こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはディエゴ・ベラスケスという人物をご存知ですか?
ベラスケスは17世紀のスペインで活躍したバロックの画家で、国王フェリペ4世に30年以上仕えた宮廷画家です。
代表作『ラス・メニーナス』は西洋絵画の歴史の中でも最も謎めいた作品のひとつとして知られ、のちにマネから「画家の中の画家」と称えられ、ピカソが58点もの連作で向き合うほど、後の世代に大きな影響を与えました。
本記事ではそんなディエゴ・ベラスケスの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleディエゴ・ベラスケスって?

基本情報
| 本名 | ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez) |
| 生年月日(没年月日) | 1599年6月6日洗礼〜1660年8月6日(61歳没) |
| 国籍/出身 | スペイン/セビーリャ |
| 学歴 | 画家フランシスコ・パチェーコの工房で修業(1617年に親方画家の資格を取得) |
| 分野 | 絵画(肖像画、宗教画、神話画、風俗画) |
| 傾向 | バロック美術、写実主義、スペイン黄金世紀の絵画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | フランシスコ・パチェーコ、ルーベンス、ティツィアーノ、カラヴァッジョ派の明暗表現など |
ベラスケスと関わりの深い画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
スペイン黄金世紀とバロック美術って?
ベラスケスが生きた16世紀後半から17世紀のスペインは、文学や美術が大きく花開いた時代で「黄金世紀(シグロ・デ・オロ)」と呼ばれています。
そうした時代に広まったのがバロック美術です。バロック美術とは、強い明暗やドラマチックな構図で見る人の感情に訴えかける、17世紀ヨーロッパを中心とした美術の様式のことです。
イタリアではカラヴァッジョが、闇の中から人物を浮かび上がらせる強烈な明暗表現で一世を風靡し、その影響はスペインにも届きました。
ベラスケスはこのバロックの時代に生まれながら、大げさな身振りや劇的な演出に頼るのではなく、目の前にあるものを静かに、しかし驚くほど正確に描くことを突き詰めた画家でした。
経歴と作品
セビーリャに生まれ、パチェーコの工房へ
ベラスケスは1599年、スペイン南部の港町セビーリャで生まれ、同年6月6日に洗礼を受けました。正確な誕生日は分かっていないため、記録上は洗礼日が生年の手がかりになっています。
父方の祖父はポルトガルからセビーリャに移り住んだ人物で、ベラスケスの本名「ロドリゲス・デ・シルバ」はこのポルトガル系の家系に由来します。画家として名乗った「ベラスケス」は母方の姓です。
ベラスケスは最初に画家フランシスコ・デ・エレーラ(父)のもとで短期間学んだとも言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。
確かなのは、1610年、11歳ごろに画家フランシスコ・パチェーコの工房に弟子入りしたことです。
パチェーコは画家としては際立った存在ではなかったものの、学識豊かな人物で、のちに絵画の理論書『絵画芸術』を著しています。彼の工房には文学者や聖職者が集まり、若いベラスケスはここで絵の技術だけでなく、教養や人脈も身につけていきました。
1617年、ベラスケスは親方画家の資格試験に合格し、自分の工房を開くことが許されます。そして翌1618年、師パチェーコの娘フアナ・パチェーコと結婚しました。夫婦のあいだには2人の娘が生まれています。
厨房画(ボデゴン)で見せた若き天才
セビーリャ時代のベラスケスが得意としたのが「ボデゴン」と呼ばれるジャンルです。ボデゴンとは、台所や酒場などの庶民の暮らしの一場面に、食べ物や器などの静物を描き込んだスペイン独特の風俗画のことです。
『卵を料理する老婆』(1618年)

19歳ごろのベラスケスが描いた、ボデゴンの代表作です。現在はエディンバラのスコットランド国立美術館が所蔵しています。
暗い台所で、年老いた女性が土鍋で卵を料理しています。その横では少年がメロンと油の瓶を抱えて立っています。
注目したいのは、手前に並んだ道具の描写です。真鍮の乳鉢のにぶい光、白い陶器の器、ガラス瓶に映る光、そして油の中で白く固まりかけた卵。それぞれの素材の手触りまで伝わってくるような描き分けは、とても10代の画家の仕事とは思えません。
闇の中から人物や物を浮かび上がらせる強い明暗の表現には、カラヴァッジョに代表されるイタリアの明暗法の影響がしばしば指摘されています。
『セビーリャの水売り』(1620年頃)

