【徹底解説】長谷川等伯とは?能登から京都へ上り、金碧画と水墨画を極めた絵師の人生と作品を解説!

【徹底解説】長谷川等伯とは?能登から京都へ上り、金碧画と水墨画を極めた絵師の人生と作品を解説!
画像:『松林図屏風』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは長谷川等伯という人物をご存知ですか?

戦国時代の能登国七尾(現在の石川県七尾市)に生まれ、30代で京都に出てから、狩野派と並ぶ一大画派を築き上げた絵師です。

金箔を使ったまばゆい障壁画から、墨の濃淡だけで描いた静かな水墨画まで、正反対とも思える表現を自在に描き分けました。なかでも霧に包まれた松林を描いた国宝『松林図屏風』は、日本の水墨画の最高峰とも言われ、毎年お正月に東京国立博物館で公開されると多くの人が足を運びます。

本記事ではそんな長谷川等伯の人生と作品についてご紹介します。

長谷川等伯って?

基本情報

本名長谷川又四郎(のちに帯刀とも)。若いころは「信春(しんしゅん)」と号し、京都に出たのちに「等伯」と改める
生年月日(没年月日)1539年(天文8年)、月日は不詳〜1610年3月19日(慶長15年2月24日)(数え年72歳没)
国籍/出身日本 能登国七尾(現在の石川県七尾市)
学歴記録なし
分野日本画(仏画・肖像画・金碧障壁画・水墨画)
傾向長谷川派の祖。華やかな金碧画と、宋元画に学んだ日本独自の水墨画
師事した人物/影響を受けた人物養父・長谷川宗清、狩野派(狩野松栄に学んだとされる)、牧谿(もっけい)、雪舟など

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経歴と作品

能登・七尾で生まれた絵仏師「信春」

長谷川等伯は1539年、能登国の七尾に生まれました。七尾は、戦国大名の畠山氏が大きな山城を構えた能登の中心地です。

実の父は、その畠山氏に仕える家臣の奥村文之丞宗道(おくむらぶんのじょうむねみち)でした。等伯は幼いころ、染物業を営む長谷川宗清(そうせい)のもとへ養子に入ります。

この養父の宗清も絵を描く人で、雪舟の弟子である等春(とうしゅん)の門人として仏画などを手がけていたとされています。等伯は、養父や養祖父から絵の手ほどきを受けたと考えられています。

若いころの等伯は「信春(しんしゅん)」と名乗り、能登や越中(現在の富山県)の寺院のために、仏画や高僧の肖像画を描いていました。等伯は日蓮宗(法華宗)の信者で、この時期の作品の多くは日蓮宗の寺院に伝わっています。

『日蓮像』(1564年)

長谷川信春(等伯)『日蓮像』(1564年)
長谷川信春(等伯)『日蓮像』(1564年)大法寺(富山県高岡市)重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

現在の富山県高岡市にある日蓮宗の寺、大法寺に伝わる日蓮の肖像画です。1564年、信春が26歳のときの作品とされています。

天蓋(てんがい)と呼ばれる豪華な飾りの下で、日蓮が経典を手に座っています。衣の文様や、机にかけられた布の模様まで細かく丁寧に描き込まれており、若い絵仏師のまじめな仕事ぶりが伝わってきます。

この絵には、描いた絵師についての書き込みがあり、「長谷川又四郎」という名と「信春」の印が確認できます。このことが、能登の絵仏師「信春」と、のちに京都で活躍する「等伯」が同じ人物であることを裏づける大切な手がかりになりました。

かつては信春と等伯は別の絵師だと考えられていましたが、研究者たちの調査によって同一人物であることが明らかになり、現在では定説となっています。

『善女龍王図』(16世紀)

長谷川信春(等伯)『善女龍王図』(16世紀)
長谷川信春(等伯)『善女龍王図』(室町時代末期・16世紀)石川県七尾美術館 石川県指定文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

等伯の故郷・七尾にある石川県七尾美術館が所蔵する、信春時代の仏画です。

善女龍王(ぜんにょりゅうおう)は、雨ごいの祈りに現れたと伝えられる、仏教の守り神です。画面では、女性のような姿をした童子が右手に剣、左手に宝珠(ほうじゅ:願いをかなえるとされる珠)を持って立ち、その背後を龍が大きくうねるように取り巻いています。暗い背景の中で、赤い衣や金の装飾がくっきりと浮かび上がります。

縦35.5センチ、横16.3センチほどの小さな作品ですが、細い線で描かれた顔立ちや衣のひだは驚くほど繊細です。画面の右下には「信春」の印が押されており、2005年に石川県の指定文化財になりました。

