こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはカスパー・ダーヴィト・フリードリヒという人物をご存知ですか?
19世紀前半のドイツで活躍した風景画家で、ドイツ・ロマン主義を代表する存在とされています。霧の海を見下ろす岩の上に、こちらに背を向けて立つ男性を描いた『雲海の上の旅人』は、教科書や書籍の表紙、SNSのアイコンなどで一度は目にしたことがあるかもしれません。
フリードリヒの風景は、ただの景色ではありません。山や海や霧そのものが、人の心のありようや、目に見えないものへの思いを映し出す装置になっています。当時の人々を驚かせ、時に激しい論争を呼び、やがて忘れ去られ、20世紀に再発見された画家でもあります。
本記事ではそんなカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleカスパー・ダーヴィト・フリードリヒって?

基本情報
| 本名 | カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich) |
| 生年月日(没年月日) | 1774年9月5日〜1840年5月7日(65歳没) |
| 国籍・出身 | ドイツ(生まれた当時はスウェーデン領ポンメルン)/バルト海に面した港町グライフスヴァルト |
| 学歴 | 1790年頃からグライフスヴァルトで素描教師ヨハン・ゴットフリート・クヴィストルプに学び、1794年から1798年までコペンハーゲンの王立デンマーク美術アカデミーに在籍 |
| 分野 | 絵画(油彩)、素描、セピア(褐色インクによる淡彩) |
| 傾向 | ドイツ・ロマン主義、風景画、宗教的・象徴的な主題 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ヨハン・ゴットフリート・クヴィストルプ、コペンハーゲンのアカデミーで出会った教師たち、ヨハン・クリスチャン・ダール(ドレスデンでの親友)、カール・グスタフ・カールス(画家で医師の友人) |
フリードリヒと同じ時代に風景画の可能性を広げた画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
ドイツ・ロマン主義って?
フリードリヒを語るうえで欠かせないのが「ロマン主義」です。
18世紀の終わりから19世紀の前半にかけてヨーロッパの文学や音楽、美術に広がった動きで、理屈や決まりごとよりも、その人の感情や想像力、目に見えないものへの憧れを大切にしようとする考え方です。
当時の美術界では、神話や歴史、聖書の場面を描く「歴史画」が最も格の高いジャンルとされ、風景画はその下に置かれていました。風景はあくまで物語の背景であって、それ自体が主役になるものではない、という感覚です。
フリードリヒがしたことは、この序列をひっくり返すことでした。彼は風景を、宗教画と同じくらい重い意味を担うものとして描きます。山の上の十字架、朽ちた修道院、果てしない海。それらは風景であると同時に、信仰や死や永遠についての問いかけでもありました。
もうひとつ、フリードリヒの絵には特徴的な仕掛けがあります。人物の多くが、こちらに背を向けているという点です。ドイツ語では「リュッケンフィグーア(背面像)」と呼ばれます。顔が見えないため、その人物が何を感じているかは読み取れません。その代わり見る人は、いつのまにか自分がその背中と同じ場所に立っているような気持ちになります。
経歴と作品
バルト海の港町に生まれて
フリードリヒは1774年9月5日、バルト海に面した港町グライフスヴァルトで生まれました。現在はドイツ北東部にあたりますが、当時この一帯はスウェーデン領ポンメルンで、彼は生まれたときスウェーデン王の臣民でした。
父アドルフ・ゴットリープは、石けんとろうそくを作る職人でした。裕福ではありませんが、堅実なプロテスタントの家庭です。フリードリヒは10人きょうだいの6番目として育ちました。
ただ、この家族は早くに多くの死を経験しています。母は1781年に亡くなり、妹も、姉も、そして弟も、彼が20歳になる前に世を去りました。1787年に亡くなった弟ヨハン・クリストッファーについては、氷が割れて水に落ちたフリードリヒを助けようとして溺れた、という話がよく知られています。ただし、家族に伝わる話では小舟が転覆したとされており、経緯についてはいくつかの説があって、はっきりしていません。いずれにせよ、身近な人の死がごく当たり前にそばにあった少年時代でした。
絵の才能は早くから現れました。1790年頃から、地元の大学で建築監を務めながら素描を教えていたヨハン・ゴットフリート・クヴィストルプのもとで、毎週数時間の手ほどきを受けます。クヴィストルプは、室内で石膏像を写すだけでなく、外に出て自然を写生させる先生でした。生涯にわたって膨大な写生帖を残すことになるフリードリヒの出発点が、ここにあります。
1794年、20歳のフリードリヒはコペンハーゲンの王立デンマーク美術アカデミーに進みます。当時のコペンハーゲンでは、王室が集めた17世紀オランダ絵画を間近に見ることができました。細やかな自然観察と静かな光という、オランダ絵画から受け取ったものは、後年の彼の画面に長く残ります。
1798年にアカデミーを離れたフリードリヒは、ザクセン王国の都ドレスデンに居を定めました。以後、亡くなるまでの40年あまりを、彼はこの街で過ごすことになります。
セピアの風景画から油彩へ
ドレスデンに移ってからしばらく、フリードリヒが手がけたのは油彩画ではなく、セピアと呼ばれる褐色のインクを使った淡彩画や素描でした。油彩に比べて安価で、市民の買い手がつきやすかったためです。彼は貴族や宮廷の庇護に頼らず、自分の作品を売って生活を立てようとした、当時としては新しいタイプの画家でした。
この時期、彼は夏になると故郷のポンメルンやリューゲン島へ長い徒歩旅行に出かけ、岩や木や草を一つひとつ克明に写生しています。1枚の素描に、日付と、太陽の向きと、風の吹いてくる方向まで書き込むことがありました。
転機は1805年に訪れます。ヴァイマールの美術愛好家たちが開いていた懸賞に、フリードリヒは2点のセピア画を送りました。課題は古代神話を主題にすることでしたが、彼が送ったのは課題に沿わない風景画です。それにもかかわらず、選考に関わっていたゲーテはこの作品を評価し、フリードリヒは1等賞の半分にあたる賞を受けました。中央の文壇・画壇に名前が知られる、最初のきっかけになった出来事です。
『山上の十字架(テッチェン祭壇画)』(Das Kreuz im Gebirge / Tetschener Altar、1807〜08年)

