【徹底解説】吉田博とは?片道切符で渡米し、色を摺り重ねた木版画で山と海を描いた洋画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】吉田博とは?片道切符で渡米し、色を摺り重ねた木版画で山と海を描いた洋画家の人生と作品を解説!
画像:『雲井櫻』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは吉田博という人物をご存知ですか?

明治から昭和にかけて活躍した洋画家・版画家で、福岡県久留米市の生まれです。23歳のときに描きためた水彩画を携えてアメリカへ渡り、デトロイトの美術館で作品を発表して成功をおさめました。のちに山や海、世界各地の風景を、色を何十回も摺り重ねる木版画で描き、その版画は英国のダイアナ元妃が執務室に飾っていたことでも知られています。

本記事ではそんな吉田博の人生と作品についてご紹介します。

吉田博って?

基本情報

本名吉田博(よしだ ひろし)。生家は久留米藩士の上田家で、のちに吉田家の養子となりました
生年月日(没年月日)1876年(明治9年)9月19日〜1950年(昭和25年)4月5日(73歳没)
国籍/出身日本 福岡県久留米市
学歴福岡の中学修猷館に学ぶ(卒業とする資料と中退とする資料があります)。1893年に京都で洋画を学び、1894年に上京して画塾・不同舎に入門
分野洋画(水彩・油彩)、木版画(新版画の系譜に連なる風景版画)
傾向登山で得た視点による山岳風景と、各地の旅で描きとめた風景。晩年の木版画では、同じ版木で色を替える「別摺」や、色を何十回も重ねる摺りで光と大気の変化を表しました
師事した人物/影響を受けた人物田村宗立(京都)、小山正太郎(不同舎)。京都で出会った三宅克己の水彩画に感銘を受けました

https://euphoric-arts.com/art-2/aoki-shigeru/

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経歴と作品

吉田博の仕事は、水彩、油彩、木版画と、手段を変えながら一貫して風景を追いかけた歩みでした。年表で全体の流れをつかんでから、順にたどっていきます。

1876年9月19日、久留米市に生まれる
1891年修猷館の図画教師・吉田嘉三郎の養子になる
1893〜94年京都で三宅克己と出会い、上京を決意。1894年に不同舎へ入門
1899年中川八郎とともに渡米。デトロイト美術館で二人展を開く
1901年ヨーロッパを巡って帰国
1901〜02年仲間とともに太平洋画会を結成。1902年に第1回展を開く
1903〜07年二度目の外遊。アメリカからヨーロッパ、エジプトまで巡る。1907年の第1回文展で水彩『新月』が三等賞
1910年文展の審査員に任命される
1920年版元・渡邊庄三郎との出会いから、初めての木版画を出版
1923〜25年三度目の外遊。帰国後、自ら監修する木版画の制作を始める
1926年『日本アルプス十二題』『瀬戸内海集』を含む41点を発表
1928年特大版の木版画『渓流』、『日本南アルプス集』など35点を発表
1930〜31年インド、東南アジアを旅する
1938〜40年陸軍省嘱託の従軍画家として中国を訪れる
1950年4月5日、逝去

久留米に生まれ、画才で吉田家の養子に

吉田博は1876年9月19日、旧久留米藩士・上田束秀之の次男として久留米市に生まれました。久留米市美術館の資料によると、幼少期はうきは市吉井町(当時は浮羽郡吉井町)で過ごしています。

転機は中学時代です。福岡市美術館の解説によれば、進学先の修猷館で図画を教えていた吉田嘉三郎に画才を見込まれ、その養子となって吉田姓を名乗りました。千葉市美術館の年譜では、これは1891年、15歳のときのことです。なお修猷館については、久留米市美術館の資料が「卒業」とする一方、「中退」とする人名事典もあり、資料によって記述が分かれています。

その後、博は京都で洋画を学びます。東京文化財研究所の記事によれば、1893年(明治26年)に京都へ出て田村宗立に師事しました。千葉市美術館や久留米市美術館の資料によれば、京都で水彩画家の三宅克己の作品に感銘を受けたことが、本格的な洋画修業の出発点になりました。三宅との出会いが、上京を決意するきっかけでもありました。

