こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはドナルド・ジャッドという人物をご存知ですか?
20世紀後半のアメリカで活躍した彫刻家であり、家具のデザイナーでもあった人物です。金属や合板でできたシンプルな箱が、壁や床にきれいに並んでいる作品を、美術館で目にしたことがある方もいるかもしれません。
ジャッドは絵画から出発し、1960年代のはじめに立体作品へ進みました。さらに、自分の作品を長く置いておける場所をつくるために、ニューヨークの建物を買い、のちにテキサス州の小さな町マーファへ移って、美術館のような場をつくりあげました。
本記事ではそんなドナルド・ジャッドの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleドナルド・ジャッドって?

ジャッドは1928年にアメリカ中西部のミズーリ州で生まれました。ニューヨークで哲学と美術史を学び、美術批評を書きながら画家として活動し、1960年代のはじめに壁や床に置く立体作品へ移ります。上の図は、その歩みを5つの節目に絞ったものです。以降の章で、ひとつずつ見ていきます。
ジャッドの名前は、よく「ミニマリズム(ミニマル・アート)」の代表的な作家として語られます。ただしテート・モダンは、ジャッド本人がこの呼び名を強く拒んだと伝えています。自分の作品を「複雑な考えの、単純な表現」と呼んだとも紹介されています。この記事では、呼び名よりも、ジャッドが実際に何を作り、どこに置いたのかを中心に見ていきます。
基本情報
| 本名 | ドナルド・クラレンス・ジャッド(Donald Clarence Judd) |
| 生年月日(没年月日) | 1928年6月3日〜1994年2月12日(65歳没) |
| 国籍・出身 | アメリカ/ミズーリ州エクセルシオール・スプリングス(Excelsior Springs) |
| 学歴 | アート・スチューデンツ・リーグで絵画を学び、1953年にコロンビア大学で哲学の学士号を取得。のちに同大学で美術史の修士課程にも進みました |
| 分野 | 彫刻、家具、建築、美術批評、版画 |
| 傾向 | 工場で作る箱状の立体や、空間に長く置かれる大型の作品で知られます。ミニマリズムの代表格とされますが、本人はこの呼び名を拒みました |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | アート・スチューデンツ・リーグで画家のルイ・ブーシェらに、コロンビア大学で美術史家のメイヤー・シャピロやルドルフ・ウィットコウアーのもとで学びました |
同じ時代の作家や、ジャッドが関心を寄せたデザイナーについては、以下の記事でもご紹介しています。
経歴と作品
1. ミズーリに生まれ、哲学と美術を学ぶ(1928〜1957年)
ジャッドは1928年6月3日、ミズーリ州エクセルシオール・スプリングスで生まれました。父の仕事の関係で、家族はオマハ、カンザスシティ、フィラデルフィアなど、各地を移り住んでいます。ジャッドが最初に美術の教室へ通ったのは、1938年、オマハでのことでした。ジャッド財団の年表によれば、本や新聞の付録で見た昔の巨匠の絵を、写して覚えるところからのスタートでした。
1946年に高校を卒業するとすぐ陸軍に入り、1947年には朝鮮半島に駐留して、工兵隊で建物の施工にかかわりました。年表は、このときの現場経験と、土地の建物を学ぶ機会が、のちの建築への関心につながったと記しています。ジャッド自身も、陸軍にいた1947年、大学へ進む前に「建築家になるか、画家になるか」を決めようとしたと書いています。画家のほうへ心が傾いた決め手は、建築では依頼主や世間とやりとりしなければならないことでした。それは自分には難しいと感じたからだ、とも書き残しています。
除隊後の1948年には、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで、画家のルイ・ブーシェの人物画の授業を受けはじめます。1950年からはコロンビア大学のジェネラル・スタディーズ(General Studies)課程にも通い、1953年10月28日に哲学の学士号を取得しました(優等)。論理実証主義やプラグマティズム、デカルトやスピノザ、イギリス経験論の授業を受けたと、年表にあります。美術と哲学の両方を学んだことは、のちの、考えを言葉にして言い切る文章の下地になっていきます。
