こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはサイ・トゥオンブリーという人物をご存知ですか?
アメリカ南部のヴァージニア州に生まれ、1957年以降の多くをイタリアで過ごした画家です。鉛筆やクレヨンの線、文字、数字、絵具の染みを、ひとつの画面に同居させた作品で知られます。一見すると子どもの落書きのようですが、そこには古代ギリシャ・ローマの詩や神話が、断片となって書き込まれています。
本記事ではそんなサイ・トゥオンブリーの人生と作品についてご紹介します。トゥオンブリーの作品は現在も著作権が保護されています。そのため、本文では作品の解説を主とし、著作権法で認められた「引用」の範囲で、所蔵館の公式ページにある画像を数点だけ掲載します。そのほかは、図解と表、公式の映像でご案内します。
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Toggleサイ・トゥオンブリーって?

まずは全体像です。トゥオンブリーは1928年にヴァージニア州レキシントンで生まれました。ニューヨークなどで学んだのち、1957年にイタリアへ移り、ローマを主な拠点にします。1960年代から連作に取り組み、1995年にはアメリカのヒューストンに、トゥオンブリーの作品だけを展示するギャラリーが開館しました。2010年には、パリのルーヴル美術館の天井画も手がけています。「サイ」という名は、大投手サイ・ヤングにちなんだニックネームだと、世界文化賞(高松宮殿下記念世界文化賞)の受賞者紹介にあります。
基本情報
| 本名 | エドウィン・パーカー・トゥオンブリー・ジュニア(Edwin Parker Twombly Jr.) |
| 生年月日(没年月日) | 1928年4月25日〜2011年7月5日(83歳没) |
| 国籍・出身 | アメリカ/ヴァージニア州レキシントン生まれ。1957年からイタリアに移り、ローマを主な拠点にしました |
| 学歴 | 1948〜1951年に、ボストンの美術館付属美術学校、ヴァージニア州のワシントン・アンド・リー大学、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学びました。1951年にはブラック・マウンテン・カレッジの講習にも参加しています |
| 分野 | 絵画、ドローイング、彫刻、写真 |
| 傾向 | 鉛筆やクレヨンの線、文字、数字、絵具が同じ画面に並ぶ作風です。古代ギリシャ・ローマの神話や詩を主題にした作品が数多くあります |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ブラック・マウンテン・カレッジでフランツ・クライン、ベン・シャーン、ロバート・マザウェルらの指導を受けました。同じ時期の詩人チャールズ・オルソンの関心が、初期作に影響したとテートの解説は指摘しています。友人にロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズがいます |
同じ時代のアメリカ美術を知っておくと、トゥオンブリーの位置がつかみやすくなります。
トゥオンブリーを見るときの手がかり
トゥオンブリーは、20世紀半ばのアメリカで主流だった抽象表現主義の次の世代にあたります。ただ、グッゲンハイム美術館ビルバオの教材は、トゥオンブリーの作品を、その運動の信条を退けるものとして説明しています。抽象表現主義の絵が、記念碑のように大きく、ほとんど磨き上げられているのに対して、トゥオンブリーの絵は大きくても、より繊細で、ゆるやかに組み立てられています。白、クリーム色、黒の地に、引っかくような線がわずかに置かれるのが特徴です。
もうひとつの手がかりは、言葉です。トゥオンブリーの画面には、詩の一節や神々の名前が、手書きの文字として入ります。文字は意味を伝えるためだけでなく、線や色と同じように、画面を形づくる材料として扱われます。テートの雑誌記事は、トゥオンブリーが、書くことが描くことに変わる境目にとどまり続けた画家だと述べています。
経歴と作品
学校を渡り歩いた青年期(1928〜1951年)
トゥオンブリーは1928年4月25日、ヴァージニア州レキシントンに生まれました。ルーヴル美術館の所蔵品データベースも、ブリタニカ百科事典も、この日付と場所を記しています。
学びの場は、ひとつではありません。1948年から1951年にかけて、ボストンの美術館付属美術学校、地元レキシントンのワシントン・アンド・リー大学、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグを順に回りました。ニューヨークで出会ったのが、同世代のロバート・ラウシェンバーグです。のちにトゥオンブリーは、ラウシェンバーグに誘われて、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジに参加しました。
ブラック・マウンテン・カレッジは、テートの記事が、自由な実験と交流の場と紹介している学校です。テートは、この時期に居合わせた教員として、チャールズ・オルソン、フランツ・クライン、ロバート・マザウェル、ジョン・ケージの名を挙げています。1951年の作品『Min-Oe』には、文字の起源に関心を寄せたオルソンの影響が見られると、テートは説明しています。
旅と軍務の時代(1952〜1956年)
1952年、24歳のトゥオンブリーは、奨学金を申請し、ヨーロッパを旅することになります。ポンピドゥー・センターの展覧会紹介によれば、申請書には、ラスコーの洞窟壁画の素描を学びたいと書いていました。美術館、ゴシックやバロックの建築、ローマの遺跡も訪ねるつもりだったといいます。旅にはラウシェンバーグを誘い、二人は1952年8月20日にナポリへ向かう船に乗りました。テートの記事によると、二人は1952年から1953年にかけて、約8か月間、ヨーロッパと北アフリカを旅しています。
帰国後、トゥオンブリーはアメリカ陸軍で暗号に関わる任務に就きました。グッゲンハイム美術館ビルバオは、1950年代半ばの陸軍での仕事のなかで、ひっかくような線の作風が生まれたと説明しています。
『Volubilus』(1953年)
この時期の作品のひとつが、1953年の『Volubilus』です。2025年1月に、メニル・コレクションがトゥオンブリー財団から受け取った2点の絵画のうちの1点で、湿った絵具で描かれたアーチのような形が、ローマ時代の建築を思わせます。題名は、現在のモロッコにある古代都市の遺跡を指します。メニル・コレクションの発表によれば、トゥオンブリーは絵具に土やタールを混ぜ、自分で「侵食された表面」と呼んだ質感をつくりました。
同じ寄贈の2点目、1954年の『Untitled』は、クリーム色の地に鉛筆のなぐり書きが広がる絵です。メニル・コレクションは、陸軍で暗号に関わる仕事をしていたトゥオンブリーが、暗がりのなかで描いたものだと紹介しています。

