【徹底解説】ハンス・J・ウェグナーとは?椅子の巨匠の人生と作品を解説!

【徹底解説】ハンス・J・ウェグナーとは?椅子の巨匠の人生と作品を解説!
作品:『中国の椅子(Chinese Chair)』(1944年設計、1982年製造)(画像出典:シカゴ美術館公式サイト。引用)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはハンス・J・ウェグナーという人物をご存知ですか?

ウェグナーは、デンマークの家具デザイナーです。職人として木工を身につけたのち、設計の道へ進み、生涯で数百脚の椅子を手がけたことから「椅子の巨匠」と呼ばれています。1914年にデンマーク南部のトナー(Tønder)で生まれ、2007年に亡くなりました。「ウィッシュボーン・チェア」(Yチェア)や、「ザ・チェア」と呼ばれた丸い椅子は、その代表作です。

本記事ではそんなハンス・J・ウェグナーの人生と作品についてご紹介します。名作椅子を並べる紹介記事ではなく、「どんな人が、どんな道筋で、あの形にたどり着いたのか」に重きを置きます。なお、デンマークの辞典や美術館の公式資料で確認できた事柄だけを書き、編集部の意見にあたる部分は「〜と考えます」の形で示します。

ハンス・J・ウェグナーって?

ウェグナーの仕事を一言で表すなら、「木という素材を理解し続けた設計者」だと考えます。百科事典Lexは、ウェグナーの仕事を、木の性質を理解し、その可能性を生かそうとする生涯の探求と説明しています(要約)。同じ記事は、ウェグナーの作品が500脚を超える椅子と、それと同じくらいの数の別の家具から成ると記しています。

ただし、数え方は資料によって揺れます。製造元のカール・ハンセン&サン社の紹介ページは「500脚近く」、トナーの水道塔の展示をめぐる記事は「600脚を超える」、ミュージアム・ウェグナーの建築を手がけた設計事務所のページは「家具全体で3,000点近く」と書いています。数字を一つに決めるより、「一人でこれだけの数をつくった人である」ととらえるのが安全です。

基本情報

本名ハンス・ヨアンセン・ウェグナー(Hans Jørgensen Wegner)
生年月日(没年月日)1914年4月2日(2007年1月26日没)。デンマークの人名辞典と百科事典「Lex」の記載による
国籍・出身デンマーク/トナー(Tønder)
学歴トナーの家具職人のもとで修業し、1931年に職人の資格を得る。のちにコペンハーゲンの工芸学校(Kunsthåndværkerskolen)で家具の設計を学ぶ
分野家具デザイン(椅子を中心に、テーブル、収納、照明、食器など)
傾向木の性質を生かした、造形的で機能的な家具。職人の手仕事と工業生産の両方に取り組んだ
師事した人物・影響を受けた人物記録なし(師事の記録は確認できていない)。辞典は、コーア・クリントの流れを受けた古い椅子の再解釈や、チャールズ・イームズの影響を受けた成形合板の椅子を挙げている

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経歴と作品

ウェグナーの歩みは、「職人としての出発」「建築事務所での経験」「中国の椅子から生まれた丸い椅子」「メーカーとの仕事」「晩年と、故郷への贈り物」に分けるとつかみやすくなります。まず全体の流れを図で見ておきましょう。

ウェグナーの歩みの流れ図。1914年にトナーで生まれ、1931年に職人となり、1940年から建築事務所で働き、1949年に丸い椅子を発表し、1995年に水道塔の展示が開かれる。
図:ウェグナーの歩み(1914年〜1995年)

靴職人の家に生まれて(〜1931)

ハンス・ヨアンセン・ウェグナーは、1914年にデンマーク南部のトナーで生まれました。父は靴職人の親方でした。カール・ハンセン&サン社の紹介ページは、幼いころから木くずの匂いに引かれていたと記しています。靴づくりの工房で育った子どもが木工へ向かった背景に、手を動かす仕事への親しみがあったのではないか、と編集部は想像します。ただし、これは推測であり、資料が語っている事実ではありません。