七尾美術館は等伯の出身地の美術館として、毎年シリーズで長谷川等伯展を開いています。能登時代の等伯に出会える、貴重な場所です。

『伝名和長年像』(16世紀)

長谷川信春(等伯)『伝名和長年像』(16世紀)
長谷川信春(等伯)『伝名和長年像』(安土桃山時代・16世紀)東京国立博物館 重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

等伯がまだ信春と名乗っていたころの肖像画の代表作の一つです。東京国立博物館の表記は「安土桃山時代・16世紀」で、正確な制作年は分かっていません。

深緑色の着物(素襖(すおう))を着た年配の武士が、畳の上にどっしりと座っています。そのそばには太刀が立てかけられ、手前には華やかな装いの小姓(こしょう)と、栗毛の馬の綱を引く馬丁(ばてい)が描かれています。

前足を高く上げた馬の力強い姿や、人物の着物の柄など、見どころの多い作品です。

この肖像は長く、南北朝時代の武将・名和長年(なわながとし)を描いたものとされてきました。そのため作品名に「伝(伝えられている)」という字がついています。ただし東京国立博物館の解説によると、名和長年である可能性は低く、むしろ信春と同じ時代の武士を描いたものと考えられています。

信春は仏画だけでなく、こうした武士の肖像画でも確かな腕を持っていたことが分かります。

30代で京都へ 本法寺を拠点に

1571年ごろ、等伯が30代前半のころに、養父母が相次いで亡くなります。これを機に、等伯は妻と幼い息子の久蔵(きゅうぞう)を連れて京都へ上ったと言われています。上洛の時期については、1571年から翌年ごろ、30代前半から半ばと考えられています。

当時の京都は、天下統一へ向かう織田信長の時代です。一方で絵の世界では、室町幕府以来の御用絵師である狩野派が大きな力を持っていました。地方から出てきた無名の絵師が、都で仕事を得るのは簡単なことではありませんでした。

そんな等伯を支えたのが、日蓮宗の信仰を通じたつながりです。等伯は京都の日蓮宗の大寺院本法寺(ほんぽうじ)を頼り、1572年には本法寺の八世住職・日堯(にちぎょう)の肖像画『日堯上人像』を描いています。

また等伯は、一時期、狩野派の狩野松栄(しょうえい)のもとで学んだとも言われています。石川県七尾美術館によると、狩野派に在籍していた40代前半ごろの作品も残っています。地方で身につけた仏画の技術に加えて、都の最先端の画法を貪欲に吸収していったのです。

さらに等伯は、中国の古い絵画にも熱心に学びました。とくに影響を受けたのが、中国・南宋時代の画僧牧谿(もっけい)です。牧谿の水墨画は、室町時代から日本で非常に大切にされてきました。この牧谿への傾倒が、のちの『松林図屏風』につながっていきます。

こうして京都で学びを重ねるなかで、等伯は「信春」から「等伯」へと名を改め、都の絵師として歩み始めます。

千利休との縁と、大徳寺山門の天井画

等伯が京都で大きく飛躍するきっかけとなったのが、茶の湯の大成者として知られる千利休との縁でした。

1589年(天正17年)、利休は京都の禅寺・大徳寺の山門を二階建てに増築する費用を寄進し、施主となりました。この山門の上の階は「金毛閣(きんもうかく)」と呼ばれています。

そして、この金毛閣の天井画と柱絵を任されたのが、当時51歳の等伯でした。天井には龍や、極楽に住むとされる上半身が人で下半身が鳥の姿をした迦陵頻伽(かりょうびんが)などが描かれています。

大徳寺は、多くの戦国武将や茶人が参禅した、当時の文化の中心地の一つです。ここで大きな仕事を任されたことは、等伯の名を京都の有力者たちに知らせる絶好の機会になったと考えられます。

ちなみに、この金毛閣の楼上には利休自身の木像が置かれました。これが豊臣秀吉の怒りを買い、1591年に利休が切腹を命じられる一因になったとも言われています。

狩野永徳との関係 史料と俗説

等伯を語るうえで欠かせないのが、同じ時代に活躍した狩野派の天才絵師狩野永徳(かのうえいとく)との関係です。

永徳は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城、聚楽第などの障壁画を一門を率いて手がけた、当時の画壇の頂点に立つ人物でした。国宝『唐獅子図屏風』の作者としても知られています。

