こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは鈴木春信という人物をご存知ですか?
鈴木春信(すずき はるのぶ)は、江戸時代の中ごろに活躍した浮世絵師です。私たちが「浮世絵」と聞いて思い浮かべる、あの色とりどりの木版画。あれは錦絵(にしきえ)と呼ばれるもので、その誕生に決定的な役割を果たしたのが春信でした。
細身で可憐な少女のような美人、古典の世界をそっと江戸の日常に置き換えた仕掛け、そして画面いっぱいに満ちる静かな詩情。春信が絵師として活躍したのは、わずか10年ほどにすぎません。それでも彼の仕事は、のちの喜多川歌麿や葛飾北斎へとつながる浮世絵の黄金期を、まっすぐに準備することになりました。
本記事ではそんな鈴木春信の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 姓は穂積(ほづみ)、のちに鈴木を名乗る。通称は次郎兵衛。号に長栄軒(ちょうえいけん)、思古人(しこじん) |
| 生年月日(没年月日) | 享保10年(1725年)頃生まれ(生年には諸説あり)。明和7年6月15日(1770年7月7日)没(命日を6月14日とする記録もあります) |
| 国籍/出身 | 日本/出身地は不詳。江戸の神田白壁町(現在の千代田区鍛冶町二丁目・神田鍛冶町三丁目あたり)に住みました |
| 学歴 | なし(京都で西川祐信に学んだとも、江戸の西村重長の門人だったとも伝わります) |
| 分野 | 浮世絵版画(紅摺絵・錦絵)、絵本の挿絵、肉筆浮世絵 |
| 傾向 | 細身で可憐な美人画。古典の主題を当世の風俗に置き換えた見立絵。胡粉を混ぜた中間色による繊細な色づかい |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 西川祐信、西村重長(いずれも諸説あります)。ほかに奥村政信、鳥居清満、中国・明の画家である仇英(きゅうえい)の影響を指摘する説もあります |
経歴と作品
前半生は謎だらけ。神田白壁町の家主だった絵師
鈴木春信について最初にお伝えしておきたいのは、その前半生がほとんど分かっていないということです。
生まれた年は享保10年(1725年)頃とされていますが、これは確実な記録があるわけではなく、諸説あります。生まれた場所も分かっていません。姓も、はじめは穂積(ほづみ)、のちに鈴木を名乗ったと伝わるだけです。通称は次郎兵衛、あるいは次兵衛。長栄軒、思古人といった号も使いました。
分かっているのは、春信が江戸の神田白壁町(いまの千代田区鍛冶町二丁目あたり)の戸主、つまり家主だったということです。家を持ち、店子から家賃を得る立場ですから、絵師としてはかなり恵まれた暮らしだったと考えられています。日々の生計に追われずに絵が描けたことは、のちに採算度外視の版画に打ち込めた理由のひとつだったのかもしれません。
そして、この神田白壁町の近所には、あの平賀源内(ひらが げんない)が住んでいました。エレキテルの実験で知られ、戯作も物産学もこなした江戸随一の才人です。春信と源内は親しく行き来する仲で、錦絵の工夫は源内によるものだとする古い記述も残っています。技術と好奇心のかたまりのような人物がすぐ隣にいたことは、春信にとって大きかったのではないでしょうか。
師匠については、はっきりしません。京都に出て西川祐信(にしかわ すけのぶ)に学んだとも、江戸の西村重長(にしむら しげなが)の門人だったとも伝わりますが、どちらも確証はありません。ただ、構図や人物の姿かたちに西川祐信の絵本を参考にしたところが多いことは、広く指摘されています。上方(京都・大坂)のやわらかな美人画の感覚が、江戸の版画に持ち込まれたわけです。
