こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは尾形光琳という人物をご存知ですか?
金色の屏風いっぱいに、群青の燕子花(かきつばた)が咲き並ぶ『燕子花図屏風』。展覧会のポスターや教科書で目にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。その作者が、江戸時代の中ごろに京都で活躍した絵師・尾形光琳です。
光琳は、京都でも指折りの呉服商に生まれ、40代になってから本格的に絵師として世に出た人です。絵だけでなく、蒔絵の硯箱も、着物の模様も、弟が焼いた器の絵付けも手がけました。その意匠はのちに「光琳模様」と呼ばれて流行し、「琳派(りんぱ)」という呼び名も、光琳の名前から生まれています。
本記事ではそんな尾形光琳の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 尾形惟富(おがた これとみ)。通称は市之丞(いちのじょう)。34歳ごろから「光琳」と名のった |
| 生年月日(没年月日) | 1658年(万治元年)生まれ。1716年に59歳で死去(命日は6月2日) |
| 国籍/出身 | 日本 京都。呉服商「雁金屋(かりがねや)」の次男 |
| 学歴 | 記録なし |
| 分野 | 日本画(屏風絵・掛軸)、工芸意匠(蒔絵・染織・陶器の絵付け) |
| 傾向 | 金地に大きく形をとる装飾的な画風、たらしこみ、模様のような単純化。琳派の大成者 |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 狩野派の山本素軒(やまもと そけん)に学んだとされる。俵屋宗達に私淑し、本阿弥光悦の書や意匠にも学んだ |
https://euphoric-arts.com/art-2/tawaraya-sotatsu/
経歴と作品
京都の呉服商「雁金屋」に生まれて
尾形光琳は1658年(万治元年)、京都に生まれました。生家は雁金屋(かりがねや)という呉服商です。呉服商といっても町の仕立て屋ではなく、格の高い着物を扱う老舗でした。父は尾形宗謙(そうけん)、5歳下の弟が、のちに陶工として名を残す尾形乾山(けんざん)(1663〜1743年)です。
この家は、美術ととても縁の深い家でした。光琳の曽祖父にあたる道柏(どうはく)は、本阿弥光悦の姉を妻に迎えています。光悦といえば、書・陶芸・蒔絵をこなし、俵屋宗達と組んで美しい料紙の巻物を作った、桃山から江戸初期の大文化人です。つまり光琳は、生まれたときから光悦や宗達の作品が身近にある家で育ったことになります。
呉服商の家ですから、家業そのものが「模様を選び、色を合わせ、意匠を考える」仕事でした。京都国立博物館には、父・宗謙が注文を受けた着物の控え帳を含む「雁金屋関係文書」が重要文化財として伝わっています。光琳が後年、絵だけでなく着物や蒔絵の意匠まで手がけたのは、この育ちと無関係ではないでしょう。
ところが、光琳は家業を継ぎませんでした。父の死後、雁金屋は兄が継ぎ、光琳は商売から離れます。このあたりの時期について、遊興で財産を使い果たしたという話が伝えられていますが、所蔵館や公的機関の資料で確かめられる話ではありません。
確実に言えるのは、光琳が絵師として本格的に世に出たのは40代になってからだということです。絵は狩野派の山本素軒に学んだとされますが、時期ははっきりしません。「光琳」と名のりはじめたのも34歳ごろとされ、絵師としてはかなりの遅咲きでした。
44歳で「法橋」の位を得る
1701年(元禄14年)、44歳のときに、光琳は「法橋(ほっきょう)」という位を得ます。