2人の関係を示す出来事としてよく知られているのが、1590年(天正18年)のいわゆる「対屋(たいのや)事件」です。

このころ秀吉は、上皇の御所である仙洞御所(せんとうごしょ)の造営を進めていました。等伯は、秀吉の家臣の前田玄以らに働きかけて、その「対屋」と呼ばれる建物の障壁画の注文を得ようとします。ところが、これを知った永徳が、息子の狩野光信と公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)に申し出たことで、等伯への注文は取り消されました。

この出来事からは、永徳が勢いを増す長谷川派を強く警戒していたことがうかがえます。狩野派にとって、等伯はそれほど無視できない存在になっていたのです。

ところが、その年の秋、永徳は東福寺の天井画を制作している最中に病に倒れ、48歳で急死してしまいます。

こうした経緯から、「永徳と等伯は激しいライバル関係にあった」という物語がよく語られます。テレビ番組や小説でも、2人の対決は人気のテーマです。

ただし、記録から確かめられるのは、注文をめぐって両者の側が動いた、という事実の範囲です。2人が互いにどのような感情を抱いていたのかは、はっきりとは分かっていません。また、のちに等伯の息子・久蔵が若くして亡くなったことについて、狩野派による毒殺という噂が語られることもありますが、これには確かな根拠がなく、死因は分かっていません。

ドラマチックな対立の物語は、後世の想像を含むものとして楽しむのがよさそうです。

秀吉の祥雲寺と、国宝『楓図』『桜図』

永徳の死の翌年、1591年に大きな転機が訪れます。

この年、豊臣秀吉の幼い長男・鶴松(つるまつ)がわずか3歳で亡くなりました。秀吉は、鶴松の菩提を弔うために京都・東山に祥雲寺(しょううんじ)という寺を建てます。

この祥雲寺の客殿などを飾る障壁画の制作を引き受けたのが、等伯が率いる長谷川派でした。天下人・秀吉の寺の仕事を、長谷川派が担ったのです。等伯は息子の久蔵をはじめ一門の絵師たちとともに制作にあたり、障壁画は1593年ごろには完成していたと考えられています。

その後、祥雲寺の建物や土地は徳川家康によって真言宗の寺院智積院(ちしゃくいん)に与えられ、障壁画も智積院に伝わりました。現在、等伯の『楓図(かえでず)』、久蔵筆とされる『桜図(さくらず)』をはじめとする一連の障壁画は、国宝に指定されています。

『楓図』は、金地の画面いっぱいに楓の巨木が力強く枝を広げ、その足元に秋の草花を描いた作品です。どっしりとした幹の迫力と、草花の繊細さが一つの画面の中で響き合っています。

一方、久蔵の作とされる『桜図』では、満開の桜の花びら一つ一つを、胡粉(ごふん:貝殻から作る白い絵の具)をこんもりと盛り上げて表しています。花が画面から浮き出してくるような、華やかで若々しい作品です。

智積院は長い歴史の中で何度も火災に遭い、そのたびに僧侶たちが障壁画を壁から剥がして運び出したため、現在の画面はもとの大きさより小さく切り詰められていると伝えられています。

これらの障壁画は、2023年4月に開館した智積院の宝物館で公開されています。なお本記事では、出典の条件を満たす画像が見つからなかったため、『楓図』と『桜図』の画像は掲載していません。ぜひ現地で、金色に輝く実物をご覧になってみてください。

息子・久蔵の死と『松林図屏風』

祥雲寺の障壁画が完成したと考えられる1593年、等伯を深い悲しみが襲います。

長谷川派の跡継ぎとして期待されていた長男の久蔵が、26歳の若さで亡くなったのです。久蔵は父に劣らない腕前を持っていたと伝えられ、『桜図』はその才能を今に伝える、数少ない作品の一つとなりました。

そして、この久蔵の死のあと、1593年から1595年ごろに描かれたと考えられているのが、等伯の最高傑作『松林図屏風』です。

『松林図屏風』(16世紀)

長谷川等伯『松林図屏風』右隻(16世紀)
長谷川等伯『松林図屏風』右隻(安土桃山時代・16世紀)東京国立博物館 国宝/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
長谷川等伯『松林図屏風』左隻(16世紀)
長谷川等伯『松林図屏風』左隻(安土桃山時代・16世紀)東京国立博物館 国宝/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

六曲一双(6枚折りの屏風が左右2つで1組)の屏風に、白い紙の上に墨の濃淡だけで松林を描いた作品です。1952年に国宝に指定され、東京国立博物館が所蔵しています。

画面を見ると、描かれていない余白のほうが広いことに気づきます。松はいくつかのまとまりに分かれて置かれ、濃い墨の松が手前に、淡い墨の松が霧の奥にかすんで見えます。この濃淡の差によって、風が木々の間を通り抜け、湿った霧が立ちこめる空気そのものが表現されているのです。左隻の右上には、遠くの雪山がうっすらとのぞいています。

