【まるっと理解!】印象派とは? -歴史から読み解く印象派-

【まるっと理解!】印象派とは? -歴史から読み解く印象派-

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

みなさんは『印象派』という言葉を聞いたことはありますか?

西洋美術の歴史の中でも大きな芸術運動で、モネやルノワールなど、業界を飛び越えて著名な画家が属している事もあり『印象派』という言葉だけは聞いたことのある人も多いかもしれません。

本記事では印象派の歴史についてご紹介します。

印象派の発祥

美術界の支配者

印象派について解説する前に、印象派が生まれた19世紀のフランスにおける美術界がどのようなものだったかご紹介します。

19世紀フランスの美術界は、アカデミーとサロンによって実質的に支配されていたといっても過言ではないでしょう。アカデミーとは1648年に創設された組織で、行政と繋がって美術に関する教育を一手に担っていました。

そのアカデミーが主催している展覧会がサロン(官展)で、今のように私的に個展やグループ展をする風習がなかった時代に画家として作品を発表するための唯一の登竜門が、サロンでの入賞でした。

アカデミーの審査基準は古代ギリシャ・ローマの芸術を規範とした伝統的なもので、絵の主題も、聖書や神話などをモチーフとした歴史画が地位の高い作品とされていました。

一方で風景や静物、民衆などを描いた絵は低級なものとして批評の対象でした。また、表現としては筆跡を残さない光沢のある仕上げ、実物をモチーフとしながらも理想的な形態に描く理想主義的な写実描写が求められていました。

印象派の予兆『反アカデミスム』

『民衆を導く自由の女神(1830)』

Liberty Leading the People, 1830 - Eugene Delacroix

印象派の誕生には、予兆とも言える動きがありました。

それは19世紀前半に見られる、『反アカデミスム』と呼ばれる芸術運動です。

画家にとっての登竜門であるサロンが定める審査基準に反する者たちを総称する言葉ですが、その内訳は実に様々でした。

例えばテオドール・ジェリコーや、ウジェーヌ・ドラクロワなどに代表されるロマン主義は、今自分自身が生きている時代を情熱的に描きました。

ギュスターヴ・クールべが名乗った写実主義は、身近な友人や民衆などのありふれたモチーフをありのまま描き、ジャン・フランソワ・ミレーオノレ・ドーミエなどに続きます。

バルビゾン派は自然豊かな森や村の風景を描き、自然の光の移ろいを忠実に描くという点で反アカデミスムの中でも特に色濃く影響を受けている芸術運動と言えます。

とりわけバルビゾン派と、その流れを汲むサン・シメオン派といった風景画家の登場はサロンの審査基準を押し切って風景画の地位を高め、印象派が誕生する土壌を固めたのでした。

印象派の四つの特徴

ここで、印象派に広く見られる特徴を4つにまとめてご紹介します。

サロンの審査基準に反抗した運動だけあり、その一つひとつが古典芸術の特徴に背いたものになっています。

しかし反アカデミスムが年月をかけて結実したのは、ただ単にサロンの審査基準に背いただけではなく、そこに確かな美しさを感じ、それぞれの美学でもってカンヴァスに表現しようとしたからと言えるでしょう。

筆触分割と視覚混合

『モデルヌ・オランピア(1874)』

A Modern Olympia, 1874 - Paul Cezanne

印象派の特徴として最も顕著なのがその表現方法です。筆跡の残った荒々しいタッチで、明確な輪郭線を描かずにモチーフを捉えるのが大きな特徴でした。

これは当時の主流であった、緻密なタッチで、カメラのように瞬間を切り取ったような従来の描き方の真逆で、光の変化を含めた風景の再現に重きを置いているためでした。

後期にはこの表現がさらに発展し、いわゆる点描表現によって風景を分割することが主流になりました。この表現方法の流行には、当時の色彩理論の発達が大きな影響を与えています。

色を作るときに顔料を混色することを避け、原色をそのままカンヴァスに乗せ、並置することで同時対比の原理によってより鮮やかに色を見せることを狙いました。これを筆触分割視覚混合と言います。

戸外制作

『ラ・グルヌイエール(1869)』

La Grenouillere, 1869 - Pierre-Auguste Renoir

印象派がバルビゾン派から強く影響を受けた特徴として戸外制作があります。

自然の風景が見せる光の変化を、理想化することなく忠実に再現するためです。

バルビゾン派の時代から戸外制作は行われていましたが、多くは戸外でスケッチをしたのちにアトリエで仕上げることが主流でした。

戸外で仕上げまで行えるようになったのは、画材の進化が大きな鍵を握っています。当時の絵の具は、豚の内臓から袋を作り、顔料を詰めただけのもので、制作中に油やメディウムを適宜混ぜなければなりませんでした。大量の画材を運びながら限られた時間の中で戸外制作を行うことは、現代では想像もできない困難だったに違いありません。