1950年代のジャッドは、風景をもとにした抽象的な絵画を描いていました。1955年にはニューヨークのパノラス・ギャラリーのグループ展で、画廊での展示を初めて経験します。1957年には同じ画廊で初の個展を開きました。この年の9月から、コロンビア大学で美術史の修士課程にも進んでいます。ルネサンスの建築の比例を論じたウィットコウアーの授業は、ジャッドの建築への関心を再び呼びさましたと、年表は述べています。
2. 批評家として、見る目を鍛える(1959〜1964年)
ジャッドが美術批評を書きはじめたのは、1959年のことです。コロンビア大学のシャピロの授業で、雑誌『ARTnews』が評者を探していると聞いて手を挙げたのがきっかけでした。同じ年に、画家の草間彌生の展覧会評を書き、草間の「無限の網」の絵を1点、4回の分割払いで買ったと年表にあります。
1959年12月から、ジャッドは『Arts Magazine』でも展覧会評を書きはじめ、この仕事は1965年3月まで続きました。43号に評が載ったと、本人が1974年に振り返っています。当時の原稿料は、300語の評で6ドルでした。ジャッド自身が、自分は生活のための仕事として批評を書いていたと語っています。
毎月のように展覧会を見て、短い言葉で評価を書く日々は、絵やものを「何が見えるか」から考える習慣をジャッドに与えたと思われます。ジョン・チェンバレンの作品の色や、ジャスパー・ジョーンズの展覧会、リー・ボンテクーの作品について、短くはっきりした言葉で評を書いています。のちにジャッドは、チェンバレンの作品を、ニューヨークのスプリング・ストリートの自宅と、マーファの両方に恒久的に設置しました。
3. 絵画から立体へ(1961〜1964年)
1960年前後のジャッドは、重なりあう曲線の形が画面で押しあう絵画を描いていました。年表によれば、1961年には絵の具に砂やろうを混ぜて、表面にざらつきをつけた作品にも取り組んでいます。また、1961年には、大工の技術を持つ父のロイ・ジャッドと一緒に木版に取り組みました。ロイは、のちのジャッドの初期の木製作品を組み立てる役割も担っています。
1960〜61年の木版『Untitled (S.22)』(ホイットニー美術館蔵、版は1978年に刷られたもの)は、この時期の関心がよくわかる1点です。赤く塗られた長方形の面の中に、ゆるやかにくびれた白っぽい曲線が、ひとつの閉じた輪郭を描いています。人物にも器にも見える形ですが、何かの絵ではなく、形そのものが主役になっています。

ジャッドは、1961年に最初の低いレリーフ状の作品をつくります。そのうちの1点では、失敗した絵のキャンバスを立ち上げようとしてもきれいに曲がらず、自然にカーブする亜鉛メッキの鉄板に替えました。ジャッドはこの経緯を、「低いレリーフから高いレリーフへ、そして自立する作品へ進んだ」と語っています。1962年には、油絵の具とろうを使ったキャンバスの絵を最後に描き、黄色いプレクシグラスの「O」の形を使った作品なども試しました。
1963年12月17日から翌1964年1月11日まで、ニューヨークのグリーン・ギャラリーで、ジャッドは初の個展『Don Judd』を開きます。壁に取り付けるレリーフ4点と、床に直接置く5点などが並び、ジャッドが父と一緒に作ったものでした。評は厳しいものが多かったものの、批評家のマイケル・フリードは『Art International』で「自信にあふれた、知的な展示」と評しています(原文は「assured, intelligent show」。年表からの参考訳)。
4. 「特定の物体」と、工場で作る箱(1964〜1968年)
1964年3月30日、ジャッドは、ニューヨークの板金工場バーンスタイン・ブラザーズに、木製の壁面作品を亜鉛メッキの鉄板でおおう注文を出しました。この工場に頼んだ最初の作品でした。以降、ジャッドは亡くなるまで、この工場と仕事を続けます。年表には、実際に作る職人として、ホセ・オテロの名前が挙がっています。ジャッド自身が、作品を作っているのは一人の職人、ホセ・オテロだと振り返っています。