近づいて見ると、松の葉は激しい勢いの筆で一気に描かれています。どんな筆を使ったのかは明らかではなく、穂先を重ねた筆、竹の先を細かく砕いたもの、藁(わら)を束ねたものなどが考えられています。それが離れて見ると、霧に包まれた静かな松林へと姿を変えます。

東京国立博物館は、等伯が牧谿に学んだ水墨の表現で、日本の湿った大気を感じさせる墨一色の松林を生み出した作品として紹介しています。中国の水墨画を学びながら、日本の風土ならではの景色にたどり着いた点に、この作品の新しさがあります。

一方で、この屏風には謎も多く残されています。いつ、誰のために描かれたのかは分かっていません。また、紙のつなぎ目が途中でずれている部分があることなどから、もともとは襖絵などの下絵(草稿)だったものを、のちに屏風に仕立てたのではないかという説もあります。

久蔵を失った悲しみがこの静かな画面を生んだ、と語られることも多い作品ですが、それを直接示す記録はありません。見る人それぞれが、霧の奥に何を感じるかを味わえる作品だと言えるでしょう。

『松林図屏風』は、戦後、国民の博物館として再出発した東京国立博物館が初めて購入した作品の一つです。近年は毎年お正月に展示されるのが恒例になっています。また2025年には、等伯の故郷・七尾の石川県七尾美術館でも20年ぶりに公開されました。

『等伯画説』と「自雪舟五代」

等伯の考えを今に伝える貴重な資料が『等伯画説(とうはくがせつ)』です。

これは、等伯と親しかった本法寺の十世住職・日通(にっつう)が、等伯の語った話を書き留めたものです。1592年前後に成立したと考えられ、現在も本法寺に伝わっています。

内容は、中国の宋・元時代の絵画や画家、室町時代以来の日本の絵師、そして絵の鑑賞の仕方などについての話が中心です。一人の絵師が自分の絵画観を語った記録としては、日本で最も早い例の一つとされ、日本の画論の出発点とも評価されています。

この本からは、等伯が中国の名画をどれほど深く研究していたかがよく分かります。『松林図屏風』の水墨表現も、こうした研究の積み重ねの上に生まれたものなのです。

1599年(慶長4年)、61歳の等伯は、本法寺に巨大な『仏涅槃図(ぶつねはんず)』を寄進しました。お釈迦さまが亡くなる場面を描いたもので、表装を含めると縦約10メートル、横約6メートルにもなる大作です。国の重要文化財に指定されています。

この年は、久蔵の七回忌にあたります。絵の裏には、日通の筆で日蓮宗の祖師や本法寺の歴代住職の名とともに、等伯の祖父母や父母、そして久蔵の名が記されています。等伯が家族の供養を願って描いたことがうかがえます。

また等伯は、このころから落款(作品に入れる署名)に「自雪舟五代(雪舟より五代)」と記すようになります。室町時代の水墨画の巨匠・雪舟から、その弟子の等春、そして養祖父、養父へと続く流れを受け継ぐ5代目が自分である、という意味です。当時ますます評価が高まっていた雪舟の名を掲げることで、自らの画系と家の正統性を示したものと考えられています。

本法寺の『仏涅槃図』は、毎年春の一定期間に公開されています。

晩年の円熟 法眼の位と『烏鷺図屏風』

50代から60代にかけて、等伯は金碧画と水墨画の両方で数多くの名作を残しました。

たとえば京都・妙心寺の塔頭(たっちゅう:大寺院の中にある小さな寺)である龍泉庵には、木の上に座る母子の猿と、枯れ木にぶら下がる猿を墨で描いた重要文化財『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』が伝わっています。京都国立博物館の解説によると、この作品は大徳寺に伝わる牧谿の猿の絵(国宝)から直接影響を受けて生まれたものです。淡い墨の上に鋭く丁寧に描き込まれた猿の毛並みに、等伯の研究の成果が表れています。

こうした活躍が認められ、等伯は1604年(慶長9年)に法橋(ほっきょう)、翌1605年には法眼(ほうげん)という位を与えられました。どちらも、もとは僧侶の位ですが、この時代には優れた絵師にも与えられる名誉ある称号でした。能登から出てきた一介の絵仏師が、ついに都の一流絵師として公に認められたのです。

『烏鷺図屏風』(1605〜1610年頃)