法橋とはもともと僧侶の位ですが、江戸時代には絵師や医師など、専門の技を持つ人に与えられる名誉ある称号として使われていました。町の絵師にとっては、腕前が公に認められたことを意味します。以後の光琳は、作品に「法橋光琳」と署名するようになりました。この署名があるかどうかは、作品の制作時期を考えるときの手がかりになります。
光琳の本格的な画業は、この法橋叙任からの約15年間に集中していたと考えられています。決して長い期間ではありません。日本美術史に残る作品の多くが、その短い期間に生まれました。
『燕子花図屏風』(江戸時代・18世紀)


光琳の代表作として、まず挙がるのがこの『燕子花図屏風』です。根津美術館が所蔵する国宝で、六曲一双(6枚に折れる屏風が2つで1組)の大きな作品です。縦は約1.5メートル、横は3メートルを超えます。
驚かされるのは、使われている色の少なさです。金の地に、花は群青(ぐんじょう)、葉は緑青(ろくしょう)。基本的にはこの2色だけで描かれています。しかも、水も土も橋も描かれていません。燕子花は水辺に咲く花ですが、画面には水面らしきものが一切ないのです。
それでも私たちが「水辺の群生」を感じ取れるのは、花と葉のリズムだけで場所を想像させる仕組みになっているからです。根津美術館は、この作品について「一部に型紙が反復して利用される」と説明しています。同じ形の花が、位置と向きを変えながら画面の上を渡っていく。呉服屋の息子らしい、型と反復の発想です。
題材になっているのは、平安時代の歌物語『伊勢物語』の第9段「東下り」です。主人公の一行が三河国(現在の愛知県)の八橋という場所に着くと、燕子花が美しく咲いていた。そこで「か・き・つ・ば・た」の5文字を各句の頭に置いて、都に残した妻を思う歌を詠む、という有名な場面です。根津美術館も、この屏風の背後には八つ橋で詠まれた和歌があると説明しています。
面白いのは、光琳がその場面から橋も人も旅も全部取り去って、花だけを残したことです。教養のある当時の人であれば、燕子花の群れを見ただけで『伊勢物語』の一場面を思い浮かべたでしょう。絵の中に物語を描くのではなく、見る人の頭の中で物語が立ち上がるように設計されている。ここが光琳の非凡なところです。
画面には「法橋光琳」の署名と朱の丸印があります(右隻は右下、左隻は左上)。つまり、法橋になった1701年以降の作と考えられます。根津美術館は制作時期を「江戸時代 18世紀」としています。
弟・乾山との合作、そして支援者たち
光琳を語るうえで欠かせないのが、弟の尾形乾山です。
乾山は1699年(元禄12年)、京都の北西にある鳴滝(なるたき)に窯を開き、陶工としての道を歩みはじめます。「乾山」という号も、京の町から見て乾(いぬい、北西)の方角にあたることにちなむと言われています。
この窯の開業当初から、兄の光琳が絵付けや意匠の面で協力していました。乾山が器の形を作り、光琳が絵を描く。二人の合作として、鉄絵具で絵を描いた角皿などが今に伝わっています。兄弟で役割を分けてものを作るというのは、工房的なやり方であると同時に、呉服商の家で育った二人らしい仕事の仕方でもありました。
乾山はその後、1712年(正徳2年)に窯を鳴滝から市中の二条丁子屋町へ移し、晩年は江戸に下って、1743年に81歳で亡くなっています。
もう一人、光琳の人生に大きく関わった人物がいます。京都の銀座役人だった中村内蔵助(なかむら くらのすけ)です。銀座とは、当時の銀貨を鋳造・管理した役所のこと。内蔵助はそこで財を成した人物で、光琳にとって最大の支援者でした。
光琳は1704年(元禄17年)、この内蔵助の肖像を描いています。大和文華館が所蔵する重要文化財『中村内蔵助像』で、同館は「現存唯一の光琳筆の肖像画」と説明しています。花や波を模様のように描く光琳が、人の顔と手をどう描いたのか。見比べてみると発見の多い1点です。
