こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはマルク・シャガールという人物をご存知ですか?
シャガールはロシア出身、フランス国籍の芸術家です。
絵本の挿絵のような(実際に『寓話』という作品の挿絵を担当しています)幻想的な色彩と独特な姿をした動物や人々を描くことで知られています。
ヨーロッパの芸術運動ブームに立ち会いながらも、独自の世界観で新しく大胆な作品をいくつも世に出しました。
本記事ではそんなマルク・シャガールの人生と作品についてご紹介します。
マルク・シャガールって?
基本情報
本名 | Marc Chagall(マルク・シャガール) |
生年月日 | 1887年7月7日〜1985年3月28日(93歳没) |
国籍/出身 | ベラルーシ ヴィテブスク |
学歴 | 帝室美術奨励学校 |
分野 | 画家、陶芸家 |
傾向 | シュルレアリスム、ネオ・プリミティヴィズム |
師事した/影響を受けた人 | イフェダ・ペン |
人生と作品
生まれと環境
1887年7月7日、当時ロシア領にあったベラルーシのユダヤ人居住地・ヴィテブスクという町でシャガールは生まれました。
シャガールの人生は生まれた時から数奇なものでした。
出産の最中、近所で大火事が起こりシャガールは水桶の中に難を逃れることになります。
最初に私の目に入ってきたのは水桶だった。
素朴で、四角くて、半ばへこみ、半ば楕円の、市場で売っているような水桶だった。
その中に私が入ると、水桶はいっぱいになった。
という書き出しから始まるシャガールの自伝『我が生涯』は、この逸話を元にしています。
父はニシン倉庫で働く労働者、母は小さな食料品店を営んでいた慎ましい家庭で、幼少の時のシャガールは豊かな想像力で詩人や歌手、画家などになりたいと欲張っていたようです。
芸術への欲望
慎ましくも暖かい家庭で育ったシャガールは、ユダヤ敬虔主義の戒律を忠実に守る隣人愛に溢れた生活を送る一方で、文盲であった両親のもとで育ったためか文学や芸術への欲望を募らせていました。
初等学校に入学したシャガールはヘブライ語を学び、高等中学校へ進学してロシア語を勉強しました。
1906年、画家イェフダ・ペンがヴィテブスクで開いていた画塾に通い始めたシャガールは、肖像画を通して本格的に画家になることを目指します。
家庭は裕福ではなかったものの、当時ユダヤ人が入学することを禁じられていた一般学校に賄賂を送って入学を許してもらうなど、息子の夢に理解を示していた母の応援で画家を目指すことが許されました。
とはいえ学費や画材代を捻出することは難しく、シャガールは写真館でアルバイトしながら2ヶ月ほど画塾に通ってペンから大きな影響を受けます。
学べども属さず
1907年、シャガールはサンクトペテルブルグへ画家として移り住むことを決意しました。
芸術家のパトロンであった弁護士ゴールドベルグという男性と出会ったシャガールは、彼に使用人として雇われることになり、市内の移住と帝室美術奨励学校に入学する権利を与えてもらいました。
鳴物入りで帝室美術奨励学校に入学したシャガールを校長のニコライ・レーリッヒは強く激励し、徴兵の免除や奨学金の貸与などの特典を与えられます。
のちにシャガールはズヴァンセヴァ美術学校の校長であった画家レオン・バクストが開くアトリエへも通うことになり、今まで見たことのないヨーロッパの様式を学びます。
ここまでシャガールはいくつかのアトリエや美術学校に所属しましたが、特定の芸術運動や集団に属することはなく、孤独と共に独自の感性を磨いていたようです。
最先端のロシア美術
『結婚(1910)』
バクストのもとで2年間学んだのちの1909年、シャガールはミスチスラフ・ドブシンスキーに弟子入りしていました。
1910年、全英美術雑誌「アポロン」の事務所でシャガールは初めての作品展示を行いました。
