こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはエテル・アドナンという人物をご存知ですか?
エテル・アドナン(Etel Adnan)は、1925年にレバノンのベイルートで生まれ、2021年11月14日にパリで亡くなった画家であり、詩人、小説家、ジャーナリストです。パレットナイフで絵具を塗り広げた小さなキャンバスに、赤い四角や丸い太陽、水平線のような色の帯を置いた明るい絵で知られ、カリフォルニアのタマルパイス山を何十年にもわたって描き続けました。文字と絵を組み合わせた折りたたみの本「レポレロ」も、アドナンを代表する仕事です。
本記事ではそんなエテル・アドナンの人生と作品についてご紹介します。内容は、2026年10月時点で確認できたグッゲンハイム美術館、ポンピドゥー・センター、テート、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、森美術館、フランス文化省などの公式情報にもとづいています。作品の画像は、著作権法で認められた「引用」の範囲で、作品を解説している段落のあとに所蔵館の公式サイトの画像を掲載しています。
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Toggleエテル・アドナンって?

アドナンは、ひとつの肩書きでは収まらない人でした。グッゲンハイム美術館は、ほぼ1世紀にわたる生涯の中で、アドナンが視覚芸術家であると同時に、高名な詩人であり、著名なジャーナリストであり、現代アラブ世界を代表する小説のひとつの作者でもあったと紹介しています。レバノン、アメリカ、フランスのそれぞれに長く暮らし、フランス語、アラビア語、ギリシャ語、英語の中で生きた経歴そのものが、作品の土台になっています。
フランス文化省は追悼の声明で、アドナンの作品を、言葉と、書の記号と、絵の記号を結びつけ、伝統的な芸術の形式の境界を越えていく、豊かで、明るく、色に満ちた仕事だと表現しました。そして、ふるさとレバノンから、自然と風景への大きな情熱を持ち続け、それが文学と絵画のすべてに表れているとも述べています。
この記事では、言葉の人として出発したアドナンが、どのようにして絵を描くようになり、晩年に世界の美術館で大きな展覧会を開くまでになったのかを、時代順にたどります。専門用語は、そのつど短く説明します。
基本情報
| 本名 | エテル・アドナン(Etel Adnan)。英語の検索では「Etel Adnan」と書かれます |
| 生年月日(没年月日) | 1925年生まれ〜2021年11月14日没(パリ)。生まれた月日は、本記事では公式情報で確認できた範囲に留めています |
| 国籍・出身 | レバノンのベイルート生まれ。レバノン、アメリカ、フランスに長く暮らした |
| 学歴 | パリのソルボンヌで哲学を学び、その後アメリカのカリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学で学ぶ |
| 分野 | 絵画、レポレロ(折りたたみの本)、タペストリー、陶芸、映像、詩、小説、エッセイ |
| 傾向 | パレットナイフで絵具を直接塗る小さな画面。赤い四角、太陽の円、水平の色の帯といった単純な形。風景と抽象のあいだを行き来する |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 特定の師についての公式の記録は確認できませんでした。テートは、日本で見た折りたたみの本に触発されてレポレロを始めたと紹介しています |
アドナンが参加した、森美術館の展覧会の記事はこちらです。
色と形で画面をつくった画家の記事も、あわせてどうぞ。
経歴と作品
1. ベイルートで、いくつもの言葉の中で育つ(1925〜1940年代)
エテル・アドナンは、1925年にレバノンのベイルートで生まれました。グッゲンハイム美術館によると、母はギリシャ人、父はシリア人で、アドナンはフランス語、アラビア語、ギリシャ語を話して育ちました。テートの子ども向け・学校向けの解説は、もう少し具体的に、母はギリシャ語を、父はアラビア語を話し、両親は互いにトルコ語で話していたこと、そしてアドナン自身は学校でフランス語を学んだことを紹介しています。生まれたときから、いくつもの言葉の音に囲まれていたことになります。