1953年には、ニューヨークのステーブル・ギャラリーで、ラウシェンバーグとの二人展が開かれました。1955年ごろの作品には、トゥオンブリー、ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズの3人でつくった題名のリストから、『Criticism』『The Geeks』『Academy』といった題がつけられています。
ローマでの出発(1957〜1962年)
1957年、トゥオンブリーはイタリアへ移ります。テートの記事によれば、イタリアの美術家たちがステーブル・ギャラリーで頻繁に展示していた縁があり、その人脈を足がかりにしました。ローマではコロッセオを見下ろす場所にスタジオを構え、イタリアの美術雑誌に、自作について短い文章を寄せています。この文章は、2000年にデイヴィッド・シルヴェスターのインタビューが出るまで、本人が自作について公に語った唯一のものでした。そこでトゥオンブリーは、ひとつひとつの線は、説明するものではなく、その線が生まれる感覚そのものだと書いています。
ローマに移ったことは、作風にも変化をもたらしました。グッゲンハイム美術館ビルバオは、アメリカ美術の身ぶりの自由さに、ヨーロッパの歴史、風景、神話や文学への関心が結びついたと説明しています。署名も、このころから画面の大事な要素になりました。
『Poems to the Sea』(1959年)
1959年には、イタリアの海辺の町スペルロンガで、24枚の紙からなる『Poems to the Sea』を描きました。テートの記事によれば、海は水平線とひとつの言葉に切りつめられ、白い紙の上に、なぐり書きと絵具の薄い膜が置かれます。読み取れる言葉は、「time(時)」と「Sappho(サッフォー)」の二つです。
『The Age of Alexander』(1959〜1960年)と『Triumph of Galatea』(1961年)
ローマで暮らしはじめたトゥオンブリーは、1960年秋にニューヨークのレオ・カステリ・ギャラリーで初の個展を開きました。1960年代に入ると、画面には、厚く華やかな色が加わります。1961年から1963年にかけては、ヴィーナス、アポロ、アキレウスといった神話の題材が、くり返し現れました。
ヒューストンのメニル・コレクションにある『The Age of Alexander』(1959〜1960年)は、油彩、クレヨン、黒鉛をキャンバスに用いた作品で、大きさは約300×498.5cmです。『Triumph of Galatea』(1961年)は、家庭用塗料、工業用塗料、油彩、クレヨン、黒鉛をキャンバスに用いた約294.3×483.6cmの作品です。どちらもトゥオンブリー本人からの寄贈で、トゥオンブリー・ギャラリーで展示されている作品として、館の公式ページで紹介されています(2026年10月時点)。