1850年に販売されたチューブ入り絵の具は、そんな画家の悩みを解決した、まさに革命と言える製品でした。

このような追い風を受けて、当時の画家は戸外制作のメソッドや新しい画材の使い方をまとめた本を出版し、戸外制作は風景画家のスタンダードになりました。

同時代を描く

『サン・ラザール駅(1877)』

Saint-Lazare Station, 1877 - Claude Monet

聖書や神話などの古典的なモチーフを描くことに反対したという経緯から、印象派のモチーフの多くは自分自身が生きた時代に存在する風景や民衆の姿でした。

とりわけ、1852年から1870年、つまり第二帝政期における経済発展の産物である『カフェ』『鉄道』『蒸気船』などは産業革命のシンボルとして人気のモチーフでした。

その先駆けになったのはギュスターヴ・クールべの写実主義(レアリスム)と考えられており、印象派に受け継がれた特徴の中でも特に挑戦的なものでした。

それほどに古典的なモチーフを描いた歴史画の地位は強固なもので、身近なモチーフを描いた絵画は時に激しい批評の対象となるほどでした。

構図

『ラ・ジャポネーズ(1876)』

Japan's (Camille Monet in Japanese Costume), 1876 - Claude Monet

サロンの定める基準では、絵の構図は古典的な美術に見られる計算されたもので、突飛に抜けた構図や偏った配置は好まれませんでした。

しかし印象派は、極端に俯瞰したような構図や大胆な切り取りをあえて作品に取り入れました。これは単にサロンの基準に反抗するためだけでなく、実際の観察によって自然の風景が持つ理想化できない佇まいを忠実に再現し、人間の手の及ばない自然の存在感に美しさを見出すことが目的でした。

さらに、このような構図の取り方が生まれた経緯には、日本の浮世絵の影響が少なからずあったと考えられています。

フランスに日本の美術品が持ち込まれ、ジャポニズム(19世紀後半から20世紀初冬にかけて、日本の影響を受けた西欧芸術のこと)が広がりを見せた時期と、印象派の活動時期は重なっており、印象派の中心的なメンバーであるモネ、ピサロ、ゴッホなどは特に日本美術からの影響が強く作品に表れています。

印象派の歴史と作品

印象派の始まり

『印象・日の出(1872)』

Impression, sunrise, 1872 - Claude Monet

印象派という言葉が広まったのは1873年、モネ、ピサロ、シスレー、ルノワールなどが「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資社」を組織し、1874年に開催された展覧会がきっかけです。

後に『印象派展』と呼ばれることになるこの展示は、批判的な意味で物議を醸しました。

特にモネの『印象・日の出』という作品が批判の槍玉に上げられ、評論家であるルイ・ルロワが『ル・シャリヴァリ』紙に寄稿した批評が注目を浴び、彼らのことを『印象派』と呼ぶことが定着しました。

 

「これが畝間だって?こっちが霜だって?これじゃまるで、汚れたキャンヴァスのうえにパレットの引っ掻き屑を一様に並べただけじゃないか。作品の頭も尻尾も、上も下も、前も後ろもありゃしない」

「そりゃそうかもしれません。でも印象はありますよ。」

「なるほど、滑稽だね。印象だなんて!それじゃあ、これはなんだ?」

「シスレー氏の『果樹園』です。右手の小さな木がいいじゃないですか。じつに明るい。しかし印象はどうでしょうか」

「ああ。その印象という言葉はやめてくれないか!」

(中略)

「ああ、この男だ、この男だ!」

「彼を知っとるぞ、このヴァンサン爺さんのお気に入りだ!いったい何を描いたんだろう。カタログを見てくれ」

「『印象・日の出』となっています」

「印象か。たしかに、わしもそう思っていたんだが、わしも強い印象を受けたのだから、その絵になんらかの印象があるにちがいない。なんと自由気ままな、なんと安易な仕上げだろう!壁紙の図案の下描きだって、この海の絵に比べりゃずっと完成しているよ」

バーナード・デンヴァー編 末永照和訳『素顔の印象派』美術出版社、1991年より抜粋

 

この批評文によって、良くも悪くも印象派という芸術運動家たちの存在は民衆に広く知られることになりました。

当時の印象派の存在は、サロンになかなか入選できない若い画家たちが、審査も賞もない自由な発表機会を願って生まれた組織といったところでしょうか。

事実、印象派の中心的メンバーとして語られることの多いマネは、サロンに認められることに固執していたため印象派展自体には一度も参加していませんでした。

参加したメンバーの表現方法や様式も様々だったため、今日で抱かれがちな「前衛的で攻撃的な芸術運動家」というイメージとは少しズレがあることは注意すべきでしょう。

第3回印象派展

『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(1876)』

Dance at Moulin de la Galette, 1876 - Pierre-Auguste Renoir

1877年に開催を迎えた第3回印象派展は、全8回を数える印象派展の中でも際立った盛り上がりを見せました。ポスターや広告がパリ中に掲出されるなど、大規模な広告を行った甲斐あって約一ヶ月開かれた展覧会の入場者数はおよそ8000人。