事実として確認できるのは、次の点です。辞典によれば、ウェグナーは1931年に、故郷の家具職人(親方の姓はシュタールベルク)のもとで職人の資格を得ました。カール・ハンセン&サン社の紹介では、18歳までに4年間の修業を終えたと記されています。

この「職人から出発した」という経歴は、のちの仕事ぶりを理解する手がかりになります。カール・ハンセン&サン社の紹介は、ウェグナーの家具の特徴として、木工への深い理解と、完璧な継ぎ手を挙げています。木を自分の手で削り、組んだ経験のある人が図面を引けば、線に「木がどう動くか」の感覚が入るはずです。ウェグナーの強みはそこにあったと考えます。

コペンハーゲンで学び、建築事務所で働く(1930年代〜1940年代前半)

職人になったウェグナーは、兵役のためにコペンハーゲンへ出ました。辞典によれば、そこで毎年開かれていたコペンハーゲン家具職人組合の家具展を、工芸美術館(Kunstindustrimuseet)で見たことが、さらに学ぶ動機になりました。工芸学校で家具の設計を学び、家具だけでなく銀食器や壁紙のコンペにも、たびたび応募して成果を上げています。工芸学校での学びは、1936年から1938年とされています。

初めて組合の家具展に出品したのは、辞典によれば1937年で、頑丈な肘掛け椅子とテーブルでした。製作は家具職人の親方オーヴェ・ランダーが担当しています。カール・ハンセン&サン社の紹介は、この初出品を1938年としており、年が一年ずれています。本記事では、デンマークの辞典に従って1937年と書き、資料間で年が割れることをここで断っておきます。

学校を出たあと、建築家エリック・メラーに誘われて、ニューボー(Nyborg)図書館の現場で働きました。続いて、アルネ・ヤコブセンとエリック・メラーが設計するオーフス市庁舎の家具設計を担当します。辞典も百科事典Lexも、この仕事を1940年から1943年としています。カール・ハンセン&サン社の紹介は、時期を1938年としており、ここでも資料が割れています。

建築家のもとで家具を設計した経験は、ウェグナーにとって大きかったと考えます。家具を「建物の一部として使われる道具」として考える視点が、この時期に育ったと思われるからです。Lexによれば、ウェグナーは戦時中、友人のボーエ・モーエンセンが率いるFDB(デンマーク生協)の家具設計室でも働いています。家具づくりの仲間と近い距離で仕事をしていたことが、ここからうかがえます。

中国の椅子に学ぶ(1944)

ウェグナーの椅子を語るうえで、外せないのが「中国の椅子」です。辞典は、ウェグナーが1944年にヨハネス・ハンセン工房のために設計した肘掛け椅子について、湾曲した笠木(背の上の部材)と背板に、はっきりと中国の椅子の面影があると述べています。Lexも、1940年代の初めにウェグナーがウィンザーチェアや中国の椅子といった古い型を再解釈したと記しています。コーア・クリントの流れをくむやり方で、装飾を少しずつ取り去り、現代的な優美さを加えていったということです。

辞典は同時に、「椅子の歴史のなかで中国は主役ではない」とも書いています。それでも、中国の椅子の特徴的な要素は、ウェグナーにとって大きな意味を持ちました。コピーではなく「型から学び、自分の形にする」という姿勢が、ここに表れていると考えます。

下の写真は、この系統の椅子を、シカゴ美術館が所蔵する個体で示したものです。1944年の設計で、写真の個体は1982年にフリッツ・ハンセン社が製造しています。馬の蹄のように大きく弧を描く笠木が、そのまま肘掛けへと続き、背の中央には幅の広い背板が立っています。肘掛けを支える細い支柱、革のクッションを載せた座面と、細く先すぼまりの脚。部材の数は少ないのに、どの部分も曲線でつながっています。

