こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは河鍋暁斎という人物をご存知ですか?
河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)は、幕末から明治のはじめにかけて江戸・東京で活躍した絵師です。子どもの頃に浮世絵師の歌川国芳に入門し、その後は幕府の御用絵師の流れをくむ狩野派で本格的な修業を積みました。
まじめな仏画から、思わず吹き出してしまう戯画(ぎが:おもしろおかしく描いた絵)、ぞっとするような妖怪や骸骨まで、頼まれればどんな絵でも描いたといわれる、まさに「描けないものはない」絵師でした。
鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしたことでも知られ、近年は国内外の展覧会で大きな注目を集めています。
本記事ではそんな河鍋暁斎の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 河鍋周三郎(幼名)。画号に洞郁陳之(とういく のりゆき)、狂斎、暁斎など |
| 生年月日(没年月日) | 1831年5月18日(天保2年4月7日)生まれ(1889年4月26日没・57歳) |
| 国籍/出身 | 日本/下総国古河(現在の茨城県古河市) |
| 学歴 | なし(歌川国芳の画塾、狩野派の駿河台狩野家で修業) |
| 分野 | 日本画(狩野派)、浮世絵、戯画、版本の挿絵 |
| 傾向 | 狩野派の確かな筆づかいと、浮世絵ゆずりのユーモア・風刺。妖怪、骸骨、鴉(からす)、動物の戯画など |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 歌川国芳、前村洞和、狩野洞白陳信など |
経歴と作品
7歳で国芳に入門、狩野派では「画鬼」と呼ばれた少年時代
『暁斎画談』より「狩野家手初宝珠ノ図」(1887年刊)

河鍋暁斎は、1831年(天保2年)、下総国古河(現在の茨城県古河市)で、古河藩士・河鍋記右衛門の次男として生まれました。数え年2歳のときに家族そろって江戸へ移り、それから亡くなるまで、ずっと江戸・東京で暮らしています。
河鍋暁斎記念美術館によると、暁斎は3歳ではじめてカエルの絵を描いたと伝えられています。カエルは暁斎が生涯にわたって好んで描いた題材で、のちに建てられたお墓まで、カエルの形をした石になっているほどです。
7歳になると、暁斎は浮世絵師の歌川国芳に入門します。国芳といえば、巨大な骸骨や化け猫、猫を擬人化した戯画などで江戸の人々を楽しませた人気絵師です。のちの暁斎の作品に見られる大胆な構図やユーモアの原点は、この国芳のもとで過ごした時間にあるともいわれています。
この頃の逸話として有名なのが、「生首の写生」です。天保10年(1839年)、梅雨の長雨で川があふれた際、暁斎少年は神田川に流れてきた人の首を拾い、それを写生して周囲を驚かせたと伝えられています。この話は、のちに弟子のコンドルが書いた暁斎の伝記にも記されています。怖いもの知らずというより、「見たものは何でも描いてみたい」という好奇心の強さを物語るエピソードといえそうです。
その後、暁斎は10歳で狩野派の絵師・前村洞和(まえむら とうわ)に学ぶことになります。狩野派とは、室町時代から江戸時代の終わりまで、将軍家や大名に仕えた日本画の一大流派です。洞和は暁斎の才能をたいへんかわいがり、「画鬼(がき)」と呼んだといわれています。
洞和が病に倒れたあとは、洞和の師家にあたる駿河台狩野家の当主・狩野洞白陳信(かのう とうはく のぶざね)のもとで修業を続けました。そして19歳の若さで「洞郁陳之(とういく のりゆき)」という画号を授かり、通常よりも短い約9年で修業を終えています。
上の画像は、暁斎が晩年に出版した絵手本『暁斎画談』の一頁です。右側の大きな図には「狩野家手初宝珠ノ図」とあり、狩野派に入門した人が最初に習う「宝珠(ほうじゅ:仏教で願いをかなえるとされる玉)」の描き方が示されています。左側には、衣のしわなどを描き分けるさまざまな線の手本が並びます。暁斎が若い頃に叩き込まれた狩野派の基礎が、どれほど厳しく体系立ったものだったのかがよく分かる資料です。
