージェントは断りました。見たままを描いただけだ、というのが言い分でした。ただし、サロンが終わると、彼は肩紐を描き直しています。以後、この絵は長くアトリエにとどめられ、20年以上人前に出されませんでした。サージェント自身が、この件を「ゴートローの大失敗」(the Gautreau disaster)と呼んだことも、同館の音声解説に記されています。

転機は1916年でした。1月8日、ロンドンのサージェントは、友人でメトロポリタン美術館の館長だったエドワード・ロビンソンに手紙を書き、この絵を売ってもよいと申し出ます。手紙には、こうあります。

I suppose it is the best thing I have done.

(参考訳:これは、私がこれまでに手がけたなかで最良のものだろうと思います。)

価格は1,000ポンドでした。ロビンソンは長年この絵を手に入れようとして断られ続けていたため、申し出は完全に予想外だったと記録に残っています。購入が決まると、サージェントは「何年も前にあの女性とひと悶着あったので、この絵を彼女の名前で呼ばないでほしい」という趣旨の希望を伝えました。こうして、モデルの名前は伏せられ、絵は『Madame X』として知られるようになります。

この絵がもたらしたものについて、メトロポリタン美術館の記事は、批評家からの評価と肖像画の注文につながることを期待した出品が、かえってサージェントをロンドンへ移らせるスキャンダルになったと書いています。評価を得るために描いた絵が、むしろ彼をパリから遠ざけた、という皮肉な結果でした。

ロンドンへ。モネと庭の夕暮れ

パリで「名声ではなく悪名を得た」サージェントは、ロンドンなら受け入れられやすいだろうと考えました。移住の時期について、テート美術館は1885年、メトロポリタン美術館は1886年の春と書いており、資料によって少し幅があります。いずれにせよ、1880年代半ばに彼はイギリスへ移り、以後は生涯そこを拠点にしました。

ただ、英国の顧客は最初、サージェントに肖像画を頼みませんでした。「フランス風」の派手さを持ち込み、モデルの人柄が犠牲になることを心配したのです。この空白の時間を、サージェントは印象派風の戸外制作に使いました。1885年の初夏には、モネが暮らすジヴェルニーを初めて訪ねています。1885年と86年の夏には、イングランド中部コッツウォルズの村ブロードウェイで制作を続けました。

『Carnation, Lily, Lily, Rose』(1885〜86年)

ジョン・シンガー・サージェント『Carnation, Lily, Lily, Rose』(1885〜86年)
ジョン・シンガー・サージェント『Carnation, Lily, Lily, Rose』(1885〜86年)テート・ブリテン(N01615)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

夕暮れの庭で、白いワンピースの二人の少女が、紙の提灯に火を灯しています。足元にはカーネーション、頭上には背の高い白いユリ、まわりにはバラ。花と提灯の赤い光と少女の淡い服が、青緑の闇の中で小さく光ります。

テート美術館の記事によれば、発端は1885年8月でした。サージェントは友人の画家エドウィン・オースティン・アビーとテムズ川を舟で旅している途中、パンボーンの庭で、木々に吊った提灯に火を灯す子どもたちを見かけます。彼はこの光景を、作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンに「この上なく楽園のような光景」(a most paradisaic sight)と伝えています。

旅の途中で頭にけがをしたサージェントは、アビーに連れられて、アメリカ人画家フランク・ミレーと妻リリーが住むブロードウェイで静養します。モデルになったのは、イラストレーターのフレデリック・バーナードの娘たち、ドロシー(愛称ドリー)とマリオン(愛称ポリー)です。白いドレスは、バーナード夫人と妹が、ケイト・グリーナウェイの挿絵に出てくるような服をまねて縫いました。

制作は難航しました。夕暮れの光が最もよい瞬間は、毎日わずか数分で過ぎ去ります。テート美術館の記事は、サージェントが妹に宛てて書いた言葉を引いています。

Impossible colours of flowers and lamps, and brightest green lawn background. Paints are not bright enough and then the effect only lasts 10 minutes.

