【徹底解説】ジョルジュ・スーラとは?点描で光を組み立てた新印象派の創始者の人生と作品を解説!

【徹底解説】ジョルジュ・スーラとは?点描で光を組み立てた新印象派の創始者の人生と作品を解説!
画像:『グランド・ジャット島の日曜日の午後』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはジョルジュ・スーラという人物をご存知ですか?

スーラは19世紀後半のフランスで活躍した画家で、小さな色の点を画面いっぱいに並べて描く「点描(てんびょう)」の技法を生み出した人物です。

代表作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は、印象派の次の時代をひらいた記念碑的な作品として知られ、スーラを中心とするグループはのちに「新印象派」と呼ばれるようになりました。しかしスーラ本人は31歳という若さでこの世を去り、画家として活動した期間は10年ほどしかありませんでした。

本記事ではそんなジョルジュ・スーラの人生と作品についてご紹介します。

ジョルジュ・スーラって?

ジョルジュ・スーラの肖像写真(1888年)
ジョルジュ・スーラの肖像写真(1888年、撮影者不詳)リュシー・クチュリエ著『Seurat』所収/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名ジョルジュ=ピエール・スーラ(Georges-Pierre Seurat)
生年月日(没年月日)1859年12月2日〜1891年3月29日(31歳没)
国籍/出身フランス/パリ
学歴パリ市立の彫刻・デッサン学校を経て、1878年にエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学
分野絵画(油彩)、素描(コンテ・クレヨンによるデッサン)
傾向新印象派、点描(スーラ自身は「クロモルミナリスム」と呼んだ)
師事した人物・影響を受けた人物アンリ・レーマン(アングルの弟子)、ウジェーヌ・ドラクロワ、色彩理論家シュヴルール、ルード、シャルル・ブランなど

スーラと関わりの深い画家たちや、印象派については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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新印象派と点描って?

まずは「点描」と「新印象派」という言葉を押さえておきましょう。

1870年代のパリでは、モネやピサロらの印象派が、絵の具をパレットでよく混ぜずに色を並べて置き、屋外の光の移ろいをすばやい筆づかいでとらえる新しい絵画を生み出していました。

スーラは、この「色を並べて置く」という考え方を、さらに徹底させました。絵の具をパレットで混ぜるのではなく、純度の高い色を小さな点や短い筆触にしてキャンバスに並べ、少し離れて見たときに、見る人の目の中で色が混ざり合って見えるように計算したのです。これを「視覚混合」と呼びます。

たとえば赤のとなりに緑を置くと、お互いの色がより鮮やかに感じられます。スーラはこうした色の性質を、化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの「色の同時対比の法則」や、アメリカの物理学者オグデン・ルードの色彩学の本、美術批評家シャルル・ブランの著作などから学び、絵づくりに取り入れました。

感覚や勢いを大切にした印象派に対して、スーラは科学的な理論にもとづいて色を組み立てることを目指しました。

なお、「点描(ポワンティリスム)」という呼び名は広く定着していますが、スーラ自身は自分の方法を「クロモルミナリスム(色光主義)」と呼ぶことを好んだと言われています。

経歴と作品

パリの裕福な家庭に生まれて

スーラは1859年12月2日、フランスの首都パリで生まれました。父アントワーヌ=クリゾストム・スーラはもと法律関係の役人で、不動産への投資によって財産を築いた人物でした。母エルネスティーヌ・フェーヴルはパリの出身で、スーラには兄と姉がひとりずついました。

スーラは少年時代、家の近くにあった彫刻家ジュスタン・ルキアンの市立の彫刻・デッサン学校で美術を学び始めます。ここで知り合ったのが、のちに画家となる親友エドモン・アマン=ジャンでした。

1878年、スーラは国立美術学校エコール・デ・ボザールに入学し、新古典主義の巨匠アングルの弟子であったアンリ・レーマンのクラスで学びます。古代彫刻の石膏像をデッサンしたり、昔の巨匠の素描を写したりする、伝統的でアカデミックな教育でした。スーラはルーヴル美術館にも通い、ルネサンス初期のイタリア絵画や17世紀フランスの絵画を熱心に研究しています。

しかし1879年11月、スーラは兵役のため美術学校を離れ、フランス北西部の港町ブレストで1年間を過ごすことになりました。

白と黒だけで光を描いたデッサン

兵役を終えてパリに戻ったスーラは、親友アマン=ジャンとアトリエを分け合いながら、およそ2年間にわたって白と黒のデッサンの研究に打ち込みました。

スーラが愛用したのは、コンテ・クレヨンという、黒い粉を固めた硬めの画材です。これを表面に細かな凹凸のある上質な紙にこすりつけると、紙のくぼみには黒がのらず、白い点がちらちらと残ります。スーラはこの性質を生かし、はっきりした輪郭線を使わずに、明るさの濃淡だけで人や物の形を浮かび上がらせる独自のデッサンを生み出しました。