暁斎はさらに、土佐派や琳派、円山四条派、中国の絵画など、学べるものは何でも学んだといわれます。1857年(安政4年)には、江戸琳派の絵師・鈴木其一(すずき きいつ)の次女と結婚しています。浮世絵と狩野派という、まったく性格の違うふたつの世界を知ったことが、のちの暁斎の自由自在な画風を生んだのです。
「狂斎」を名乗り、戯画と風刺で幕末を生き抜く
『狂斎百狂 どふけ百萬遍』(1864年)

厳しい修業を終えた暁斎でしたが、時代は幕末。世の中が大きく揺れ動くなかで、狩野派の絵師として安定した仕事を得るのは簡単ではありませんでした。
そこで暁斎は、1858年頃から「惺々狂斎(せいせい きょうさい)」などの号を名乗り、浮世絵や戯画、お祭りに飾る行灯(あんどん)の絵などを描いて生計を立てていきます。「狂斎」という名前からして、ただ者ではない雰囲気が漂いますね。
この「狂斎」時代の暁斎は、世相を皮肉る風刺画で人気を集めました。上の作品『狂斎百狂 どふけ百萬遍』は、元治元年(1864年)に出された大判3枚続きの錦絵(にしきえ:多色摺りの浮世絵版画)です。
「百萬遍(ひゃくまんべん)」とは、大勢の人が輪になって巨大な数珠を手繰りながら念仏を唱える仏教の行事のことです。画面には長い長い数珠が大きくうねり、それを引っ張る群衆や役人風の男たち、雷神のような鬼、そして真ん中にはぎょろりとした目の巨大なタコまで登場します。
「どふけ」は「道化」、つまりおふざけのこと。まじめな宗教行事を、なんとも騒がしいお祭り騒ぎに仕立ててしまうところに、狂斎時代の暁斎らしい遊び心があふれています。何を風刺しているのかについてはさまざまな見方がありますが、当時の人々は絵の中の人物や小道具から、あれこれと世の中の出来事を読み取って楽しんだのでしょう。
この頃の暁斎は、戯画を集めた絵本『狂斎画譜』(万延元年序)や『狂斎百図』なども手がけています。幕府の御用絵師の流派で学んだ正統派の腕前を持ちながら、庶民が喜ぶ笑いの絵に全力で取り組む。このギャップこそが、暁斎という絵師の大きな魅力です。
酒席の戯画で投獄!筆禍事件と「暁斎」への改号
『書画会』(1880年)

江戸時代の終わりから明治にかけて、「書画会(しょがかい)」という催しが盛んに開かれていました。料亭などに書家や絵師が集まり、お客さんの前でその場で字や絵をかいて見せる、いわばライブパフォーマンスのような集まりです。お酒がふるまわれることも多く、にぎやかな宴会の雰囲気のなかで作品が次々と生まれていきました。
上の『書画会』は、まさにその書画会の様子を描いた掛軸で、現在はアメリカのクリーブランド美術館に所蔵されています。画面いっぱいに人がひしめき、床に広げた紙に向かって筆をふるう人、それを囲んでのぞき込む人、屏風や掛軸の作品を指さす人などが、生き生きと描かれています。画面の下のほうでは、大きな筆で「壽(ことぶき)」の字を書き上げた人の姿も見えます。
同館の解説によると、人物と屏風・掛軸の輪郭を暁斎が描き、その中の書や絵は10人の文人(ぶんじん:学問や書画をたしなむ教養人)がそれぞれ仕上げたものだそうです。一つひとつの書画には、描いた人の署名が入っています。大勢の手で1枚の絵を完成させるところまで、まさに書画会そのものといえる作品です。
即興で描くことを得意とした暁斎は、こうした書画会の人気者でした。しかし、その書画会が大事件の舞台にもなってしまいます。
明治3年(1870年)10月、上野・不忍池(しのばずのいけ)のほとりの料亭で開かれた書画会で、暁斎は新政府の役人を批判するような戯画を描いたとされ、捕らえられてしまいました。いわゆる「筆禍(ひっか)事件」です。筆禍とは、書いたものや描いたもののせいで罰を受けることを指します。
百科事典(コトバンク収録)の解説では、酔った勢いで描いた戯画が政府の要人を風刺したものだと密告され、3か月ほど拘留されたとも説明されています。明治という新しい時代になったばかりで、政府が批判に敏感になっていたことがうかがえます。
翌年のはじめに釈放された暁斎は、それまでの「狂斎」という号を「暁斎」に改めました。読み方は同じ「きょうさい」ですが、「狂う」から「暁(あかつき)」へ。心機一転、新たな夜明けを迎えるような気持ちがあったのかもしれません。こうして、私たちが知る「河鍋暁斎」が誕生したのです。
ちなみに暁斎は、幕末の頃から亡くなる直前まで、日々の出来事を絵で記録した「絵日記」もつけていました。現在見つかっているのは合わせて4年分ほどですが、そこには訪ねてきた人や出かけた先の様子などが、ユーモアたっぷりに描き残されています。