参加した画家の数は18人とこれまでで最も少なかったものの、モネやピサロ、ルノワールといった中心的メンバーをはじめ、2度目の参加となるカイユボットやセザンヌも出品し、おもだった印象派画家が一堂に会する機会となりました。

少数精鋭だったが故に、印象派のスタンスを明確に示すことができたという点でも第3回の展覧会は大成功に終わり、第1回での批評と打って変わって好意的な評価を受けるきっかけになりました。

このように大規模な展覧会を行えたのは、ひとえに印象派の実質的なリーダーであったピサロの献身的な活躍と、前回からメンバーに加わったカイユボットの支援あってのことです。

『マチュランの庭、ポントワーズ(1876)』

Garden of Les Mathurins, 1876 - Camille Pissarro

カミーユ・ピサロは、印象派展のメンバーの中で最年長であった事もあり実質的なリーダーとも言える存在でした。

そんなピサロの人柄は「印象派の父」という現代の評価からも伺うことができるでしょう。

全8回の印象派展に唯一すべて参加し、精力的に作品を出品しつつ、印象派展を行うにあたりメンバーをまとめていたのもピサロでした。自己中心的なドガを嗜めるのも、仲間の反対を押し切ってスーラやシニャックを印象派に迎え入れたのも、実質的なスポンサーであったカイユボットと何度も会合を重ね展覧会を計画したのも全てピサロでした。

まさに、ピサロがいなければ印象派展の存続はありえなかったでしょう。一方で作品は純粋な印象派の手法から飛び出すことはなく、息子へ宛てた手紙の中にも「私はシスレーと同じように、印象派の後衛にとどまっている」と書き残しています。

『パリの通り、雨(1877)』

Rue De Paris, Jour De Pluie (étude), c.1877 - Gustave Caillebotte

ギュスターヴ・カイユボットはパリの裕福な家庭に育ち、若くして没した父の財産を印象派の資金援助に使い、自身も絵画を出品しました。

第3回印象派展においては会場の借用料、広告費を含めた全ての費用を負担し、機会あるごとに印象派のメンバーの作品を高額で買い取り、生活を支えていました。

45歳という若さで1894年に死没しますが、異色のブルジョワ画家という立場で成した功績は、この第3回印象派展をはじめ印象派という存在を社会に流布するのに大きく貢献しました。

第8回印象派展

『小さな帽子屋(1882)』

The Little Milliners, 1882 - Edgar Degas

1886年、第8回印象派展が開催されます。この年で展覧会の開催が最後になる背景には、ピサロの誘いで初参加したスーラとシニャックの存在がありました。

というのも、第4回印象派展が開かれた1879年ごろから、セザンヌやルノワールなどがサロンへの出品のために展覧会への参加を断っていることが、展覧会の存続上の問題になっていました。

そのためドガやピサロなどがスーラやシニャック、ルドンなどの、若手で、純粋に印象派に属していたとは言い難い画家もメンバーに誘いますが、メンバー内では反対意見も出ました。

この意見の不一致が、展覧会の存続を難しくしたのかもしれません。

新印象主義

12年の歴史を閉じた印象派展ですが、第8回印象派展に参加したスーラ、シニャックは、新印象主義という新しいスタイルの担い手になっていきます。

『グランド・ジャット島の日曜日の午後(1884)』

Study for A Sunday on La Grande Jatte, 1884 - Georges Seurat

ジョルジュ・スーラは、印象派の特徴として挙げられる荒々しく筆跡が残されたタッチと、色彩理論に基づく色使いを更に独創的に発展させ、モザイク画のように規則的な点描で鮮やかに風景を描きました。

また、印象派が重視した自然の無秩序でありのままの構図や形態ではなく、ルネサンス絵画に見られる古典的な秩序を持った画面構成を重視していました。

『フェリックス・フェネオンの肖像(1890)』

Portrait of Felix Feneon, 1890 - Paul Signac

ポール・シニャックは、31歳の若さで没したスーラから新印象主義を受け継いだ人物で、スーラよりも純度の高い色彩の点描を用い、点描の大きさをコントロールしたり、曲線を多用したことでより装飾性の高い作品を手がけました。