セビーリャ時代の集大成ともいえる作品で、現在はロンドンのアプスリー・ハウスに所蔵されています。
年老いた水売りが、少年に水の入ったグラスを手渡す場面です。大きな素焼きの水瓶の表面を伝う水滴や、グラスの底に沈んだイチジクの実(水に香りをつけるためのものと言われています)まで、細やかに描かれています。
ありふれた日常の一瞬でありながら、画面には不思議な静けさと気品が漂っています。庶民の姿をまるで聖人のような威厳で描き出すこの感覚こそ、のちの宮廷肖像画にもつながっていくベラスケスの持ち味でした。
24歳で国王の画家に
1622年、ベラスケスは初めて首都マドリードを訪れます。このときは宮廷の仕事を得られませんでしたが、翌1623年、国王フェリペ4世の側近であるオリバーレス伯公爵の後押しで再びマドリードに呼ばれます。
そこで描いたフェリペ4世の肖像が国王に気に入られ、ベラスケスは同じ1623年のうちに宮廷画家に任命されました。まだ24歳という若さでした。
ここからベラスケスは、1660年に亡くなるまで30年以上、フェリペ4世に仕え続けることになります。国王と画家という立場を超えて、フェリペ4世はベラスケスを深く信頼していたと言われています。
1627年には、国王の父フェリペ3世による『モリスコの追放』を主題とした宮廷画家たちの競作が行われ、ベラスケスが勝利しました。この作品は現存していませんが、若いよそ者の画家が宮廷の先輩たちを退けたことで、その地位は確かなものになりました。同じ年、ベラスケスは宮廷の役職である「国王の侍従(ウヒエル)」にも任命されています。
1628年には、フランドル(現在のベルギー)の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが外交の用務でマドリードを訪れ、ベラスケスと交流しました。
この時期の作品には、酒の神バッカスが農民たちと酒盛りをする姿を描いた『バッカスの勝利』(1628〜1629年、プラド美術館)があります。神話の神を、日焼けした庶民の酔っぱらいたちと同じ画面に置いたこの作品は、『酔っぱらいたち(ロス・ボラーチョス)』の名でも親しまれています。
イタリアで学んだ光と色
1629年、ベラスケスは国王の許可を得て、初めてイタリアへ旅立ちます。このとき、同じ船に乗り合わせたのが、スペイン軍の名将アンブロージョ・スピノラでした。この出会いは、のちの大作『ブレダの開城』につながっていきます。
ベラスケスはヴェネツィアでティツィアーノやティントレットらの色彩豊かな絵画を学び、ローマでは古代彫刻やミケランジェロ、ラファエロの作品に触れました。1631年にマドリードへ戻るまでの約1年半の旅は、彼の画風を大きく変えることになります。
『ウルカヌスの鍛冶場』(1630年)

イタリア滞在中にローマで描かれた作品で、現在はプラド美術館に所蔵されています。
ローマ神話の鍛冶の神ウルカヌスのもとに、光り輝く太陽神アポロンがやってきて、ウルカヌスの妻ヴィーナスが軍神マルスと浮気をしているという知らせを伝える場面です。
驚きで固まったウルカヌスと職人たちの表情は、まるで工房で本当に起きた出来事のような生々しさです。
セビーリャ時代の暗い画面と比べると、色彩は明るくなり、人物の裸体はイタリアで学んだ古典的な美しさを備えています。スペインの写実とイタリアの古典を掛け合わせた、この時期ならではの作品です。
王の画家として:宮廷の人々を描く
帰国後の1630年代、ベラスケスは新しく造られたブエン・レティーロ宮殿の装飾に関わり、王族の騎馬肖像や戦勝記念の大作を手がけました。
『ブレダの開城』(1634〜1635年)