17メートルの大作を一気に!『新富座妖怪引幕』
『新富座妖怪引幕』(1880年)

明治に入ってからの暁斎は、ますます活躍の場を広げていきます。その勢いを象徴するのが、この『新富座妖怪引幕(しんとみざ ようかい ひきまく)』です。
引幕とは、歌舞伎の舞台で左右に引いて開け閉めする大きな幕のこと。新富座は、明治のはじめに東京を代表した芝居小屋でした。この引幕は、戯作者(げさくしゃ:娯楽小説の作家)で新聞記者でもあった仮名垣魯文(かながき ろぶん)が新富座に贈ったもので、その絵を暁斎が担当しました。
驚くのはその大きさです。高さ約4メートル、幅約17メートルという巨大な布に、明治13年(1880年)6月30日、暁斎はお酒を飲みながらわずか4時間ほどで描き上げたと伝えられています。まさに書画会で鍛えた即興の腕前が存分に発揮された作品です。
画面には、角の生えた鬼や長い舌を出した化け物、髪を振り乱した幽霊など、たくさんの妖怪がひしめいています。実はこれらの妖怪は、九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎など、当時の人気歌舞伎役者たちを妖怪に見立てて描いたものです。ファンが見れば「あれはあの役者だ」と分かる仕掛けになっていて、観客を大いに楽しませたことでしょう。
現在この引幕は早稲田大学演劇博物館に所蔵されています。近年は高精細なデジタル化も行われ、大英博物館の展覧会に出品されるなど、国内外で改めて注目を集めています。
また、この時期の暁斎は海外の人々との交流も深めていきました。1876年(明治9年)にはアメリカのフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品し、同じ年には、のちにパリのギメ美術館を創設するフランスの実業家エミール・ギメと、同行した画家フェリックス・レガメの訪問を受けています。暁斎とレガメは、お互いの肖像画を描き合って腕を競ったといわれています。
「百円鴉」で一躍有名に。鴉の名手としての暁斎
『Crow on a Rock』(1887年頃)

暁斎の名前を一気に広めたのは、1羽の鴉でした。
明治14年(1881年)、東京・上野で第2回内国勧業博覧会が開かれました。内国勧業博覧会とは、明治政府が国内の産業を盛り上げるために開いた大規模な博覧会で、美術作品も出品されていました。ここで暁斎が出品した『枯木寒鴉図(こぼくかんあず)』が、日本画の最高賞にあたる「妙技二等賞牌」を受賞したのです。
この作品には、有名な逸話が残っています。暁斎はこの鴉の絵に100円という、当時としてはとても高い値段を付けました。「鴉1羽の絵にしては高すぎる」と言われると、暁斎は「これは鴉の値段ではなく、長年の苦学の値である」と答えたと伝えられています。
この言葉に感心した日本橋の老舗和菓子店・榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の主人が、言い値の100円で買い取ったといわれています。この一件から、作品は「百円鴉」と呼ばれるようになり、暁斎は「鴉かきの暁斎」としても知られるようになりました。『枯木寒鴉図』は現在も榮太樓總本鋪に伝わっています。
上の画像は『枯木寒鴉図』そのものではありませんが、暁斎が晩年に描いた鴉の一図で、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている画帖の一枚です。同館での題名は英語の『Crow on a Rock』(岩の上の鴉)で、日本語の正式な題名は確認できていません。同じ画帖には、ほかにも枝にとまる鴉などを描いた図が何枚も含まれていて、暁斎がいかに鴉という題材を得意としていたかが分かります。
絹の上に墨で描かれた鴉は、大きく広げた翼の羽根の一枚一枚まで、筆の勢いだけで表現されています。岩の上で身をかがめ、鋭く光る目。背景の笹の葉も、ためらいのない筆づかいでさっと描かれています。墨の濃淡だけで、鴉の黒い羽の艶やかさや、ふわりとした質感まで伝わってくるようです。
狩野派で徹底的に鍛えた筆の技術があるからこそ、少ない筆数でこれほどの存在感を生み出せるのでしょう。「苦学の値」という言葉にも、うなずけるのではないでしょうか。