暗い色の木でできた中国の椅子風の肘掛け椅子。大きな弧を描く笠木が肘掛けへ続き、幅の広い背板が立ち、座面には緑がかった革のクッションがのる。
ハンス・J・ウェグナー『中国の椅子(Chinese Chair)』(1944年設計、1982年製造)、着色したチェリー材、ジュート、革、製造:フリッツ・ハンセン、所蔵:シカゴ美術館。画像出典:シカゴ美術館公式サイト(引用)

「ザ・チェア」と呼ばれた丸い椅子(1949)

中国の椅子から出発した一連の仕事は、1949年に「丸い椅子」へたどり着きます。Lexによれば、この椅子はウェグナーとヨハネス・ハンセンが1949年に発表した、中国の椅子をさらに簡潔で座り心地のよい形へ発展させたものです。Lexの図版説明は、4本の同じ高さの脚、一本の曲げ木でできた背と肘掛け、四本の支柱の間に張られた籐の座面で構成されていると説明しています。オーク材で、ヨハネス・ハンセンの工房でつくられました。

この椅子は、1960年のアメリカ大統領選挙のテレビ討論で、ジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンの対決で使われたことで世界に知られます。辞典もLexも、この出来事を記しています。Lexによれば、外国の報道はこの椅子を「世界でいちばん美しい椅子」と紹介し、「ザ・チェア(The Chair)」と名づけました。これがデンマーク・デザインの国際的な躍進の始まりだったとLexは述べています。

ミュージアム・ウェグナーのアンネ・ブロンド(同館の公式サイトでは館長。下記のインタビュー当時はプロジェクト責任者)は、デンマークの工芸・デザイン誌Formkraftの2021年のインタビューで、この椅子を、一見すると地味だが、読み解くと造形の美しさと軽さがわかる椅子だと語っています(趣旨)。座面が浮いているように見え、背の木目が脚へと流れこむように組まれている、という見方です。同じ記事は、ウェグナーがアメリカでの生産の申し出を断り、故郷での生産を続けたと伝えています。

下の写真は、この丸い椅子を、ストックホルムの国立美術館(Nationalmuseum)が所蔵する個体で示したものです。館の記録では、1949年の設計、ヨハネス・ハンセンの製作で、オーク材と籐でできています。背と肘掛けは一本の太い曲線でつながり、肘掛けの先は平たく広がっています。座面は籐を編んで張り、四本の脚は先へ向かって細くなっています。同館の解説は、この椅子が1960年のケネディとニクソンのテレビ討論に登場したことにも触れています。

オーク材の肘掛け椅子を斜め前から見た写真。背と肘掛けが一本の太い曲線でつながり、肘掛けの先が平たく広がる。座面は籐を編んで張られ、四本の脚は先細り。
ハンス・J・ウェグナー『丸い椅子(Armchair “JH 501”)』(1949年設計)、オーク材と籐、製作:ヨハネス・ハンセン、所蔵:ストックホルム国立美術館(Nationalmuseum、NMK 262/1956)。写真:Per-Åke Persson/Nationalmuseum(CC BY-SA 4.0)、同館ページに © Bildupphovsrätt i Sverige の表記あり。画像出典:国立美術館コレクションページ(引用)

組合の家具展と、年ごとの新作(1940年代後半)

丸い椅子の発表に先立つ1940年代、ウェグナーはヨハネス・ハンセン工房との協業で、組合の家具展に毎年のように新作を出していました。辞典によれば、ヨハネス・ハンセンとの協業は1941年に始まり、ウェグナーが手仕事で組み上げた家具は、ここですべて製作されました。そして辞典は、突破口となったのは1949年の家具展だったと記しています。