『太公望図屏風』(江戸時代・17世紀)

京都国立博物館が所蔵する重要文化財で、二曲屏風の一隻です。描かれているのは太公望、つまり中国の賢人・呂尚(りょしょう)です。釣りをしながら世に出る時機を待ち続けたという故事で知られ、今でも釣り好きの人を「太公望」と呼びますね。
画面の太公望は、釣り糸を垂れたまま、こっくりと眠っています。ずいぶんのんびりした絵に見えますが、e国宝の解説は「あらゆる線が呂尚の体の中心部に集まるように構図されている」と指摘しています。岸の輪郭も、水の縁も、柳の枝も、すべてが眠る老人へと視線を導くように置かれている。何気ない光景のようでいて、画面の設計は徹底しています。
金地の使い方にも注目してください。左半分の大きな空白は、ただの余白ではなく、川と岸を区切る形そのものになっています。形を大きくとって余白を恐れないのは、光琳の画面づくりの特徴です。
絵とデザインのあいだを行き来する
光琳は「絵師」という言葉だけでは収まりきらない人でした。屏風や掛軸を描く一方で、蒔絵の箱や着物の模様も手がけています。むしろ、絵と工芸の意匠を同じ頭で考えていた、と言ったほうが近いかもしれません。
『八橋蒔絵螺鈿硯箱』(江戸時代・18世紀)

東京国立博物館が所蔵する国宝の硯箱です。縦27.3センチ、横19.7センチ、高さ14.2センチ。角を丸くとった長方形で、蓋を身より少し大きく作る「被蓋造(かぶせぶたづくり)」という形をしています。中は二段になっていて、上段が硯箱、下段が紙を入れる料紙箱です。
題材は、『燕子花図屏風』と同じ『伊勢物語』第9段の「八橋」です。ただしこちらには、屏風では省かれた橋がはっきりと登場します。
見どころは、素材の使い分けです。橋の板は鉛、橋の杭は銀、花は螺鈿(らでん)、つまりアワビ貝を貼ったもの、茎と葉は金の蒔絵。黒い漆の地に、鈍い鉛の灰色と、虹色に光る貝と、金の葉が重なります。
しかもこの鉛の橋板は、蓋の面から堂々とはみ出して、箱の側面まで続いています。手のひらに乗るほどの箱に、橋が斜めに走り、その周りを燕子花が埋める。絵を箱に貼り付けたのではなく、箱という立体そのものを画面として設計しているのです。「絵」と「工芸」の境目を平気でまたいでしまう光琳らしさが、いちばん分かりやすく出た作品と言えるでしょう。
もう一つ、着物の仕事も紹介しておきます。東京国立博物館には、重要文化財『小袖 白綾地秋草模様』という着物が伝わっています。白い綾織の地に、桔梗・菊・薄・萩といった秋草を、墨と藍と代赭(たいしゃ)で直接描いたものです。江戸・深川の材木商「冬木家」の女性のために光琳が描いたという記録が附属することから、「冬木小袖(ふゆきこそで)」の通称で知られています。染めでも刺繍でもなく、絵師が筆で着物に描く。呉服商の家に生まれた人ならではの仕事です。
江戸へ下る。新しい注文主との出会い
1704年(宝永元年)ごろ、光琳は初めて江戸へ下ります。支援者だった中村内蔵助を頼っての江戸行きだったとされ、以後の数年、光琳は京都と江戸を4〜5回も往復しました。
江戸では、弘前藩の津軽家の屋敷に出入りし、酒井雅楽頭(うたのかみ)家からは扶持(生活の支え)を受けています。当時この酒井家は上野国前橋(現在の群馬県)の藩主でした。のちに光琳に私淑する絵師・酒井抱一も、この一門から出ています。京都の町衆や公家を相手にしてきた絵師が、江戸で大名家という新しい注文主と向き合うことになったわけです。
そして1709年(宝永6年)ごろ、光琳は京都へ戻ります。江戸で得たものを抱えて帰った京都で、最後の仕事が始まりました。
『八橋図屏風』(1709年以降)

ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する六曲一双の屏風です。同館は制作年を「1709年以降」としています。