同じ久留米の出身で、6歳年下の洋画家に青木繁がいます。青木が神話や古代に取材した作品で画壇に登場したのに対し、博は風景画を軸に、世界へ出ていく道を選びました。

不同舎で、風景写生を鍛える

1894年(明治27年)、博は上京して、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入門しました。千葉市美術館のプレスリリースは、博がここで小山のもと風景写生に励んで技を磨いたと記しています。

福岡市美術館の解説によると、不同舎では優れた描写力で同門の注目を集めました。また、渡航前から明治美術会の会員でもありました。久留米市美術館の資料は、博が仲間たちから「絵の鬼」と呼ばれるほど画業に打ち込んだと伝えています。

この時期に身につけたのは、現地で見て描く、という姿勢です。博の作品の大半は自分で歩いて体感した風景で、取材範囲は日本から世界各国に及びました。MOA美術館の展覧会資料も、そう整理しています。

1899年、片道切符でアメリカへ

『Memories of Japan』(1899年)

吉田博『Memories of Japan』(1899年)
吉田博『Memories of Japan』(1899年)デトロイト美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1899年(明治32年)、23歳の博は、日本で描きためた水彩画を携えて渡米します。MOA美術館の資料によれば、手元にあったのは1か月分の生活費だけで、後輩の画家・中川八郎との二人旅でした。久留米市美術館は、これを片道切符の渡米と紹介しています。

結果は大成功でした。千葉市美術館の年譜では、デトロイト美術館で二人展を開いて成功をおさめ、ヨーロッパを巡って1901年に帰国したとされています。同館は、言葉もままならない異国で自作を大いに売り、生活の資を得たことを「快挙」と評しています。パラミタミュージアムの展覧会概要は、デトロイトとボストンの両美術館で展覧会を開いて好評を博したと伝えています。東京文化財研究所の記事によれば、1900年のパリ万国博覧会には『高山流水』を出品し、褒状を受けました。

この旅で生まれた作品の1つが、デトロイト美術館が今も所蔵する水彩『Memories of Japan』です。同館の作品記録では、制作は1899年、技法は厚い板に貼った水彩、大きさは縦69.9×横90.2cmです。クレジットラインには「Detroit Museum of Art Purchase, Popular Subscription Fund」とあります。来歴欄には、1899年に博がデトロイト滞在中に制作し、同じ年に同館が購入したと記されています。

画面は、黄緑がかったもやに包まれています。枝を大きく垂らした古木の下に、何人かの人影が小さく立っています。足元の草むらには白い花が散り、木の向こうにはぼんやりと光がにじみます。細い枝先まで描き込みながら、全体は霧のなかのようにやわらかです。

また千葉市美術館の資料によれば、博の作品は渡米の早い時期から、現在のフリーア美術館の創設者である実業家の目にも留まり、購入されています。

太平洋画会の設立と、二度目の外遊

『精華』(1909年)

吉田博『精華』(1909年)
吉田博『精華』(1909年)東京国立博物館蔵(列品番号 A-11499)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

帰国した博は、日本の洋画界で存在感を増していきます。仲間とともに太平洋画会を結成したのです。東京文化財研究所の記事は、帰国した1901年に同志と創立し、翌1902年(明治35年)の第1回展に油絵13点を出品したと記しています(東京富士美術館の作家解説は設立を1902年としています)。福岡市美術館の解説は、博がフランス帰りの黒田清輝ら新派に対抗心をあらわにし、旧派とされた明治美術会を改革して太平洋画会と改称し、その先頭に立ったと説明しています。黒田清輝については、こちらの記事も参考にしてください。

1903年には二度目の外遊に出ます。千葉市美術館の年譜では、このときはヨーロッパからエジプトまでを巡り、1907年に帰国しました。MOA美術館の資料によれば、同行したのは、のちに夫人となる義妹のふじをです。3年以上をアメリカとヨーロッパで過ごしたと記されています。

ふじをも画家で、二人の絵はアメリカの美術館に並びました。インターネットアーカイブが公開しているウースター美術館の展覧会目録によると、1904年3月4日から14日には、ふじをと博の水彩画75点ずつ、計150点の展覧会が開かれています。翌1905年10月22日から11月5日にも、同館で二人の展覧会が開かれました。