いま確認されている最初期の作品は、宝暦10年(1760年)頃の役者絵です。細判(ほそばん)という細長い判型の、紅摺絵(べにずりえ)でした。
紅摺絵というのは、錦絵が生まれる前の多色摺り版画です。墨の輪郭に、紅と緑など2〜3色をのせるだけの、素朴なもの。色の数が少ないので、版と版がずれてもそこまで目立ちません。春信もはじめはこの紅摺絵の技法で、役者絵や美人画、古典を題材にした絵を描いていました。
つまり春信は、最初から「錦絵の人」だったわけではありません。生年を1725年とすれば35歳前後で版画の世界に入り、当時の普通の絵師として仕事をしていました。その人生が大きく動くのは、40歳前後の1765年のことです。
1765年、絵暦の交換会が錦絵を生んだ
『水売り』(1765年)

明和2年(1765年)、江戸の裕福な趣味人たちのあいだで、あることが大流行します。絵暦(えごよみ)の交換会です。
当時の日本は太陰太陽暦(旧暦。月の満ち欠けを基準にしつつ、閏月で季節とのずれを調整する暦)を使っていました。この暦では、1か月が30日ある「大の月」と、29日しかない「小の月」があり、しかもその並び方が毎年変わります。ですから江戸の人にとって、今年はどの月が大でどの月が小なのかを知っておくことは、暮らしに直結する実用的な知識でした。
そこで、その大小の月を絵の中にさりげなく隠し込んだカレンダーが作られます。これが絵暦です。当時、暦の販売は幕府の統制下にありました。そのため絵暦は売り物にはならず、趣味人が自分の費用で作って知人に配る私家版でした。だからこそ、こだわりが爆発します。
この動きの中心にいたのが、1600石取りの旗本・大久保甚四郎(俳号は巨川/きょせん)、1000石取りの旗本・阿部正寛(俳号は莎鶏/さけい)、そして薬種商で浮世絵師でもあった小松屋三右衛門(俳号は百亀/ひゃっき)といった人々でした。巨川と莎鶏はそれぞれ仲間の連(れん)を率いて張り合い、金に糸目をつけずに彫師や摺師へ注文を出します。競い合う注文が集まったことで、多色摺りの技術は一気に磨かれていきました。
ここで絵の腕をふるったのが、鈴木春信でした。
上の作品『水売り』は、この時期に春信が描いたものです。天秤棒をかついだ若い水売りが、桶と、氷や白玉をのせたらしい箱を運びながら歩いています。はだけた着物、細い手足、あどけない表情。人物の輪郭線は驚くほど繊細で、背景は何も描かれていません。シカゴ美術館は制作年を1765年、判型を中判の摺物(すりもの)と記録しています。摺物とは、販売用ではなく配り物として作られた特別な版画のことです。なお日本では、この図柄を明和2年の絵暦として紹介する資料もあります。
しかけが分かりやすい例をもうひとつ。春信の『夕立』という作品には、干してある洗濯物の模様の中に「メイワ二 大二三五六八十」という文字が織り込まれています。「明和2年の大の月は、2月・3月・5月・6月・8月・10月ですよ」という意味です。パッと見ただけでは気づかない。けれど気づいた人はにやりとする。この「気づいた人だけが分かる」感覚こそ、絵暦の楽しみでした。
採算を気にしない注文主、腕を競う彫師と摺師、そして遊び心のある絵師。この三者がそろったとき、浮世絵の技術は一気に跳ね上がりました。こうして生まれた多色摺りの版画は、やがて絹織物の錦のように美しいという意味を込めて錦絵と呼ばれ、江戸の名物として「東錦絵(あずまにしきえ)」とも呼ばれるようになります。
『坐鋪八景』に残る「巨川」の署名
『坐鋪八景 鏡台の秋月』(1766年)

錦絵の誕生を語るうえで欠かせないのが、春信の連作『坐鋪八景(ざしきはっけい)』です。
もともとは大久保巨川が案を出し、春信に描かせた配り物でした。中判の摺物で、掲載したボストン美術館は制作年を明和3年(1766年)頃としています(明和2年頃とする資料もあります)。