ここで、ジャッドの作品づくりの大きな特徴が決まります。形を考えるのは作家で、手を動かして仕上げるのは専門の工場です。1966年にジャッドが初めてレオ・キャステリ画廊で個展を開いたとき、批評家のヒルトン・クレイマーは、「作品とは、作者が自分の手で作ったものなのか、それとも考えだけを出して、手や機械に任せたものなのか」という疑問を、展示を見て思い浮かべたと書いています(原文の趣旨。年表からの参考訳)。
1965年に、ジャッドは評論『Specific Objects(特定の物体)』を、雑誌『Arts Yearbook 8』に発表しました。この中でジャッドは、絵画でも彫刻でもない、新しい三次元の作品について書いています。次の2つの言葉がよく知られています。
「実際の空間は、平らな面の上の絵の具よりも、本質的に強く、特定的である」(原文は「Actual space is intrinsically more powerful and specific than paint on a flat surface.」。年表からの参考訳)
「全体としてのもの、全体としての質こそが、面白い」(原文は「The thing as a whole, its quality as a whole, is what is interesting.」。年表からの参考訳)
ジャッド自身は、のちにこの文章について、特定の教義を述べたものではなく、絵画でも彫刻でもないその種のものについて書いただけだと説明しています。この評論は、1960年代の新しい作品のあり方を言い当てた文章として、いまも広く読まれています。

ジャッドの代表的な作品の形には、いくつかの型があります。ジャッド財団の年表やホイットニー美術館の解説をもとに、主なものを整理しておきます。
| 型 | 特徴 |
|---|---|
| スタック(stack) | 壁に取り付ける、同じ形の箱を縦に積み重ねた作品。ほとんどは10個の同じ箱でできており、箱と箱のすき間は、箱ひとつの高さとそろえる決まりです(年表の定義) |
| プログレッション(progression) | 梁に取り付けた箱を、数学的な原理にしたがって並べた作品(ホイットニー美術館の解説) |
| 床置きの箱 | 台座を使わず、床に直接置く作品。空間と、見る人の体に直接向き合います |
| 屋外の作品 | 1971年に最初のコンクリートの屋外作品をつくり、のちにテキサス州の広い土地へ展開しました |
『Untitled』(1966年)
ホイットニー美術館が所蔵する1966年の無題の作品は、塗装したアルミニウムでできています。青緑色に塗られた横長の枠の中に、細い面が左右の端と床に沿って何本も並んで見え、内側の空間まで見通せるつくりです。箱は閉じた塊ではなく、中の空間まで含めて作品であることが、この1点からよくわかります。色を塗った面そのものを、作品の見どころにしている点も特徴です。

1968年2月27日には、ホイットニー美術館で、1962年から1968年までのジャッドの作品を一望する展覧会が開かれました。学芸員のウィリアム・C・アジーが企画し、ジャッドは40歳で、大きな美術館での個展を実現しています。同じ年、ジャッドはグッゲンハイム・フェローシップにも選ばれ、ドクメンタ4(カッセル)にも5点の大きな作品を出しました。
5. ニューヨークの建物と、素材の広がり(1968〜1972年)
『Untitled』(1968年)
1968年の無題の作品も、ホイットニー美術館に収められています。ステンレスとプレクシグラスでできた床置きの箱で、美術館は、琥珀色(アンバー)の透明なプレクシグラスを使ったこの作品が、開いた体積と閉じた体積の複雑な関係を見せていると解説しています。手前の端はステンレスの面に長方形の開口があり、側面と上面は橙色の透明な板でできています。ステンレス、塗装したアルミニウム、プレクシグラスなど、ジャッドが選んだ素材の質感や色が、作品の見え方を決めていることがわかります。

1968年11月26日、ジャッドは、ニューヨークのソーホー地区にある鋳鉄造の建物、101 Spring Streetを買いました。1870年にニコラス・ホワイトの設計で建てられた5階建てで、購入額は6万8千ドルでした。ジャッドは、各階に別々の使い方を決めて改修を進め、自分の作品と他の作家の作品を、長く置いておく場所にしていきます。