帰国の1907年、日本では第1回文部省美術展覧会(文展)が開かれます。東京富士美術館の作家解説によれば、博はこの文展で三等賞を受賞し、作品は文部省の買上げとなりました。出品作の水彩『新月』は、現在は東京国立近代美術館に収蔵されています。1910年には文展の審査員に任命されました。

この時期の油彩に『精華』(1909年)があります。久留米市美術館は、風景画の多い博には珍しい人物画の大作と紹介しています。洞窟の前で、3頭のライオンがくつろいでいます。その前の岩に腰かけた裸婦が、片腕をのばしてライオンたちを示し、手元には白い花が見えます。

山に登り、山を描く

博を語るうえで欠かせないのが登山です。千葉市美術館の資料は、博が10代半ばから旅行や登山を好み、30〜40代の頃には毎夏、日本アルプス周辺の山に何か月もこもって写生したと伝えています。静岡市美術館の資料も、1年の半分近くは写生旅行に出かけ、高山に2、3か月滞在することもあったとしています。

福岡市美術館が所蔵する油彩『渓流』(1910年)は、その成果です。縦119cm、横149cmで、博が得意とした山岳風景画のなかでも最大級とされます。同館の解説によれば、博自身が審査員を務めた第4回文展に出品されて好評を得ました。山あいをほとばしる水流と、水面に映る木々の緑がみずみずしく、水彩で培った描写力が発揮された、初期油彩の代表作と見なされています。

博自身の言葉も残っています。東京富士美術館の作品解説は、博が『高山の美を語る』(実業之日本社、1931年)に次のように書いたと引いています。

「登山と画とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなってゐる。画は私の本業であるが、その題材として、山の様々な風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。」

同じ東京富士美術館の解説によれば、山へ入るときは登山の案内人と一緒に登るのが常でした。『針木雪渓』という作品に描かれた人物のうち、左から2番目の人物は、博が全幅の信頼を置いていた小林喜作といわれています。この解説は、小林が『日本アルプス十二題』の発表の3年前、1923年に雪崩で亡くなったことにも触れ、博がその記憶をこの絵に刻んだのかもしれないと書いています。

静岡市美術館の資料には、博の別の言葉も引かれています。「登って、そこに無限の美を感受するのが、登山の最後の喜びではないだろうか」。山を単なる題材としてではなく、自分の身体で味わう対象として見ていたことが伝わります。

渡邊庄三郎との出会い、新版画へ

水彩や油彩で評価を得ていた博が、木版画に向き合うのは40代になってからです。MOA美術館の資料によれば、1920年(大正9年)、44歳のときに版元の渡邊庄三郎と出会い、最初の木版画『明治神宮の神苑』を出版しました。

渡邊庄三郎が手がけたのが、新版画です。茂木本家美術館の展覧会概要によれば、浮世絵は江戸時代に絵師・彫師・摺師の分業で高度に発達し、海外でも高く評価されましたが、明治になると印刷や写真といった新しい技術に役割を奪われ、衰退していきました。このままでは世界に誇る浮世絵が国内から消えてしまうと感じた渡邊が、同じ技法で制作を始めたのが新版画です。博は、川瀬巴水とともに、渡邊が起用した風景新版画の代表的な作家とされます。同じ概要によれば、洋画家の博はのちに渡邊とたもとを分かちますが、分業による木版画の制作は続けました。浮世絵の源流にあたる絵師については、葛飾北斎の記事で詳しく紹介しています。

ただし、MOA美術館の資料によると、博はこの頃はまだ版画の下絵を描く程度でした。同館は、本格的に変わる転機を、関東大震災の後の渡米としています。

1923年、博は被災した太平洋画会の会員の作品を販売するために渡米しました。東京富士美術館の解説によると、妻とともに旅立った三度目の欧米訪問で、ボストン、フィラデルフィア、デトロイトで展覧会を開いたほか、初めて西海岸の都市や景勝地を巡り、数多くの写生を行っています。そして現地で、日本の版画がアメリカで大変な評判になっていることを知りました。MOA美術館は、このとき博が、自ら習得した西洋の写実的な表現と日本の伝統を生かした新しい木版画をつくる必要を実感したと説明しています。