テートの解説によれば、子どものころのアドナンは、犬と遊んだり、庭の花を眺めたりしながら、卵の形やペルシャ絨毯の模様、アラビア文字のなだらかな曲線といった、身近なものの美しさに目を向けていました。父のアラビア語の本の行を、台所のテーブルで書き写して午後を過ごすことも多かったといいます。
SFMOMAが公開している本人の音声解説の中で、アドナンは、レバノンの家には絵がほとんどなかったと振り返っています。イスラム世界の美意識は建築か絨毯に表れていて、父と一緒に市場(スーク)へ絨毯を見に行くことが、今でいえば美術館に行くようなものだったと語っています。のちに手がけるタペストリーの色彩は、この子ども時代の記憶とつながっています。
テートの解説は、アドナンが最初の詩を書いたのは20歳のときで、太陽と海の恋の物語だったと伝えています。そのすぐあと、アドナンは勉強と執筆のためにパリへ、そしてアメリカへと移っていきます。
2. パリとアメリカで哲学を学ぶ(1950年代)
フランス文化省がアドナンの死去に際して出した追悼の声明によると、アドナンはパリのソルボンヌで哲学を学び、その後アメリカのカリフォルニア大学バークレー校とハーバード大学で学びました。SFMOMAの音声解説では、パリで芸術の哲学を学び、ルーヴル美術館で受けた衝撃を本人が語っています。それまで美術にほとんど触れてこなかったからこそ、その衝撃を全身で受け止めたと振り返っています。
学業を終えたアドナンは、1958年から1972年まで、カリフォルニア州サンラファエルのドミニカン・カレッジで芸術の哲学を教えました(フランス文化省の声明より)。グリフィン詩賞の作家紹介も、ソルボンヌ、カリフォルニア大学バークレー校、ハーバードで哲学を学び、サンラファエルのドミニカン・カレッジで教えたと記しています。このアメリカでの年月が、アドナンの仕事に深い影響を与えたと、文化省の声明は述べています。
3. カリフォルニアで絵を描きはじめる(1958〜1960年代)
アドナンが絵を描きはじめたのは、1950年代の終わり、北カリフォルニアで哲学の教授として働いていたころでした(グッゲンハイム美術館より)。テートの解説は、そのきっかけを次のように紹介しています。授業で一日中でも美術の話をするのに、なぜ画家にならないのかと、友人のアンに聞かれたアドナンは、「母に、あなたは不器用だからと言われたから」と答えました。すると友人は、「それを信じたの?」と返したといいます。それからアドナンは、時間を見つけては絵を描くようになりました。
グッゲンハイム美術館によれば、同じ時期、アルジェリアに対するフランスの植民地支配に抗議して、アドナンはフランス語で書くことをやめ、「アラビア語で絵を描く」ことを始めると宣言しました。フランス文化省の声明も、アルジェリアでの戦争に反対して、書く言葉をフランス語から英語に替えたと記しています。書く言葉を選び直したことが、絵という新しい表現へ向かう動きと重なっていたことがわかります。
描き方は、ほとんど最後まで変わりませんでした。グッゲンハイム美術館は、アドナンが机に向かって座り、小さなキャンバスを平らに置いて、チューブから直接絵具を出し、パレットナイフで、ひと息に描いたと説明しています。パレットナイフは、絵具を混ぜたり塗ったりするための、へらのような道具です。筆ではなくナイフで絵具を広げるため、色の面は平らで、境目がはっきりします。サーペンタイン・ギャラリーも、初期の作品はチューブから直接置いた色の四角による抽象的な構成が中心で、色そのものがすぐに伝える美しさに関心があったと紹介しています。同ギャラリーによると、初期の絵はすでに風景を思わせ、特定の場所を指す形を含んでいました。そして1960年代を通じて、アドナンは純粋な抽象から少しずつ離れ、連作として描きながら、見てわかる形と想像の形のあいだを行き来するようになったといいます。
絵と並んで、アドナンは1960年代からタペストリー(織物の壁掛け)もつくりました。サーペンタイン・ギャラリーによると、それは子ども時代に見たペルシャ絨毯の感覚と色に触発されたもので、すでにある絵をそのまま織物に写すのではなく、織物のために別の図案を用意していました。SFMOMAの音声解説でも、アドナンは、なぜかタペストリーをつくりはじめたこと、羊毛でできていて失敗すると直せないことを語っています。
『Roi Inca』(1965年)