同じ『伊勢物語』の八橋を題材にしながら、『燕子花図屏風』では描かなかった橋が、ここでは堂々と画面を横切っています。板が何枚も継ぎ足された橋がジグザグに走り、その両側を燕子花が埋める。同じ画題でも、まったく違う画面になっているのが分かります。
制作年が後になったことは、署名からも読み取れます。この屏風の署名は「法橋光琳」ではなく「青々(せいせい)光琳」。光琳は晩年に「青々」という号を使うようになりました。後で見る『紅白梅図屏風』の右隻にも、同じ「青々光琳」の署名があります。
燕子花だけの静かな群生から、橋という人工物を大胆に差し込む構成へ。同じ題材を何度も描き直しながら、光琳は画面の作り方を更新し続けていました。
宗達への私淑。時代を超えて師を選ぶ
光琳の画風を考えるうえで欠かせないのが、俵屋宗達の存在です。
宗達は江戸時代のはじめに京都で活躍した絵師で、生没年も分からない謎の多い人物ですが、国宝『風神雷神図屏風』(建仁寺)の作者として知られています。光琳が生まれたころには、宗達はすでに亡くなっていました。
ですから、光琳が宗達に直接教わることはできません。光琳は、残された作品を通して宗達を師と仰ぎました。こうした学び方を「私淑(ししゅく)」と言います。根津美術館も光琳について「俵屋宗達に私淑した」と記しています。
尾形家には光悦や宗達ゆかりの作品が伝わっていましたし、京都には宗達の屏風が残っていました。光琳は、それらを繰り返し見て、写して、自分のものにしていったのです。
『松島図屏風』(江戸時代・18世紀)

アメリカのボストン美術館が所蔵する六曲一隻の屏風です。画面いっぱいに渦を巻く波が押し寄せ、そのあいだに松の生えた岩が浮かんでいます。
この作品には、宗達が描いた同名の屏風(フリーア美術館所蔵)という先例があります。光琳はその構図を引き受けながら、波の渦をより規則的な模様に近づけ、岩の形をより単純にまとめました。宗達の自由なうねりが、光琳の手で「文様」の方向へ一歩進んだと見ることができます。
ちなみにこの屏風は、明治時代に日本美術の紹介者として知られるアーネスト・フェノロサが1880年に京都で購入し、その後チャールズ・ウェルドの手に渡って、1911年にボストン美術館へ遺贈されたものです。
『風神雷神図屏風』(江戸時代・18世紀)
光琳の私淑がもっともはっきり形になったのが、この『風神雷神図屏風』です。東京国立博物館が所蔵する重要文化財で、二曲一双、縦164.5センチ、横は約182センチ。宗達の国宝『風神雷神図屏風』にもとづいて描かれました。
右に緑の風神、左に白い雷神。風袋をかかげ、太鼓を連ねて宙を駆ける姿は、宗達の作品とほぼ同じです。それでも、並べてみると違いがあります。
いちばん大きいのは画面の中での位置です。宗達の作品では、風神と雷神が画面の上のふちで断ち切られ、まるで屏風の外から乱入してきたように見えます。いっぽう光琳の作品では、二神はどちらも画面の中にすっぽり収まっています。神さまの身体が、屏風という枠の中にきちんと配置されているのです。
もう一つは視線です。文化遺産オンラインは、光琳の作品について、風神と雷神が視線を交わらせ、一体のものとして捉えられていると説明しています。画面を見ると、たしかに風神は左を、雷神は右を向き、二神が互いを意識しているように見えます。
そして、墨をにじませて描かれた雨雲。この黒い雲が奥行きを生み、緑と白の身体を引き立てています。にじみを生かすこの描き方は、宗達が得意とした「たらしこみ」という技法につながるものです。たらしこみとは、先に置いた墨や絵具が乾ききらないうちに別の濃さの墨や絵具を垂らし込み、自然なにじみを作る技法で、琳派の絵師たちが好んで使いました。