ブエン・レティーロ宮殿の「諸王国の間」を飾るために描かれた、縦3メートルを超える大作です。現在はプラド美術館に所蔵されています。
描かれているのは、1625年にオランダの要塞都市ブレダが、長い包囲戦の末にスペイン軍に明け渡された場面です。画面中央で、オランダ側の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウが町の鍵を差し出し、それを受け取るのがスペイン軍の司令官スピノラです。イタリアへ向かう船で、ベラスケスが同乗したあの人物でした。
この作品が特別なのは、勝者が敗者を見下していないところです。スピノラは馬を降り、相手の肩にそっと手を添えて、ひざまずこうとする敵将を押しとどめるように迎えています。戦争画でありながら、そこにあるのは勝利の誇示ではなく、相手への敬意です。
『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(1635年頃)

ベラスケスが描いたのは、国王や貴族だけではありません。スペインの宮廷には、王族を楽しませる道化師や、小人症の人々が仕えていました。ベラスケスは彼らの肖像も数多く描いています。
この作品のモデル、パブロ・デ・バリャドリードも宮廷に仕えた道化師のひとりで、現在はプラド美術館に所蔵されています。
黒い衣装の男性が、何かを語りかけるような身振りで立っています。驚かされるのは背景です。床と壁の境目すら描かれておらず、足元に落ちるわずかな影だけで、人物が空間に立っていることを感じさせます。
のちにこの絵を見たマネは、友人への手紙で「おそらくこれまでに描かれた中で最も驚くべき絵画」と評し、「背景が消えて、全身黒ずくめの生き生きとした男を取り巻いているのは空気だ」と書き残しました。
宮廷の中では低い立場に置かれた人々を、ベラスケスはからかいの対象としてではなく、一人ひとりの人格を持った人間として、国王と同じ真剣さで描きました。
ただ一枚の裸婦『鏡のヴィーナス』
『鏡のヴィーナス』(1647〜1651年)

ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する、ベラスケスの現存する唯一の女性の裸体画です。
17世紀のスペインでは、カトリック教会が裸体の表現に厳しく、女性の裸婦像はとても珍しいものでした。そうした中でベラスケスは、ベッドに横たわる愛の女神ヴィーナスを後ろ姿で描き、その顔をキューピッドが掲げる鏡の中にだけ映し出しました。
鏡に映る顔はぼんやりとしていて、見る人はまるで鏡越しに女神から「見られている」ような感覚にとらわれます。鏡を使ったこの仕掛けは、のちの『ラス・メニーナス』にも通じるものです。
1914年3月10日には、女性参政権運動家のメアリー・リチャードソンが、運動の指導者エメリン・パンクハーストの逮捕に抗議して、この絵を刃物で切りつけるという事件も起きました。作品はその後修復され、現在も同館で見ることができます。
2度目のイタリアとローマでの名声
1649年、ベラスケスは2度目のイタリア旅行に出発します。今回の目的は、国王のために王宮を飾る絵画や古代彫刻の複製を買い付けることでした。この旅は1651年まで続きます。
『フアン・デ・パレーハの肖像』(1650年)

モデルのフアン・デ・パレーハは、ベラスケスの工房で助手として働いていた人物です。彼は奴隷の身分に置かれていました。
ベラスケスはこの肖像をローマで描き、1650年にパンテオンで一般に公開しました。まっすぐにこちらを見つめる堂々とした表情、ざっくりとした筆づかいでありながら生きているような肌の質感は、ローマの人々に強い印象を与えたと伝えられています。
そして同じ1650年の11月、ベラスケスはローマで、パレーハを自由の身とする解放の証書に署名しました(効力が生じるのは4年後とされています)。パレーハはその後、マドリードで独立した画家として活動しています。
この肖像画は、1971年にニューヨークのメトロポリタン美術館が購入し、現在も同館の代表的な所蔵品のひとつになっています。
『インノケンティウス10世の肖像』(1650年)

