こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはヒエロニムス・ボスという画家をご存知ですか?
15世紀から16世紀にかけてネーデルラント(現在のオランダ南部からベルギーにかけての地域)で活躍した画家で、『快楽の園』や『聖アントニウスの誘惑』など、見たことのない怪物や奇妙な生き物であふれた絵を描いたことで知られています。鳥の頭をした怪物、卵の殻でできた人間、巨大な果実の中で戯れる裸の人々。500年前に描かれたとは思えないその世界は、今も見る人を驚かせ続けています。
その一方で、ボス本人については驚くほど記録が残っていません。生まれた年も、誰に絵を習ったのかも不明です。手紙も日記も残さず、自分の作品について語った言葉もひとつも伝わっていません。現在、本人の手によるものと広く認められている絵はわずか25点ほどです。
本記事ではそんなヒエロニムス・ボスの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleヒエロニムス・ボスって?
基本情報
| 本名 | ヒエロニムス・ファン・アーケン(Jheronimus van Aken)。「ボス」は出身地スヘルトーヘンボスに由来する通称で、本人も「Jheronimus Bosch」と署名しています |
| 生年月日(没年月日) | 1450年頃(正確な生年は不明)〜1516年。同年8月9日に聖ヤン教会で追悼ミサが行われた記録が残っています |
| 国籍・出身 | ブラバント公国スヘルトーヘンボス(現在のオランダ・北ブラバント州)。生涯のほとんどをこの町と近郊で過ごしました |
| 学歴 | 記録なし。父か伯父から学んだと考えられていますが、その作品は一点も残っていません |
| 分野 | 絵画(オーク材の板に油彩)、素描 |
| 傾向 | 初期ネーデルラント絵画、宗教画、寓意画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 不詳。祖父ヤン・ファン・アーケン、父アントニウス・ファン・アーケンはいずれも画家でした |
https://euphoric-arts.com/art-2/pieter-bruegel-the-elder/
経歴と作品
画家一族に生まれて
ボスは1450年頃、ブラバント公国の町スヘルトーヘンボスで生まれたと考えられています。ただし出生の記録は残っておらず、この年代は晩年に描かれた肖像素描の中の姿が60代後半に見えることから逆算した推定です。

この素描は『アラス画帖(Recueil d’Arras)』と呼ばれる肖像集に収められたもので、ジャック・ル・ブークの手によるものとされています。かつてはボス自身の自画像の写しと考えられていましたが、現在では帰属は確かではないとされています。ボスの顔として知られているのは、実質的にこの一枚だけです。
ファン・アーケン家は画家の一族でした。祖父のヤン・ファン・アーケン(1454年没)は1430年の記録に名前が出てくる画家で、5人の息子のうち4人も画家になりました。ボスの父アントニウス(1478年頃没)もその一人で、町の信心会「聖母兄弟会」の美術顧問を務めていました。
ボスが13歳頃だった1463年、スヘルトーヘンボスは大火に見舞われ、4,000戸の家が焼けました。ボスはこの光景を目にしたと推測されています。燃える街は、のちの作品に繰り返し現れるモチーフになりました。市の記録にボスが初めて登場するのは1474年4月5日です。
結婚と「聖母兄弟会」
1479年から1481年の間に、ボスはアレイト・ゴヤルツ・ファン・デン・メールフェンネと結婚しました。彼女は数歳年上で、裕福な家から家と土地を相続しており、夫妻は近郊の町オイルスホットに移り住んでいます。
1486年から1487年にかけて、ボスは町の名士約40人からなる信心会「聖母兄弟会」の正会員になりました。ヨーロッパ各地に7,000人もの外部会員を持つ有力な組織で、ボスの死を記録に残したのもこの兄弟会の会計簿です。