辞典は、1949年の突破口の前にも、ウェグナーが優美な桟の椅子や象嵌をほどこした収納家具で注目を集めていたと述べています。このとき、彫刻や糸のこで仕上げる細工は、ウェグナー自身が手がけました。同じ1949年の作品として辞典が挙げるのが、背の高い肘掛け椅子「Den store pindestol」(直訳すると「大きな棒の椅子」)です。編んだ座面と、高く弧を描く背の枠を、放射状に伸びる棒でつなぎ、支えが必要な箇所だけ棒の先を平たく広げています。装飾のための形ではなく、構造の必要から生まれた形です。ここにも、職人出身の設計者らしい考え方が表れていると考えます。

この時期の作品として、シカゴ美術館は、1949年設計の「折りたたみ椅子(Folding Chair)」を所蔵しています。オーク材とスペイン産の籐でできた椅子で、写真の個体は1956年ごろにヨハネス・ハンセンが製作したものです。座面と背に籐を編んで張り、左右の肘掛けには握り穴があいています。木の枠は細く、籐の編み目が面として見えるため、軽やかな印象です。

籐を編んだ座面と背を持つ木製の折りたたみ椅子。左右の肘掛けに握り穴があり、脚は斜めに交差して、背は緩やかに反っている。
ハンス・J・ウェグナー『折りたたみ椅子(Folding Chair)』(1949年設計、1956年ごろ製造)、オーク材とスペイン産の籐、製造:ヨハネス・ハンセン、所蔵:シカゴ美術館。画像出典:シカゴ美術館公式サイト(引用)

メトロポリタン美術館の所蔵品データからも、この時期の幅がわかります。1947年ごろの「四本脚のスツール」(オーク材と籐)、1950年の肘掛け椅子(チーク材、オーク材、籐)、1950年ごろの寝椅子(オーク材、籐、金属、ヨハネス・ハンセン工房の製造)が並びます。座る、くつろぐ、横になる。ウェグナーは、椅子の型を一つに絞らず、使う姿勢ごとに別の答えを用意していたようです。

もう一脚、1947年ごろの設計とされる「ピーコック・チェア」も見ておきましょう。シカゴ美術館の所蔵品データによれば、トネリコ材とチーク材、紙の紐(ペーパーコード)でつくられ、写真の個体は1969年にヨハネス・ハンセン工房が製造しています。扇のように広がる背の細い棒には、先が平たく広がる部分があり、羽根を思わせる形です。肘掛けだけが濃い色のチークで、座面には淡い色の紙紐が編まれています。同じ木の椅子でも、肘掛けだけ素材の色を変えて、全体の印象を引き締めているように見えます。

扇のように広がる細い棒の背を持つ明るい木色の肘掛け椅子。棒の途中が羽根のように平たく広がり、肘掛けだけが濃い色の木で、座面は淡い色の紙紐で編まれている。
ハンス・J・ウェグナー『ピーコック・チェア(Peacock Chair)』(1947年ごろ設計、1969年製造)、トネリコ材、チーク材、ペーパーコード、製造:ヨハネス・ハンセン工房、所蔵:シカゴ美術館。画像出典:シカゴ美術館公式サイト(引用)

メーカーとの仕事、Yチェアと成形合板の椅子(1950年代)

ウェグナーの名を世界に広めた椅子のうち、最も売れたのは、1950年のYチェアです。辞典はこれをオーデンセのカール・ハンセン&サン社のために設計した椅子と記し、ウェグナーの椅子のなかで最も売れたと述べています。Lexの図版説明によれば、名前の由来は、背の中央に立つ特徴的な背板の形です。メトロポリタン美術館の所蔵品データは、この椅子を「ウィッシュボーン・チェア」の名で、1949年設計、1950年ごろから1979年ごろに製造された、ブナ材とペーパーコードの椅子と記録しています。設計の年(1949年)と、発売の年(1950年)の違いと考えられます。カール・ハンセン&サン社は、この椅子が1950年から途切れずに生産されていると述べ、2024年には生誕110年を記念して、子ども用のウィッシュボーン・チェアも発表しています。一つの形が70年以上、作られ続けていることになります。