『米国シリーズ』『欧州シリーズ』(1925年)

1925年(大正14年)、1年10か月に及ぶ欧米旅行から帰国した博は、すぐに自らの監修による木版画の制作に取りかかります。静岡市美術館の資料によれば、帰国後に彫師と摺師を雇い、自ら版元となって私家版の『米国』シリーズを完成させました。シリーズの冒頭は、水槽を泳ぐ色とりどりの魚を描いた『ホノルル水族館』で、青の濃淡で水中の奥行きを表した作品です。西洋画の描写と伝統技法を融合した、博独自の木版画の誕生を告げる作品と同館は紹介しています。

『ウェテホルン』(「欧州シリーズ」より、1925年)

吉田博『ウェテホルン』(1925年)
吉田博『ウェテホルン』(「欧州シリーズ」より、1925年)東京富士美術館蔵/画像:東京富士美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『ウェテホルン』は、スイスのウェッターホルンを描いた「欧州シリーズ」の1点です。東京富士美術館の記録では、1925年の木版多色刷で、大きさは縦36.9×横25.3cmです。

画面の大部分を、青紫に染まった岩山が占めています。山頂近くには雪が残り、岩肌には雪の筋が走っています。山のふもとには細く伸びる氷河が見えます。手前の草地には、花をつけた白い木と緑の木が立ち、小さな水たまりが青く光ります。左には家が1軒。巨大な山と、足元の小さな暮らしの対比が印象に残ります。

『ユングフラウ山』『ルガノ町』(1925年)

吉田博『ユングフラウ山』(1925年)
吉田博『ユングフラウ山』(1925年)スイス国立図書館蔵(GS-GRAF-ANSI-BE-262)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

同じ年のヨーロッパの風景は、描かれた土地でも大切に保管されています。スイス国立図書館は、博の1925年の木版画を所蔵し、画像を公開しています。同館の記録では、『ユングフラウ山』は画面の大きさが縦25.0×横37.1cmの木版画で、1953年に寄贈によって収蔵されました。

画面の左上に、雪をかぶった白い峰がそびえています。中央には青紫の岩壁が切り立ち、手前には雪の斜面が大きく広がります。色数を抑え、白と青の濃淡だけで山の量感を出しています。左の余白には上から「自摺」「大正拾四年作」「ユングフラウ山」の文字が並びます。

吉田博『ルガノ町』(1925年)
吉田博『ルガノ町』(1925年)スイス国立図書館蔵(GS-GRAF-ANSI-TI-57)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『ルガノ町』は、スイス南部の湖畔の町を見下ろした1点です。こちらも同館の記録では1925年の木版画で、画面は縦25.0×横37.1cmです。手前に赤茶色の瓦屋根が折り重なり、その向こうに青い湖と、霞んだ対岸の山並みが広がります。山の画家として知られる博が、町並みの屋根の重なりにも同じ細やかさを向けていたことがわかります。

『グランドキャニオン』(「米国シリーズ」より、1925年)

吉田博『グランドキャニオン』(1925年)
吉田博『グランドキャニオン』(「米国シリーズ」より、1925年)東京富士美術館蔵/画像:東京富士美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『グランドキャニオン』も1925年の作で、大きさは縦25.0×横37.1cmです。東京富士美術館の解説によれば、大自然が作り出した雄大な景観は、博にとって「日本に類のない」風景で、山好きの心をつかんだようです。陽光に照らされた地層が、オレンジやピンク、ブルー、グレーなどの色彩のハーモニーを奏でていると、同館は説明しています。

画面では、遠くまで続く台地と、幾重にも積み重なる岩の層が、霞のかかった空気のなかに浮かびます。手前の暗い岩から奥へ向かって、色が少しずつ淡くなっていくので、谷の深さと広がりが伝わってきます。

MOA美術館の展覧会資料には、「米国シリーズ」の作品として、この『グランドキャニオン』のほかに『レニヤ山』『エル キャピタン』が掲げられています。久留米市美術館の展覧会でも、『エル キャピタン』が同シリーズの作品として紹介されました。

1926年、一年で41点を生んだ私家版の始まり

翌1926年(大正15年)、博は『日本アルプス十二題』や『瀬戸内海集』を含む41点を一気に発表します。東京富士美術館の解説は、この数を「実に41点」と記しています。博の木版画を代表する連作が、帰国の翌年に世に出たことになります。