新しい芸術思想を支持するシャガールの作品は、同じ時期にサンクトペテルブルグでブルリューク兄弟がロシアで初の未来派グループを結成し、ロシア美術の中で前衛美術の気風が広まっていたことも手伝って、当時の革新的な流行に乗ってロシア美術の最先端を担っていたと言ってもいいでしょう。
シャガールの初期作品には芸術として革新的なだけではなく、ユダヤ教へのゆるやかな解釈が描かれていました。
敬虔なユダヤ教信者であったシャガールの家庭ですが、シャガールは保守的で伝統的なドグマとは距離を置き、主観的な宗教観を構築していきました。
例えばユダヤ=キリスト教信仰には「いかなる像も作ってはならない」という一神教的な非偶像主義の規律がありますが、シャガールは積極的に肖像画や風俗画を描き、それによって根本的な教義である「隣人愛」を描くことを目指します。
代表的な初期作品である『結婚(1910)』では、家庭の日常に散らばる幸せの一幕を描きつつ、重々しい色調と対照的に配置されたハイライトは西洋美術というよりもむしろ東洋的な趣が見て取れます。ちくはぐな遠近法からは装飾主義(ネオ・プリミティズム)の影響を感じることができ、東洋とヨーロッパの折衷的なシャガール独自の画風が初期から確立されていました。
パリへ
『フィアンセに捧ぐ(1911)』
1910年、マキシム・ヴィナヴェルの支援によりシャガールはパリに滞在するための資金を手に入れることができました。
パリへ移住したシャガールはモンパルナスの下宿に住みながら画塾へ通って絵の勉強をしました。
やってきたばかりで貧乏生活を余儀なくされたシャガールは、キャンバスの布は使い古し、毛布や自分のシャツまで使って絵を描くこともありました。モデルを雇うこともできなかったため、しばしばルーヴル美術館に行って絵の練習をしました。
シャガールの生まれ育った町には古典的な美術作品を鑑賞する機会がなかったため、ルーヴル美術館で初めて触れた古典美術、とりわけルネサンス初期美術、フランス古典主義に美意識を刺激されました。
ウジェーヌ・ドラクロワ、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・クールベなどのロマン主義、オディロン・ルドン、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャンなどの印象派などを研究し、色彩の使い方を学びます。
特に近代的な野獣派(フォービズム)に理解を示し、素朴ながらも豊かな色彩感覚を養っていきます。
1911年、シャガールはラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれる集団アトリエに引っ越し、レジェやローランスといったパリにやってきた外国人芸術家同士で集まって生活していました。
あまり社交的でなかったシャガールですが、スイス人の詩人ブレーズ・サンドラールという青年と知り合い、友人となりました。情熱的な彼はまるでシャガールの宣伝係のように振る舞い、絵にタイトルをつけてもらうこともありました。
そんなサンドラールがタイトルをつけた作品の一つが『フィアンセに捧ぐ(1911)』です。『フィアンセに捧ぐ』は後世にも受け継がれるシャガールの特性が強く現れている代表的なパリ時代の作品です。
ロベール・ドローネーの働きかけでアンデパンダン展に出品されたこの作品には、シャガールが後にも長く使用するモチーフの一つであるロバが用いられ、野獣派や印象派を彷彿とさせる色彩、ねじれた手足からはキュビズム的な要素も感じることができます。
実際に1910年ごろのモンパルナスは画家や詩人が芸術的革新を求めて多く流入し、野獣派末期の鮮やかな色彩、キュビズムの急進、未来派宣言、オルフィスムの誕生といった重大な出来事が立て続けに起こっていた前衛美術のサラダボウルとなっていました。
幾何学キュビズム
『私と村(1911)』
当時のパリで特にムーブメントとなっていたのはキュビズムでした。