フリードリヒが本格的に油彩へ踏み出した、最初の大作です。ドレスデン国立美術館の解説によれば、彼は1808年のクリスマスに自分のアトリエを一般に公開し、この作品を見せました。
描かれているのは、切り立った岩山の頂に立てられた十字架です。岩山は樅の木に囲まれ、背後からは沈んだばかりの太陽の光が放射状に差しています。空は赤紫から橙へと染まり、十字架は逆光の中でほとんど黒いシルエットになっています。ドレスデン国立美術館の解説は、画面の中心にあるはずの山頂の十字架が驚くほど小さく見えることを、この絵の特徴として挙げています。
注目していただきたいのは額縁です。フリードリヒ自身が図案を描き、彫刻家クリスティアン・ゴットロープ・キューンが彫り上げ、金箔が施されました。先のとがったアーチには葉の彫刻と天使の顔が並び、土台の部分には三角形の中に目を描いた「神の目」、その両脇に麦の穂とぶどうの枝が配されています。麦とぶどうはパンとワイン、つまり聖餐を表します。絵と額が一体になって、明らかに祭壇画として作られているのです。
ここが当時の人々を驚かせました。祭壇画といえば、キリストや聖人の姿を大きく描くのが常識だったからです。ところがフリードリヒは、その祭壇画の形式に、ほとんど風景画としか見えないものを収めました。
これに真っ向から反対したのが、美術批評家バシリウス・フォン・ラムドーアです。1809年の文芸紙(Zeitung für die elegante Welt)に長大な批判文を連載し、風景画が祭壇に持ち込まれることの危うさを論じました。画家の側からはゲルハルト・フォン・ケーゲルゲンらが反論し、この応酬は美術史で「ラムドーア論争」と呼ばれています。皮肉なことに、この論争によってフリードリヒの名前はドイツ中に知れ渡りました。
作品はその後、1809年にトゥーン=ホーエンシュタイン家がデチーン(ドイツ語名テッチェン)の城のために購入したことから「テッチェン祭壇画」と呼ばれるようになり、1921年にドレスデンの美術館が同家から取得して現在に至ります。
ベルリンでの成功と「背中の人物」
ラムドーア論争を挟むように、フリードリヒは1808年12月に姉ドロテアを、1809年11月に父を亡くしています。その最中に仕上げられたのが、対になる2枚の大きな油彩画でした。
『海辺の修道士』(Der Mönch am Meer、1808〜1810年)