長谷川等伯『烏鷺図屏風』(1605〜1610年頃)
長谷川等伯『烏鷺図屏風』(1605〜1610年頃)個人蔵(旧DIC川村記念美術館蔵)重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

法眼となった晩年の等伯が描いた、六曲一双の水墨画の屏風です。作品には「法眼」の落款があり、1605年以降の作と考えられています。

画像の左側にあたる左隻には、黒い烏(からす)たちが描かれています。松の枝にとまる一羽のほか、空中でもつれ合うように争う烏たちの姿は、墨の黒さも相まって激しい動きに満ちています。

一方、右側の右隻には、柳の老木や水辺の草の間に、白い鷺(さぎ)たちが静かにたたずみ、空を舞っています。

黒と白、動と静、争いと穏やかさ。左右の屏風の間に、さまざまな対比が仕掛けられているのです。

この作品は1969年に国の重要文化財に指定されました。長くDIC川村記念美術館に所蔵されていましたが、現在は個人の所蔵となっています。

江戸への旅と最期

1610年(慶長15年)、72歳になった等伯は、徳川家康の求めに応じて、次男の長谷川宗宅(そうたく)を伴い江戸へ向かいます。

当時、政治の中心は京都から江戸へと移りつつありました。高齢の等伯にとって、一門の将来を見すえた旅だったとも考えられます。

しかし等伯は旅の途中で病にかかり、江戸に着いてから2日目の2月24日(西暦3月19日)に亡くなりました。享年72でした。

京都の本法寺の墓地には、等伯の墓があります。また本法寺の境内には、等伯の銅像も立てられています。

等伯の死後、長谷川派は宗宅や左近、宗也といった息子たちに受け継がれました。左近は父にならい「雪舟六代」と名乗ったとされています。しかし江戸時代を通じて幕府の御用を務めた狩野派ほどの勢力を保つことはできず、長谷川派は次第に目立たない存在になっていきました。

忘れられた絵師から国民的な画家へ

等伯の画業の全体像が知られるまでには、長い時間がかかりました。能登時代の「信春」と京都の「等伯」が同じ人物であることも、長く分かっていなかったのです。

その評価が大きく変わったのは、近代以降の研究によってです。大法寺の『日蓮像』などの調査から信春と等伯が同一人物であることが明らかになり、能登時代から晩年までの画業が一つにつながりました。

1952年には『松林図屏風』が国宝に指定され、日本の水墨画を代表する作品として広く知られるようになります。

そして没後400年にあたる2010年には、東京国立博物館と京都国立博物館で大規模な回顧展「没後400年 特別展 長谷川等伯」が開かれました。東京展では会期中に入場者が20万人を超え、等伯の人気の高さを示しました。

さらに2013年には、等伯の生涯を描いた安部龍太郎の小説『等伯』が、第148回直木賞を受賞しています。能登から京都へ上り、家族を失いながらも描き続けた等伯の人生は、多くの人の心をとらえています。

2023年には智積院の宝物館が開館し、『楓図』『桜図』をより良い環境で見られるようになりました。等伯の作品は、今も新しいかたちで人々と出会い続けています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

長谷川等伯は、能登・七尾で仏画や肖像画を描く絵仏師「信春」として出発し、30代で京都に出てから、狩野派と並ぶ長谷川派を築き上げた絵師でした。

千利休の大徳寺山門、豊臣秀吉の祥雲寺といった大きな仕事を手にする一方で、狩野永徳との緊張関係や、跡継ぎと期待した久蔵の死など、その人生は決して平たんなものではありませんでした。

金色に輝く『楓図』のような華やかな障壁画と、墨一色で霧の空気を描き出した『松林図屏風』。まったく異なる2つの世界を描き切ったところに、等伯という絵師の大きさがあります。

等伯の作品は、東京国立博物館、智積院宝物館、本法寺、石川県七尾美術館などで見ることができます。展示の時期が限られている作品も多いため、気になる方は各館や各寺院の公開情報をチェックしてみてください。

特に『松林図屏風』は、お正月に東京国立博物館で公開されるのが恒例です。新しい年の始まりに、霧の中の松林と静かに向き合ってみてはいかがでしょうか。

Euphoric " " の視点

等伯は能登の絵仏師として出発し、京都へ出て長谷川派を築きました。狩野派という巨大な勢力の隣で、自分の場所を作り上げたことになります。

息子の久蔵を若くして失うという出来事も経験しながら、筆を置くことはありませんでした。

地方から出た人が中央で認められるまでには、時間も摩擦もあります。等伯の歩みは、続けることそのものが最大の戦略だったと物語っています。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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