同じころ、スーラはロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワの作品を注意深く観察し、その色の使い方についてメモを残しています。

『アマン=ジャン』(1882〜1883年)

ジョルジュ・スーラ『アマン=ジャン』(1882〜1883年)
ジョルジュ・スーラ『アマン=ジャン』(1882〜1883年)メトロポリタン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン/CC0)

親友のエドモン・アマン=ジャンを描いた、コンテ・クレヨンによる肖像デッサンです。現在はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。

1883年のサロン(国が主催する公式の展覧会)に入選し、スーラが初めて公の場で発表した作品となりました。当時スーラは23歳でした。メトロポリタン美術館は、この作品を19世紀を代表する肖像デッサンのひとつと紹介しています。

画面の中のアマン=ジャンは、うつむき加減の横顔で、手元に意識を集中させています。背景と人物の境目にはっきりした線はなく、暗い背景の中から、額や襟元の白さだけがぼんやりと光を帯びて浮かび上がってきます。

線ではなく、光と影の粒で形をつくるという発想は、のちの点描の絵画にそのままつながっていきます。

最初の大作とアンデパンダン展

1883年、スーラは初めての大作に取りかかります。それが、パリ北西の郊外、セーヌ川の岸辺でくつろぐ人々を描いた『アニエールの水浴』です。

スーラは大作を描く前に、たくさんの素描や、小さな板に描いた油彩の習作を制作しました。スーラ自身はこの小さな習作を「クロクトン」と呼んでいます。

『アニエールの水浴』(1884年)

ジョルジュ・スーラ『アニエールの水浴』(1884年)
ジョルジュ・スーラ『アニエールの水浴』(1884年)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

縦約2メートル、横約3メートルという大画面の作品で、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。所蔵館によると、スーラがまだ25歳にならないうちに描いた、最初の本格的な大作でした。

夏の日差しの中、男性や少年たちが川辺の芝生に寝ころんだり、腰を下ろしたり、川に入って水遊びをしたりしています。右手前では、オレンジ色の帽子の少年が両手を口に当てて、川の向こうへ呼びかけているようです。遠くには鉄道橋と、煙を上げるクリシーの工場の煙突が見えます。ナショナル・ギャラリーは、描かれた男性たちの中には、この工場で働く人もいたのかもしれないと解説しています。

人物たちはほとんど横向きで、まるで彫刻のように静かに動きを止めており、古典的な壁画のような落ち着きが感じられます。

この段階ではまだ全体が点描ではありませんが、スーラはのちに手を入れ、たとえば少年のオレンジ色の帽子に黄色と青の細かな点を加えています。

スーラはこの作品で公式のサロンに挑みましたが、1884年春、落選してしまいます。そこでスーラは、同じ年に結成された、審査を行わない独立した画家たちの展覧会に作品を出品しました。これが、のちに「アンデパンダン展(独立芸術家協会展)」として続いていく展覧会です。

この展覧会をきっかけにスーラと出会ったのが、4歳年下の画家ポール・シニャックでした。ドラクロワへの敬愛と、色の知覚についての科学的な関心で意気投合した2人は親しい友人となり、シニャックはやがてスーラと同じ点描の手法で描くようになります。同じ1884年、スーラやシニャックらは「独立芸術家協会」の設立にも加わりました。

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』と新印象派の誕生

1884年の夏、スーラは生涯最大の作品となる絵に取りかかります。舞台は、『アニエールの水浴』に描かれた岸辺の対岸にある、セーヌ川の中洲グランド・ジャット島です。当時のパリの人々にとって、休日に散歩やボート遊びを楽しむ身近な行楽地でした。

スーラは島に通って習作を重ね、およそ2年をかけて大画面を完成させました。

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884〜1886年)

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884〜1886年)
ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884〜1886年、縁取りは1888〜1889年に追加)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

スーラの代表作であり、新印象派の出発点となった作品です。縦約2.1メートル、横約3.1メートルの大画面で、現在はアメリカのシカゴ美術館が所蔵しています。

木陰の芝生に、さまざまな年齢や立場の人々が集まっています。右端には日傘をさし、サルをひもでつないだ女性と、シルクハットの紳士。手前には黒い犬や小さな犬の姿があり、左手の水辺では釣りをする女性や、川面に浮かぶボートが見えます。画面の中央には、日傘をさして立つ女性と、白い服を着た少女の姿もあります。