ポンピドゥー・センターが所蔵する『Roi Inca』(インカの王)は、この時期の油彩画です。大きさは52.3×57.5センチメートル。画面の上半分はくすんだピンク、下半分は深い青に塗り分けられ、その境目の中央に、黄色、オリーブ色、茶色、黒、赤の四角いかたまりが積み重なっています。最上部の黄色い形は塔のように上へ伸び、全体は、水平線の上に立つ王の姿とも、建物とも見える形になっています。絵具はナイフで平らに置かれ、四角の縁には塗り重ねた跡が残っています。左下には「Adnan」の署名が見えます。具体的なものを描くのではなく、色の面の重なりで存在感を立ち上げるという、アドナンの初期の作り方がよくわかる1点です。ポンピドゥー・センターの記録によると、この作品は2016年に同館の友の会の国際部門・中東グループから寄贈されました。

4. 文字と絵を一緒にした本「レポレロ」(1964年〜)
アドナンの仕事の中で、絵と言葉をいちばん直接に結びつけたのが「レポレロ」です。レポレロは、長い紙をアコーディオンのように折りたたんだ本のことで、広げると1枚の長い帯になり、たたむと小さな冊子になります。サーペンタイン・ギャラリーによると、アドナンは1964年にレポレロと出会い、そこに素描と文章や詩を混ぜられることに気づきました。テートの子ども向けの解説は、アドナンが日本を訪れたときに見た、同じような折りたたみの本に触発されたと紹介しています。
グッゲンハイム美術館の解説によれば、アドナンは、レポレロを広げたときにできる細長い形を好み、それを「川を書くようなもの」と表現しました。テートの学校向けの解説も、アドナンが折りたたみの紙の本を水彩とふるさとの文字のカリグラフィー(書の文字)で覆い、それを「レポレロ」と呼んだと説明しています。詩人として出発し、絵を描くようになったアドナンにとって、レポレロは、書くことと描くことを分けずにすむ形式でした。
ポンピドゥー・センターも、アドナンのレポレロを1点所蔵しています。2017年に作家本人から寄贈されたもので、紙にグワッシュ、インク、天然の顔料で描かれ、広げると縦27センチメートル、長さ279センチメートルになります。たたむと27×9センチメートルほどの小さな本に収まります。制作年は「1960」と記録されています。広げたときの長さと、たたんだときの小ささの差が、この形式のおもしろさです。
グッゲンハイム美術館は、水彩についてのアドナンの言葉も紹介しています。「画家は、言葉を超えた知識を持っている。水彩を描くとき、朝早く光のそばに横たわる海であるとはどういう感じかがわかる」。水彩とインクで描かれたレポレロには、こうした感覚が生かされています。
『Key Signs』(2017年)
テートが所蔵する『Key Signs』は、晩年のレポレロのひとつで、素材は紙にインクと水彩です。画像では、蛇腹に折られた白いページが横一列に立てて並べられ、灰色や淡い緑、ピンクの水彩のにじみの上に、黒い太い筆の記号がひとつずつ置かれています。十字のような形、斜めに交わる線、短い横線など、文字とも絵ともつかない記号が、ページをめくるように右へ続き、右端には茶色の表紙が見えます。題名の「Key Signs」は「鍵となるしるし」とも読める言葉です。読むことと見ることのあいだにある記号を、川の流れのように並べた作品だといえます。

5. ベイルートの新聞と、言葉の仕事(1970年代)
フランス文化省の声明によると、1970年代の初め、アドナンはベイルートに戻り、フランス語の新聞『アル・サファ』の記者となって、自らの政治的な信念を論じました。同紙では文化面の責任者も務めています。グッゲンハイム美術館も、アドナンを著名なジャーナリストとして紹介しています。
書き手としてのアドナンを代表する作品が、1978年に発表した小説『シット・マリー・ローズ』です。サーペンタイン・ギャラリーはこれを受賞作として紹介し、グッゲンハイム美術館は、アドナンを「現代アラブ世界を代表する小説のひとつの作者」と呼んでいます。アドナンの文章は、戦争や社会の不正義をまっすぐに批判するものでもありました。一方でグッゲンハイム美術館は、アドナンの絵画が、人間の精神への信頼と自然の美しさを、ごく個人的に凝縮したものだと対比しています。
フランス文化省の声明は、アドナンが暮らしたそれぞれの国で、ビート・ジェネレーションの詩人をはじめとする前衛的な詩人や芸術家と友情を結び、その経験が作品を育てたとも書いています。グッゲンハイム美術館は、アドナンの次の言葉を紹介しています。「私は見たものを書き、私であるものを描いているように思う」。書くことと描くことは、アドナンにとって別々の役割を持っていたようです。
6. タマルパイス山を描き続ける