下の写真は、この椅子を、フィラデルフィア美術館が所蔵する個体で示したものです。館の記録では、カール・ハンセン&サン社の製造で、1960年ごろの作、クルミ材とペーパーコードとされています。笠木は両端が丸く膨らみ、その中央から、先が二股に分かれたY字の背板が座面へ下りています。座面にはペーパーコードが編まれ、脚の間には貫が渡されています。

背の中央にY字の背板が立つ木の椅子を正面から見た写真。笠木の両端は丸く膨らみ、座面には淡い色のペーパーコードが編まれ、脚の間に貫が渡っている。
ハンス・J・ウェグナー『ウィッシュボーン・チェア(Wishbone Chair、Yチェア/CH24)』(1950年発売、写真の個体は1960年ごろ製造)、クルミ材とペーパーコード(館の記録)、製造:カール・ハンセン&サン、所蔵:フィラデルフィア美術館(2014-94-2、Gift of Neil Sandvold, 2014)。画像出典:フィラデルフィア美術館公式サイト(引用)

カール・ハンセン&サン社の紹介によれば、同社の創業家の一人ホルガー・ハンセンは1940年代からウェグナーに注目し、ウェグナーが1943年に自分の事務所を構えたのち、協業が始まりました。短期間のうちに、ウィッシュボーン・チェアを含む四脚の椅子が生まれたとされています。工房での手仕事から、メーカーと組んだ生産へ。ウェグナーはこの二つを使い分けていました。

中国の椅子から丸い椅子とYチェアへ至る流れ図。1944年の肘掛け椅子、1949年の丸い椅子、1950年のYチェア、1952年のコホーン・チェア、1957年のタイア・チェアが並ぶ。
図:中国の椅子から、丸い椅子、Yチェアへ

辞典は、この系統の発展を、1949年の丸い椅子、1952年のコホーン・チェア(Kohorn)、1955年の金属の脚の事務用回転椅子、1957年のタイア・チェア(Tyre)とその変形へと追っています。事務用の回転椅子は、メトロポリタン美術館も1955年ごろの作品として、チーク材、革、金属の個体を所蔵しています。同時に、ウェグナーは別系統の椅子も試みていました。第二次世界大戦後にアメリカから入ってきた成形合板(薄い板を型に押し当てて曲げる技術)に関心を持ち、チャールズ・イームズの影響を受けながら、貝殻状の座を持つ椅子(シェルチェア)の変形をいくつも設計しています。

ここで、ヨハネス・ハンセンと、メーカーとの仕事の違いを整理しておきます。

ヨハネス・ハンセン工房での仕事と、メーカーとの仕事を比べた表。工房では手づくりの家具で丸い椅子など、メーカーとは工業生産を生かしたYチェアなど。手ごろな価格で届く点が異なる。
図:工房の仕事と、メーカーとの仕事

辞典は、メーカーが手がけたウェグナーの椅子が、価格が手ごろだったため広い層に届き、それがウェグナーの社会的な考えや、控えめで飾らない人柄に合っていたと記しています。「よいものを、多くの人の手に届ける」という考えは、いまのデザインにも通じる態度だと考えます。

もう一つ、1951年に設計されたとされる「パパ・ベア・チェア」も、この時期の代表作です。シカゴ美術館は、ウェグナー設計、アー・ペー・ストーレン(AP Stolen)社が1953年以降に製造した、木と布張りの椅子とオットマンを所蔵しています。大きく包み込む背もたれに対し、肘掛けの先が前方へ突き出していて、動物の前脚を思わせる形です。肘掛けの先端と脚が濃い木で、柔らかな布地との対比が目に入ります。

黄土色の布で覆われた大きな背もたれの肘掛け椅子とオットマン。肘掛けの先が前へ突き出し、先端だけが濃い色の木で、脚も濃い木色をしている。
ハンス・J・ウェグナー『パパ・ベア・チェアとオットマン(Papa Bear Chair and Ottoman)』(1951年設計)、木材と布張り、製造:AP Stolen(1953年以降)、所蔵:シカゴ美術館。画像出典:シカゴ美術館公式サイト(引用)