つまりボスは、世を捨てた孤独な幻視者ではなく、町の上流市民として一生を送った人物でした。当時から評判は高く、国外からも注文を受けていました。
『東方三博士の礼拝』(1494年頃)

マドリードのプラド美術館が所蔵する三連祭壇画です。中央には、崩れかけた小屋の前で幼子イエスを膝に抱く聖母マリアと、贈り物をささげる三人の博士。画面の下に「Jheronimus bosch」の署名が見えます。
注目したいのは、左右の翼の人物です。左にはアントウェルペンの裕福な市民ペーテル・スヘイフェが守護聖人の聖ペテロとともに、右には妻アフネーセ・デ・フラメが聖アグネスとともに描かれています。この寄進者を2004年に美術史家デュケンヌが特定したことで、制作年が1494年頃と確定しました。ボスの作品としては珍しく、年代の手がかりがはっきりしている一点です。
プラド美術館の解説によれば、三博士の贈り物や衣装には旧約聖書の場面が細かく描き込まれ、いずれもキリストの誕生や受難を予告する図像だとされています。小屋の入り口に立つ、薄い外套と透ける布だけをまとった奇妙な人物は、反キリストと解釈されています。一見おだやかな聖書画ですが、細部では救いと悪が同じ画面に同居しています。
「愚かさ」を描く:旅人・愚者・守銭奴
ボスの作品の多くは、人間がどれほど愚かで、簡単に誘惑に負けるかを描いています。ただし描き方は説教くさくなく、しばしば滑稽です。
『愚者の船』(1491年以降)

パリのルーヴル美術館が所蔵する小さな板絵で、縦58センチ、横33センチしかありません。目的地のない船に修道女と修道士、農民たちが乗り込み、歌い、酒を飲んでいます。船のマストは生きた木で、てっぺんにはフクロウがとまり、枝には焼いた鳥が吊るされています。男が一人、ナイフをくわえてそれを取りに登っています。
ルーヴル美術館の作品データによれば、この板は三連祭壇画の左翼の上半分の断片です。下半分はイェール大学美術館にある『暴食と色欲の寓意』で、二つは断面がぴたりと合います。右翼はワシントンの『死と守銭奴』、翼の外側に描かれていたのがロッテルダムの『放浪者(行商人)』でした。中央パネルは失われています。ルーヴルの目録では15世紀最後の四半期、解説では「1491年以降」とされています。
1494年に出版されたセバスティアン・ブラントの風刺文学『阿呆船(Das Narrenschiff)』との関係もよく指摘されます。ただしルーヴルは、同じ時代の価値観は共有していても、ブラントの本がボスの図像を決定づけたとは限らないという立場です。
『死と守銭奴』(1485年〜1490年頃)

『愚者の船』と対になっていた右翼です。細長い部屋の奥で、やせた男が死の床についています。扉を開けて骸骨が矢を構えて入ってきますが、男はまだ迷っています。天使が肩に手を置いて窓の小さな十字架を指さす一方、天蓋の陰からは悪魔が金貨の袋を差し出しているのです。手前では生前の男が金庫に硬貨をしまい込み、床には脱ぎ捨てられた鎧と武器が転がっています。
この絵は「死を忘れるな(メメント・モリ)」の伝統に属し、当時広く読まれた『往生術(アルス・モリエンディ)』の影響が指摘されています。興味深いのは、この手引き書では最後に天使が勝つのに対し、ボスは結末を描かなかったことです。
『放浪者(行商人)』(1500年頃)

ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が所蔵する板絵で、縦71センチ、横70.6センチ。画面は円形です。もとは三連祭壇画の翼の外側に描かれたもので、ルーヴル美術館によれば、翼の表と裏が剥がされたあと八角形に切りそろえられました。ぼろをまとった男が大きな籠を背負い、犬にうなられながら棒で追い払い、後ろを振り返っています。片方の靴はスリッパ、もう片方は木靴。膝には包帯が巻かれています。