『日本アルプス十二題』の一つ『劔山の朝』は、博の木版画のなかでも特に有名な1点と、静岡市美術館の資料は説明しています。北アルプス北部の鹿島槍ヶ岳から、朝日で紅に染まる剱岳を捉えた作品で、壮大な空の下で山頂が神々しく輝いています。まだ薄暗い近景にはテントと煙を上げる焚火が置かれ、厳粛な夜明けに人の気配を添えています。

同じ連作の『針木雪渓』は、東京富士美術館の解説によれば、飛騨山脈の針ノ木岳の東面にある雪渓を描いたものです。白馬、剱沢とともに日本三大雪渓の1つに数えられるという説明が付いています。

もう一方の『瀬戸内海集』は、水を描く連作です。全9点で、第一作が『光る海』です。東京富士美術館の解説は、日暮れの凪いだ海に2艘の帆船が浮かび、水平線に沈む夕陽が空をほんのり赤く染め、海に光の道をつくっていると書いています。波間に反射する光は、丸ノミによる彫り跡で表現されているといいます。

同館の解説は、この『光る海』を、故ダイアナ元英国皇太子妃がロンドンのケンジントン宮殿の執務室に飾っていたことでも知られる作品と紹介しています。千葉市美術館と久留米市美術館の資料も、ダイアナ元妃が自らの執務室に『光る海』を飾っていたと記しています。

『瀬戸内海集』のなかでも注目されるのが、6点組の『帆船』です。東京富士美術館の解説によれば、同じ版木を使い、異なる色で刷って、帆船が浮かぶ海を6つの時間帯に描き分けました。博はこの方法を「別刷」と称したと同館は書いています。静岡市美術館の資料では、これを「別摺」と呼び、『帆船』のほとんどは8面の版木を使って15回ほど摺り重ねられている(『朝』のみ一部の版木を変えて12回)と説明しています。同じ構図が、朝にも、夕にも、夜にもなる。それは、版画で時間の流れを描こうとした試みでした。

『雲井櫻』(1926年)

吉田博『雲井櫻』(1926年)
吉田博『雲井櫻』(1926年)トレド美術館蔵/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

同じ1926年の作に、米国のトレド美術館が所蔵する『雲井櫻』があります。左の余白に、上から「自摺」「大正拾五年作」「雲井櫻」と記されています。同館がGoogle Arts & Cultureに掲載している解説によれば、この木版画は博が1904年に描いた同じ題の水彩画をもとにしたもので、吉野山の桜を月明かりのなかで眺める二人の女性が描かれています。

青緑の夜空に満月が浮かび、しだれ桜の枝が画面いっぱいに垂れています。花の赤紫は、暗い空に溶けこむように淡く摺られ、幹と枝だけが黒く浮かびます。着物姿の二人は木の根もとに小さく立ち、月のあるほうへ顔を向けています。

なお本記事では、出所と権利の確認が取れた図版のみ掲載しています。『劔山の朝』『光る海』『帆船』は条件に合う画像を確認できなかったため、文章での紹介にとどめました。

色を何十回も重ねる木版画

博の版画を特徴づけるのが、摺りの回数の多さです。静岡市美術館の資料は、複雑な色彩表現のために重ねた摺りの回数は平均で30数回に及び、なかには96回に達するものもあると説明しています。96回の例として挙げられているのが、1937年の『陽明門』です。複雑な建物の陰影や、背後の杉木立の繊細なグラデーションが、余韻のある深い色合いを生んでいるといいます。

制作は、博ひとりの手で完結するものではありませんでした。同館によれば、博は彫師と摺師を抱えて制作しながら、職人を指導できるよう自身も木版の技術を磨いたといいます。博の版画の余白には、年記や題名、署名のほか「自摺」の文字が添えられています。実際に作業をしたのは摺師でも、博が現場に付き添って仕上がりを監修し、摺りに責任を持つという気概を込めた表記だと、同館は解説しています。先に見た『ユングフラウ山』や『雲井櫻』の左余白にも、この2文字が入っています。

