こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはウジェーヌ・ドラクロワという人物をご存知ですか?
19世紀前半のフランスで活躍した画家で、フランス・ロマン主義を代表する存在として知られています。教科書やニュースでよく見かける『民衆を導く自由の女神』を描いた画家、と言えば思い当たる方も多いかもしれません。
整った輪郭線よりも、燃えるような色と動きで人の感情を描こうとした画家でした。当時の美術界では激しい賛否を呼びましたが、その色彩の考え方は後の印象派や新印象派、そして20世紀の画家たちにまで受け継がれていきます。
本記事ではそんなウジェーヌ・ドラクロワの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleウジェーヌ・ドラクロワって?

基本情報
| 本名 | フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix) |
| 生年月日(没年月日) | 1798年4月26日〜1863年8月13日(65歳没) |
| 国籍/出身 | フランス/パリ近郊のシャラントン=サン=モーリス(現ヴァル=ド=マルヌ県) |
| 学歴 | リセ・アンペリアル(帝立中等学校)で学んだのち、1815年に画家ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入る |
| 分野 | 絵画(油彩、水彩、パステル)、壁画、版画(リトグラフ)、文筆(『日記』、美術評論) |
| 傾向 | ロマン主義、歴史画、文学を主題とする絵画、オリエンタリスム、宗教壁画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ピエール=ナルシス・ゲラン(師)、テオドール・ジェリコー、ピーテル・パウル・ルーベンス、ミケランジェロ、イギリスの風景画家たち |
ドラクロワの前後の世代や、彼が影響を与えた画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
ロマン主義って?
ドラクロワを語るうえで欠かせないのが「ロマン主義」という言葉です。
18世紀の終わりから19世紀の前半にかけて、ヨーロッパの文学や音楽、美術に広がった考え方で、ひとことで言えば「規則よりも、人の感情や想像力を大事にしよう」という立場です。
当時のフランス美術界の主流は、ドラクロワより一世代上のジャック=ルイ・ダヴィッドが確立した「新古典主義」でした。古代ギリシャ・ローマの彫刻を手本に、輪郭線をはっきり引き、感情を抑えた気高い場面を描くことが良しとされていました。
ロマン主義の画家たちは、そこにあえて反対の答えを出します。輪郭よりも色、静けさよりも動き、理想の古代よりもいま起きている出来事や、文学が描く激しい感情。ドラクロワはその代表格と見なされました。
ただし本人は「ロマン派の旗手」という呼ばれ方を必ずしも喜ばなかったとも言われています。自分ではルーベンスら過去の巨匠の後継者のつもりでいたからです。
経歴と作品
外交官の家に生まれて
ドラクロワは1798年4月26日、パリ近郊のシャラントン=サン=モーリスで生まれました。
父シャルル・ドラクロワは外務大臣やオランダ公使を務めた人物で、のちにマルセイユやボルドーの県知事を歴任しました。母ヴィクトワールは、ルイ15世に仕えた高名な王室家具師ジャン=フランソワ・エベンの娘です。
恵まれた出発点に見えますが、家族の縁は早くに途切れていきます。父はドラクロワが6歳のときに亡くなり、1814年には母も他界しました。16歳の少年は、兄や姉がいたとはいえ、心細い立場に置かれます。
その彼を絵の世界へ押し出したのが、叔父にあたる画家アンリ=フランソワ・リズネールでした。1815年、ドラクロワは当時パリでも指折りの規模だった画家ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入ります。
ジェリコーとの出会い
ゲランのアトリエには、7歳年上のテオドール・ジェリコーが出入りしていました。ジェリコーは実際に起きた海難事故を巨大な画面に描いた『メデューズ号の筏』で知られる画家で、若いドラクロワに決定的な影響を与えます。
1819年、ドラクロワはその『メデューズ号の筏』のためにモデルを務めました。同時代の惨事を、神話や聖書の場面と同じ大きさ、同じ真剣さで描く。その姿勢を、ドラクロワは間近で見たことになります。
この経験はのちの『キオス島の虐殺』にはっきりと表れます。ジェリコーは1824年に32歳で亡くなってしまい、フランスのロマン主義絵画を背負う役目は、そのままドラクロワに移っていきました。
『ダンテの小舟』(1822年)