アドナンの絵の中で、何度も繰り返し現れるモチーフがタマルパイス山です。タマルパイス山は、サンフランシスコ湾の北にある山です。グッゲンハイム美術館によれば、アドナンはカリフォルニア州サウサリートの家に何十年も暮らし、その窓からタマルパイス山を眺めていました。光や天気によって変わる山の姿を、具象と抽象のあいだを行き来しながら、数えきれないほどの形で描いたと説明されています。
グッゲンハイム美術館は、アドナン自身の言葉も紹介しています。「山は私のいちばんの友だちになった。それはただの美しい山以上のもので、存在の深いところで私の中に入り込み、私の人生を満たした」。フランス文化省の声明によると、サンフランシスコ湾の北の海岸山脈に魅せられたアドナンは、1986年に『タマルパイス山への旅』を出版し、この山を作品の中で繰り返し扱う主題にしました。
その後パリに暮らすようになってからも、アドナンは記憶をもとに山を描き続けました。グッゲンハイム美術館は、長年その山を見ることができなかったアドナンが、それでも記憶から描き続け、「絵画の空間は記憶の空間である」と考えていたと紹介しています。同館は、1980年代に旅先で撮りためたスーパー8フィルムの映像を、のちに印象派の絵のように編集した映像作品『Motion』(1980〜89年/2012年)も紹介しています。建物や自然の風景を撮った短い映像をつないだ、瞑想的な作品だと説明されています。
同じ展覧会では、アドナンを撮った映像も上映されました。グッゲンハイム美術館によると、オトリス・グループの映像作品『I See Infinite Distance Between Any Point and Another』(2012年)は、パリのアパートで自作の詩「Sea and Fog」を朗読するアドナンの姿を中心にした作品です。
アドナンは、同じように山を描き続けた先人、セザンヌについての文章も残しています。セザンヌは、南フランスのサント・ヴィクトワール山を繰り返し描いたことで知られる画家です。テートの雑誌『Tate Etc.』の2022年秋号は、アドナンがセザンヌについて書いた文章を掲載しています。その中でアドナンは、エクス・アン・プロヴァンスの容赦のない光の中でセザンヌのアトリエを訪ね、彼が絵に使った台所のテーブルや鍋、陶器といったありふれたものを見たと書き、セザンヌの絵は主に「組織された混沌」だと述べています。ひとつの山を描き続けたアドナンが、同じように山を描き続けた画家をどう見ていたのかがうかがえる文章です。
7. 小さなキャンバスに置かれた太陽と山(2000年代〜)
晩年のアドナンの絵を代表するのが、2010年前後から数多く描かれた、小さなキャンバスの油彩です。グッゲンハイム美術館は、アドナンの作品に繰り返し現れる単純な形として、抽象的な形を支える赤い四角、太陽を表す明るい円、海の上の空を思わせる水平の帯を挙げています。そして、小さな画面と切り詰めた形にもかかわらず、それらの絵は、私たちの内面をかたちづくる記憶と、その瞬間の知覚の感覚を力強く目に見えるものにしていると述べています。
ポンピドゥー・センターは、2010年に描かれた『Sans titre』(無題)の油彩を、ひとまとまりの作品群として2012年に購入しています。いずれもおよそ27×33センチメートル前後の小さなキャンバスです。
『Sans titre』(2010年)赤い四角と山
そのうちの1点(28.2×37.6センチメートル)は、薄い黄土色の空に、赤い四角がひとつ傾いて浮かぶ画面です。その下には、くすんだオリーブ色、明るい青緑、くすんだピンクの丸みを帯びた山の形が重なり、手前には黄緑と黄土色の丘が横たわっています。グッゲンハイム美術館が挙げた「赤い四角」が、ここでは空に浮かぶ太陽のようにも見えます。青緑の山の中には、ナイフで絵具をこすった跡が残り、手の速さが伝わってきます。

『Sans titre』(2010年)太陽と水平線
同じ作品群のもう1点(26.8×32.8センチメートル)では、画面の左上にピンクの面、右上に黄色の面があり、黄色の中にオレンジ色の丸い太陽が置かれています。その下を黒い太い帯が横切り、さらに下は濃い黄色の面になっています。黒い帯は水平線にも、陸と海の境目にも見えます。太陽の円、水平の帯という、アドナンが繰り返し使った形が、いちばん簡潔な組み合わせで並んだ1点です。並べて見ると、同じ年に描かれた小さな絵が、色の選び方ひとつでまったく違う時間や天気を感じさせることがわかります。