左手の荒れた家は、窓から女がのぞき、戸口では男女が抱き合っています。売春宿だと解釈されています。右手には門があり、門の上にはカササギ、木の上にはフクロウがとまっています。ボイマンス美術館はこの絵を「人生の旅路」を表したものと説明し、白と黒のカササギは天国か地獄かという最後の審判を暗示する、と解説しています。
ちなみにこの作品は、2017年に東京都美術館と国立国際美術館で開催された「ブリューゲル『バベルの塔』展」で来日しています。東京都美術館は、ボスの油彩2点が初来日すると紹介していました。
『快楽の園』:ボスのもっとも謎めいた三連祭壇画
ボスの名を不朽のものにしたのが、プラド美術館の『快楽の園』です。オーク材の板に油彩とグリザイユで描かれた、五面構成の三連祭壇画です。プラド美術館の記録では画面の高さは185.8センチ、開くと幅は3メートルを超えます。
『快楽の園』外翼(天地創造の第三日)

扉を閉じると、灰緑色のグリザイユ(単色画)で描かれた、この静かな画面が現れます。透明な球の中にあるのは、平らな大地と海、雲、芽吹き始めた植物だけ。人も動物もまだいません。プラド美術館は、これを天地創造の第三日、水と陸が分けられ地上の楽園が造られた日の情景だと説明しています。左上のごく小さな姿が創造主である父なる神で、画面上部には「Ipse dixit, et facta sunt(主が仰せになると、そのとおりになった)」「Ipse mandavit, et creata sunt(主が命じられると、それは創造された)」という詩篇33篇9節と148篇5節の銘文が記されています。世界の始まりから幕が開き、扉を開くと人類の物語が展開する構造です。
『快楽の園』(1490年〜1500年頃)

左翼は楽園です。ピンク色の衣をまとった若い姿の神が、エヴァの手首をとってアダムに引き合わせています。神が若々しく描かれるのは珍しく、受肉したキリストを表す工夫ではないかと言われています。背景にはキリンや象など、当時のヨーロッパ人にとって珍しい動物が歩き、中央の「命の泉」の中にはフクロウが一羽います。
中央パネルが、この作品の題名の由来です。裸の男女が、巨大な果実や鳥、貝殻と戯れています。中央の円い池では女性たちが水浴びし、そのまわりを男たちが馬や駱駝、ユニコーンに乗って反時計回りに駆けています。プラド美術館によれば、この騎馬の行列はそれぞれの大罪と結びつけられてきました。
右翼は地獄です。夜、遠くで街が燃え、その光が水面を赤く染めています。中央には「樹木人間(ツリーマン)」がいます。胴体は割れた卵の殻で、脚は枯れた木の幹。頭に載せた円盤の上では巨大なバグパイプのまわりを人々が行進し、卵の殻の中は居酒屋になっています。
その右では、鳥の頭をした巨大な怪物が、おまるのような椅子に座って人間を食べ、そのまま下へ排泄しています。プラド美術館はこの怪物をフクロウの一種と見て、強欲の罪への罰を表すと説明しています。手前には竪琴やリュートが立ち、人間がそれに磔にされているため、右翼はしばしば「音楽の地獄」と呼ばれます。画面右下では修道女のベールをかぶった豚が裸の男に身を寄せ、書類にサインさせようとしており、聖職者への風刺と解釈されています。
では、中央パネルは何を意味するのでしょうか。ここが最大の論点です。プラド美術館は、中央パネルを「感覚をあざむく偽りの楽園」だとしています。左翼のエデンと地平線がつながっているため一見すると楽園の続きに見えますが、実際には色欲の罪にゆだねられた偽りの園であり、そこに暮らす男女を待っているのは右翼の地獄だけだ、という読み方です。奥に立つ泉が壊れているのは、その快楽のはかなさを示すとされています。
一方、20世紀にはまったく逆の解釈も現れました。民俗学者ヴィルヘルム・フランガーは1947年、ボスは「アダム派」と呼ばれる異端の一派に属し、中央パネルは罪のない性の楽園を描いたものだと主張しました。この説は根拠が乏しいとして、現在ではほとんど支持されていません。美術史家エルヴィン・パノフスキーは1953年に、「私たちはこの扉にいくつか穴を開けたが、どうやら鍵はまだ見つかっていないようだ」と書いています。