ただしシャガールはキュビズムを受動的に取り入れたわけではなく、むしろ幾何学形態を主として構図を構築するオリジナルのキュビズムを打ち出すことで、新しい対立概念を突きつけました。
シャガールのキュビズムの特徴は構図だけではありません。
内から光を発するような幻想的な色彩はアンドレ・ブルトンから「叙情の大爆発」と評され、寓話的なストーリー性のあるシャガールの作品の魅力を強調するものでした。
『私と村(1911)』は、シャガールの内面的世界がよく表れた作品の一つです。
左側の山羊はヴィテブスクの思い出を、右側の人物はシャガール自身を表しており、どちらも信仰心を示すように十字架を首から提げています。
上部の男女は、それぞれ女が豊穣、鎌を持った男が死という相反するイメージを想起させます。
夢や音楽を思わせる、同一画面上に異質なモチーフを取り入れることができるキュビズムとシャガールの目指す幻想的な絵の相性はよく、不条理で奇抜なモチーフの組み合わせと幾何学的に整理された構図、インパクトのある色彩によってキュビズムを下地としながらもシャガール独自の世界観を生み出すことに成功しました。
画家としての成功とベラとの再会
『白い襟のベラ(1917)』
シャガールが自己流のキュビズムをものにしてからは、小さなノートに走り書きしたメモや、水彩絵の具でのデッサンを毎日つけ、それを元に油彩を仕上げていくというルーティンを確立していきました。
またキャンバスをぐるぐると回しながら描くことを好み、画面の上下を重要視せず、より抽象的で幻想的な構図にすることができるようになりました。
『聖なる馬車屋(1912)』などは実際に、シャガールの許可のもと上下逆さまに展示されたこともありました。
こうした模索の時期を経て、1914年にはシャルル・マルペルという画商がシャガールと初めての専属契約を結び、晴れてプロの商業画家としての第一歩を歩み出しました。
この専属契約の直後にシャガールはベルリンを訪れ、パウル・クレー、アルフレート・クービンとの合同展示会、その後に初めての個展を開きます。
シャガールがパリから持ち込んだ150点の素描と油彩40点は、海を越えて美術愛好家の高い評価を受け展覧会は大成功しました。
展覧会のオープニングを終えたシャガールは、生まれ故郷であるヴィテブスクへと向かいます。
ヴィテブスクには3年もの間、婚約を待ってシャガールをパリへ送り出した婚約者ベラがいました。
ベラ・ローゼンフェルトは裕福な家庭で育った商家の娘で、モスクワで教育を受け、美術への造詣も深い理想的な女性でした。
1915年に結婚した2人はイダという名前の娘をもうけ、新しい家族の誕生はシャガールの内面的な生活に大きく影響を与え、以降の作品にも影響を及ぼすことになります。
政治に翻弄されながら
『窓の向こうの庭(1917)』
3ヶ月ほどでパリに帰る予定だったシャガールですが、実際には第一次世界大戦によって1922年までロシアに足止めされることになりました。
ベラの兄ヤコブ・ローゼンフェルトの働きかけによって徴兵を免除してもらったシャガールは、戦争経済局で新聞記事の要約をして働きます。ここで仕事の合間にとったメモが、後の自伝『わが生涯』の元になったと言われます。
その後も二月革命の騒乱によってシャガールの制作は滞りを余儀なくされましたが、代わりに小説のためのペン画を制作したり、リトアニアから追放されたユダヤ人の流入によってユダヤ敬虔主義の伝統的な信仰にあらためて目覚めることで特に内的な変化を起こしていました。
1916年からシャガールは展覧会を何度か行い、まだ30歳になっていないにも関わらず、美術評論家からの好評を欲しいままにしていました。
前衛派グループの展覧会でも高い評価を受け、大物コレクターから幾つも作品が購入されるほどでした。戦争の最中にあって、シャガールは愛と幸福の絶頂にあったようです。
さらに1918年には芸術人民委員に任命され、「ヴィテブスク地方の芸術活動の責任者」として「ヴィテブスクおよびヴィテブスク地方の芸術学校、美術館、会議、その他のあらゆる芸術活動を企画する」任務を与えられます。