椅子だけではない仕事(1950年代〜1970年代)

「椅子の巨匠」と呼ばれるウェグナーですが、辞典は、ほかの家具でも優れた仕事を残したと強調しています。最も見事なものとして挙げられるのは、1950年の、ソファ用の小テーブルと裁縫台を兼ねた家具です。編んだ裁縫かごと引き出しを備えていました。机、造り付けの棚、収納家具、布張りの家具では、それぞれ別の製作者と長く協力したと辞典は述べています。

Lexによれば、ウェグナーは鋼材を使った仕事や、施設や企業のインテリア、食器、照明も手がけました。1962年のペンダント照明「ザ・ペンダント(The Pendant)」や、コペンハーゲンのホテル・スカンジナビアのために1970年代に設計した「オパラ(Opala)」シリーズなどがあり、多くの家具と同じく、いまも生産が続いているとされています。

メトロポリタン美術館には、1953年ごろの「ヴァレット・チェア」も収められています。オーク材、チーク材、真鍮、革でできた椅子で、ヨハネス・ハンセン工房の製造です。辞典はこの椅子を「ジャケットの休息(Jakkens hvile)」と呼び、笠木が上着を掛けるハンガーになり、折りたたみ式の座面の下に収納がある、と説明しています。椅子に「服を脱いで掛ける」という動作まで組みこむ発想は、使う人の一日をよく見ていたことの表れだと考えます。

受賞と評価

ウェグナーは生涯に多くの賞を受けました。辞典、Lex、カール・ハンセン&サン社の紹介のうち、複数の資料で確認できたものを表にまとめます。ミラノ・トリエンナーレのグランプリも受賞していますが、受賞の年を、カール・ハンセン&サン社は1951年、辞典は1953年と記しているため、表には入れていません。

年賞・称号
1951年フレデリック・ルニング賞(Lunning Prize)
1956年エッカースベア・メダル
1961年プリンス・オイゲン・メダル(スウェーデン)
1980年デンマーク家具賞
1982年C.F.ハンセン・メダル
1995年デンマーク王立芸術アカデミーの名誉会員
1997年ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(ロンドン)の名誉博士。大阪の国際デザイン賞(第8回)

辞典によれば、1951年のルニング賞の賞金で、ウェグナーは1953年にアメリカとメキシコを巡る研究旅行へ出ました。また、デンマークの工芸美術館は1942年に、ウェグナーの椅子を初めて収蔵しています。若い時期から、専門家の目に留まっていたことがわかります。ウェグナーの主な作品は、現在も世界各地の美術館が所蔵しています。

以上の事柄を、製作者の側から見直してみましょう。手仕事の工房と、メーカー。この二つの現場で、ウェグナーは「手の動きを知る人」として設計しました。これが、長く愛される理由の一つであると、編集部は考えます。

故郷への贈り物、水道塔の椅子とミュージアム・ウェグナー

1995年、トナーの古い水道塔に、ウェグナーの椅子の常設展示が開かれました。辞典によれば、7つのフロアに、1944年から1989年の間に設計された約40脚が並びます。デンマークのデザイン誌は、ウェグナー自身が「私のいちばんよい37脚」と呼んだ37脚を、1995年に故郷へ寄贈したと伝えています。脚数が資料で割れるため、ここでは「約40脚、あるいは37脚」としておきます。寄贈の背景について、トナー美術館の2014年の展覧会案内は、ウェグナーが何らかの形で故郷へ恩返しをしたかったからだと説明しています。故郷の町が、自分に家具職人の教育を与えてくれた、という思いです。

赤れんがの円筒形のトナーの水道塔を北東から見上げた外観。最上部はガラス張りで、足元に低い建物が接している。
トナーの水道塔(北東から)。撮影:Hjart/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