縦110センチ、横171.5センチの横長の画面が、たった3つの層に分かれています。手前の白っぽい砂丘、その向こうの暗く重い海、そして画面の大半を占める空。遠近法の手がかりになるものが何ひとつありません。
砂丘の上に、帽子をかぶらない小さな人影がひとつ。修道服を着た男性です。画面全体から見れば、指先ほどの大きさしかありません。
フリードリヒ自身が、この絵についてこう書き残しています(日本語訳)。
これは海の絵です。手前は荒涼とした砂浜、次に波立つ海、そして空。浜辺を、黒い衣をまとった男が物思いにふけりながら歩いています。かもめたちが不安げに鳴きながら彼のまわりを飛び、荒れた海に踏み出してはいけないと警告しているかのようです。ここまでが説明で、ここからが考えたことです。朝から晩まで、晩から真夜中まで考え続けたとしても、あなたはきっと思いつくことも、究めることもできないでしょう。あの計り知れない彼方を。
生誕250年の公式ポータルによれば、フリードリヒはこの絵に2年をかけ、何度も手を入れては塗りつぶしました。その結果生まれたのが、この時代の風景画としてはきわめて異例の、ほとんど抽象画のような構図です。画面から手がかりを足すのではなく、引き算し続けた絵だといえます。
1810年のベルリン・アカデミー展でこの絵を見た作家ハインリヒ・フォン・クライストは、同年10月13日の『ベルリン夕刊』にこの絵についての文章を寄せ、この絵を眺めているとまぶたを切り取られてしまったかのようだと書きました。目を閉じることも、視線を逃がすこともできない。画面の果てしなさを言い当てた比喩として、今も繰り返し引用される一節です。
『樫の森の修道院』(Abtei im Eichwald、1809〜10年)

『海辺の修道士』と対をなす作品です。ほぼ同じ大きさで、こちらは陸の情景を描いています。
画面の中央に、ゴシック様式の窓だけを残した修道院の廃墟。まわりには、葉を落とした樫の老木がねじれた枝を突き上げています。地面には傾いた墓石が点々と並び、廃墟の入口に向かって、棺をかついだ修道士たちの小さな行列が進んでいきます。空の低いところには黄色い薄明かりが残り、その上に細い三日月がかかっています。
海に向かって立つ一人の人物と、埋葬へ向かう行列。無限に向き合う孤独と、地上での終わりという2つの主題が並べられています。
2枚は1810年のベルリン・アカデミー展に出品され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が購入します。当時15歳だった皇太子の勧めによる買い上げだったと伝えられており、国王の購入という最高の形で認められたことになります。同じ年、ドレスデンに住むフリードリヒはベルリン王立芸術アカデミーの会員にも選ばれました。36歳での成功でした。
記事の冒頭に掲げた『自画像』も、この1810年頃に黒チョークで描かれたものです。ベルリン国立美術館群によれば、これが彼の最後の自画像になりました。大きく見開かれた右目は紙の対角線が交わるちょうど中心に置かれ、もう一方の目は影に沈んでいます。見ることそのものを描いたような一枚です。
結婚と、代表作が生まれた10年
1816年、フリードリヒはドレスデン美術アカデミーの会員になり、年俸を受け取る立場になりました。生活が安定したことで、長く独身だった彼は1818年、19歳年下のカロリーネ・ボマーと結婚します。新婚旅行では、故郷のグライフスヴァルトやリューゲン島を夫婦で巡りました。
この頃から1820年代なかばにかけての約10年が、フリードリヒの画業の頂点にあたります。
『雲海の上の旅人』(Wanderer über dem Nebelmeer、1817年頃)

フリードリヒといえばこの絵、という一枚です。所蔵するハンブルク美術館は制作年を「1817年頃」としています(1818年と紹介されることもあります)。
岩の頂に、濃い緑の上着を着た男性が背を向けて立っています。腰のあたりに添えた手には杖。風に吹かれた赤みがかった金髪が少し乱れています。足元から先は一面の霧で、そこから岩山や木立の頭だけが島のように突き出し、遠くにはかすんだ山の稜線が重なります。
この絵の力は、私たちが男性の顔を見られないことから生まれています。彼が感動しているのか、途方に暮れているのかはわかりません。わからないからこそ、見る人は自分の気持ちをその背中に預けてしまいます。私たちは風景そのものを見ているというより、そこに立つ誰かの肩越しに風景を見ているのです。生誕250年の公式ポータルは、フリードリヒはここで「見ること」そのものを絵の主題にしたのだと説明しています。なお、この男性が誰なのかについて確かな手がかりは残っていません。
なお、霧の下から顔を出す岩山は、実在の1か所を写したものではありません。同ポータルによれば、男性が立つ岩は1813年6月3日にザクセン・スイス(ドレスデン近郊のエルベ砂岩山地)のカイザークローネに登ったときの写生、左奥の円錐形の山は1808年5月に写したボヘミア・スイスのローゼンベルク、左中景の岩は同じ1808年に描いたラーテン東方のガムリヒの素描がもとになっています。右手にそびえるのはツィルケルシュタインです。現実のかけらを集めて、現実にはない山を組み立てているわけです。
『リューゲン島の白亜の断崖』(Kreidefelsen auf Rügen、1818年頃)