このことにシャガールはたいへんな熱意を燃やしましたが、残念ながらこの仕事は短命に終わってしまいました。
初仕事としてシャガールは1919年1月28日、ヴィテブスクに芸術学校を建設します。
自身のかつての恩師であるイェフダ・ペン、エル・リシツキーなどを招き、シャガールも油彩画の講師として授業を受け持ちました。
しかし芸術へ関心を寄越さないボリシェヴィズム勢力のカシミール・マレーヴィチとリシツキーとの対立がこじれ、シャガールがモスクワ出張から戻ったタイミングでヴィテブスクに建てた美術学校を追放されてしまいました。
一家はヴィテブスクを追われてモスクワへ移住し、徐々にシャガールを取り巻く名声が悪いものへと転じていきました。
革命理論への反発が疑惑のきっかけでしたが、同時にシャガールの功績も伝播していき、舞台装置や装飾の仕事がいくつも回ってきました。
1922年までモスクワに留まった後、ベルリンに移住。1923年9月1日にかつての親友ブレーズ・サンドラールの手紙を受けてパリを訪れます。
手紙には
戻ってきなさい。あなたは有名人だ。(画商の)ヴォラールが待っている。
と書かれていました。
ラ・リューシュを訪れたシャガールでしたが、かつての自分のアトリエはすでに自分の場所ではなくなっており、作品も全て行方不明になってしまいました。
立て続けの不運にめげることなく、シャガールは記憶を頼りに失った作品を復元しようと試みました。一度描いた構図や色彩をもう一度描こうとするこの作業は感性の内省となり、シャガールを新しい作品へと向かわせました。
1924年、オルレアン通りのアトリエに腰を落ち着けることになったシャガールは、家族をパリに迎えることができたことでようやく安心して家族と芸術に集中することができるようになりました。
シャガールはしきりにフランスのノルマンディー地方、ブルターニュ地方などを訪れており、もっぱら田舎や田園風景を巡ったことは作品へ大きな影響を与えました。
この頃の作品に登場するモチーフは田舎の恋人たち、花、牛やろばなどの家畜、柱時計といったものに絞られていき、対照的に色彩の豊かさはより複雑に繊細になっていきました。
ラ・フォンテーヌとサーカス
『老いたライオン(1927)』
1926年、手紙にも名前が挙げられた画商アンブロワーズ・ヴォラールの依頼でシャガールはラ・フォンテーヌの『寓話』に用いる挿絵の制作に取り掛かります。
ただ版を彫るだけではなく、色の構想を練るために2年間で100枚以上のガッシュ(不透明顔料)を制作し、それをさらに3年かけて銅版に転写していきました。
完璧主義だったシャガールは8500部にのぼる刷り上がった『寓話』のほとんどの挿絵に加筆を行い、5年以上の歳月をかけて発表と相成りました。
この大仕事を経て版画の実績を上げたシャガールは、次にサーカスをテーマにした版画作品へと取り掛かります。
『レジスタンス(1937-1952)』
サーカスをテーマにした作品はロートレックやドガ、ピカソなど多くの芸術家を惹きつける大衆娯楽であったものの、シャガールは自身の幻想的な色彩と不可思議な雰囲気の動物によってサーカスの楽しげな雰囲気を醸し出しました。
サーカスの絵といえばシャガールという人も少なくないのではないでしょうか。
迫害
『革命(1937)』
『寓話』と『サーカス』シリーズからなる版画集の制作を終え、しきりに旅をしてむさぼるように古典美術を見て回ったシャガールでしたが、1933年のナチスによる焚書事件によってマンハイム美術館に展示されていた作品が焼却されてしまいます。
『革命(1937)』という作品には、この時にシャガールが見たユダヤ人狩りの実情が痛烈に描かれています。この他シャガールは『白い磔刑(1938)』など迫害に立ち向かうかのような風刺的な作品をいくつか残していますが、自身と家族の身を案じたのか1939年にアメリカへの亡命を決意し、パリを後にします。