『コモドゥス』と黒板の絵(1963〜1971年)
『Nine Discourses on Commodus』(1963年)
1960年代前半の大きな仕事が、1963年の連作『Nine Discourses on Commodus』です。グッゲンハイム美術館ビルバオが所蔵し、9点それぞれが油彩、鉛筆、クレヨンによる204×134cmの絵画です。2世紀のローマ皇帝コモドゥスを主題としています。
9点に共通するのは、灰色の地です。それぞれの中央には線が一本走り、画面を分けています。渦のような絵具のかたまりが画面の中心を占め、数列を書き込んだ部分もあります。同館は、乱れて見える画面を、実は緻密な骨組みが支えていると説明しています。

この連作は、1964年3月にカステリ・ギャラリーで初めて展示されました。当時のニューヨークはポップ・アートとミニマリズムの全盛期で、批評は厳しく、作品は売れないままイタリアへ戻ります。グッゲンハイム美術館ビルバオの解説は、この展覧会が、その後2年ほどの制作量の減少や、次の「黒板」の連作への転換につながった可能性を指摘しています。テートの記事は、トゥオンブリー自身が、誰も自分のしていることを気にしないので、数年間は最も幸せな画家だったという趣旨のことを語ったと紹介しています。
黒板のような絵
1960年代後半、トゥオンブリーは地の色に灰色を使うようになります。1966年からは、黒板のような面に、白い文字のような線が輪を描いてくり返される絵が現れました。テートの記事は、これらを手書きの練習帳のようだと表現し、腕の筋肉が緩んだり張ったりするリズムが線に記録されていると述べています。この連作は、1970年代初めまで続きました。
『イリアス』と連作の時代(1970年代)
1975年ごろから、トゥオンブリーの画面には、文字と絵がさらに溶け合っていきます。同じ1975年の『Venus』と『Apollo』は、その例です。『Venus』では、女神の名が赤い線で何度も書き重ねられ、そのわきに、ヴィーナスの別名や、結びつきのある植物や鳥の名が、鉛筆で書き並べられます。『Apollo』にも、アポロの別名や、ゆかりのある植物や動物の名が添えられました。テートの記事は、これらの作品では定義は示されず、名前と形が連想の網をつくっていると述べています。
『Fifty Days at Iliam』(1978年)
1977年の夏、トゥオンブリーは、ホメロスの叙事詩『イリアス』のアレクサンダー・ポープによる英訳をもとにした、「10部からなる絵画」に取りかかりました。完成は1978年で、題名は『Fifty Days at Iliam』です。10枚の大きなキャンバスは、物語のように順に並びます。フィラデルフィア美術館の解説では、トロイの町を指す「Ilium」を、意図的に「Iliam」と綴った題名です。その「a」は、ギリシャの英雄アキレウスを表しているとされます。
フィラデルフィア美術館は、この連作を、ギリシャ・ローマ神話に対するトゥオンブリーの生涯の関心の頂点と位置づけています。同じ時期には、大きなドローイングの連作『Shades of Night』も描かれました。同館は、画面の色の雲が見られるこの連作を、準備作業をのぞく手がかりであり、日記や天文の記録のようにも読めると紹介しています。

1979年には、ニューヨークのホイットニー美術館で回顧展が開かれました。ロラン・バルトが、トゥオンブリーの提案で図録に文章を寄せています。テートの記事によると、この展覧会は、アメリカでの評価の遅れを取り戻すためのものでしたが、反応は小さく、「ヨーロッパ的すぎる」という批評もありました。
1976年には、東京の西武美術館で開かれた「アメリカ美術30年展」に出品しています(世界文化賞の受賞者紹介の年譜による)。日本とのつながりは、のちの章でもう一度触れます。
緑の連作と、ヒューストンのギャラリー(1980年代〜1995年)
1988年の春には、ローマで『Untitled(A Painting in Nine Parts)』を描きました。テートの記事は、これを緑の連作とし、リルケの詩と、モネの絵に向けた色の探究だと紹介しています。速乾性のアクリル絵具を木の板に塗った作品で、最初の1枚には、リルケの詩の2行が鉛筆で書かれています。
1994年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で、カーク・ヴァーネドーが企画した大規模な回顧展が開かれ、アメリカでの評価が大きく動きました。翌1995年2月、ヒューストンのメニル・コレクションの敷地に、トゥオンブリー・ギャラリーが開館します。