バルト海に浮かぶリューゲン島の、真っ白な石灰岩の断崖を描いた作品です。左右から枝を広げた木が額縁のように画面を囲み、その内側に、とがった白い岩と、青く広がる海と、小さな帆船が見えます。
手前には3人の人物がいます。赤い服の女性が身をかがめて崖の縁の草を指さし、その右では男性が四つん這いになって深い裂け目をのぞき込んでいます。帽子と杖は草の上に放り出されています。右端の男性だけは木に寄りかかり、腕を組んで静かに海のほうを見ています。
生誕250年の公式ポータルは、この3人が「どこに目を向けるか」の違いを表していると説明しています。深淵をのぞき込むのか、遠い水平線を眺めるのか。絵の前に立つ私たちにも、同じ選択が差し出されているというわけです。
この作品は有名なわりに、確かなことがあまりわかっていません。同ポータルは制作年すら確定していないと明記しています。1818年の結婚直後とみなされることが多く、3人をフリードリヒ夫妻や弟に重ねる読み方も提案されてきましたが、人物が後ろ姿や横顔でしか描かれていないため、いずれも決め手を欠きます。
『月を眺める二人の男』(Zwei Männer in Betrachtung des Mondes、1819〜20年)

夕暮れの山道で、マントを羽織った2人の男性が肩を寄せ合うようにして立ち、細い三日月を見上げています。画面の右には、根元から倒れかかった樫の老木。全体が赤褐色の薄明かりに包まれています。
この絵には、実際の友情が写し込まれています。1818年9月、ノルウェー出身の画家ヨハン・クリスチャン・ダールがドレスデンにやって来ました。フリードリヒは最初こそよそよそしかったものの、その年の12月には「午前中ずっと芸術について語り合った」とダールが書き残すほど打ち解けます。1820年には友情のしるしとして互いの絵を交換しています。20年以上続いた関係でした。
この作品自体もダールの手元にあり、彼の旧蔵品としてドレスデンの美術館が1840年に取得しています。フリードリヒが亡くなった年のことでした。
『氷の海』(Das Eismeer、1823〜24年)

厚い氷の板が幾重にも折り重なり、真ん中で墓標のようにそそり立っています。よく見ると、右側の氷の下から船の船尾と折れたマストがのぞいています。氷に押しつぶされた船です。人の姿はどこにもありません。
生誕250年ポータルによれば、この絵の出発点は北極ではなく、ドレスデンのエルベ川でした。1820年から21年にかけての冬は記録的な寒さで、エルベ川が一時的に凍りついたのです。ふだんは屋外では鉛筆で写生するだけだったフリードリヒが、このときばかりは絵の具を持って川岸に出かけ、氷の塊を間近に油彩で写し取りました。その習作が3点残っています。
数年後、彼はその写生をもとに、見たこともない極地の情景を組み上げました。身近な川の氷から世界の果てを作り出したわけです。
当時、北西航路を目指す極地探検が相次ぎ、多くが流氷に阻まれていました。ただし同ポータルは、フリードリヒが特定の探検を描こうとした形跡はないとしたうえで、この破局の光景を人間のおごりを暴くものとして読み解いています。自然の力の前で、人は最後には屈するほかないという認識です。
なお、この作品はかつて『難破した希望』という題でも呼ばれていましたが、現在ハンブルク美術館は『氷の海』としています。1905年から同館の所蔵です。
ちなみに1824年、フリードリヒはドレスデン美術アカデミーの員外教授に任じられました。ただし正教授として風景画の教室を持つことはかなわなかったと言われています。
晩年と、静かな終わり
『人生の諸段階』(Die Lebensstufen、1830年代なかば)