鹿鳴館の設計者が弟子入り!ジョサイア・コンドルとの師弟関係
『暁斎画談』より西洋の解剖図を写した頁(1887年刊)

内国勧業博覧会で暁斎が評価されたのと同じ明治14年(1881年)、ひとりのイギリス人が暁斎のもとに弟子入りしました。それが建築家のジョサイア・コンドルです。
コンドルは1877年(明治10年)に来日した「お雇い外国人」で、工部大学校(現在の東京大学工学部の前身のひとつ)で建築を教え、鹿鳴館などを設計した、日本の近代建築の基礎を築いた人物です。そんなコンドルが、日本画を学ぶために選んだ師匠が暁斎でした。
暁斎はコンドルに「暁英(きょうえい)」という画号を与えています。それは1883年(明治16年)、奇しくもコンドルが設計した鹿鳴館が完成したのと同じ年のことでした。暁斎の絵日記にはコンドルとの交流も記録されており、国籍の違いをこえた師弟の親しい関係をうかがうことができます。
コンドルは暁斎が亡くなったあとの1911年(明治44年)、英語で『Paintings and Studies by Kawanabe Kyōsai(河鍋暁斎の絵画と習作)』という本を出版しました。暁斎の技法や人となりを紹介したこの本によって、暁斎の名前は欧米にも広く知られることになります。この本は日本語にも翻訳され、現在は岩波文庫で読むことができます。
上の画像は、暁斎が明治20年(1887年)に出版した絵手本『暁斎画談』の一頁です。ここには、西洋の解剖図のように、人体の骨格や筋肉が描かれています。
狩野派の基礎から、日本や中国のさまざまな流派、そして西洋の人体表現まで。暁斎は生涯を通じて、ありとあらゆる絵を学び続けました。河鍋暁斎記念美術館によると、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、最晩年の暁斎を「日本最大の画家」と評したといいます。
地獄を着こなす美女!暁斎が愛した画題「地獄太夫」
『地獄太夫図』(1871〜89年)

暁斎の作品の中でも、とりわけ人気が高いのが「地獄太夫(じごくだゆう)」を描いた絵です。
地獄太夫とは、室町時代の禅僧・一休宗純(いっきゅう そうじゅん)から教えを受けたと伝わる、堺(現在の大阪府堺市)の遊女のことです。この世での不幸は前世の行いのせいだと考えて自ら「地獄」と名乗り、地獄の様子を刺繍した着物をまといながら仏教への信仰を深めたという伝説が残っています。幕末から明治にかけて流行した画題で、暁斎は特にこれを好み、版画でも肉筆画でもたびたび描きました。
上の『地獄太夫図』は、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている一幅です。同館の解説によると、暁斎はこの大きな構図を、少しずつ変えながら何度も描いたといいます。
水墨で描かれた屏風の前で、ふと振り返るように立つのが地獄太夫です。その着物をよく見ると、赤い珊瑚(さんご)のような模様や宝物、人物の図柄などが一面に描き込まれています。
実はこの着物には、暁斎らしいひとひねりが加えられています。同館の解説によれば、本来なら地獄の様子を表すはずの図柄が、願いをかなえる宝珠や赤い珊瑚といった縁起の良いものに置き換えられているのだそうです。太夫自身は七福神の一人である弁財天に見立てられ、残りの七福神は着物の上に描かれています。なかには、閻魔大王(えんまだいおう)のもとへ罪を報告しに行く神の姿まであるといいます。さらに表着には、長寿を表す文字が金や銀でいくつも入れられています。
恐ろしいはずの地獄を、おめでたい七福神の世界にすり替えてしまう。それでいて、着物の細かな文様や、背後の屏風の水墨画まで、狩野派で鍛えた確かな筆で描き分けられています。ふざけているようでいて、その裏には確かな観察と技術がある。これこそが暁斎の真骨頂といえるでしょう。
国芳の骸骨や、同じく国芳門下の月岡芳年の妖しい美人画がお好きな方なら、きっと暁斎の地獄太夫にも心をつかまれるはずです。
妖怪も動物も大はしゃぎ!百鬼夜行と鳥獣戯画
『暁斎百鬼画談』(1889年)

暁斎を語るうえで欠かせないのが、妖怪です。
「百鬼夜行(ひゃっきやこう)」とは、夜中にさまざまな妖怪たちが列をなして練り歩くという言い伝えのこと。室町時代の絵巻などに古くから描かれてきた題材で、暁斎もこれを何度も描いています。