24歳のドラクロワが1822年のサロン(官展)に出品した、事実上のデビュー作です。
題材はダンテの『神曲』地獄篇。詩人ダンテと、案内役の古代ローマの詩人ウェルギリウスが、小舟で地獄の都ディーテへ向かう場面です。赤い頭巾をかぶり、白い衣で腕を上げているのがダンテ、月桂冠をつけて茶色のマントに身を包んでいるのがウェルギリウスです。右側で背を向けて舵を取っているのが、舟を操る渡し守フレギュアスです。
見どころは、舟にすがりつく人々の体の描き方と、左奥で赤く燃える都の壁でしょう。人体の量感にはミケランジェロの、ざわめく色づかいにはルーベンスの影響が指摘されます。
サロンでの評価は大きく分かれました。若い批評家アドルフ・ティエールは将来性を高く買った一方、新古典主義を擁護する批評家たちは、描き方が粗いと厳しく批判しています。それでも王立美術館局はこの絵を2,000フランで買い上げました。ドラクロワの生前はリュクサンブール美術館に置かれ、1874年11月にルーヴル美術館へ移されています。
『キオス島の虐殺』(1824年)

高さ4メートルを超える大画面です。題材は、1822年にエーゲ海北東部のキオス島(フランス語ではシオ島)で起きた出来事で、ギリシャ独立戦争のさなか、多くの島民が命を落としたり、連れ去られたりしました。
ルーヴル美術館が伝える正式な題名は『キオス島の虐殺の場面。死か隷属かを待つギリシャの家族』です。ドラクロワは当時の新聞や証言をもとに構想し、1824年の1月から7月にかけて描き上げました。
画面には、地面に座り込んだり横たわったりする人々が横に長く並びます。中央には銃を手にした兵士が立ち、右側では馬に乗った兵士が女性を連れ去ろうとしています。左奥には煙の上がる町と海が見え、右下では幼い子どもが動かない母親に取りすがっています。
戦闘の勇ましさではなく、戦いのあとに残された人々の疲れ切った姿を、静かに横へ並べた構成です。英雄も勝者も描かれていません。同時代の出来事をこれほど大きな画面で、しかもこうした視点から描いたことが当時は衝撃でした。
なお、1824年のサロンにはイギリスの風景画家ジョン・コンスタブルの作品も出品されており、ドラクロワはその色づかいに刺激を受けて背景に手を入れたと言われています。ただし近年の修復調査では後年の加筆はほとんど見つかっていないとも報じられており、どこまで実際に描き直したのかについては諸説あります。
この作品は、サロンの審査を1824年8月6日に通過し、同年9月23日に王室家事省が6,000フランで買い上げました。
『ミソロンギの廃墟に立つギリシャ』(1826年)

ギリシャ独立戦争をめぐる、もう一枚の作品です。1826年の春、長く包囲されていた要衝ミソロンギが陥落しました。この知らせはヨーロッパ中に伝わり、ギリシャを支援する人々に大きな衝撃を与えます。
ドラクロワはこの出来事を、報道写真のようにではなく寓意として描きました。ギリシャの民族衣装をまとった若い女性が、崩れた石材の上にひざまずき、両手を静かに広げてこちらを見つめています。白いシュミーズに青い上着、腰にはオレンジの帯。右下では、崩れ落ちた石の下から人の手がのぞいています。右奥の暗がりには、旗を掲げた人物の姿が見えます。
この女性は特定の誰かではなく、傷ついたギリシャそのものを表しています。絵は1826年にパリのルブラン画廊で公開され、ギリシャ支援の募金を呼びかける役割を担いました。
ひざまずき、両手を広げ、まっすぐこちらを見るという姿勢は、4年後の『民衆を導く自由の女神』を先取りしているようにも見えます。現在はボルドー美術館が所蔵しており、同館が1852年にボルドー美術友の会のサロンで購入したものです。
『サルダナパールの死』(1827年)