この建物は、ジャッドの「作品を恒久的に置く」という考え方が育った場所です。ジャッドは、「大きな恒久設置という考えは、ニューヨークの19番通りのロフトで始まり、1968年に買った建物で発展した」と書いています(財団の年表の引用からの参考訳)。作品は、展覧会が終われば片づけられるものではなく、置く場所とセットで考えるものだ、という発想です。
ソーホーの街を守る活動にも、ジャッドは加わりました。1969年には、ニューヨークの下町を横切る高速道路の計画に反対する「Artists Against the Expressway」を結成し、この計画は同じ年の7月に退けられました。1973年には、市長に手紙を書き、ソーホーの鋳鉄造建築を歴史地区に指定するよう求めています。同じ年のうちに、101 Spring Streetは、新しくできたソーホー鋳鉄歴史地区の一部として指定されました。
1970年には、オランダのアイントホーフェンにあるファン・アッベ美術館で、ヨーロッパで初めての大きな回顧展が開かれました。1970年代には、合板を使った大きな作品にも取り組みます。合板は、ほかの素材より費用を抑えて大きな作品を作れるうえ、色や木目といった本来の質も気に入っていたと、年表は伝えています。
6. テキサス州マーファへ(1971〜1986年)

ジャッドは1971年11月、ニューヨークから飛行機でテキサス州のエルパソへ向かい、リオ・グランデ川のビッグ・ベンド地方まで車で走りました。地図を見ていて、南西部のテキサスは人が少ないと思い出したのが理由だったと、のちに語っています。きっかけは、パサディナ美術館の館長が、大きな作品を1年以内なら好きな場所に運んでくれると申し出たことでした。
1972年1月にはマーファへ戻り、1973年10月には、町にあった、かつて飛行機の格納庫だった建物2棟を4万ドルで買います。この建物が、のちに「ザ・ブロック(La Mansana de Chinati)」と呼ばれる敷地の一部になりました。ジャッドは1974年から、東側の建物に作品を置きはじめています。1977年の5月までには、マーファに拠点を落ち着け、「ザ・ブロック」の工事を見ながら暮らしていました。
1977年には、自分の作品と、他の作家の作品を、適切な場所に置いて残すための財団の構想も書いています。「この財団の目的は、私の作品と他の人の作品を、私がふさわしいと考える空間のなかで保存することだ」と述べています(年表の引用からの参考訳)。ジャッドは、のちの1986年にマーファでチナティ財団を設立します(次の章)。
1978年6月、ジャッドは、フィリッパ・ド・メニルとハイナー・フリードリヒが立ちあげたダイア・アート財団と話し合いを始めます。この「マーファ計画」は、のちにチナティ財団(Chinati Foundation/La Fundación Chinati)という名前に落ち着きました。1979年1月には、ダイアがジャッドの作品44点の制作費を負担する最初の契約が結ばれ、ダイアは旧陸軍施設フォート・D・A・ラッセルの建物を取得して、作品を置く場にしていきます。
7. チナティ財団の作品(1980〜1987年)
チナティ財団の公式サイトによれば、1986年にジャッドがテキサス州マーファに財団を設立し、1987年に独立した非営利の美術館として一般公開されました。敷地は、旧フォート・D・A・ラッセルの340エーカー(約138ヘクタール)におよびます。ジャッドが目指したのは、美術と建物と土地をひとつのまとまりにして、選ばれた作家たちが、自分の考えどおりに作品を見せられる場所でした。
ジャッドは1987年の「チナティ財団についての声明」で、こう書いています。「この時代と場所の芸術のために、きびしい物差しが、どこかに存在しなければならない」(原文は「a strict measure must exist for the art of this time and place」。チナティ財団の公式ページからの参考訳)。作品がいつも動かされ、展示が入れ替わる世界に対して、ひとつの基準になる場所をつくる、という宣言です。
『15 untitled works in concrete』(1980〜1984年)