この連作がおもしろいのは、その発想です。もとになっているのは「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」。中国・湖南省の洞庭湖と、そこに注ぐ瀟水・湘江のあたりの景色を8つ選んだもので、東アジアの絵画で何百年も描かれ続けてきた由緒正しい画題です。落雁(がんが降りる)、晴嵐(晴れた日のかすみ)、夜雨、晩鐘、秋月、暮雪、帰帆、夕照という、詩的な言葉が並びます。
春信たちは、この雄大な山水の八景を、まるごと座敷の中に持ち込みました。「鏡台の秋月」「扇の晴嵐」「台子の夜雨」「琴路の落雁」「行燈の夕照」「手拭かけの帰帆」「塗桶の暮雪」「時計の晩鐘」の8図です。
上の『鏡台の秋月』を見てみましょう。座敷で、身を起こした女性が、座っている若者の髪を結ってあげています。画面の左下には黒い鏡台が置かれ、その丸い鏡に、やわらかな光が映っています。この丸い鏡が、秋の月に見立てられているのです。奥には唐獅子を描いた屏風、障子の外には秋草。静かな室内の情景が、そのまま山水画の格調に置き換わっています。
そして注目していただきたいのが、右奥の屏風です。その上部に「巨川」という署名と朱の印が入っています。絵を描いたのは春信ですが、アイデアを考えた人の名前がここに記されているわけです。つまり『坐鋪八景』は、春信ひとりの作品ではなく、教養ある注文主と絵師と職人が組んで作り上げたものでした。この印が入っているのは初期の摺りだけで、のちに一般向けに売り出された版では、巨川の印は取り除かれたり、春信の署名に置き換えられたりしています。
『坐鋪八景・塗桶の暮雪』(江戸時代・18世紀)

同じ連作から、東京国立博物館が所蔵する『塗桶の暮雪』もご覧ください。こちらにも画面右上に「巨川」の署名と朱印が見えます。
塗桶(ぬりおけ)とは、真綿を広げて伸ばすときに使う漆塗りの桶のことです。画面の左には、その桶にかぶせた白い真綿がこんもりと盛り上がり、手前には丸めた真綿が転がっています。女性がひとり糸を繰り、もうひとりがその膝先に体をあずけて、くつろいだ様子で寝そべっています。
ここで「雪」として見立てられているのは、真っ白な真綿です。夕暮れの雪景色という詩的な主題が、真綿を扱う日常の手仕事に置き換わっている。そう気づいたとき、画面がふっと二重に見えてきます。
もうひとつ、この作品には見逃せない技術が使われています。真綿の白い部分には色がのっていません。かわりに、絵の具を使わずに版木を強く押し当てて、紙に凹凸をつける技法が使われています。これを空摺(からずり)と呼びます。紙の表面そのものをふくらませて、真綿のやわらかさや厚みを表現しているのです。色を増やすだけでなく、紙の手ざわりまで使う。錦絵の技術が、最初から驚くほど高い水準にあったことがよく分かります。
彫師と摺師。錦絵を支えたチームの仕事
『雪中相合傘』(明和4年頃)

錦絵は、ひとりの天才が机に向かって完成させるものではありません。版元(出版社)、絵師、彫師、摺師の4者による分業で作られます。絵師が下絵を描き、彫師がそれを版木に彫り、摺師が紙にのせていく。色の数だけ版木が必要になりますから、10色を使うなら、それだけの枚数を彫って、同じ紙に何度も重ねて摺ることになります。
ここで問題になるのが、色のずれです。紙を1ミリ置き間違えただけで、輪郭から色がはみ出します。これを防ぐために、版木のすみに「見当(けんとう)」と呼ばれる目印の切り込みが彫られました。摺師はその見当に紙の角を合わせて置いていきます。ちなみに、現代の日本語で使う「見当をつける」「見当違い」という言葉は、この版画の目印に由来すると言われています。
