こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはミース・ファン・デル・ローエという人物をご存知ですか?
20世紀のモダニズム建築を代表するドイツ出身の建築家で、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の四大巨匠とも呼ばれる有名なデザイナー・建築家です。
本記事ではそんなミース・ファン・デル・ローエの人生と作品についてご紹介します。
ミース・ファン・デル・ローエって?
基本情報
本名 | ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe) |
生年月日 | 1886年3月27日–1969年8月17日(83歳没) |
国籍/出身 | ドイツ→アメリカ合衆国/ドイツ帝国 アーヘン |
学歴 | 教会付属学校 |
分野 | 建築、プロダクトデザイナー |
傾向 | モダニズム建築 |
師事した/影響を受けた人 | ペーター・ベーレンス等 |
人生と作品
生まれと環境
ミースは1886年3月27日、ドイツ帝国 アーヘンで石工をしていた父ミヒャエル・ミースと母アマーリエ・ミースとの間に生まれます。
彼は父の影響か、建築というよりは装飾デザインへの興味が強いようでした。1899年までアーヘンの教会付属学校に通っていましたが、建築家の資格を取らずに地元の職業訓練校に入学して製図工の教育を受けました。
ミースが生まれ育ったアーヘンという町は、中世の歴史的建造物が残存する伝統的な街並みが広がっていました。建築と工芸との境界線がなく、その芸術性を保っていたのは千年以上も建築物として残り続ける丈夫さがあってのことです。
アーヘンという環境は、ミースがのちに思い描く「長持ちする建築が良い」という根本的な信条に大きな影響を与えているようです。
ベルリンでの学びと、リール邸
リール邸(1907)
1905年、19歳のミースは故郷を離れてベルリンへ赴き、石膏細工を専門とする会社で働きました。この頃は石工として働くことを目指してフリーハンドスケッチの技術を磨き、製図版に実寸の設計を描き、レンガを積み、石を削れるようになっていたミースは1906年に建築家ブルーノ・パウルの建設事務所で働くことになりました。
1907年には既に最初の作品である『リール邸(1907)』を手掛けています。
ポツダム郊外にあるこのリール邸は、哲学教授アロイス・リールとその妻ゾフィーのための住宅で、この仕事をきっかけにミースは、ニーチェ哲学の権威であったアロイス教授と親交を深め、自身の中にニーチェ哲学をはじめとする思想が加わりました。
19世紀以降のヨーロッパは、まさにニーチェ哲学の研究によって芸術のめざめと価値の再興が行われている真っ最中であったため、この仕事がミースに与えた影響は生涯を通して伺うことができます。
余談ですが、この後にミースが師事するペーター・ベーレンスも、ニーチェ哲学を信奉していたようです。一見関係がなさそうな建築と哲学という分野ですが、突き詰めれば「善く生きる」ための学問である哲学への関心は、「良く生きる」ための空間を設計する建築に欠かせない知識であったのかもしれません。
また、リール邸の常客となったミースはベルリンの知識階級と触れ合う機会をもらうことになりました。実業家、歴史家、政治家などが集まるリール邸の客と親交を深める中、モダニズム理論の父ハインリヒ・ヴェルフリンとも知り合いました。
そしてのちにミースと結婚することになる、当時ヴェルフリンの妻であったアダ・ブルーンと出会うことにもなります。
ベーレンスが繋いだ3大巨匠
この仕事が認められたことで1908年には建築家ペーター・ベーレンスの事務所でドラフトマン(製図工)として働くことができました。
このことがきっかけでミースは本格的に建設家としての仕事を始めることになります。
ペーター・ベーレンスはドイツの著名な建築家です。この頃にミースは、ミュンヘン工科大学を卒業したばかりのヴァルター・グロピウスや、フランク・ロイド・ライトと出会い、互いに影響を与える仲へと発展していきます。
特にライトの作品には感銘を受けたようで
「ようやくここには建築の真実の泉をよりどころとする巨匠の建築家がいた」
と懐古しています。
また、1920年ごろに顕著になるローエの初期作品の特徴として、オランダ人建築家ヘンドリク・ペトルス・ベルラーからの影響も大きいようです。
ベーレンス事務所での仕事の傍らベルラーの著作を分析していたミースは、その影響から「建築とは、合理的な形態を発見すること」という持論を導き出します。
ミースは技術的に若い頃から成熟していた、いわゆるルーキーであったため、ベーレンス事務所での仕事でむしろ精神的に大きく成長していったように見えます。
独立と挫折
1912年、ミースははやくも独立して建設事務所を持ちます。1913年にアダ・ブルーンと結婚したローエは、裕福な製造業者の娘であったアダの資産に助けられ、経済的な不安を覚えることなく独立への道をスタートさせました。この頃からミースは、アダの紹介でベルリン郊外で富裕層の住宅を手がけるようになり、特に新古典主義的な様式が特徴で、ヘルマン・ムテジウスやカール・シェフラーなどの影響が見受けられます。