敷地の境界に沿って並ぶ15点のコンクリート作品は、チナティの美術館で最初に設置された作品です。1980年から1984年の4年間をかけて、現場で型枠に流しこんで組み立てられました。ひとつひとつの箱は、2.5メートル×2.5メートル×5メートルで、厚さ25センチのコンクリートの板でできています。草原に同じ大きさの箱が連なり、箱の開口部から向こう側の空と草原が見えます。制作費は、ダイア・アート財団が負担しました。

『100 untitled works in mill aluminum』(1982〜1986年)
チナティの収蔵品の中心にあるのが、2棟の元・砲兵用の倉庫に置かれた、ミルアルミニウム(工場で製造されたままの仕上げのアルミニウム)の100点です。100点はいずれも外形が同じ(41×51×72インチ)で、内側の構成だけが1点ごとに違います。制作はコネチカット州のリピンコット社が行い、1982年から1986年にかけて設置されました。
ジャッドは、この2棟の建物にも手を入れました。壊れかけていた車庫の扉を、四角い格子の連なる長い窓の壁に替えて、光が差しこむ空間にしています。元の平らな屋根の上には、亜鉛メッキの鉄でできたかまぼこ形の屋根をかぶせ、建物の高さを倍にしました。作品と建物が、ひとつのものとして考えられていることがわかります。

なお、2026年10月時点で、チナティ財団の公式サイトは、この2棟の「アルミニウム100点」を収めた建物が、大規模な修復のため一般公開を停止していると案内しています。一方、15点のコンクリート作品は、開館時間中、トレイルを歩いて無料で見ることができます。訪れる際は、最新の案内を確認してください。
チナティには、ジャッドの作品のほかに、ダン・フレイヴィンの蛍光灯の作品や、ジョン・チェンバレンの彫刻、クレス・オルデンバーグとコーシャ・ファン・ブリュッヘンの作品などもあります。ジャッドは、自分の作品だけでなく、考え方を共有できる作家の仕事を、同じ場所に恒久的に置くことを大切にしました。
8. 家具と建築(1970年代〜1989年)

ジャッドは、家具のデザイナーとしても知られています。ジャッド財団によれば、1970年代のはじめ、ニューヨークの101 Spring Streetのために、木のベッドと金属の洗面台をデザインしたことが始まりです。1977年には、マーファの自宅のために、必要に迫られて家具のデザインに戻りました。
地元の大工のメディアノ兄弟と一緒に、「ザ・ブロック」のための机、いす、ベッド、テーブル、階段、棚、台所のカウンターなどを作ったと、年表にあります。1984年までに、木製ではベッド、机、ベンチ、いす、棚を、金属製ではいす、ベンチ、ベッド、テーブルをデザインしました。同じ年には、ニューヨークのマックス・プロテッチ画廊で、金属製の家具の最初の展覧会も開いています。
家具の考え方は、1986年に書いた「On Furniture」によく表れています。「いすの芸術は、芸術に似ていることではなく、一部は、いすとしての合理性、使いやすさ、そして大きさにある」と書いています(原文は「The art of a chair is not its resemblance to art, but is partly its reasonableness, usefulness, and scale as a chair」。年表からの参考訳)。作品のように見せるのではなく、いすとして正しく使えることを、芸術の一部として考えていたことがわかります。
ジャッド財団の解説によれば、寸法、素材、仕上げ、組み立て方まで、ジャッドは1点ごとに細かく指定していました。作る職人も自分で選び、直接やりとりして品質を確かめたといいます。流通を少量にとどめることも、ジャッドが大切にした条件でした。ジャッドの家具は、現在も財団が、ジャッドの指定どおりに制作を続けています。
建築にも、ジャッドは関心を持ち続けました。1989年11月6日には、マーファの旧マーファ・ナショナル銀行の建物を買い、「建築スタジオ」としました。年表によれば、ここにはジャッド自身の家具のほか、アルヴァ・アアルト、マルセル・ブロイヤー、ヨーゼフ・ホフマン、ヘリット・リートフェルト、ミース・ファン・デル・ローエといった、20世紀の名デザイナーたちの家具も並べられました。自分の作品だけでなく、同じ関心を持つデザイナーの仕事も、同じ空間で使い、見せていたことがわかります。