紙にもこだわりがありました。錦絵には上質な奉書紙(ほうしょがみ)が使われ、絵の具には胡粉(ごふん、貝殻を砕いた白い顔料)を混ぜた中間色が用いられるようになります。版木も、良質な桜や朴(ほお)が使われました。こうして、濁りのない淡い色や、微妙な色調のグラデーションが表現できるようになったのです。
上の『雪中相合傘』は、そうした技術の成果がよく分かる一枚です。明和4年(1767年)頃の作とされ、シカゴ美術館のほか、大英博物館なども同じ図柄の作品を所蔵しています。
雪の降るなか、ひとつの傘の下に若い男女が寄り添って歩いています。白い頭巾と白い着物の娘と、黒い頭巾と黒い着物の若衆(わかしゅ、前髪を残した若い男性)。上からは雪をのせた柳の枝が細く垂れ、右手には雪をかぶった幹が見えます。
黒と白の対比が、この絵のすべてです。黒い烏(からす)と白い鷺(さぎ)を対にする「烏鷺図(うろず)」は、古くからある絵の主題でした。大英博物館も、同じ図柄の所蔵品に「The crow and the heron(烏と鷺)」という英題をつけています。黒白の取り合わせに、雪という無彩色の世界を重ねる。派手な色をほとんど使わずに、これだけ印象に残る画面を作れるのは、線の美しさと紙の白さを信じきっているからこそでしょう。
ふたりの顔は、ほとんど同じ描き方です。細い目、小さな口、丸い輪郭。春信の人物は、男女の区別も年齢の区別も、あえて曖昧に描かれることがよくあります。
笠森お仙。江戸の町娘がスターになった
『笠森お仙と団扇売』(江戸時代・18世紀)

春信の名前を語るとき、切り離せない人物がいます。笠森お仙(かさもり おせん)です。
お仙は宝暦元年(1751年)に生まれ、文政10年(1827年)に亡くなった実在の女性です。江戸・谷中の笠森稲荷のそばにあった水茶屋「鍵屋」の看板娘で、鍵屋五兵衛の娘でした。水茶屋というのは、参詣客にお茶や団子を出す簡素な茶店のことです。
明和5年(1768年)頃、市井の美人を題材に錦絵を描いていた春信が、このお仙を描きました。もとから評判の娘でしたが、春信の錦絵によって人気は江戸中に広がります。「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」という手毬唄にまで歌われ、お仙をひと目見ようと笠森稲荷に人が押し寄せました。
同じ頃、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしも評判となり、この3人は「明和三美人」と呼ばれました。今でいうアイドルのような存在です。
上の作品をご覧ください。舞台は水茶屋の店先です。手前の縁台には、丸い団扇を手にした人物が腰かけ、少しけだるそうに上を見上げています。その前に立つのは団扇売りで、絵柄の入った団扇を何枚も抱え、一枚を差し出しています。背景には赤い鳥居の柱と、石を敷いた参道。奥には釜や水桶、茶道具をおさめた棚が並び、ここが茶屋であることが分かります。団扇のひとつには歌舞伎役者らしい顔が描かれ、夏の江戸の空気がそのまま封じ込められているようです。
ここで大事なのは、春信が「遊里でも芝居町でもない、市井の町娘」を絵の主役にしたという点です。それまでの浮世絵で名前つきで描かれるのは、吉原の遊女か、歌舞伎の役者が中心でした。ところが春信は、茶屋で働く娘を、遊女と同じ、いやそれ以上の輝きで描いてしまった。これは浮世絵の主題が大きく広がった瞬間でした。のちに喜多川歌麿が町娘を描いて一世を風靡するのも、この流れの先にあります。
お仙の物語には、少し不思議な結末があります。明和7年(1770年)2月頃、人気絶頂だったお仙は、突然、鍵屋から姿を消しました。幕府の御庭番で、笠森稲荷の地主でもあった倉地政之助のもとへ嫁いだのです。その後のお仙は9人の子に恵まれ、数えで77歳まで生きたと伝えられています。
偶然にも、お仙が姿を消したその年に、春信もこの世を去ることになります。