しかし、1919年の無名建築家展にミースが応募した「クレラー=ミュラー邸案」がグロピウスに却下されるという挫折を経験します。グロピウスの「この作品は現代性に欠ける」という批評を重く受け止めたミースはこの頃から、哲学的思考や多くの人から学び取った自身の建築理念を作品を通して磨きながら、建築の本質とは何かを深掘りするように実験的な分野の作品を多く手掛けるようになります。
探求を続けるミースは1924年にアバンギャルド学会や11月グループ(急進的な芸術家の協会)へ参加し、雑誌編集などの仕事も経験します。
そして同年、当時最も力を持っていたドイツ工作連盟への参加が決定します。
5つの計画案
1919年以降、ミースが続けてきた実験的作品の総括として「5つの計画案」という計画書がまとめられます。
実際にはどれも実現することはありませんでしたが、この発表によってミースは王道というよりはアバンギャルド建築家として名をあげることになります。
1つ目の計画案である「ガラスの摩天楼」を除いたほかの4つの計画案は、かつて編集をしていたアバンギャルド雑誌に掲載され、その中でミースはこのように語っています。
我々の頭にあるのは形態ではなく、建築の問題だけだ。
形態は、作品の目的ではなく、最終結果だ。形態そのものが存在するわけではない。
(中略)
目的としての形態は形態主義であり、我々はそれを拒否する。
(中略)
特に関心を持っているのは、美学の理論家から建築活動を解放することであり、建築をあるべき姿、すなわち、建築そのものに戻すことである。
この時から、ベーレンスやベルラーからの影響を受けて信条としていた「形態の発見」から距離を置き、むしろ確立された建築方法ではなく、“今”の生活にフォーカスした有機的な様式を目指すようになります。
そのキーワードとなるのは、同書の中でミースが用いている「骨と皮」です。
骨と皮
ミースは建築を見つめ直し、建築の構造は「骨と皮」であるという結論に至りました。
鉄筋コンクリート構造が主流となった建築について、このように言っています。
建材は、コンクリート、鉄、ガラスである。
鉄筋コンクリートの建物は必然的に架構式構造である。
ペストリーでも戦車の砲塔でもない。
(中略)
つまり、骨と皮の構造だ
レンガを積み、石膏を塗り込める肉厚な建築様式の終わりを受け入れたミースは、支柱などの骨組みから解き放たれた建築にあるべき姿は「引き算だ」と宣言したというわけですね。
この頃になると、ベーレンスとの見解に食い違いが起き、敬遠するようになります。
様々な人の考えから影響を受けたミースにとっての、ある意味での親離れ期となった1926年にドイツ工作連盟の副会長に任命を受けます。このことはフランス、ドイツ、オランダ、ベルギーなど建築が大衆芸術の主流であったヨーロッパ諸国の中心人物になったといっても過言ではありません。
ヴァイセンホーフ ジードルング(1927)
翌年の1927年、ドイツ工作連盟が主催するシュトゥットガルト住宅展に参加、実験的な住宅集落『ヴァイセンホーフ ジードルング(1927)』を発表します。
構造的な間仕切りを排し、生活空間に解放をもたらす新しい様式を示すことができたのは、当時ミースが所属していたモダニスト集団「ノイエス・バウエン」の実績としても充分な効果があったようです。
この「構造的な間仕切り」を排除して生活空間を解放するというアイデアは、より有名な例ではル・コルビュジェが提唱した「近代建築の五法則」で挙げられている自由な立面にも同じことが言えるでしょう。
進歩的な建築家には大革新であったシュトゥットガルト住宅展でしたが、しかし地元の保守的な建築界にはドイツ伝統文化への脅威であるとみなされました。
1927年以降、ノイエス・バウエンへの批判が高まる結果になってしまい、1929年の経済危機後に大きく影響した結果、1930年代初期にはノイエス・バウエンの建築家への仕事の依頼は減ることになります。
ドイツ・パビリオン
ドイツ・パビリオン(1929)
1929年、バルセロナ万国博覧会で発表されたドイツ・パビリオンを設計します。
モダニズム建築が求める空間表現の代表例として、建築史上最も有名な建造物に挙げられるほどです。
この時、ドイツ・パビリオンのための椅子としてミースがデザインした『バルセロナ・チェア(1929)』も、モダンデザインの代表的な傑作として知られています。
バルセロナ・チェア(1929)
ドイツ・パビリオンは博覧会終了と共に取り壊されましたが、1989年に復元、「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」として現存しています。
教育との関わり
1930年、バウハウスの3代校長を務めることになります。
ベーレンス事務所の元同僚で、バウハウスの初代校長でもあるヴァルター・グロピウスからの推薦でした。その任期はナチスによるバウハウス閉鎖を迎えるまでの3年と短いものでした。