トナー美術館(Museum Sønderjylland)は、2026年10月時点で、大規模な改修のため休館中と公式サイトで案内しています。再開は2028年の予定です。水道塔の椅子の展示がこの休館の対象かどうかは、公式の案内では確認できませんでした。訪問を考える場合は、事前に公式の案内で確かめてください。

一方で、ウェグナーの名を冠した新しい美術館が動き出しています。ミュージアム・ウェグナー(Museum Wegner)は、トナー郊外の湿地にある歴史的な農場ヘストホルム(Hestholm)を改修してつくられる施設です。設計はコーベ(Cobe)で、同社のページによれば、農場の建物は1445年にさかのぼり、木造の増築を加える計画です。完成時の規模は約5,000平方メートルとされています。2026年10月時点で、ミュージアム・ウェグナーの公式サイトは、改修したヘストホルムで「ウェグナーの家具デザインを体験できる」と案内し、火曜から日曜の10時から17時の開館時間を載せています。サイトには「暫定的な美術館(Det midlertidige museum)」の項目があり、展示は「ウェグナーの設計過程」「暮らしのなかのウェグナー」と、ふだんは展示に上らない椅子の物語を紹介する特別展「Stole på podiet」の3本立てで、いずれも内容は順次追加とされています。

設計事務所のコーベは、ウェグナーが家具を「どの角度からも見られる立体」として考えていたと説明し、建物もそのように体験できるよう設計したとしています。背中側や脚の組み方まで丁寧につくるというウェグナーの態度を、建築の側が受け止めたものだと考えます。

ウェグナーに出会える三つの場所を示すカード図。トナーの水道塔の展示、新しいミュージアム・ウェグナー、メトロポリタン美術館やシカゴ美術館などの所蔵品。
図:ウェグナーに出会える三つの場所

アンネ・ブロンドは、Formkraftの記事で、ウェグナーの考え方を、地元での生産と確かな手仕事を重んじ、大量に売ることより、誰もが誇れるものをつくることを目標にした点にあると語っています(趣旨)。長く使われ、受け継がれる家具であることは、国連の持続可能な開発目標とも相性がよい、というのが彼女の見方です。ウェグナーの没後、まもなく20年になるいま、その考え方が改めて語られている。ここに、いまウェグナーを読み直す意味があると考えます。

まとめ

いかがだったでしょうか。ハンス・J・ウェグナーは、靴職人の家に生まれ、家具職人の修業から出発して、建築事務所での経験、中国の椅子の再解釈、丸い椅子とYチェアを経て、数百脚の椅子を残した設計者でした。手仕事の工房とメーカーの両方で仕事をし、「よいものを多くの人へ」という態度を、生涯貫いた人でもあります。

本記事は、確認できた事実だけを書いたため、有名な逸話のいくつかを載せていません。また、年や数字が資料ごとに割れる箇所は、そのことを本文で示しました。椅子の名作を知るだけでなく、「その椅子がどんな道筋で生まれたか」を知ることが、次に椅子を見るときの手がかりになれば幸いです。

Euphoric " " の視点

数百脚の椅子を手がけたウェグナーについて、デンマークのデザイン誌は、本人が「私のいちばんよい37脚」と呼んだ37脚を、1995年に故郷のトナーへ寄贈したと伝えています(脚数は資料により約40脚とも)。トナー美術館の展覧会案内は、その背景に、家具職人の教育を与えてくれた故郷へ恩返しをしたいという思いがあったと説明しています。

つくり続けてきた人ほど、自分の仕事から選び出すことは難しいのかもしれません。どれを残すかを決めることは、自分が何を大切にしてきたかを、言葉の代わりに示すことでもあると考えます。

しかもその選びは、自分を育てた場所に手渡されました。選んで渡すことで、仕事は次に学ぶ人の手がかりになるのだと思います。水道塔の椅子は、つくることと同じくらい、選ぶことも作り手の仕事なのだと教えてくれるように思います。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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