9. 晩年と、没後の評価(1988年〜)
1988年には、ホイットニー美術館で2度目の大きな個展が開かれました。学芸員はバーバラ・ヘスケルで、展覧会はテキサスのダラス美術館にも巡回しています。3つの部分からなる大きなコンクリート作品や、ダグラスファーの合板とプレクシグラスを組み合わせた壁面の作品、ジャッドが設計した家具などが並びました。ジャッド自身も、ヨーロッパ各地で展示の設営を見て回るなど、世界中で展覧会に関わっています。
1989年2月23日のダラスでの講演では、自分の美術と建築を、80枚のスライドを使って40分で紹介しています。同じ1989年6月には、メキシコとの国境から約7マイルの場所にある土地(ラス・カサス)も買い、3棟の建物を住まい、スタジオ、宿舎として改修しました。生涯をかけて、「作品と、それを置く場所と、暮らす場所」をつくりつづけたことがわかります。
ジャッドは1994年2月12日に亡くなりました。遺言により、財産の大部分は、ジャッド財団が受け継ぎました。ジャッド財団は、ニューヨークの101 Spring Streetとマーファの建物を、ジャッドが置いたままの姿で保存し、見学を受け入れています。
ジャッドの個展は、世界の美術館で開かれてきました。ジャッド財団の紹介では、主な展覧会として、ホイットニー美術館(1968年、1988年)、オタワのカナダ国立美術館(1975年)、アイントホーフェンのファン・アッベ美術館(1970年)、ロンドンのテート・モダン(2004年)、ニューヨーク近代美術館(2020年)が挙げられています。テート・モダンの2004年の展覧会は、ジャッドの没年までを通して追った、1988年以来初めての本格的な立体作品の回顧展と紹介されています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ドナルド・ジャッドは、哲学と美術史を学び、批評を書いたあとで、絵画から立体へ進んだ作家でした。壁や床に置かれた箱は、工場で正確に作られ、中の空間まで含めて見る人に差し出されます。ジャッドが書いた「実際の空間」という言葉は、作品を言葉で説明するより先に、その場にあるものを見ることを促しているように思えます。
さらにジャッドは、作品を作るだけでなく、置く場所を自分で選び、買い、整えました。ニューヨークの鋳鉄造の建物、マーファの格納庫や砲兵用の倉庫、そしてチナティ財団。作品、建物、土地を、ひとつのまとまりとして考えたことが、ジャッドの仕事の大きな特徴です。家具の仕事も含めて、日常の使い方にまで同じ考えを広げた作家だったといえます。
ジャッドの作品に出会う機会があれば、ぜひ、箱のまわりをゆっくり歩いてみてください。見る位置を変えると、内側の空間や光の入り方が、少しずつ変わっていくはずです。
Euphoric " " の視点
ジャッドの歩みには、自分以外の作家の作品が、たびたび登場します。
1959年、ジャッドは草間彌生の展覧会評を書き、草間の「無限の網」の絵を1点、4回の分割払いで買いました。
のちにジャッドは、ジョン・チェンバレンの作品を、スプリング・ストリートの自宅とマーファの両方に恒久的に設置しました。1977年の財団の構想には「この財団の目的は、私の作品と他の人の作品を、私がふさわしいと考える空間のなかで保存することだ」と書いています。チナティにはダン・フレイヴィンの蛍光灯の作品も置かれ、建築スタジオにはアアルトらの家具が並びました。
ジャッドにとって作品は、ひとりで完結するものではなく、考え方を共有できる仕事と同じ場所に並ぶことで生きるものだったのかもしれません。批評家として他人の作品を見てきた作家が、見せる場所をつくる人になった。作ることと見ることは一続きだと考えます。
この作品を見に行くには
チナティ財団の作品(15点のコンクリート作品)は、開館時間中に無料で見られます(2026年10月時点。アルミニウム100点を収めた建物は修復のため非公開)。ホイットニー美術館が所蔵する3点の作品は、同館の作品ページで2026年10月時点で「展示中ではない」と案内されています。最新の情報は公式サイトをご確認ください。