8. 世界の美術館へ(2012〜2021年)
フランス文化省の声明は、2012年にドイツのカッセルで開かれた国際展「ドクメンタ」で、アドナンの作品が初めて大勢の観客の前で紹介されたと書いています。声明はさらに、それから約10年のあいだに、アドナンの手書きの文章とキャンバスが、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、ルクセンブルクのムダム、ベルンのパウル・クレー・センター、アルルのルマ財団など、世界の大きな美術館で展示されたと述べています。
2014年、アドナンはフランスの芸術文化勲章シュヴァリエを受けました(サーペンタイン・ギャラリー、グリフィン詩賞より)。2016年6月2日から9月11日まで、ロンドンのサーペンタイン・サックラー・ギャラリーで個展「Etel Adnan: The Weight of the World」が開かれます。サーペンタイン・ギャラリーによれば、これはイギリスの公立の美術機関で開かれた初めての個展で、絵画、素描、詩、映像、タペストリーなど、生涯にわたる作品が紹介されました。同ギャラリーは、アドナンの作品を所蔵する館として、ポンピドゥー・センター、カタールのマタフ、ヨルダン王立美術館、ベイルートのスルソック美術館、パリのアラブ世界研究所、大英博物館などを挙げています。
詩人としても、晩年まで評価が続きました。グリフィン詩賞によると、2013年に詩集『Sea and Fog』でラムダ文学賞とカリフォルニア・ブック・アワード(詩部門)を受け、2020年には、サラ・リッグスが英訳した詩集『Time』でグリフィン詩賞の国際部門を受賞しています。
次の動画は、SFMOMAの公式チャンネルが2018年に公開したもので、アドナンが、詩と絵画をどのように始めたのか、そしてそれぞれにしかない可能性をどう考えているのかを語っています。
テートの学校向けの解説は、アドナンが50年以上にわたって作品をつくり、70年以上にわたって詩を書いたこと、素材には絵具、布、粘土、羊毛、インク、フィルムまでが含まれたことを紹介しています。そして、アドナンの次の言葉を引いています。「お金や成功がもたらされるかどうかに関係なく、内なる魂があなたに告げることをしなさい」。母に不器用だと言われながら、友人の一言で絵筆ならぬパレットナイフを手に取ったアドナンの歩みと重ねると、この言葉の重みが伝わってきます。
フランス文化省の声明によれば、晩年のアドナンは、作曲家アルテュール・ラヴァンディエとともに、自身の演劇的・詩的なテキスト『Maria Medici』をもとにした企画にも取り組んでいました。この企画は、文化省の「新しい世界(Mondes Nouveaux)」という創作支援の事業で予備選考を通過していました。最後まで、新しい形式への関心を失わなかったことがわかります。
日本では、2021年4月22日から2022年1月16日まで東京・六本木の森美術館で開かれた「アナザーエナジー展」(副題「挑戦しつづける力」。世界の女性アーティスト16人を紹介した展覧会)に参加し、油彩『無題』(2018年、55×46センチメートル)が展示されました。森美術館はアドナンを、1960年代からイメージと文章、東洋と西洋、近代と現代をかけ合わせ、大陸や文化のあいだを行き来する自身の人生を映した作品をつくってきた作家と紹介し、日本の文化や他の文化から大きな影響を受けた多様な作品には、風景、抽象、色彩、文章、記憶や歴史への重層的な探求がうかがえると述べています。
2021年10月8日からは、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で「Etel Adnan: Light’s New Measure」展が始まりました(2022年1月10日まで)。グッゲンハイム美術館は、同じ時期に開かれていたワシリー・カンディンスキーの展覧会とあわせて、2人がそれぞれ大切な場所の記憶を作品にしたことを紹介しています。会場では絵画や素描、レポレロが紹介され、らせん状の展示空間の6階では、映像作品『Motion』も並行して上映されました。11月6日からは、フランスのポンピドゥー・センター・メッスで、アドナンに展示を託す企画「書くことは描くこと(Écrire c’est dessiner)」も始まっています(2022年2月21日まで。フランス文化省の声明より)。