近づいて見ると、芝生も人物の服も水面も、無数の色の点や短い筆触が並んでできていることが分かります。シカゴ美術館は、この作品について、スーラが古代ギリシャの浮き彫り(フリーズ)に匹敵する現代生活の絵画を目指したと解説しています。にぎやかな休日の風景なのに、どこか時間が止まったような静けさに包まれているのはそのためかもしれません。

この作品が初めて公開されたのは、1886年5月から6月にかけて開かれた第8回印象派展でした。これは結果的に、印象派のグループ展として最後の回となった展覧会です。スーラとシニャックの出品を強く後押ししたのは、印象派の古参メンバーであったカミーユ・ピサロでした。

ピサロは1885年にスーラと出会い、しばらく自らも点描の手法を取り入れました。ただし数年後には、一点一点絵の具を置く作業が、風景をすばやくとらえる妨げになると感じ、少しずつこの手法から離れていきました。

第8回印象派展での『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は大きな話題を呼び、批評家フェリックス・フェネオンは、同じ1886年にベルギーの雑誌『ラール・モデルヌ』に寄せた記事の中で、スーラたちの新しい絵画を「新印象派」と名づけました。フェネオンはその後も、スーラのもっとも熱心な理解者であり続けます。

アトリエの中の3人のモデル

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は注目を集めた一方で、点描という方法は冷たく、生きている人間の姿を表現できないのではないか、という批判も受けました。スーラはそうした批判に、次の大作で応えます。

『ポーズする女たち』(1886〜1888年)

ジョルジュ・スーラ『ポーズする女たち』(1886〜1888年)
ジョルジュ・スーラ『ポーズする女たち』(1886〜1888年)バーンズ財団/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

アメリカ・フィラデルフィアのバーンズ財団が所蔵する、スーラの6点の大作のうちの3点目にあたる作品です。1888年春の第4回アンデパンダン展に出品されました。

舞台はスーラのアトリエです。服を脱いだモデルが、後ろ向き、正面向き、横向きの3つのポーズで描かれています。1人のモデルの3つの姿を描いたものとも言われています。床や椅子の上には、脱いだ服や帽子、日傘、靴などが置かれています。

そして画面の左奥の壁には、なんと『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の一部が掛かっています。日傘をさした女性たちの姿が見えるのが分かるでしょうか。屋外で着飾った人々を描いた前の大作と、アトリエで服を脱いだモデルたちを同じ画面に並べることで、スーラは点描が人間の肌のやわらかさや温かみも表現できることを示そうとしたと考えられています。

1888年2月19日、南フランスのアルルへ旅立つ数時間前には、フィンセント・ファン・ゴッホが弟テオとともにスーラのアトリエを訪ねています。ゴッホの書簡集の注釈によると、このとき2人が見た大きなキャンバスの中には、『ポーズする女たち』と『グランド・ジャット島の日曜日の午後』もおそらく含まれていたとされています。

夜の娯楽と「線」の理論

1880年代の後半になると、スーラの関心は、昼の光に照らされた屋外の風景から、人工の光に照らされた夜の都市の娯楽へと広がっていきます。

この時期のスーラが強く影響を受けたのが、同い年の数学者で美学者のシャルル・アンリの理論です。アンリは、線の向きや色が人の感情に与える効果を研究していました。スーラ自身も1890年に作家モーリス・ボーブールに宛てた手紙の中で、自分の考えをまとめています。おおまかに言えば、水平より上に向かう線は陽気さを、水平の線は落ち着きを、下に向かう線は悲しさを生み出し、色や明るさについても同じように、暖かい色や明るさが勝れば陽気に、冷たい色や暗さが勝れば悲しげになる、という考え方です。スーラは色だけでなく、線や形までも理論によって組み立てようとしたのです。

『サーカスの客寄せ』(1887〜1888年)

ジョルジュ・スーラ『サーカスの客寄せ』(1887〜1888年)
ジョルジュ・スーラ『サーカスの客寄せ』(1887〜1888年)メトロポリタン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

メトロポリタン美術館が所蔵する作品で、1888年のアンデパンダン展に出品されました。スーラにとって初めての夜の情景であり、初めて大衆の娯楽を描いた作品でもあります。

描かれているのは、1887年の春にパリ東部のナシオン広場で開かれた縁日にやって来た、コルヴィ・サーカスの「パラード」の場面です。パラードとは、テントの前の舞台で楽団や芸人が短い出し物を見せ、通りがかりの人々を呼び込む客寄せのことです。