見立絵。古典を江戸の町娘に置き換える遊び
『見立菊慈童』(江戸時代・18世紀)

春信を語るうえで、もっとも大切なキーワードが見立絵(みたてえ)です。
見立絵とは、古典の物語や和歌、中国の故事などの有名な場面を、そのまま当世の、江戸の風俗に置き換えて描いた絵のことです。先ほどの『坐鋪八景』も、中国の山水を座敷の道具に置き換えた見立てでした。
この遊びが成立するには、描く側にも見る側にも、もとの古典の知識が必要です。「あの場面をこう置き換えたのか」と分かって、はじめて面白い。見立絵は、教養を持った人同士の、上品ななぞなぞでした。春信のパトロンだった旗本や俳諧の趣味人たちは、まさにその知識を持った人々です。
上の『見立菊慈童』は、東京国立博物館が所蔵する重要美術品です。横長の中判(横中判)で、寸法は縦21.4センチ、横27.8センチ。
画面には、川べりの土手に膝をついた若い娘が、咲き乱れる菊の一枝に手を伸ばしています。ピンクにぼかした空、白く流れる水、岩を越えて渦を巻く急流。静かで、どこか現実離れした情景です。
もとになっているのは、謡曲『菊慈童(きくじどう)』です。菊の咲き乱れる山奥の仙境で、菊の葉から滴り落ちる水を飲み、不老不死となった仙人「慈童」の物語で、当時はよく知られていました。この仙人を、菊を手折ろうとする若い娘に置き換えたのが本図です。東京国立博物館の解説も、「優しい色彩で夢幻的に描かれています」と評しています。
不老不死の仙人が、江戸の娘になる。だからこそ、画面から浮世離れした空気が立ちのぼります。春信の見立絵は、笑わせるためのパロディというより、現実の風景をそっと詩の世界に引き上げるための仕掛けでした。
『三十六歌仙・在原業平朝臣』(江戸時代・18世紀)

この作品の上部には、在原業平(ありわら の なりひら)の名と、その有名な和歌が記されています。「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」。世の中に桜というものがまったくなかったなら、春を過ごす心はどんなにのどかだろう、という意味です。桜があるせいで、咲くのを待ち、散るのを惜しんで、心が落ち着かない。逆説的に桜への愛着を語った、『古今和歌集』の名歌です。
そして画面には、平安時代の歌人ではなく、江戸の遊女らしい女性と、ふたりの幼い禿(かむろ、遊女に仕える少女)が描かれています。紅葉と器の模様をあしらった豪華な赤い着物をまとい、高い下駄を履いた女性が歩き、縞の着物の禿がそのあとに続きます。右奥には満開の桜。花びらが風に散っています。
千年近く前の歌人が詠んだ桜への思いが、遊里を歩く女性の姿にそのまま重ねられているのです。古典と当世、雅と俗、遠い昔といまが、一枚の紙の上で重なり合う。これが春信の見立絵の醍醐味です。
『風俗四季哥仙・弥生』(江戸時代・18世紀)

『風俗四季哥仙(ふうぞく しき かせん)』は、四季の和歌にちなむ情景を描いた中判の揃物(そろいもの、連作)です。上の図は、旧暦3月にあたる「弥生(やよい)」の一枚。
画面の右上には題簽(だいせん、シリーズ名を記した札)と和歌が書かれ、その下に春の水辺が広がります。花の咲いた枝が水辺に差しかかり、曲がりくねった流れに沿って、ふたりの女性が立ち、また腰を下ろしています。流れには、小さな盃がいくつも浮かんでいます。座った女性が、そのひとつに手を伸ばそうとしているところです。奥には幕が張られ、女性と子どもが敷物の用意をしています。
これは曲水の宴(きょくすいのえん)、つまり流れに盃を浮かべ、自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠むという、平安の宮廷で行われた雅やかな行事を思わせる場面です。それを、春の野遊びに出かけた江戸の女性たちの姿として描いている。ここでも、古典と日常がやわらかく溶け合っています。