制作年についても議論が続いています。板のオーク材を年輪年代学で調べたところ、1460年から1466年の木と分かりました。これは「それより前には描けない」という下限を示すだけです。プラド美術館は、同じくプラドにある『東方三博士の礼拝』(1494年頃)と様式が近いことから1490年代の制作とし、館の表示も1490年〜1500年となっています。以前は1503年から1504年頃とする説が有力でした。
この作品が最初に記録に現れるのは、ボスの死の翌年の1517年7月30日です。聖職者アントニオ・デ・ベアティスが、ブリュッセルのナッサウ家の宮殿でこの絵を見て、「貝から這い出す人々、鳥を生み出すもの」と書き残しました。注文主について、プラド美術館は1504年に没したエンゲルブレヒト2世・ファン・ナッサウと見ています。その後1568年にアルバ公に没収され、1591年にフェリペ2世が競売で入手、1593年7月8日にエル・エスコリアル修道院へ送られました。そこで300年以上を過ごしたのち、プラド美術館へ移されました。その年は同館の記録では1933年、1939年とする資料もあります。
『干し草車』:この世は干し草の山

『快楽の園』と並ぶ大型の三連祭壇画です。プラド美術館は額を含む大きさを147.1×224.3センチと記録しています。中央下に「Jheronimus bosch」の署名があります。
中央には、巨大な干し草を積んだ荷車が進んでいます。プラド美術館によれば、これはフランドルの諺「世界は干し草の山であり、各人は取れるだけ取る」と、イザヤ書40章6節の「すべての肉は草のごとく」を重ねた図像です。
荷車には梯子がかけられ、あらゆる身分の人々が干し草をつかもうと争っています。車輪の下敷きになる者、刺される者もいます。その混乱を、雲の上のキリストが傷を示しながら静かに見下ろしています。荷車の上では恋人たちが音楽を奏で、天使が天を仰いで祈る一方、反対側では悪魔がラッパを吹いています。
そして荷車を引いているのは、人間ではなく悪魔たちです。荷車の後ろを馬でついていくのは、教皇、皇帝、王、公爵といった世界の権力者たち。誰も、自分がどこへ連れて行かれるのか気づいていません。右翼では地獄がまだ建設中です。悪魔たちが職人のように梯子を登り、塔の壁を積み上げています。運び込まれる罪人の数に、地獄の設備が追いついていないのです。閉じた外側には、グリザイユではなく彩色で『放浪者』の主題が描かれています。
制作年は資料によって分かれます。プラド美術館は1512年〜1515年とし、年輪年代学に基づく研究では1516年頃とされています。いずれも最晩年の作です。プラド美術館によれば、この作品がいつスペイン王室に入ったかは分かっておらず、記録の初出は1636年のマドリード王宮の目録です。19世紀初めの戦乱で三つの板に分かれ、1914年に中央パネルと右翼が同館へ譲られて、ふたたび一つに戻りました。
『聖アントニウスの誘惑』:リスボンの三連祭壇画

ポルトガルのリスボン国立古美術館が所蔵する三連祭壇画で、『快楽の園』と並ぶ代表作とされています。中央パネルは131.5×119センチ、翼は131.5×53センチ。1501年頃の作です。
主題は、3世紀から4世紀にエジプトの砂漠で修行した聖アントニウスです。悪魔たちが次々と姿を変えて誘惑しますが、聖人は屈しませんでした。この物語はアタナシオスの『聖アントニウス伝』と『黄金伝説』に由来し、中世から盛んに描かれた主題です。
左翼の空では、悪魔たちに抱えられた聖アントニウスが運び去られ、その下では気を失った聖人が仲間に支えられて橋を渡っています。中央パネルでは、崩れた塔のそばで聖アントニウスがひざまずき、こちらを見ています。背後では黒ミサが行われ、遠くの村が燃え、空には魚の形の船や翼の生えた帆船が飛んでいます。右翼では、聖アントニウスが本を開いて瞑想し、そのそばで枯れ木のカーテンの陰から裸の女が姿を現します。