上の画像は、暁斎の妖怪画集『暁斎百鬼画談(きょうさい ひゃっきがだん)』の一場面です。炎のゆらめく大きな黒い鍋のようなものを背負った鬼、柄杓(ひしゃく)や包丁のような道具をぶら下げた妖怪、蓑(みの)をまとった妖怪、うちわを手にした妖怪などが、列をなしてにぎやかに駆けていきます。どの妖怪もどこか間が抜けていて、怖いというより愛嬌たっぷり。一匹一匹の表情をじっくり眺めていると、時間を忘れてしまいそうです。
この本は、暁斎が亡くなった明治22年(1889年)に出版された折本(おりほん:蛇腹のように折りたたんだ本)の画集です。東京大学附属図書館の解説では、骸骨の軍団と妖怪の軍団がぶつかり合う場面など暁斎ならではの工夫を加えた本書は、大徳寺真珠庵に伝わる『百鬼夜行絵巻』から代々描き継がれてきた妖怪絵巻の集大成と紹介されています。なお、上の画像のメトロポリタン美術館の所蔵本は、翌1890年に刷られたものです。最晩年まで妖怪を描き続けた暁斎にとって、妖怪は生涯のテーマだったのです。
『鳥獣戯画 猫又と狸』下絵(19世紀)
埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館には、『鳥獣戯画 猫又と狸』の下絵が所蔵されています。下絵とは、本番の作品を描く前に構図や形を検討するための絵のことです。
題名のとおり、猫又(ねこまた:年をとって尾が二つに分かれたとされる猫の妖怪)と狸たちが、まるで人間のように二本足で立ち上がって踊る、にぎやかな場面を描いたものです。完成作だけでなく、こうした下絵からも、暁斎が試行錯誤を重ねながら構図を練り上げていった様子を感じ取ることができます。
河鍋暁斎記念美術館には、こうした下絵や画稿(がこう:下書きや習作)が3000点あまりも伝わっています。その多くは完成作が見つかっていないそうですが、下絵だけでも十分に見ごたえがあるのが暁斎のすごいところです。
「画鬼」の最期と受け継がれたもの
数々の名作を生み出した暁斎でしたが、1889年(明治22年)4月26日、胃がんのため亡くなりました。57歳でした。
お墓は東京・谷中の瑞輪寺にあり、墓石は暁斎が愛したカエル(ガマ)の形をした自然石が使われています。3歳でカエルを描いた少年は、最後までカエルとともにあったのです。
暁斎の画業は、弟子たちによって受け継がれました。なかでも娘の河鍋暁翠(かわなべ きょうすい)は、父から幼い頃に絵の手ほどきを受けた日本画家で、明治30年代後半には女子美術学校(現在の女子美術大学)の草創期の教師も務めています。
さらに1977年(昭和52年)には、暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美氏が自宅を改装して河鍋暁斎記念美術館を開館しました。こうした家族や研究者の地道な取り組みもあって、暁斎は現在、国内外で再評価が進んでいます。
まとめ
いかがだったでしょうか。
浮世絵師・歌川国芳のもとで絵の楽しさを知り、狩野派で本格的な技術を身につけた河鍋暁斎。幕末の混乱期には「狂斎」として風刺画で人気を集め、筆禍事件で捕らえられながらも「暁斎」として再出発しました。
その後は内国勧業博覧会での受賞、コンドルをはじめとする外国人との交流など、明治という新しい時代の中で、ますます活躍の場を広げていきました。
まじめな仏画も、笑える戯画も、恐ろしい妖怪も、美しい地獄太夫も。暁斎にとっては、どれもが同じように全力で取り組むべき「絵」だったのかもしれません。「描けないものはない」という言葉がこれほど似合う絵師は、なかなかいないのではないでしょうか。
埼玉県蕨市の河鍋暁斎記念美術館では、テーマを替えながら暁斎の作品を展示しています。気になった方は、ぜひ実物の迫力を味わいに足を運んでみてください。
Euphoric ” ” の視点
暁斎は、狩野派の格式ある画法を身につけながら、妖怪も戯画も引き受けました。注文があれば何でも描き、それでいて画面には一貫した迫力が宿ります。
器用さは、しばしば個性のなさと同義に語られます。暁斎はその逆を証明しました。引き出しの多さが、どの仕事にも効いています。
幅広く仕事を受けることと、自分の色を持つこと。この二つは両立し得るのだと、暁斎の画は教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