大きさへの挑戦もありました。静岡市美術館は、長辺が70cmを超える『冨士拾景 朝日』を、木版画としては破格の大作と紹介しています。版木が大きいほど、湿らせた紙との収縮率の差でずれが出やすく、摺り重ねは難しくなります。同館は、この作品でも大いに苦労したという逸話が伝えられているとしています。

木版画『渓流』(1928年)

吉田博 木版画『渓流』(1928年)
吉田博『渓流』(1928年、木版多色刷)東京富士美術館蔵/画像:東京富士美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

特大版のもう1つの例が、1928年(昭和3年)の木版画『渓流』です。東京富士美術館の記録では縦54.7×横83.1cmあり、同館は当時の木版画では規格外の大きさと説明しています。1910年の文展に出した油彩『渓流』をもとに、流れ落ちる水の動きに焦点を絞って画面を組み直した作品です。

同館の解説によれば、複雑な水の流れの部分は博自身が1週間かけて彫ったといい、根をつめすぎて歯を痛めてしまったと伝えられています。画面では、岩棚から落ちる水が白い泡となって砕け、手前で大きな渦を巻いています。渦の線は1本ずつ細く彫り出され、淡い青の摺り重ねが水の透明感を生んでいます。

連作制作年資料に書かれている特徴
米国シリーズ1925年帰国後に自ら版元となって制作した最初の私家版。『ホノルル水族館』『グランドキャニオン』など
欧州シリーズ1925年『ウェテホルン』『ユングフラウ山』『ルガノ町』など
日本アルプス十二題1926年『劔山の朝』『針木雪渓』『穂高山』『立山別山』など
瀬戸内海集1926年全9点。『光る海』『帆船』(6つの時間帯の別摺)
日本南アルプス集1928年6点。『駒ケ岳山頂より』など
冨士拾景1926年・1928年1926年に3点、1928年に7点。特大版の『朝日』など
東京拾二題1927年・1929年ほか『亀戸』(1927年)、『神楽坂通 雨後の夜』(1929年)など
印度と東南アジア1931年(1932年作を含む)32点。『ラングーンの金塔』『タジマハルの庭』など

日本の風景と、雨上がりの東京の夜

1928年(昭和3年)、52歳の博は、『日本南アルプス集』6点のほか、『冨士拾景』の残り7点、『東京拾二題』のうち5点などを含む合計35点を発表しました。東京富士美術館の解説は、この年の発表を合計35点と数えています。前の節で見た特大版の『渓流』も、この年の作です。

『神楽坂通 雨後の夜』(「東京拾二題」より、1929年)

吉田博『神楽坂通 雨後の夜』(1929年)
吉田博『神樂坂通 雨後の夜』(「東京拾二題」より、1929年)東京富士美術館蔵/画像:東京富士美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『東京拾二題』の『神楽坂通 雨後の夜』は、1929年(昭和4年)の木版多色刷で、東京富士美術館の記録では縦37.6×横24.9cmです。同館は、店から漏れる灯りや街灯が、雨上がりの湿った空気のなかで淡く暖かい光を放っていると解説しています。濡れた路面が室内の光や軒灯を映す様子は、幻想的ですらあると書かれています。

画面の上半分は、濃紺の夜空と、黒々とした木造2階建ての店です。障子や提灯からもれる橙色の光が、下半分の濡れた道に長い筋となって映りこんでいます。店先には人影が数人、光を背にして立っています。同館の解説によると、博は4年後の『関西』シリーズ『京都之夜』でも、ほぼ同じ構図で雨の夜を描きました。

山岳の雄大な景色だけでなく、街角の小さな光にも、博は同じ目を向けていました。「光」と「空気」をどうやって紙の上に置くか。その問いが、画題の違いを超えてつながっています。

インド、東南アジアの旅

1930年(昭和5年)11月、博は息子の遠志を伴って、インドと東南アジアへ旅立ちました。東京富士美術館の解説によると、案内書や旅行記を何か月も前から詳しく調べて日程を組み、目的地では一日中絵を描いたあと夜行列車で次へ移動し、寝台車で眠るという忙しい旅でした。カンチェンジュンガの日の出を晴天下で見られる季節を選び、満月の夜のタージ・マハルを写生できるよう月齢を調べて、アグラに着く日を決めたそうです。