興味深い背景があります。聖アントニウス会の修道士たちは、麦角菌に汚染されたライ麦による中毒症(「聖アントニウスの火」と呼ばれ、手足の激しい灼熱感と幻覚を伴います)の患者を看護していました。ボスが描いた幻覚のような光景は、当時の人々にとって、まったく想像上のものではなかったのかもしれません。閉じた外側にはグリザイユで「キリストの捕縛」と「十字架を担うキリスト」が描かれています。
『七つの大罪と四終』と、帰属をめぐる議論
プラド美術館にある、ポプラ材の板に描かれたテーブル画です。中央に巨大な目のような円があり、その瞳にあたる部分でキリストが傷を示しながら墓から立ち上がっています。その下には「Cave cave d[omin]us videt(用心せよ、主は見ておられる)」と記されています。
目の虹彩にあたる輪は七つに分けられ、それぞれに大罪が描かれています。憤怒は酒場の前での殴り合い、高慢は悪魔が差し出す鏡に見入る女、色欲は天幕で戯れる男女、怠惰は暖炉のそばで眠り込む男、暴食は食卓でむさぼる一家、強欲は賄賂を受け取る役人、嫉妬は金持ちの鷹をうらやむ夫婦です。四隅の小さな円には「四終」、すなわち死・最後の審判・地獄・栄光が描かれています。プラド美術館は、上下の帯に記された申命記32章からのラテン語銘文と合わせて、「神の道を外れた者には地獄が待つ」という一貫したメッセージを読み取っています。
ところがこの作品は、現在もっとも帰属が争われている一点です。2015年11月、ボス研究保存プロジェクト(Bosch Research and Conservation Project、BRCP)は、この『七つの大罪と四終』とヘント美術館の『十字架を担うキリスト』について、ボス本人ではなく模倣者の手によるものである可能性が高いと発表しました。赤外線リフレクトグラフィーによる下絵の分析と超高解像度のマクロ撮影に基づく結論です。
これに対してプラド美術館は、自館の解説で反論しています。この板には署名があり、偽の署名と考える根拠はないこと。下絵の筆致が『干し草車』などボス後期の作品と共通すること。そして何より、この独創的な構図を「無名の追随者」が考え出せたとは考えにくいこと。ポプラ材のため年輪年代学が使えず、板そのものから年代を決められない事情もあります。
どちらが正しいのか、現時点で決着はついていません。記事や図録によって「ボス作」と書かれていたり「ボスまたは追随者」と書かれていたりするのは、このためです。
「真筆は約25点」:技術が変えたボス像
ボスの作品をめぐる議論が絶えないのには理由があります。第一に、ボスは作品に年記を入れませんでした。署名が残るのも現存作品のうち7点だけで、しかも明らかに後世のものが混じっています。第二に、ボスの絵は死後すぐに大人気となり、16世紀初めから大量の模写と亜流が出回りました。
そのため、20世紀前半の研究者シャルル・ド・トルナイやルートヴィヒ・フォン・バルダスは30点から50点をボスの作と考えていましたが、1980年のゲルト・ウンフェアフェールトの研究では絵画25点と素描14点まで絞られました。この流れを決定づけたのが、2010年に始まったBRCPです。ラドバウト大学ナイメーヘン、アムステルダム国立美術館、アリゾナ大学などの研究者が参加し、世界各地のボス作品を赤外線リフレクトグラフィーと超高解像度撮影で記録し、オーク板の年輪年代測定を行いました。成果は2016年、イェール大学出版局から技術研究書とカタログ・レゾネとして刊行されています。
BRCPの仕事は、ボス作品を減らす方向にばかり働いたわけではありません。2016年2月には、アメリカのネルソン・アトキンス美術館が長く「ボス工房作」としてきた小さな板絵『聖アントニウスの誘惑』(38.6×25.1センチ)がボス本人の作と認められました。下絵の水気の多い線が、聖アントニウスの髪やひげ、衣のひだにボス特有の描き方で現れていたのです。
2016年はボスの没後500年にあたり、故郷スヘルトーヘンボスのノールトブラバント美術館で「ヒエロニムス・ボス 天才の幻視」展(2月13日〜5月8日)が開かれ、421,700人を集めました。同館180年近い歴史で最多の入場者数です。続いてプラド美術館でも「ボス 没後500年展」が開かれました。