ローマ教皇インノケンティウス10世を描いた肖像画で、教皇の一族パンフィーリ家に代々受け継がれ、現在もローマのドーリア・パンフィーリ美術館に所蔵されています。史上最高の肖像画のひとつと評されることも多い作品です。
赤い帽子と肩衣、白い衣、赤い椅子。赤と白を中心にした色づかいの中で、ひときわ目を引くのが教皇の鋭いまなざしです。老いてなお強い意志と猜疑心をたたえたような表情は、権力者を美化することなく、ひとりの人間として描き出しています。
完成した絵を見た教皇が「あまりにも真に迫っている(トロッポ・ヴェーロ)」と言ったという逸話が伝えられていますが、この話の真偽は確かではないとされています。
この肖像画は、20世紀の画家にも大きな刺激を与えました。イギリスの画家フランシス・ベーコンは、この作品をもとに叫ぶ教皇の姿を描いた『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年)など、教皇をテーマにした連作を手がけています。
王宮配室長として迎えた円熟期
1651年にマドリードへ戻ったベラスケスは、翌1652年、王宮配室長という重要な役職に任命されます。王宮配室長とは、王宮の部屋の管理や、国王が移動する際の宿舎の準備、宮廷行事の設営などを取り仕切る役目で、王宮の鍵を預かる立場でもありました。
画家としての仕事に加えて、こうした宮廷の実務も背負うようになったため、晩年のベラスケスが描いた作品の数は多くありません。それでもこの時期に、西洋絵画の歴史に残る2つの傑作が生まれました。
『ラス・メニーナス』(1656年)

ベラスケスの最高傑作とされ、プラド美術館を代表する作品です。縦約3.2メートル、横約2.8メートルという大きな画面に、王宮の一室の光景が描かれています。
タイトルの「メニーナス」とは、王女に仕える女官(侍女)のことです。ただしこの題名は後から付けられたもので、17世紀の目録では『家族』などと呼ばれており、『ラス・メニーナス』の名が使われるようになったのは1843年のプラド美術館の目録からです。
画面の中央に立つのは、国王フェリペ4世の娘で当時5歳のマルガリータ王女です。その両側には、ひざまずいて飲み物を差し出す女官マリア・アグスティナ・サルミエントと、軽くおじぎをする女官イサベル・デ・ベラスコ。右手前には、宮廷に仕えた小人のマリバルボラと、犬に足をかけるニコラス・ペルトゥサートがいます。
そして画面の左側で、大きなキャンバスの前に立ち、絵筆とパレットを持ってこちらを見ているのが、ベラスケス自身です。
この絵の最大の謎は、奥の壁に掛かった鏡です。鏡の中には、国王フェリペ4世と王妃マリアナの姿がぼんやりと映っています。つまり国王夫妻は、ちょうど私たち鑑賞者が立っている場所にいることになります。
では、ベラスケスが描いているのは国王夫妻の肖像なのでしょうか。それとも、王女たちの姿なのでしょうか。画面の登場人物たちは、こちら側にいる「誰か」を見つめており、見る私たちはいつのまにか絵の中の世界に組み込まれてしまいます。
さらに奥の開いた扉には、階段に立ってこちらを振り返る王妃の侍従ホセ・ニエトの姿があり、画面に奥行きと、時間が止まったような緊張感を与えています。
ベラスケスの胸には、赤い十字の紋章が描かれています。これはサンティアゴ騎士団の印ですが、ベラスケスが騎士団に入ったのは1659年、つまりこの絵が完成した3年後のことです。十字は後から描き加えられたもので、誰が描いたのかについては国王自身とする説を含めて諸説あります。
「見る」「見られる」「描く」という関係が幾重にも重なるこの作品は、後世の画家や思想家を強く惹きつけてきました。イタリアの画家ルカ・ジョルダーノは、この作品を「絵画の神学」と呼んだと伝えられています。
『アラクネの寓話(織女たち)』(1657年頃)