横約5メートル、縦約4メートルという巨大な作品で、ドラクロワの作品の中でも当時いちばん激しい議論を呼びました。
主題は、イギリスの詩人バイロンが1821年に発表した劇詩『サルダナパール』です。敗北を悟った伝説のアッシリア王が、自分の死とともにすべてを失わせようとする場面が描かれています。ルーヴル美術館の解説では、王が自分を楽しませてきたものを何ひとつ残すまいと命じたと説明されています。
画面の左上、赤い布を敷いた寝台にひじをついて横たわり、下の騒ぎを見下ろしているのが王です。寝台の足元には象をかたどった彫刻があり、左下では白い馬が引き出され、手前には金銀の器や宝飾品が散らばっています。
対角線に沿って画面全体が斜めに流れ、赤と金が渦を巻くように配置されています。
1827年から28年にかけてのサロンに出品されると、批評家からは構図が混乱しているとして強く批判されました。国も買い上げず、ドラクロワは公的な注文から遠ざかる時期を迎えます。この絵が長い時間を経てルーヴルに入ったのは1921年のことでした。
『民衆を導く自由の女神』(1830年)

ドラクロワの代表作であり、フランスでもっとも有名な絵画のひとつです。
1830年7月27日から29日にかけて、パリでは国王シャルル10世の政策に反発した市民が蜂起しました。七月革命と呼ばれる出来事です。ドラクロワはその年の9月から12月にかけてこの絵を描き上げ、1831年のサロンに出品しました。
ルーヴル美術館が用いる正式な題名は『1830年7月28日。民衆を導く自由の女神』です。日付が題名に入っているところに、この絵の性格がよく表れています。
中央の女性は、右手に青・白・赤の三色旗を、左手に銃剣つきの小銃を持ち、頭には古代ローマで解放奴隷がかぶったフリジア帽をのせています。実在の人物ではなく、自由という概念を人のかたちにした存在です。
一方で、彼女の周りにいるのは寓意ではなく、同時代のパリの人たちです。右隣で二丁の拳銃を握りしめている少年、左でシルクハットをかぶり猟銃を構える市民、さらに左でサーベルを手にする労働者。手前には倒れた人々が描かれ、右奥の煙の向こうにはノートルダム大聖堂の塔が小さく見えます。
神話の女神と、目の前の街の人々が同じ画面に並ぶ。この組み合わせこそがこの絵の新しさでした。国は1831年8月に3,000フランでこの作品を購入しています。ただし公開は順調ではありませんでした。1832年から33年にリュクサンブール美術館に並んだのち長く収蔵庫に入り、1855年のパリ万国博覧会に出品されます。ふたたび同館に並ぶのは1863年、ルーヴル美術館に落ち着くのは1874年11月のことでした。
モロッコ旅行と『アルジェの女たち』(1834年)
1832年1月11日、ドラクロワはモルネー伯爵が率いるフランスの外交使節団の一員として、トゥーロンから船に乗りました。目的地はモロッコです。フランスが前年までにアルジェリアへ進出していたため、その件をめぐってモロッコのスルタンと交渉する使節でした。
ドラクロワは公式の画家としてではなく、いわば同行者として加わります。タンジールに滞在し、3月22日にはメクネスでスルタンの謁見に立ち会い、スペイン南部にも足をのばし、帰路にはオランやアルジェにも立ち寄りました。
この数か月が、画家としての彼を大きく変えます。それまで本や版画を通して想像するしかなかった土地の光、色、衣服、身ぶりを、自分の目で見ることができたからです。ドラクロワはおびただしい数のスケッチと、細かな書き込みのある手帳を持ち帰りました。そしてその後の30年あまり、このときの記憶をもとにした作品を描き続けます。

旅から2年後に描かれた作品です。室内の絨毯の上に3人の女性が座り、手前には水ギセルが置かれ、右では立ち姿の女性が布をめくり上げています。左の壁は装飾タイルで覆われ、奥には赤い扉の戸棚が見えます。
激しい動きはありません。『サルダナパールの死』の渦巻くような画面と同じ画家が描いたとは思えないほど、時間が止まったような静けさです。その代わり、陰の中に置かれた朱色、青、白、金が互いに響き合い、画面全体がやわらかく光っています。
のちにアンリ・マティスやパブロ・ピカソがこの作品をくり返し参照したことでも知られています。
『モロッコのユダヤ人の婚礼』(1839年)