そのさなかの2021年11月14日、アドナンはパリで亡くなりました。森美術館は会期中に、出展作家のアドナンが11月14日に亡くなったことを告知しています。フランス文化省は追悼の声明で、アドナンを、自然と世界の詩人であり、「宇宙のいちばんの友だち」のひとりだったとたたえました。
ここまでの歩みを、表にまとめます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1925年 | レバノンのベイルートに生まれる |
| 1958〜1972年 | カリフォルニア州サンラファエルのドミニカン・カレッジで芸術の哲学を教える。1950年代の終わりに絵を描きはじめる |
| 1964年 | 折りたたみの本「レポレロ」に出会う |
| 1970年代初め | ベイルートに戻り、新聞『アル・サファ』の記者、文化面の責任者を務める |
| 1978年 | 小説『シット・マリー・ローズ』を発表 |
| 1986年 | 『タマルパイス山への旅』を出版 |
| 2012年 | ドクメンタ(ドイツ・カッセル)に参加 |
| 2014年 | フランス芸術文化勲章シュヴァリエ |
| 2016年 | サーペンタイン・サックラー・ギャラリー(ロンドン)で個展 |
| 2020年 | 詩集『Time』(英訳)でグリフィン詩賞 国際部門 |
| 2021年 | 森美術館「アナザーエナジー展」、グッゲンハイム美術館で個展、ポンピドゥー・センター・メッスで企画展。11月14日、パリで死去 |
出典:フランス文化省、グッゲンハイム美術館、サーペンタイン・ギャラリー、グリフィン詩賞、森美術館の公式情報
9. アドナンの作品を見るときの手がかり

ここまでの作品を踏まえて、アドナンの作品を見るときの手がかりを3つにまとめます。
ひとつめは、絵具の置き方です。チューブから直接出した絵具を、パレットナイフで平らに広げるため、色の面の縁や、こすった跡がよく見えます。小さな画面でも、近づくと手の動きが残っていることに気づくはずです。
ふたつめは、繰り返し現れる形です。赤い四角、太陽の丸、水平の帯、そしてタマルパイス山のような山の形。同じ形が何度も出てくるからこそ、色の組み合わせの違いで、時間や天気、気分の違いが伝わってきます。何枚かを並べて見比べると、その変化がよくわかると思います。
みっつめは、言葉とのつながりです。アドナンは、見たものを書き、自分であるものを描いていると語りました。レポレロのように文字と絵が同じ紙に並ぶ作品はもちろん、文字のない絵にも、詩人としての目が働いています。絵の前で、それがどんな言葉に置きかえられるかを考えてみるのも、ひとつの見方です。
まとめ
いかがだったでしょうか。エテル・アドナンは、ベイルートでいくつもの言葉に囲まれて育ち、パリとアメリカで哲学を学んだのち、カリフォルニアで哲学を教えながら絵を描きはじめました。パレットナイフで色を置いた小さなキャンバス、タマルパイス山の連作、文字と絵を一緒にしたレポレロ、タペストリー、そして詩や小説と、表現の形は多岐にわたります。80代の後半になってからドクメンタやサーペンタイン・ギャラリー、グッゲンハイム美術館で大きな展示が続き、2021年11月14日に亡くなりました。
記事で紹介した『Roi Inca』と2点の『Sans titre』はポンピドゥー・センターに、『Key Signs』はテートに所蔵されています。展示の予定は時期によって変わりますが、各館の作品ページで記録を見ることができます。小さな画面に込められた色の強さを、機会があればぜひ実物で確かめてみてください。
Euphoric " " の視点
アドナンは、アルジェリアに対するフランスの植民地支配に抗議してフランス語で書くことをやめ、「アラビア語で絵を描く」と宣言しました。言葉の人が、自分の立場を表す手段として絵を選んだことになります。
机に小さなキャンバスを平らに置き、パレットナイフでひと息に描く方法は、ほとんど最後まで変わりませんでした。同じ山を何十年も描き続けた積み重ねが、2012年のドクメンタで初めて大勢の観客に作品が届いたことや、晩年の世界の美術館での展覧会へつながったのだと考えます。
表現の手段は一つに決めなくてもよい。アドナンの歩みは、自分にとって切実な方法を選び直す自由を教えてくれるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
いずれも所蔵作品のページで、常に展示されているとは限りません。お出かけの前に、各館の展示情報をご確認ください。