その後、ミースはアメリカへ亡命。ドイツに一時帰国してから1938年から1958年の20年もの間はシカゴのアーマー大学(現イリノイ工科大学)建築学科の主任教授として教育業を続けています。
そしてミースは、アーマー大学のキャンパス計画に参加し、カリキュラム設計と新たに増築される学舎の設計を手掛けます。
無事にアメリカへの移住をすませたミースでしたが、新たな変革期が訪れます。
ガラスの摩天楼、ふたたび
シーグラム・ビルディング(1958)
ローエの代表作として、1958年に手掛けたニューヨークの『シーグラム・ビルディング(1958)』を挙げることができます。
同じくニューヨークの『リーバ・ハウス(1952)』と並び、モダニズム建築としては「最も優れた超高層ビル」のデザインとして知られるこの超高層ビルは、ミースの生涯の中では晩年に位置付けられるジャンルで、まさにアメリカ移住後のデザインを象徴するものです。
なぜなら、アメリカで仕事を受けていたミースでしたが、その中でも住宅の依頼はたった2件、その他は工場やキャンパスなど規模の大きいもの、そしてビジネス街の中心にある超高層ビルの依頼がほとんどだったからです。
鉄骨構造で作られたガラスの摩天楼というアプローチは、5つの計画案のひとつである「ガラスの摩天楼」に立ち返るものでもありました。
この頃からミースはつくりのよい個別の建物というよりは、都市機能と反復的な工業生産に重点を置いた近代建築に目を向けるようになります。
それは単に仕事の量が増えたためだけでなく、ドイツ人とアメリカ人の気風にも影響があるようです。
ドイツ人施主は個人と公的機関の伝統を重要視するのに対して、アメリカ人施主はそれほど芸術志向ではなく、工業的な反復性を重要視し、実際にミースが計画に立ち会うのも「住宅の家主」ではなく「宅地開発者」とでした。
そのためミースは好まずとも近代資本主義に転向せざるをえなかったのではないでしょうか。
“ニューヨーク”をつくった男
プロモントリー・アパートメント(1949)
ニューヨークの摩天楼と聞いて思い描く風景の原型は、ミースがつくったと言っても過言ではないかもしれません。
その代表例が先述した『シーグラム・ビルディング(1958)』です。
すでにアメリカでいくつも高層ビルなどの仕事を受けていたミースは、より大胆な都会的なアプローチを試みます。
ミースは建物とその前を通る道路との間にゆったりとした広場を設け、公共空間としました。大規模なプロジェクトであったにも関わらず、2つのベンチと大きな噴水が設置できるほどの広場を設け、結果的には建物と通りとの贅沢な空間によって建物のオーダーを魅力的に演出することに成功しました。
中高層のビルが並ぶニューヨークの中で、超高層のシーグラム・ビルディングは異彩を放つものでした。しかし今では20世紀の典型的な摩天楼としてみなされるほど代表的な建物になりました。
この竣工を受けてパーク・アベニュー(公園通り)や町の反対側にはそっくりな高層ビルが並び建つことになり、ミースにとっても今後手がけるオフィスビルのプロトタイプとなりました。
晩年
1960年代になると、ミースの生活は静かで禁欲的なものになりました。
喜ばしいことに絶えず建築の依頼がやってきてはいましたが、晩年に差し掛かり病と共にあったミースは、どれだけ建築を考えても生きているうちに建つことはないだろうということを分かっていました。
1962年以降は病が進行し、関節炎、食道癌と闘ったミースは1969年8月17日に病死します。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ミースの功績は数多くあれど、ニューヨークの摩天楼を取り囲む高層ビルの走りというのは驚きの功績ですね。
普段見慣れた風景の中に、とある職人の存在とドラマが隠れていることを知れるのが近代建築の醍醐味かもしれません。様々な思想や哲学に影響を受けながら、建築とは何かを突き詰めたミースは、結果的にはアメリカへ渡っても成果を出し続けることができました。
伝統との対立や、国の気風の違いに悩み立ち止まることもあったかもしれませんが、ミースが辿り着いた建築の本質はそれらも解決することができる「最大公約数」だったのかもしれません。
おすすめ書籍
ミース・ファン・デル・ローエをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
ミース・ファン・デル・ローエ
ミースの人生がざっくりと、時代ごと、作品ごとに解説されている本。読みやすく、トピックごとに分かれているので手元に置いておくのも良いかもしれません。
評伝 ミース・ファン・デル・ローエ
評伝と題して、ミースの人生を講演や取り巻く人物へのインタビューなど生に近い情報で追っていく本です。骨太な本ですが、ミースのことを深く知ることができること間違いなしです。
ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて
ミースの設計事務所で師事していた建築家・高山正賓さんが書かれているので、リアルで含蓄のある語り口が魅力の一冊です。仕事を共にした方の本ということで、上記2冊の研究家とはまた違った味わいが楽しめます。