この作品には、はっきりとした下敷きがあります。ドラクロワが1832年2月21日の『日記』に書き残した、タンジールで立ち会った婚礼の記録です。そこには楽士の位置、衣服の色、壁に落ちる影のようすまでが、驚くほど細かく書き留められています。
画面は白い壁に囲まれた中庭です。緑に塗られた回廊と手すりが上の階を区切り、そこから人々が身を乗り出して見下ろしています。中央には太鼓や弦楽器を手にした楽士が座り、左手前では女性が腕を高く上げて踊り、周囲では大人も子どもも壁沿いに座って見入っています。
強い日差しが当たる白壁と、庇の下の深い影。このコントラストが画面の骨格になっています。作品は1841年のサロンに出品され、同年6月8日に王室費局が1,500フランで購入しました。
壁画に向かった20年
一般には『民衆を導く自由の女神』の画家として知られるドラクロワですが、本人が人生の後半でもっとも多くの時間を注いだのは、実は公共建築の壁画でした。
フランス国民議会の公式資料によれば、1833年8月31日にパリのパレ・ブルボン(現在の国民議会議事堂)の「王の間」の装飾を委嘱され、1837年12月に完成させています。続いて1838年8月30日には同じ建物の図書室の装飾を任され、こちらは1847年12月まで、およそ9年を費やしました。図書室の天井は、2つの半円形の壁面と5つのドームからなる全長42メートルの空間で、神学、詩、立法、哲学、諸学という主題が配置されています。
ほかにもリュクサンブール宮殿の図書室、ルーヴル美術館のアポロン・ギャラリーの天井など、パリの主要な建物に次々と絵を描きました。

その総仕上げが、パリのサン=シュルピス教会聖天使礼拝堂の装飾です。1849年に注文を受け、体調を崩しながらも1861年7月にようやく完成させました。礼拝堂の2つの壁には『天使と闘うヤコブ』と『神殿から追われるヘリオドロス』、天井には『竜を退治する大天使ミカエル』が描かれています。
『天使と闘うヤコブ』は、旧約聖書の創世記にある、ヤコブが一晩中ひとりの天使と組み合う場面です。ただしドラクロワの画面では、格闘する2人は左下の隅に置かれ、画面の大半を占めるのは巨大な木々です。手前の地面にはヤコブが脱ぎ捨てた衣服と武具が置かれ、右奥では兄エサウのもとへ向かう隊列と家畜が遠ざかっていきます。
人間の激しい闘いを、それに無関心な自然の中にそっと置く。晩年のドラクロワがたどり着いた、静かで奥行きのある画面です。この壁画は2015年から2016年にかけてパリ市の主導で修復され、現在も教会で見ることができます。
晩年とアカデミー
1855年のパリ万国博覧会は、ドラクロワにとって大きな節目になりました。美術部門で回顧展のかたちをとり、30点を超える作品がまとめて展示されたのです。長く「型破りな画家」と見られてきた人物が、フランス美術を代表する存在として公に認められた場面でした。
1857年1月10日には、念願だったアカデミー・デ・ボザール(フランス学士院の美術部門)の会員に選ばれます。ポール・ドラローシュの後任として、絵画部門の席に就きました。何度も落選を重ねたのちの当選でした。
同じ1857年、ドラクロワはパリ6区のフュルステンベール街6番地に引っ越します。サン=シュルピス教会での作業に通いやすいことが、大きな理由のひとつだったと考えられています。中庭に面したアトリエのある住まいでした。
1863年8月13日、ドラクロワはそのフュルステンベール街の自宅で息を引き取りました。65歳でした。遺体はパリのペール=ラシェーズ墓地に埋葬されています。
ドラクロワの死の直後、詩人シャルル・ボードレールは追悼の文章を発表しました。長く親交のあったボードレールは、その中でこう書いています。
「Delacroix était passionnément amoureux de la passion, et froidement déterminé à chercher les moyens d’exprimer la passion de la manière la plus visible.(ドラクロワは情熱に熱烈に恋をしていたが、その情熱をもっとも目に見えるかたちで表す手段を探すことにかけては、冷徹なまでに意志が固かった)」
激しい主題を選びながら、その効果は計算し尽くす。ボードレールが見ていたドラクロワ像がよく表れた一文です。
『日記』が残したもの
ドラクロワは筆まめな人でもありました。1822年から1824年の手帳と、1847年から亡くなる1863年までの日記が残されており、まとめて『日記』と呼ばれています。
内容は、その日に会った人や聴いた音楽の感想から、絵の具の配合や色の組み合わせについての覚え書きまでさまざまです。とりわけ色に関する記述は具体的で、補色を隣り合わせに置くと互いの鮮やかさが増すことなど、実験を重ねた人ならではの観察が並びます。
この『日記』は、ポール・フラとルネ・ピオの編集によって1893年から刊行が始まりました。すると、これが思いがけない形で次の世代に火をつけます。1899年、新印象派の画家ポール・シニャックが『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義へ』(D’Eugène Delacroix au néo-impressionnisme)という本を出版し、ドラクロワの色彩の考え方こそが、ジョルジュ・スーラたちの点描へつながる出発点だったと論じたのです。
死後30年以上を経て、ドラクロワは「ロマン主義の画家」から「近代絵画の色彩の父」へと読み直されていきました。
ゴッホ、そして次の世代へ