晩年のもうひとつの傑作で、プラド美術館に所蔵されています。スペイン語で「織女たち」を意味する『ラス・イランデラス』の名でも知られています。
手前には、糸車を回す女性や糸を巻く女性たちが働く、タペストリー工房の光景が描かれています。一見すると庶民の仕事場を描いた風俗画のようですが、奥の明るい部屋に目を向けると、そこにはギリシャ神話の場面が隠されています。
機織りの腕を自慢した娘アラクネが、知恵と技芸の女神アテナ(ミネルヴァ)に機織りの勝負を挑み、最後には蜘蛛に姿を変えられてしまうという物語です。
手前の日常と奥の神話が、ひとつの画面の中で入れ子のように重なる構成は、『ラス・メニーナス』とも共通しています。回転する糸車のスポークがかすんで見えるように描かれているのも見どころで、動きそのものを筆の跡でとらえようとした、ベラスケスの晩年の自由な筆づかいがよく表れています。
騎士の称号と最期
ベラスケスには、生涯をかけて追い求めた願いがあったと言われています。それは、画家としてだけでなく、貴族として認められることでした。
当時のスペインでは絵を描くことは職人の手仕事とみなされがちで、名門のサンティアゴ騎士団に入るには、家系や、手仕事で生計を立てていないことを確かめる厳しい審査がありました。
それでも国王の強い後押しもあり、1659年、ベラスケスはついにサンティアゴ騎士団への入団を果たし、貴族の身分を得ます。60歳のことでした。
翌1660年、フランス王ルイ14世とフェリペ4世の娘マリア・テレサ王女の婚礼が決まり、両国の国境を流れるビダソア川のフェザント島で、両国王の会見が行われました。王宮配室長のベラスケスは、スペイン側の会見所をタペストリーで飾るなど、この大行事の準備に奔走しました。
しかし、マドリードに戻ってまもなく熱病に倒れ、1660年8月6日、61歳で亡くなりました。遺体はマドリードの聖フアン・バウティスタ教会に葬られ、そのわずか8日ほど後には、長年連れ添った妻フアナも後を追うように亡くなり、夫の隣に葬られたと伝えられています。
ベラスケスの現存作品はおよそ120点と言われ、その多くがプラド美術館に所蔵されています。
ゴヤ、マネ、ピカソへ受け継がれたまなざし
18世紀のスペインでは、のちに宮廷画家となるフランシスコ・デ・ゴヤが、1778年に王室コレクションのベラスケス作品をもとにしたエッチング(銅版画)を発表しました。それまで一般にはあまり知られていなかったベラスケスの構図が、版画を通して広く紹介されることになりました。
1865年、フランスの画家エドゥアール・マネはスペインを訪れ、プラド美術館でベラスケスの作品と出会いました。友人の画家ファンタン=ラトゥールに宛てた手紙の中で、マネはベラスケスを「画家の中の画家」と呼び、深い感銘を伝えています。
帰国後の1866年、マネは背景を平らな灰色に塗り込めた『笛を吹く少年』(オルセー美術館)を描きます。背景を消し去って人物だけを空間に立たせるこの描き方には、『道化師パブロ・デ・バリャドリード』からの影響が指摘されています。
20世紀、スペイン出身のパブロ・ピカソも、ベラスケスに向き合い続けた画家のひとりです。1897年、10代のピカソはマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しましたが、授業よりもプラド美術館に通い、ベラスケスら巨匠の作品を研究したと言われています。
それから60年後の1957年、75歳のピカソは、南フランス・カンヌの自宅で『ラス・メニーナス』をテーマにした連作に取り組みます。8月から12月までのわずか4か月あまりで描かれた作品は58点にのぼり、そのうち45点が『ラス・メニーナス』そのものを大胆に再解釈したものでした。
ピカソは1968年にこの連作をまとめてバルセロナのピカソ美術館に寄贈し、現在も同館で一堂に見ることができます。一枚の絵が300年後の巨匠をこれほど夢中にさせたことからも、ベラスケスの影響の大きさがうかがえます。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、スペイン黄金世紀を代表する宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの人生と作品についてご紹介しました。
セビーリャの台所の片隅を描いた若き日から、国王の信頼を得て王宮の中枢に上りつめた晩年まで、ベラスケスが一貫して大切にしたのは、目の前の人や物を、偏見なくありのままに見つめることでした。
水売りの老人も、宮廷の道化師も、奴隷の身分にあった助手も、ローマ教皇も、ベラスケスは同じ真剣さで描いています。そのまなざしがあったからこそ、彼の作品は350年以上たった今も、見る人の心を揺さぶり続けているのかもしれません。
ベラスケスの作品の多くは、マドリードのプラド美術館で見ることができます。いつか『ラス・メニーナス』の前に立ち、鏡の中の国王夫妻と同じ場所から、この不思議な絵の世界を体験してみてはいかがでしょうか。
Euphoric ” ” の視点
ベラスケスは宮廷画家でした。描く相手も、題材も、多くは自分では選べません。
その制約の中で、彼は鏡や視線を使って、絵そのものの仕組みを問う作品まで生み出しました。与えられた枠の内側で、誰も見たことのない一手を指したのです。
自由がなければ良い仕事はできない、とは限りません。制約の読み解き方こそ、その人の力量が出るところだと気づかされます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