現在、ボス本人の手によるものと広く認められているのは絵画が約25点、素描が8点。加えて6点ほどが工房作とされています。三連祭壇画は少なくとも16点制作したと考えられていますが、完全な形で残るのは8点です。
死後の評価:スペイン王からブリューゲル、そして現代へ
ボスは生前から人気の画家でしたが、その名声を決定的にしたのはスペイン王フェリペ2世です。16世紀後半、王はボスの作品を熱心に買い集めました。主要作がプラド美術館に集まっているのは、このためです。
ただし当時の見方は、今とはかなり違いました。1560年頃、フェリペ・デ・ゲバラは、ボスが世間では単に「怪物とキマイラの発明者」と見なされていると書いています。17世紀初頭にカレル・ファン・マンデルは、ボスの作品を「驚くべき奇妙な幻想」と評しつつ、「見て楽しいというより、むしろ恐ろしいことが多い」と付け加えました。
その芸術をもっとも深く受け止めたのが、次の世代のピーテル・ブリューゲル(父)でした。ブリューゲルは版画の下絵でボス風の怪物を描き、同時代の記録では「第二のボス」と呼ばれています。プラド美術館の解説も、ボスに匹敵する発想力を持ったもう一人の画家としてブリューゲルの名を挙げています。
20世紀に入って抽象や幻想が絵画の主題として受け入れられるようになると、ボスの評価は大きく変わりました。夢や無意識を描いたシュルレアリスムの画家たちにとって、ボスは遠い先駆者として語られるようになります。一方で近年の研究は、ボスの絵をむしろ当時としては正統的な信仰の表現として読む方向に進んでいます。美術史家ディルク・バックスは、ボスの絵の多くは、聖書や民間の言い回し、ことわざ、言葉遊びを絵に翻訳したものだと指摘しています。プラド美術館が、同館の『愚者の石の除去』で頭から取り出されるのは石ではなくスイレンの花だと説明しているように、ボスの怪物たちは言葉の上の冗談でもあったのです。
なお、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『いばらの冠をかぶせられるキリスト』(1510年頃)は、同館によれば、現在ボスに帰属できる唯一の「嘲弄されるキリスト」の作品です。技術調査では、下絵の段階のほうが男たちの扱いが乱暴で、ボスが仕上げであえて暴力性を抑えたことが分かっています。怪物だけの画家ではなかったことが、この一点からもうかがえます。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ヒエロニムス・ボスは、生まれた年も、師も、自分の絵について考えていたことも、ほとんど分かっていない画家です。残っているのは、町の記録に記された数行と、約25点の絵だけです。
けれどその絵には、割れた卵から生えた人間や、建設中の地獄が描かれています。人間は愚かで、快楽は長続きせず、誰も自分の行き先を知らない。そうした容赦のない見方を、ボスは怖い説教ではなく、驚くほど細かく、どこか楽しげな画面に変えました。
年輪年代学や赤外線撮影といった現代の技術は、ボスの作品を次々と数え直しています。それでもなお、『快楽の園』の中央パネルが何を意味するのかは決まっていません。500年たっても謎が解けないからこそ、私たちは今日もこの絵の前で足を止めるのかもしれません。
Euphoric " " の視点
ボスについて分かっていることは、驚くほど少ないままです。生年も、師も、絵に込めた意図も確定していません。だからこそ研究者は問い続け、私たちも画面を覗き込み続けます。
情報が足りないことは、普通なら弱点です。ボスの場合、その余白が500年ものあいだ人を引きつけてきました。
すべてを説明し尽くした表現より、解釈の余地が残る表現のほうが、長く生き延びることがあります。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