(参考訳:花とランプの、ありえない色。いちばん明るい緑の芝生の背景。絵の具は十分に明るくないし、しかもその効果は10分しか続かない。)

制作は1885年の秋に始まり、いったん中断して、翌1886年の夏に再開されました。花は咲く時期が決まっているため、1885年には村の庭を探し回って花を集めました。翌年に備えて、50個のユリの球根を送り、鉢に植えてもらったとも記録されています。絵の具をのせては拭き取り、また描き直すという方法で、素早い筆の勢いを保ったと、同じ記事は説明しています。

題名は、歌「The Wreath」の繰り返しの一節から取られています。テート美術館は、これを18世紀のオペラ作曲家ジョゼフ・マッツィンギの歌で、1880年代に人気があったと説明しています。サージェント自身はこの大作を「ビッグ・ピクチャー」と呼んでいました。1887年のロイヤル・アカデミー展に出品され、同年にチャントリー遺贈基金によって国のコレクションに加わり、いまはテート・ブリテンに収められています。メトロポリタン美術館は、この展示がイギリスの批評家の疑いを和らげ、国による購入がロンドンでの成功を予感させたと述べています。

肖像画の寵児に

1890年代に入ると、風向きは変わりました。英国の顧客は、サージェントの肖像画の質の高さに安心し、次々に依頼を出しはじめます。顧客は実業家とその家族、芸術家、舞台人、そして特に英国の貴族でした。サージェントはヴァン・ダイクやレノルズが残した家宝の肖像画と対になるような、格調の高い「グランド・マナー」の肖像を描いています。アメリカの顧客も引き続き彼を求めました。テート美術館は、その中にローズヴェルトやロックフェラーの名を挙げています。

サージェントは1894年にロイヤル・アカデミーの準会員、1897年に正会員に選ばれたと、テート美術館は記しています。

『Lady Agnew of Lochnaw』(1892年)

ジョン・シンガー・サージェント『Lady Agnew of Lochnaw』(1892年)
ジョン・シンガー・サージェント『Lady Agnew of Lochnaw』(1892年)スコットランド国立美術館(NG 1656)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。Commons上の出典は同館の公式サイト)

淡い花柄の布張りの椅子に、白いドレスと薄紫の飾り帯の女性が、体をゆったり預けています。背景は青い布です。こちらをまっすぐ見つめる視線が、画面の中心です。

モデルはガートルード・ヴァーノン(ロックナウのアグニュー夫人)です。スコットランド国立美術館の解説によれば、くつろいだ姿勢と自信に満ちた視線は、当時の肖像画としては異例でした。さらに、流れるような筆づかいが、その場で生まれたような軽やかさを加えています。

1893年のロイヤル・アカデミー展に出品されると、この絵はたちまち成功を収め、同館はイギリスでのサージェントの評価を確かなものにしたと説明しています。同時に、夫人は上流社会の有名人になりました。ここに、肖像画家サージェントのもうひとつの力が表れています。依頼主を美化するだけではなく、その人の存在感を絵の中で立ち上げる力です。

壁画、そして水彩画へ

20世紀に入ると、サージェントは肖像画の注文に疲れを見せ始めます。メトロポリタン美術館によれば、1890年から、彼はボストン公共図書館、ボストン美術館、ハーヴァード大学ウィドナー記念図書館の壁画を次々に依頼され、その制作に追われていました。同時に、旅先で描く水彩画が、新しい評価と収入の源になっていきます。

1903年から水彩画をロンドンとニューヨークで発表すると、高い評価を受け、需要が生まれました。1907年には、これ以上は肖像画の注文を受けないと宣言します。そのころには水彩画家としての名声も築かれていました。テート美術館は、1909年と1912年にニューヨークのノードラー商会で展覧会を開いたこと、1905〜06年に聖地を旅したことも記しています。

『In the Generalife』(1912年)

ジョン・シンガー・サージェント『In the Generalife』(1912年)
ジョン・シンガー・サージェント『In the Generalife』(1912年)メトロポリタン美術館(15.142.8、CC0)/出典:Wikimedia Commons(同館のOpen Access)

緑の濃い木陰で、中央の女性がイーゼルに向かって絵を描き、左右にもう一人ずつ女性がいます。水彩の透明な色が重なり合い、木漏れ日が揺れているようです。

メトロポリタン美術館の解説によれば、1912年にサージェントはスペイン南部グラナダのアルハンブラにある、ムーア人の君主たちの旧夏の宮殿「ヘネラリフェ」の庭で、何枚かの水彩を描きました。この作品では、イーゼルに向かってスケッチする妹エミリー、左で見守る画家のジェーン・ド・グレン、右にいるスペインの友人ドロレス・カルモナが登場します。同館は、友人や家族が戸外で仕事をする姿を描いた作品を、肖像画家と戸外画家という二つの技量が結びついた、最も魅力的な作品群だとしています。

この水彩は、1915年にジョセフ・ピュリッツァー遺贈基金によってメトロポリタン美術館が購入しました。同館の当時の館長ロビンソンは、サージェントから油彩数点と水彩10点を購入した、と同館の記録にあります。

戦争を描く。『Gassed』

1918年、サージェントは英国政府から、第一次世界大戦を記念する「追悼の殿堂(Hall of Remembrance)」の中心となる絵を依頼されました。与えられたテーマは「英米の協力」でした。しかし、適当な題材を見つけられません。戦場に足を運んでも、前線に近づくほど兵士の姿は散らばって隠れ、絵になる大群衆は見当たらなかったのです。

帝国戦争博物館(IWM)は、サージェントがこのとき書いた言葉を紹介しています。

how can one do an epic without masses of men?