1910年頃からは油彩画よりも水彩画に力を注ぐようになり、印象派を継承しつつも独自性を追求したことで評価されています。

ポスト印象派

新印象主義が登場するのと同じ頃、ポスト印象派(後期印象派)と呼ばれる画家も登場しました。

主にポスト印象派とされるのはセザンヌ、ゴーガンなどで、出発点として印象派の影響を受けつつも、全く独自のスタイルを確立した画家を呼んでいます。

ポストとは<その後の>という意味を持つ言葉ですが、印象派の後に興った芸術運動を広く含めてしまうため、本記事では印象派展に参加した経験のある画家が興した芸術運動を中心に取り上げることとします。

また、後期印象派という言葉のイメージから受ける、印象派の活動を前期・後期に区切った上での後期という意味とは異なるという点も、誤解しやすいポイントなので注意したいところです。

ポスト印象派の特徴は、モチーフに忠実で、受動的、分析的、感覚的な姿勢だった印象派に対して、自己に忠実で、能動的、総合的、自覚的であることに重きを置いていました。

つまりモチーフをありのまま再現することよりも、画家自身の精神性や思想を重視し、それを作品に織り込むことを目指したのです。

『カード遊びをする人々(1893)』

The Card Players, 1893 - Paul Cezanne

ポール・セザンヌは印象派の中心的メンバーであったピサロに師事し、印象派展にも第一回から参加しますが、印象派の形態を無視した様式は嫌っていました。

印象派として学んだ光の質感表現は重視しつつ、モチーフの物質的な存在感を強い輪郭線とコントラストで表現した作風が特徴で、鬱屈した精神を表すように暗い色彩と愛欲や暴力などの激情的なテーマを扱った作品が目立ち、生前は酷評されることが多かったものの、晩年にはのちのキュビズムの到来を予感させるような画風が評価されました。

総合主義

『タヒチの女たち(1891)』

Tahitian women, 1891 - Paul Gauguin

ポール・ゴーガンは、旧知の仲であるギュスターヴ・アローザの勧めから絵を始め、ピサロと知り合い印象派展にも参加しました。

ゴーガンは「自然に即して描いてはいけない、芸術とはひとつの抽象なのだ。自然の前で夢見つつ、そこから抽象を引き出せ」という姿勢を持っていました。

それは自然のありのままの姿を分析し、カンヴァスに再現しようとする印象派の批判とも言える真逆のスタンスで、セザンヌなどにも見られる画家の精神性を作品に落とし込もうとする試みでした。

具体的には、くっきりとした輪郭線に鮮やかな色を平塗りする手法を多く用い、総合主義を名乗りました。

また、モチーフ選びについても、駅や工場といった時代のシンボルを主なモチーフとした印象派とは反対に、田舎の風景が持つ素朴さと、そこに宿る野生的なエネルギーに注目しました。この思想は、ゴーガンが幼い頃に南米リマに渡っていた経験と無関係ではないでしょう。

象徴主義

『眼=気球(1898)』

Eye Balloon, 1898 - Odilon Redon

第8回印象派展で急遽参加したメンバーの中で、46歳という年齢で参加したのがオディロン・ルドンでした。当時無名だったルドンは、ゴーガンと出会い親交を深めます。

元々、光の質感を捉えた美しい風景画を主に描いていた印象派とは真逆に、神話の登場人物や怪物を、版画や木炭画によるダークな画面の中に描いていたルドンは、印象派からの脱出を考えたゴーガンと意気投合し、独自の世界観を持った作品を制作していきます。

ルドンのダークでゴシックな世界観は、絵画というよりは小説・文学に影響を受けていると考えられます。

具体的にはシャルル・ボードレールの『悪の華』、ジョリス=カルル・ユイスマンスの『さかしま』にその起源を見ることができます。

セザンヌやゴーガンなどのポスト印象派よりも更に画家の精神を反映させ、夢や神秘性を持った独自の様式は、後に象徴主義と呼ばれることになります。

まとめ

いかがだったでしょうか。

印象派の歴史と、その後に続いた新印象主義およびポスト印象派の活動を追っていきました。

印象派の活動の中心は、1874年の第1回「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資社」から始まった印象派展でした。

当時の美術界の絶対的な支配者であったサロンに反抗する形で始まった印象派は、多くの批評を受けながらもじわじわと民衆に受け入れられ、多くの画家が同じコミュニティで美観や意見を分かち合いながら発展していきました。

芸術運動の中でも大きな影響を持つ印象派の歴史と概要を踏まえてみると、多くの芸術作品にその影響を見ることができます。本記事で皆さんの芸術鑑賞を豊かになれば幸いです。

出典

島田紀夫監修『印象派美術館』小学館、2004年。

三浦篤・中村誠監修『印象派とその時代 モネからセザンヌへ』美術出版社、2003年。

高階秀爾監修『増補新装 カラー版 西洋美術史』美術出版社、2002年。

バーナード・デンヴァー編 末永照和訳『素顔の印象派』美術出版社、1991年。



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