ドラクロワを深く敬愛した画家のひとりがフィンセント・ファン・ゴッホです。
療養先のサン=レミで描かれたこの『ピエタ』は、ドラクロワの同主題の作品をもとにした一枚です。ゴッホが手元に置いていたのは原作を写した白黒のリトグラフだったと言われており、色はゴッホ自身が選んだことになります。青い衣の聖母が両腕を広げ、膝にキリストの体を横たえています。背景の空には黄色い筋が走り、右には岩肌が迫ります。
構図は借りたものですが、うねる筆づかいと青と黄の対比は、まぎれもなくゴッホのものです。色そのものが感情を運ぶというドラクロワの考えが、世代を越えて受け継がれた一例と言えます。
その敬意は、集団の動きにもなりました。20世紀に入ると、ドラクロワを慕う人々が「ウジェーヌ・ドラクロワ友の会」を結成し、アトリエを守るためにフュルステンベール街の建物を借り受けます。中心にいたのは、画家のモーリス・ドニとポール・シニャックでした。
1932年、そのアトリエで「ウジェーヌ・ドラクロワとその友人たち」展が開かれます。1951年に建物が売りに出されると、友の会は1953年に主要な所蔵作品を国へ売却して資金を作り、建物を買い取ります。そして1956年、アパルトマンとアトリエを国へ寄贈しました。ここは1971年に国立美術館となり、2004年からはルーヴル美術館の公施設の一部として運営されています。現在の国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館です。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ウジェーヌ・ドラクロワは、『民衆を導く自由の女神』の画家として広く知られていますが、その生涯をたどると、ひとつの型に収まらない人物像が見えてきます。
ダンテやバイロンの文学に深く入り込む一方で、『キオス島の虐殺』では同時代に起きた出来事から目をそらさず、残された人々の姿を静かに描きました。モロッコで見た光と色は、その後30年にわたって作品を支え続けました。そして人生の後半は、パレ・ブルボンやサン=シュルピス教会の壁画に、多くの時間を注いでいます。
当時の批評家からはくり返し厳しい言葉を受けましたが、ドラクロワが書き残した色についての覚え書きは、後の画家たちへの贈り物になりました。シニャックはそこから新印象派の系譜を語り、ゴッホは構図を借りて自分の色で描き直し、マティスやピカソは『アルジェの女たち』に何度も立ち返っています。
Euphoric " " の視点
『民衆を導く自由の女神』は、歴史の記録として描かれたのではありません。ドラクロワは実際の戦闘には加わらず、報道でもなく、絵にしかできない形で時代の熱を残しました。
旗を掲げる女性は実在の人物ではなく、理念そのものの姿です。事実の再現ではなく、意味を立ち上げたところに力があります。
出来事を伝える手段が増えた今こそ、意味を形にする仕事の価値は上がっているのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- ルーヴル美術館『1830年7月28日。民衆を導く自由の女神』作品ページ(英語・フランス語)
- 国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館 公式サイト(英語)
- ボルドー美術館『ミソロンギの廃墟に立つギリシャ』作品ページ(英語)(同作は2026年11月30日まで、ギリシャのミソロンギ考古学博物館へ貸し出されています)