新天地ニューヨークでの出会いと別れ
「自由の女神」の名の下に、ニューヨークにはフランスから多くの亡命者が訪れていました。
アンドレ・ブルトンやマックス・エルンスト、クロード・レヴィ=ストロースなどのヨーロッパ出身の知識人・芸術家と知り合い、「亡命美術展」をはじめとする展覧会に参加しました。
当時のニューヨークにはヨーロッパ文化への渇望から展覧会が盛んに行われていたのです。
またアンリ・マティスの息子ピエール・マティスがシャガールのために画廊を提供してくれ、慣れない土地での制作をサポートしてくれました。
こうして新たな出会いをする一方で、シャガールにとって最も悲しい別れもこの時体験します。
1944年8月25日、パリ解放の報をラジオで聞き、フランスに帰るのも時間の問題と思った矢先に最愛の妻ベラが感染症に罹り、わずか数日後に息を引き取ります。
ショックのあまりシャガールは9ヶ月ものあいだ筆をとることができなかったといいます。
悲しみを埋めるかのようにシャガールは、娘イダの紹介でヴァージニア・ハガードという女性と知り合い、一緒に暮らすことになります。
しかしこの関係は長続きせず、1952年に知り合ったヴァランティー・ブロドスキー(ヴァヴァ)という女性を同志と認め合い、結婚式も執り行われました。
晩年
『楽園から追放されたアダムとイブ(1964)』
1950年以降になるとシャガールの円熟期とも言えるシーズンを迎え、特に陶芸やステンドグラスといった陶芸・工芸の領域に興味を持つようになりました。
プロヴァンスには伝統的な焼き物の技術があり、シャガールはセルジュ・ラメル、ラミエ夫妻など様々な陶芸家に弟子入りすることでこの「炎の芸術」に取り組みました。
陶芸を経て、シャガールは70歳にしてステンドグラスの高貴さに興味を抱くようになります。
陶芸と近しくも遠いこの「光の芸術」には、シャガールが生涯抱えていたユダヤ教への宗教観や解釈といった面でも相性が良く、まるで神に挑戦を挑むかのような気迫で描かれたステンドグラス作品群は、シャガール最大の傑作と評されることも少なくありません。
1985年3月28日、シャガールは98歳の生涯を閉じ、サン=ポール=ド=ヴァンスで息を引き取りました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
98歳という円熟した生涯を通じて、政治、人間関係、宗教などさまざまなテーマがシャガールを取り巻いていたことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
その多様性はそのまま作品の色彩であったり、技法であったり、メッセージであったりに表れているのではないかと思います。
そしてそれはシャガールの運動傾向の曖昧さにも繋がっているのかもしれません。
野獣派や印象派など影響を受けた芸術運動はあれど、明確にシャガールがどの派閥に属していたかははっきりとは言えない部分です。
しかしどの作品を見ても「シャガールの絵だ!」とわかるような色使いと線の特徴があり、これこそがシャガールのオリジナリティだとわかります。
おすすめ書籍
マルク・シャガールをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
もっと知りたいシャガール 生涯と作品
シャガールの人生と作品について、詳しく載っている本です。コンパクトでわかりやすくまずはシャガールがどんな人物なのか知りたい方にはぜひ一読をオススメします。
シャガール(岩波 世界の美術)
下記の「シャガール 色彩の達人」よりも図版が大きく、コラムのついた画集感覚で読むことができる本です。
シャガール 色彩の達人
シャガールについて、手紙や文献をベースに詳しく載っている本です。本のサイズはコンパクトですが、内容はかなりマニアックなのでシャガールについてもっと詳しく知りたい方用です。