画面上部にはガス灯の光が一列に並び、舞台の中央では楽器を構えた演奏者がこちらを向いて立っています。左側の手すりの向こうには楽団員が並び、右側には杖を持った男性の姿があります。画面の下には、黒いシルエットになった観客たちの頭が並んでいます。

水平線と垂直線が画面を整然と区切り、にぎやかなはずの客寄せの場面に、夢の中のような不思議な静けさが漂っています。発表当時は批評家の評価が分かれましたが、20世紀に入ると、その幾何学的な構成が高く評価されるようになりました。

『シャユ踊り』(1889〜1890年)

ジョルジュ・スーラ『シャユ踊り』(1889〜1890年)
ジョルジュ・スーラ『シャユ踊り』(1889〜1890年)クレラー・ミュラー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する作品で、1890年のアンデパンダン展に出品されました。

「シャユ」とは、女性たちがスカートをひるがえし、脚を高く蹴り上げて踊る、いわゆるカンカン踊りの別名です。当時としては刺激的な踊りでした。

画面右上では、女性と男性の踊り手が一列に並び、そろって脚を高く上げています。左下にはコントラバスのネック、中央には背中を向けた演奏者、右下の隅には横目で舞台を眺める男性客の顔がのぞいています。

クレラー・ミュラー美術館は、この絵のすべての線と動きが上に向かっていることで、踊りと音楽の高揚した雰囲気を生み出していると解説しています。蹴り上げられた脚、つま先、口ひげや口元のカーブ、壁の照明の形まで、右上に向かう線がくり返されているのが分かるでしょうか。シャルル・アンリの「上昇する線は陽気さを表す」という考え方を、画面全体で実践した作品と言えます。

秘められた私生活

寡黙で、私生活をほとんど語らなかったと言われるスーラには、画家のモデルをしていたマドレーヌ・ノブロックという恋人がいました。1889年ごろにはスーラのアトリエで一緒に暮らすようになり、1890年2月16日には息子ピエール=ジョルジュが生まれています。しかしスーラはこの関係を家族にも隠しており、家族が2人の存在を知ったのは、スーラが亡くなったときだったと伝えられています。

『化粧する若い女』(1888〜1890年)

ジョルジュ・スーラ『化粧する若い女』(1888〜1890年)
ジョルジュ・スーラ『化粧する若い女』(1888〜1890年)コートールド・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ロンドンのコートールド・ギャラリーが所蔵する、マドレーヌ・ノブロックを描いた作品です。英語では「Young Woman Powdering Herself」と呼ばれています。1890年3月のアンデパンダン展に出品されましたが、そのときモデルがスーラの恋人であることは明かされませんでした。

小さな化粧台の前に座った女性が、パフを手におしろいをはたいています。きゅっと締めたコルセットにふくらんだスカート、高く結い上げた髪。背景の壁紙にも、女性の肌や服にも、細かな色の点が重ねられています。

画面左上には、竹の縁取りのある鏡のようなものが掛けられ、その中に花瓶に生けられた花が描かれています。コートールドによると、光学的な調査の結果、この花瓶の部分にはもともと制作中のスーラ自身の姿が映り込むように描かれていたことが分かりました。もしそのまま残っていれば、スーラの唯一の自画像になっていたかもしれません。なぜ塗りつぶされたのかについては、さまざまな説が語られていますが、はっきりしたことは分かっていません。

夏の海辺で描いた港の風景

スーラは夏になると、英仏海峡に面したフランス北部の港町に滞在して海の風景を描きました。1885年のグランカン、1886年のオンフルール、1888年のポール=アン=ベッサン、1889年のル・クロトワ、そして1890年のグラヴリーヌと、1885年から1890年のあいだに5回の夏を海辺で過ごしています。大作に登場する人々のにぎわいとは対照的に、これらの海景画の多くはほとんど人の姿がなく、穏やかな光と空気に満たされています。

『The Channel of Gravelines, Petit Fort Philippe』(1890年)

ジョルジュ・スーラ『The Channel of Gravelines, Petit Fort Philippe』(1890年)
ジョルジュ・スーラ『The Channel of Gravelines, Petit Fort Philippe』(1890年)インディアナポリス美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

スーラが生涯最後の夏を過ごした、フランス北部の港町グラヴリーヌで描かれた作品です。日本では「グラヴリーヌの運河」などの題で紹介されることもあります。現在はアメリカのインディアナポリス美術館が所蔵しています。

左奥には白い灯台が立ち、右手前から奥へ向かって、ゆるやかなカーブを描く岸辺の道が続いています。水路には小さな帆船が浮かび、手前には船をつなぐための係船柱がぽつんと置かれています。人の姿はどこにもなく、淡い光の中で、すべてが静かに止まっているかのようです。