夕焼けの浜辺です。手前には、長い上着に縁なし帽をかぶった白髪の老人が、杖を手に背を向けて立っています。その先に山高帽の男性、女性、そして小旗を持って座り込む2人の子ども。
沖には5隻の船が浮かんでいます。手前の大きな帆船から、水平線近くに小さく見える2隻まで、距離も大きさもばらばらです。岸に近いほど大きく、遠いほど小さい。この配置が、浜辺にいる5人の年齢の並びと重なります。
つまり、港に戻ってくる大きな船と、これから出ていく遠い船が、人の一生の段階に対応しているという読み方です。手前の老人は、フリードリヒ自身の姿だとされることが多い人物です。
この絵が描かれた数年のうちに、フリードリヒは1835年に脳卒中で倒れます。体が思うように動かなくなり、以後は大きな油彩画をほとんど描けなくなりました。晩年はセピアや水彩に戻り、死をめぐる主題が増えていきます。作品は売れにくくなり、家族の暮らしは楽ではありませんでした。友人だった医師で画家のカール・グスタフ・カールスらが彼を支えました。
1840年5月7日、フリードリヒはドレスデンで亡くなります。65歳でした。
忘れられた画家から、250年の主役へ
フリードリヒの名前は、死後まもなく美術の表舞台から消えていきます。19世紀の後半、ヨーロッパの絵画の関心は写実主義や印象派へ移り、宗教的な意味を託した風景画は時代遅れと見なされました。ベルリン国立美術館群も、19世紀後半にフリードリヒが忘れられていたとはっきり書いています。
再評価のきっかけは1906年です。ベルリンの国立美術館で開かれた「世紀展(ヤールフンダートアウスシュテルング)」で、ドイツ美術の100年をふり返る大規模な展示が行われ、フリードリヒの絵画と素描93点がまとめて紹介されました。そこで彼は、光と大気を描いた画家として、また近代絵画の先駆けとして位置づけ直されました。
そして2024年、生誕250年を迎えます。フリードリヒ作品の三大コレクションを持つハンブルク美術館・ベルリン旧国立美術館・ドレスデン国立美術館が共同で記念の年を組み立て、ドイツ連邦大統領が後援に名を連ねました。
ハンブルク美術館では「新しい時代のための芸術」(2023年12月15日〜2024年4月1日)と題して、油彩60点超と素描約100点を集めた回顧展が開かれました。オラファー・エリアソンやケヒンデ・ワイリーら現代のアーティスト約20名の作品も並び、気候変動の時代に人と自然の関係を問い直す画家として読み直そうという試みがなされています。
続いてベルリンでは「無限の風景」(2024年4月19日〜8月4日)、ドレスデンでは「すべてが始まった場所」(アルベルティヌムで2024年8月24日〜2025年1月5日)が開かれました。さらに2025年2月8日から5月11日まで、ニューヨークのメトロポリタン美術館がアメリカで初めての本格的な回顧展を開催し、75点を超える作品が大西洋を渡りました。
200年前に「風景画が祭壇に置かれるとは何事か」と論争を巻き起こした画家が、いま世界中の美術館で最も人を集める存在のひとりになっています。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、ドイツ・ロマン主義を代表する風景画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの人生と作品についてご紹介しました。
バルト海の港町に生まれ、身近な死を数多く経験し、ドレスデンで40年あまりを過ごしたフリードリヒがたどり着いたのは、風景を通して目に見えないものを描くという道でした。霧、氷、廃墟、水平線。彼の絵の中で自然は背景ではなく、問いそのものになっています。
そして、こちらに背を向けた小さな人物。あれは画家の分身であると同時に、見る人のための空席でもあります。だからこそ200年後の私たちも、あの背中の隣に立って、同じ霧の海を眺めることができるのだと思います。
フリードリヒは、自分の絵についてこんな言葉を書き残しています。肉体の目を閉じて、まず心の目で自分の絵を見なさい。そして暗闇の中で見たものを外に引き出しなさい。作品を前にしたときは、ぜひ一度、目を閉じてみてはいかがでしょうか。
Euphoric " " の視点
フリードリヒの風景画には、しばしば後ろ姿の人物が立っています。顔は見えず、私たちは自然とその人の視線を借りることになります。
描かれているのは、景色そのものよりも、景色の前に立つ人の心のありようです。だから200年前の霧や海が、いまも他人事に見えません。
受け手を説得するのではなく、同じ位置に立ってもらう。伝え方に迷ったとき、この静かな手つきは手本になります。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