この屏風には、さらに後日談があります。江戸時代の後期、酒井抱一(さかい ほういつ)という絵師が、この光琳の屏風の裏面に『夏秋草図屏風』を描いたのです。雷神の裏には雨に打たれた夏草、風神の裏には風に吹かれる秋草。表に宗達を継いだ光琳がいて、裏に光琳を継いだ抱一がいる、琳派の系譜そのもののような屏風でした。現在は保存のため、表と裏が切り離されて別々の屏風になっています。
京都で迎えた最晩年、画業の集大成へ
『紅白梅図屏風』(江戸時代・18世紀)

静岡県熱海市のMOA美術館が所蔵する国宝です。二曲一双で、各156.0センチ×172.2センチ。MOA美術館は「光琳晩年の作と思われ」と説明しており、光琳の画業の集大成と位置づけています。
中央に、末広がりの黒い水流。その両岸に、向かって右に紅梅、左に白梅が向かい合います。
構図を見ていくと、光琳がどれだけ計算していたかが分かります。白梅は、太い幹の大部分を画面の外に隠し、一本の枝だけを横へ返してきます。いっぽう紅梅は、幹も枝も画面いっぱいに描かれ、上へ上へと伸びていきます。隠すことで大きさを感じさせる木と、見せることで勢いを出す木。左右が同じ形にならないよう、対照が作られています。
梅の花にも工夫があります。花びらの輪郭を線で描かず、色だけで形を作っているのです。この描き方はのちに「光琳梅」と呼ばれて愛好されるようになりました。幹には、宗達ゆずりのたらしこみが使われ、ざらりとした樹皮の質感を生んでいます。
そして、中央の水流。渦を巻く水紋は、写実というより模様に近い形をしています。この部分について、MOA美術館は2011年(平成23年)に興味深い科学調査を行いました。デジタル顕微鏡や蛍光X線分析装置などを使った調査の結果、屏風全体の金地には金箔が使われていることが確認され、さらに水流の部分には一面に銀が残っていて、黒い部分からは硫化銀が検出されたのです。ここからMOA美術館は、銀箔を硫黄で硫化させて黒く変化させたのではないかと推測しています。
つまりこの黒い水流は、もともと黒い絵具で塗られたものではなく、銀を意図的に黒く変色させて作られた可能性があるということになります。色も素材も、すべてが設計されていたのかもしれません。
署名は、向かって右隻に「青々光琳」、左隻に「法橋光琳」。どちらにも「方祝(ほうしゅく)」という朱の丸印が捺されています。この屏風はその後、弘前藩の津軽家に伝わりました。江戸で津軽家の屋敷に出入りしていた光琳の晩年と、どこかでつながる伝来です。
なお、MOA美術館の敷地には「光琳屋敷」が復元されています。復元の根拠になったのは、重要文化財『尾形光琳関係資料(小西家伝来)』(京都国立博物館)に含まれる、光琳自筆の図面と大工の仕様帖です。2階に絵所(アトリエ)、1階に5畳半と3畳の茶室を備えた家で、同館は、光琳が最晩年を過ごし『紅白梅図屏風』を描いたと考えられる屋敷だと説明しています。光琳が住んだのは京都の新町通二条のあたりでした。
光琳は1716年、59歳で亡くなります。墓は京都の妙顕寺の塔頭、泉妙院にあります。
光琳が遺したもの。「光琳模様」と「琳派」という名前
光琳の死後、その名前は本人の想像を超えて広がっていきます。
まず、「光琳模様」です。デジタル大辞泉は、光琳模様を「尾形光琳独特の意匠構成による模様。光琳菊・光琳水など」と説明しています。日本大百科全書はさらに広く、光琳自身が描いた模様だけでなく、その作風を受け継いだ琳派やその周辺の模様までを含めて言うと記しています。
梅、菊、松、楓といったモチーフを、細部を省いて大きく単純な形にまとめる。その形は着物の模様となり、蒔絵の意匠となって、江戸時代の町の暮らしに入り込んでいきました。絵師の名前が、そのまま模様の名前になったのです。これは光琳の仕事が、最初から「絵」と「デザイン」をまたいでいたからこそ起きたことでしょう。