画面の周囲には、色の点による細い縁取りが描かれています。晩年のスーラは、絵と額縁の境目も色の効果の一部として意識するようになり、画面の端や、ときには額縁にまで点を描き込んでいます。

2026年2月13日から5月17日には、ロンドンのコートールド・ギャラリーで海景画だけに焦点を当てた展覧会「Seurat and the Sea」が開かれ、スーラの海辺の作品がまとめて紹介されました。

未完の遺作と31歳の死

グラヴリーヌから戻ったスーラは、夜の娯楽をテーマにした新たな大作に取りかかります。

『サーカス』(1891年)

ジョルジュ・スーラ『サーカス』(1891年)
ジョルジュ・スーラ『サーカス』(1891年)オルセー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

パリのオルセー美術館が所蔵する、スーラ最後の大作です。スーラの大作の中で、フランス国内に残るほぼ唯一の作品としても知られています。

円形の舞台の上で、白い馬の背に立った女性の曲芸師が、両手を広げて軽やかにポーズをとっています。そのそばでは道化師が宙返りをしており、右側には燕尾服の団長が立っています。画面の手前では、オレンジ色の髪をした白塗りの道化師が、こちらに背を向けています。

観客席では、前列に身なりのよい人々、後ろの列に庶民らしい人々が座り、社会の階層が描き分けられています。渦を巻くような曲線で動く舞台の人物たちに対して、観客たちは整然と並んだまま動きません。

モンマルトルにあったフェルナンド・サーカス(のちのメドラノ・サーカス)がモデルになったと言われています。この作品は完成しないまま、1891年3月のアンデパンダン展に出品されました。よく見ると、ところどころに白い下地や、構図を決めるための青い線がまだ見えています。

そしてこの展覧会の会期中の1891年3月29日、スーラはパリの両親の家で急死しました。31歳でした。死因ははっきりしておらず、髄膜炎、肺炎、ジフテリアなど、さまざまな病名が挙げられています。さらにその約2週間後には、幼い息子ピエール=ジョルジュも同じ病気で亡くなったと伝えられています。

スーラはパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られました。『サーカス』はその後シニャックの手に渡り、ルーヴル美術館への遺贈を条件にアメリカのコレクター、ジョン・クインへ譲られて、1927年にフランス国家のコレクションに入りました。

スーラが遺したもの

スーラが画家として活動したのは、わずか10年ほどでした。大作と呼べる作品は、本記事でご紹介した『アニエールの水浴』『グランド・ジャット島の日曜日の午後』『ポーズする女たち』『サーカスの客寄せ』『シャユ踊り』『サーカス』の6点だけです。

それでも、スーラの方法は仲間たちによって受け継がれていきました。特に盟友のシニャックは、スーラの死後も点描の手法を発展させ、1899年には理論書『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』を出版しています。1900年には、批評家フェネオンやシニャックらが中心となって、雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』の社屋でスーラの回顧展が開かれました。

1904年の夏には、若き日のアンリ・マティスが南フランスのサン=トロペでシニャックと過ごし、点描の手法を取り入れた『豪奢、静寂、逸楽』を描きました。この作品は、のちに鮮やかな色彩で知られるフォーヴィスム(野獣派)の出発点のひとつとされています。

理論によって色と線を組み立てようとしたスーラの試みは、キュビスムなど20世紀の前衛美術にも大きな影響を与えました。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、点描の技法を生み出し、新印象派を切りひらいた画家ジョルジュ・スーラの人生と作品についてご紹介しました。

白と黒のデッサンから出発し、色の科学を学び、無数の点で光を組み立てていったスーラ。その画面は、にぎやかな休日の公園も、夜のサーカスも、どこか時間が止まったような静けさと秩序に満ちています。感覚と理論という、一見すると相反するものを一枚の絵の中で結びつけようとしたところに、スーラの大きな魅力があるのかもしれません。

スーラの作品は、シカゴ美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーやコートールド・ギャラリー、パリのオルセー美術館などで見ることができます。機会があれば、ぜひ実物の前で、点が色と光に変わっていく不思議な体験を味わってみてはいかがでしょうか。

Euphoric ” ” の視点

スーラが生きたのは31年です。にもかかわらず、点描という新しい方法を確立し、新印象派という流れを残しました。

作品の点数で言えば決して多くありません。彼が残したのは絵だけでなく、色をどう置くかという考え方そのものでした。

時間が足りないと感じるとき、思い出したい人です。作品は数で残るのではなく、方法として受け継がれていきます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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