設計はレンゾ・ピアノです。メニル・コレクションの公式ページによると、トゥオンブリーは、ピアノと、当時のメニルの館長ポール・ウィンクラーと協力し、自身のスケッチをもとに設計を進めました。ピアノは、このギャラリーを「固い面に舞い降りる蝶」にたとえ、繊細さと強さの均衡を表したといいます。古典的な左右対称を基本にしながら、建築の要素は地中海から着想を得ました。リネンの帆布を通して光が入り、塗装されていない漆喰の壁が上からの光をやわらげ、天井には、浮かぶようなガラスの屋根がかかります。
展示する作品を選び、展示室の構成を決めたのも、トゥオンブリー自身です。各室に、共通する「感情と雰囲気」を持たせることをねらいました。メニル・コレクションは、この場所を、トゥオンブリーの作品を常設で見られる唯一の回顧的な展示だと説明しています。
『Untitled(Say Goodbye, Catullus, to the Shores of Asia Minor)』(1994年)
ギャラリーの開館を控えて仕上げられたのが、『Untitled(Say Goodbye, Catullus, to the Shores of Asia Minor)』(1994年)です。テートの記事によれば、縦4メートル、横16メートルにおよぶ大作で、年齢を重ねることと故郷に帰ることを見つめた作品でした。1972年から1994年まで、約22年かけて描かれています。画面は、中国の巻物のように右から左へ読むことを意図したものだと、同じ記事に書かれています。詩人カトゥルスやキーツ、ターナーなど、多くの引用が織り込まれました。
『Quattro Stagioni』(1993〜1995年)
同じころ、四季をテーマにした4枚の連作『Quattro Stagioni(四季)』にも取り組みました。春、夏、秋、冬を表す4枚で、ロンドンのテートが所蔵しています。MoMAにも同名の連作があり、2008年のテート・モダンの展覧会では、両館の連作が初めて一堂に並びました。制作年は、テートの作品ページでは1993〜1995年、2008年の展覧会ページでは1993〜1994年と、表記が分かれています。この記事では、作品ページの表記に従います。
『Quattro Stagioni: Primavera(春)』は、アクリル絵具、油彩、クレヨン、黒鉛をキャンバスに用いた縦長の作品です。クリーム色の地に、赤紫の太い筆あとが重なり、黄色や緑、紫の絵具のかたまりが縦に連なります。右側には、細い鉛筆の文字も見えます。

日本とトゥオンブリー
1996年、トゥオンブリーは、第8回高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門を受賞しました。日本美術協会が主催する賞で、公式サイトには、受賞時の記録として略歴が掲載されています。そこでは、トゥオンブリーは「孤高の詩人」とも称される画家として紹介されています。
展覧会としては、2016年4月23日から8月28日まで、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館で「サイ・トゥオンブリーの写真」展(副題は「変奏のリリシズム」)が開かれました。1951年から2011年までに撮影された写真作品100点に加え、絵画3点、彫刻4点、ドローイング4点、版画18点が並びました。トゥオンブリーが写真に出会ったのは、23歳で参加したブラック・マウンテン・カレッジの授業で、ピンホールカメラに夢中になったことがきっかけだったと、同館は紹介しています。なお、DIC川村記念美術館は、2025年3月31日をもって佐倉での運営を終了しています(2026年10月時点)。
晩年の大きな仕事(2000年代〜2011年)
『Bacchus』シリーズ(2005年〜)
2000年代のトゥオンブリーは、旺盛に描き続けました。2005年の『Bacchus』のシリーズは、ワインの神バッカスを思わせる、勢いのある赤い渦の絵です。テートの展覧会解説は、このシリーズを、古代、神話、地中海に影響を受けた例として挙げています。
2008年には、テート・モダンで「Cycles and Seasons」展が開かれました。会期は6月19日から9月14日までで、四季、自然、時間の移ろいをめぐる連作が、各室ごとにまとめられました。テートの館長ニコラス・セロタとニコラス・カリナンが企画しました。テートは、2008年の『Untitled(Bacchus)』も所蔵しています。アクリル絵具をキャンバスに用いた作品で、クリーム色の地に、赤い大きな輪が何重にも重なり、絵具が垂れた跡も残っています。