もう一つが、「琳派」という呼び名です。じつはこの言葉、光琳の生きた時代にはまだ存在していませんでした。
国立国会図書館の解説によると、出発点は酒井抱一です。抱一は1813年(文化10年)に『緒方流略印譜』を刊行し、光琳の百回忌にあたる1815年(文化12年)に、内容を充実させた『尾形流略印譜』を出しました。ここで「尾形流」という流派名が初めて設定されたと考えられています。抱一は同じ年、光琳の遺作を集めた展示を開き、集めた作品を写して『光琳百図』という図集も作りました。1819年(文政2年)には、光琳の墓も建てています。
明治時代に入ると、1901年(明治34年)に刊行された『稿本日本帝国美術略史』が「光琳派」としてこの流れを美術史に位置づけ、1903年(明治36年)には『光琳派画集』が刊行されます。当時、この系譜の中心と考えられていたのは、名前のとおり光琳でした。
その後、俵屋宗達の評価が高まるにつれて「宗達光琳派」という呼び方も現れます。そして1972年(昭和47年)、東京国立博物館で開かれた創立百年記念特別展「琳派」によって、「琳派」という呼び名が定着しました。
宗達から光琳へ、光琳から抱一へ。直接の師弟関係はどこにもありません。それぞれが、時代を超えて先人の作品を自分で選び、写し、更新していった。その鎖の真ん中に立ち、名前まで貸すことになったのが尾形光琳でした。
その仕事ぶりを今に伝える資料も残っています。光琳の子孫である小西家に伝わった『尾形光琳関係資料(小西家伝来)』は、530点からなる重要文化財で、現在は京都国立博物館が所蔵しています。鳥獣を写した写生図巻、父・宗謙や雁金屋に関わる文書、光琳自身の膨大な画稿や下絵、そして弟・乾山をはじめとする親族の文書まで。完成した作品の裏側にあった、手を動かし続ける日々が残されています。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、琳派を大成させた絵師尾形光琳の人生と作品についてご紹介しました。
光琳は、京都の呉服商に生まれ、家業を継がず、40代になってようやく絵師として世に出た人でした。法橋の位を得てからの約15年という短い期間に、『燕子花図屏風』『八橋蒔絵螺鈿硯箱』『風神雷神図屏風』『紅白梅図屏風』といった作品が次々と生まれています。
その仕事に一貫しているのは、ものの形を思い切って単純にし、画面そのものを設計する姿勢です。水も橋も描かずに水辺を感じさせ、輪郭線を引かずに梅の花を咲かせ、銀を黒く変色させて川を作る。屏風であっても、硯箱であっても、着物であっても、光琳のやっていることは同じでした。
そして光琳は、時代を超えて宗達を師と選び、自分もまた抱一に選ばれる側になりました。「琳派」という言葉が光琳の名前から生まれたのは、その連なりの真ん中に光琳がいたからです。
『燕子花図屏風』は根津美術館で毎年春に、『紅白梅図屏風』はMOA美術館で毎年2月ごろに公開されるのが恒例となっています。展示の機会が限られる作品も多いので、ぜひ各館の展覧会情報をチェックしてみてください。
Euphoric " " の視点
光琳は俵屋宗達を直接の師としたわけではありません。すでに世を去っていた先人の作品を見て学び、『風神雷神図屏風』を自らの手で写しました。
模写は真似ではなく、読み解きです。線の運びをなぞることで、光琳は宗達の判断をひとつずつ追体験しました。そして自分の様式へと組み替えていきます。
受け継ぐことと、真似ることは違います。琳派という流れは、その違いを百年かけて証明しました。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