4度目の海外旅行となったこの旅は、博の外遊のなかで最も実り多いものとなり、『印度と東南アジア』シリーズでは32点もの版画が制作されました。現地の強い日差しや大気、色彩を表すため、博は淡い色を何度も摺り重ねたと、同館は説明しています。その結果、画面が光を発しているかのような、幻想的に輝く風景が生まれました。

ミャンマーのヤンゴン中心部の寺院シュエダゴン・パゴダを描いた『ラングーンの金塔』(1931年)では、約100メートルの黄金の仏塔が、陽光を浴びて輝く様子が、複雑な色調で表現されていると、同館は解説しています。

この連作をはじめ1931年以降に発表された作品は、権利の確認が取れた図版のみ掲載するという方針から、本記事では文章で紹介しています。

戦時と晩年、そして逝去

千葉市美術館の年譜によれば、博は1936年(昭和11年)、60歳のときに韓国と中国を訪れ、1938年には陸軍省嘱託の従軍画家として中国へ渡りました。この従軍は1940年まで続いています。久留米市美術館の展覧会では、従軍画家としての作品として、1941年の油彩『空中戦闘』も紹介されました。千葉市美術館の資料は、これらの作品があまり公開されてこなかったと記しています。

晩年の博について、東京富士美術館の作家解説は、日本山岳画協会を結成し、国内外の山岳風景を多く描いたと簡潔に書いています。千葉市美術館の資料によれば、戦後は作品を通じて、連合国軍最高司令官だったマッカーサー夫妻との交流もありました。

東京文化財研究所の記事によれば、晩年は太平洋画会の会長を務め、1950年(昭和25年)4月5日、東京都新宿区の自宅で亡くなりました。73歳でした。

長く埋もれ、いま再び

博の評価をめぐって、千葉市美術館のプレスリリースは次のように述べています。「比較的早くに評価の定まった白馬会系の絵描きたちに比し、長く埋もれてきた感のある博の画業は、今の私たちにどう映るでしょうか」。同館によれば、博の画業を網羅する回顧展は、2016年の同館での展覧会が、1996年の福岡市美術館などでの「近代風景画の巨匠 吉田博展」以来、20年ぶり2度目でした。

その後も、久留米市美術館(2017年)、静岡市美術館(2021年)、MOA美術館(2025年12月から2026年1月)などで、博の展覧会が続きました。生誕150年にあたる2026年には、福岡市美術館が吉田博を取り上げるコレクション展示を企画しました(会期:2026年9月1日〜12月20日)。

国外での評価も、早くから高いものでした。木版画は米欧で人気を集め、静岡市美術館の資料は、ダイアナ妃に愛されたことで知られていると紹介しています。

まとめ

いかがだったでしょうか。吉田博は、久留米の少年が画才を見込まれて養子となり、23歳で片道切符のようにアメリカへ渡って成功し、帰国後は太平洋画会の中心人物として洋画界を歩みました。そして40代で木版画に出会い、50歳を目前にして、自ら版元となって世界の風景を版画に写し取る道へ進んだ人物です。

旅先で見た風景を、水彩で、油彩で、そして色を何十回も重ねる木版画で描き続けました。画材は変わっても、山に登り、現地で見て、光と空気を写すという姿勢は変わっていません。『ウェテホルン』の岩山も、『雲井櫻』の月夜も、『神楽坂通 雨後の夜』の濡れた路面も、その姿勢から生まれました。実物の摺りの美しさは、ぜひ所蔵館の展示で確かめてみてください。

Euphoric " " の視点

吉田博は23歳のとき、1か月分の生活費だけを手に渡米しました。

のちに進んだ木版画では、余白に「自摺」の文字を添えています。複雑な水の流れの部分は自身が1週間かけて彫ったといい、摺りの回数は平均で30数回、なかには96回に達するものもあると説明されています。

インドの旅では、満月の夜のタージ・マハルを写生できるよう月齢を調べて、アグラに着く日を決めたそうです。

思い切って飛び込むことと、細部まで段取りを詰めること。吉田博の仕事は、大胆さと周到さが一人の中で両立するのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。作品が常に展示されているとは限りません。

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