(参考訳:大勢の人間がいなくて、どうやって叙事詩を描けるでしょう。)

転機は、フランスの前線近くで訪れます。サージェントは1918年7月、画家のヘンリー・トンクスとともにフランスへ渡りました。トンクスの手紙によれば、二人はドゥラン街道沿いのル・バック=デュ=シュドにあった軍団の包帯所で、毒ガスを受けた兵士たちが6人ほどずつ、衛生兵に導かれて次々にやって来る光景を目にします。トンクスは1920年の手紙で、サージェントがこの場面に強く心を動かされ、その場でたくさんのメモを取ったと書いています。

『Gassed』(1919年)

ジョン・シンガー・サージェント『Gassed』(1919年)
ジョン・シンガー・サージェント『Gassed』(1919年)帝国戦争博物館(Art.IWM ART 1460)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

夕日が低い空を染めるなか、目に包帯を巻いた兵士たちが、前の人の肩に手を置いて一列になり、板の道を進んでいきます。足を高く上げ、見えない段差を上るような姿の兵士もいます。手前の地面には、同じようにガスにやられた兵士たちが横たわり、水筒から水を飲む人もいます。遠景には、もう一つの列。そして、さらにその奥では、サッカーの試合が続いています。

帝国戦争博物館は、これを1918年8月の西部戦線でのマスタードガス攻撃の直後だと説明しています。画面は軽やかな筆で描かれ、兵士同士の体の触れ合いを丁寧にたどっています。治療所のテントへ導かれる様子には救いの気配がありますが、全体の印象は喪失と苦しみだとされます。背景のサッカーとの対比は、こうした惨事がこの戦争では日常の一部だったことを物語ります。

絵は高さ約2.3メートル、幅約6.1メートル。銘文には「John S. Sargent Aug 1918」とあります。サージェントは、実際に自分の目で見た場面を、巨大な画布に写し取りました。肖像画の名手が、群衆の中の一人ひとりの体の重さを描いたことが、この作品の力になっています。

晩年と、残されたもの

サージェントは生涯、アメリカ市民であり続けました。1924年にはニューヨークのグランド・セントラル・アート・ギャラリーズで回顧展が開かれています。そして1925年4月15日、ロンドンで亡くなりました。ブルックウッド墓地には、古代ギリシャの墓碑(アッティカのステレ)をもとにしたポートランド石の碑が建てられています。碑の上部には「LABORARE EST ORARE」(ラテン語。参考訳:働くことは祈ること)の文字があります。

没後の1925年にはボストンで、翌1926年にはロイヤル・アカデミー、メトロポリタン美術館、テート・ギャラリーで追悼展が開かれました。のちの1986〜87年にはニューヨークのホイットニー美術館で、1998年にはテート・ギャラリーで、回顧展が開かれています。

まとめ

いかがだったでしょうか。ジョン・シンガー・サージェントは、パリで学び、ロンドンで開花し、アメリカと欧州の両方で愛された画家でした。

『Madame X』では、自分の信じる見方を曲げずに描き、スキャンダルと向き合いました。『Carnation, Lily, Lily, Rose』では、数分で消える夕暮れの光を、季節をまたいで追い続けました。そして『Gassed』では、大群衆の見当たらない戦場で、目を覆われた兵士たちの列に、この戦争の叙事詩を見つけたように思えます。

一人の画家が、これだけ違う顔を持てたのは、旅を続けながら学び、巨匠の技を身につけ、時代の空気を取り込んできたからでしょう。次に美術館でサージェントの絵に出会ったときは、ぜひ光がどこから来ているかを探してみてください。画面の中の光の動きに、この画家の観察眼が最もよく表れています。

Euphoric " " の視点

サージェントは『Madame X』に、依頼を受けずに取りかかりました。この肖像で名声を高めたいと考えてのことです。けれどもサロンが終わると肩紐を描き直し、絵は20年以上人前に出されませんでした。

『Carnation, Lily, Lily, Rose』では、翌年に備えて50個のユリの球根を送り、鉢に植えてもらっています。

そして1907年には、これ以上は肖像画の注文を受けないと宣言しました。

評判に揺さぶられても、何に時間を使うかは自分で決め直す。サージェントの歩みは、その選び直しが仕事を長く支えるのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に85件 開催中/7日以内に終了 1件展覧会を探す