そして、春信の描く人物は、みな驚くほど小さいのです。手も足も細く、顔は幼く、体には重さがありません。実際の人の姿というより、人形のような存在として描かれています。それが、画面全体に現実離れした静けさをもたらしています。
縁側と雪。名もない一瞬を絵にする
『縁先物語』(江戸時代・18世紀)

春信の絵に、大事件は起こりません。『縁先物語』は、その典型と言える一枚でしょう。題名のとおり、舞台は縁側の先です。
淡い縞の着物を着た人物が縁側の端に腰かけ、下駄を履いた足を庭へ下ろしています。その背後から、濃い色の着物を着たもうひとりが身を寄せ、顔を近づけています。ふたりはほとんど同じ顔立ちに描かれていて、ここでも男女の別はあえて曖昧にされています。
庭には、水をたたえた石の手水鉢(ちょうずばち)に柄杓が渡され、竹の垣根と草が見えます。手前には萩の枝と、編んだ竹の垣。あたりはひっそりと静まり返っています。
そして注目していただきたいのは、左端の襖のすきまです。よく見ると、そこから誰かの顔がこちらをのぞいています。ふたりだけの時間に、第三者の視線が入り込んでいるのです。この小さな仕掛けひとつで、画面に物語が生まれます。「縁先物語」という題名の「物語」は、きっとここから始まります。
『雪中の訪れ』(江戸時代・18世紀)

雪が積もった庭先。葦を編んだ垣根に雪が重く載り、松の枝も白くたわんでいます。左手には、開いた木戸のそばに立つ女性。右手には、腰に刀を差した若衆が、いま訪ねてきたばかりという様子で立ち、片手を上げています。地面は一面の白。人物の足もとに、うっすらと影が落ちます。
物語の説明は、いっさいありません。ただ「雪の日に、人が訪ねてきた」という一瞬だけが、静かに切り取られています。
雪の白を表現するために、春信は紙の色をそのまま残すという方法を選んでいます。降り積もった雪の部分には、色をのせていません。上質な奉書紙の白さと、周囲の淡い色との差だけで、冬の光を感じさせるのです。色を足すより、色を引く。錦絵という「色を重ねる技術」を手にした絵師が、あえて引き算をしている点が、春信の奥ゆかしさを物語っています。
絵本と春画。そして、あまりにも早い死
春信の仕事は、一枚摺りの錦絵だけではありませんでした。
明和7年(1770年)に刊行された『絵本青楼美人合(えほん せいろう びじんあわせ)』は、春信が手がけた代表的な絵本です。彩色摺の5冊本で、吉原の町ごとに巻を分け、そこに暮らす遊女166名を描いていきます。1人ずつに、桜、ほととぎす、月、紅葉、雪といった季節の景物を詠んだ句が添えられ、絵と言葉が響き合う構成です。現在は国立国会図書館が所蔵し、デジタル画像も公開されています。
また、春信は春画(しゅんが)も手がけています。春画は男女の営みを描いた浮世絵の一分野で、江戸時代には絵師の多くが取り組んだ、ごく一般的な仕事のひとつでした。春信の場合も、『風流艶色真似ゑもん』のように、小人になった主人公が人々の恋のありさまをのぞいて回るという、物語仕立ての作品が知られています。本記事では事実としてお伝えするにとどめ、作品画像の掲載は控えます。
明和7年6月15日(1770年7月7日)、鈴木春信は亡くなりました。生年がはっきりしないため年齢は定まらず、46歳とも53歳とも伝わります。錦絵が生まれた明和2年から、わずか5年あまり。絵師としてのデビューから数えても、10年ほどの活動期間でした。
最期の様子は伝わっていませんが、春信の存在がどれほど大きかったかは、残された記録が語っています。大正8年(1919年)には、有志によって「錦絵開祖鈴木春信」の碑が東京・谷中の大円寺に建てられました。法名は法性真覚居士と伝えられています。同じ寺の境内には、永井荷風が文を撰した「笠森阿仙の碑」もあります。錦絵を生んだ絵師と、その絵によって江戸一番の人気者になった娘。ふたりの名前が、同じ寺で並んでいるのです。