展覧会の準備の様子は、テートの公式YouTubeで見ることができます。館長のニコラス・セロタが、展示の構成や、トゥオンブリーの技法、ターナーとの関係について語っています。
『The Ceiling』(2010年)
2010年には、パリのルーヴル美術館のために、天井画『The Ceiling(Le Plafond)』を制作しました。ルーヴルの所蔵品データベースによれば、かつての「ブロンズの間」の天井を飾るために依頼され、ジャネット・ウォルフソン・ド・ボットン財団の寄付と、ガゴシアン・ギャラリーの支援で実現しました。11幅のキャンバスを天井に貼った作品で、青い空に、盾にも惑星にも硬貨にも見える球が浮かびます。白い札には、古代ギリシャの彫刻家の名前が書かれています。名前は、ケフィソドトス、リュシッポス、ミュロン、フェイディアス、ポリュクレイトス、プラクシテレス、スコパスの7人です。いまは、シュリー翼の「セアンスの間」にあります(2026年10月時点)。


トゥオンブリーは2011年7月5日、ローマで83歳で亡くなりました。その後も、2016年11月30日から2017年4月24日にかけて、パリのポンピドゥー・センターで、約140点の絵画、彫刻、ドローイング、写真による大規模な回顧展が開かれています。ポンピドゥー・センターは、これを初めての、全体を見渡す回顧展と紹介しています。
トゥオンブリーの描き方
最後に、トゥオンブリーの描き方をまとめます。
ひとつは、速さです。グッゲンハイム美術館ビルバオの教材には、トゥオンブリー自身の言葉が引かれています。2、3時間座っていて、そのあと15分で1枚の絵を描けることがある、という趣旨です。もうひとつは、作品をひとつずつ独立した絵ではなく、連作の一部と見ていたことです。同じ教材では、一枚の絵にすべてを入れることはできず、連作の絵は本のページのようなものだと語ったと紹介されています。
読書も、制作の大きな支えでした。ポンピドゥー・センターの紹介は、ゲーテ、ホメロス、ホラティウス、ヘロドトス、キーツ、マラルメ、オウィディウス、リルケ、サッフォー、ウェルギリウスらを、トゥオンブリーが読み、作品の着想にした書き手として挙げています。トゥオンブリーは、知識のある画家という印象にとどまらず、日常のありふれた現実にも、細やかに目を向けた人物だったと、同じ紹介は述べています。
トゥオンブリーの絵は、見ただけでは何が描かれているのか分かりにくいことがあります。ただ、題名や書き込まれた言葉を手がかりにすると、古代の詩や神話と、画面の線が結びついていきます。わからないまま眺めても、線の勢いや色の重なりが、それぞれの作品の気配を伝えてくれます。
まとめ
いかがだったでしょうか。サイ・トゥオンブリーは、1928年にヴァージニア州で生まれ、1957年からイタリアを拠点に、線と文字と色の入り交じった絵を描いた画家です。1963年の『Nine Discourses on Commodus』、1978年の『Fifty Days at Iliam』、2010年のルーヴルの天井画のように、大きな主題を連作や大きな空間で描いたことも、特徴のひとつでした。1995年に開館したヒューストンのギャラリーでは、本人が選び、展示室を構成した作品を見ることができます。
展示の有無は時期によって変わります。実際に見に行く前に、各館の公式サイトでご確認ください。
Euphoric " " の視点
トゥオンブリーの画面には、詩の一節や神々の名前が、手書きの文字として入ります。トゥオンブリーは、イタリアの美術雑誌に寄せた短い文章で、ひとつひとつの線は、説明するものではなく、その線が生まれる感覚そのものだと書いています。この文章は、2000年にデイヴィッド・シルヴェスターのインタビューが出るまで、本人が自作について公に語った唯一のものでした。
1975年の『Venus』や『Apollo』についても、テートの記事は、定義は示されず、名前と形が連想の網をつくっていると述べています。
作品を届けるとき、作り手はつい、言葉で意味を確定させたくなるものかもしれません。けれどもトゥオンブリーの絵からは、定義を示さず、名前を差し出すところでとどめることで、見る人が自分で連想をたどる余地が生まれる、という見方ができると考えます。わからないまま眺める時間も、作品に近づく入口になるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品や関連情報は、次のページで確認できます。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- メニル・コレクション サイ・トゥオンブリー・ギャラリー(ヒューストン・英語)
- ルーヴル美術館 『The Ceiling(Le Plafond)』所蔵品ページ(パリ・英語)
- テート サイ・トゥオンブリー 作家ページ(ロンドン・英語)
展示替えや貸し出しがあるため、作品の展示状況は各館の公式サイトでご確認ください。