春信のあと。贋作と、浮世絵の黄金期へ
春信が亡くなったあと、少し変わったことが起こりました。春信の贋作が出回りはじめたのです。
描いたのは、春信の門人だった鈴木春重(すずき はるしげ)。のちに洋風画家として名を成す司馬江漢(しば こうかん)その人です。
江漢は晩年の自著『春波楼筆記』の中で、春信の死後、春信の落款を使って偽作を描いていたこと、のちに「春重」の名で署名するようになったことを、自ら書き残しています。売れる絵師が突然いなくなった穴を、版元が埋めようとしたのではないかとも言われています。
春信の影響は、もっと健全な形でも広がりました。のちに独自の美人画で人気を得る礒田湖龍斎(いそだ こりゅうさい)は、直接の門人ではないとされますが、春信の強い影響のもとで一時「春広」を名乗っています。ほかにも一筆斎文調、勝川春章、北尾重政、そして八頭身のすらりとした美人を描いた鳥居清長といった次代の絵師たちが、春信の切り開いた表現を受け継いでいきました。
春信が始めた「実在の町娘を主役にする」という発想は、20年後、喜多川歌麿の大首絵(顔を大きく描いた美人画)へとつながっていきます。錦絵という器が生まれたからこそ、歌麿の色も、写楽の役者絵も、北斎や広重の風景画も花開くことができました。
残念なのは、春信の作品が日本ではなかなか見られないことです。千葉市美術館は、春信がおよそ1000図以上を世に出しながら、その8割以上が海外に所蔵されていると伝えています。2017年に同館で開かれた「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」も、ボストン美術館のコレクションを中心に構成されたものでした。幸い、東京国立博物館はまとまった数の春信作品を所蔵しており、時期を選べば展示で出会うことができます。
まとめ
いかがだったでしょうか。
前半生はほとんど分かっておらず、35歳前後で紅摺絵の絵師として世に出た鈴木春信。40歳前後の明和2年(1765年)、絵暦の交換会という趣味人たちの遊びの中で、彼は錦絵という新しい表現の中心に立ちました。
採算を度外視した注文主、技を競う彫師と摺師、そして古典の教養と遊び心を持った絵師。この組み合わせが、何色も重ねる多色摺りや、紙をふくらませる空摺といった技法を一気に育てました。『坐鋪八景』に残る「巨川」の印は、その共同作業の証拠として、いまも画面の中に残っています。
傘の下で寄り添うふたり、縁側で交わされる言葉、雪の日の訪問、茶屋の店先。どれも、通り過ぎてしまえば何でもない場面ばかりです。けれど春信は、そこに古典の詩の響きを重ね、細い線と淡い色で、その一瞬を留めました。
活動期間はわずか10年。それでも、春信たちが作った器の上に、歌麿も、写楽も、北斎も、広重も乗ることができました。
東京国立博物館をはじめ、国内でも春信に出会える機会はあります。細い線の向こうにひそんだ仕掛けを探しながら、じっくりご覧になってみてはいかがでしょうか。
Euphoric " " の視点
錦絵は、春信ひとりの発明ではありません。絵を描く人、版木を彫る人、色を摺る人、企てを出す人。その全員の技術が同じ時期にそろって、多色摺りという形になりました。
春信の名が残ったのは、その合流点に立っていたからでもあります。私家版の暦という小さな市場から始まった試みが、やがて江戸の出版を変えました。
新しい表現は、天才がひとりで生むというより、条件がそろった場所に現れます。誰と組むかは、何を作るかと同じくらい大きな問題です。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






