こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジャン・ヌーヴェルという人物をご存知ですか?
1945年にフランスで生まれた建築家で、2008年にプリツカー賞を受けています。パリのアラブ世界研究所(1987年)、カルティエ現代美術財団、スイスのルツェルン文化会議センター、バルセロナのトーレ・アグバール、アブダビのルーヴル・アブダビなど、世界の都市に大きな建物を残してきました。日本でも、東京の電通本社ビル(2002年)を手がけています。
本記事ではそんなジャン・ヌーヴェルの人生と作品についてご紹介します。ヌーヴェルは存命の建築家のため、建物の写真は撮影者がライセンスを明示した外観写真だけを使い、そのほかは図解と表で補っています。権利の確認が取れた図版のみ掲載しています。
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Toggleジャン・ヌーヴェルって?
ヌーヴェルの仕事を一言で説明するのは、実は難しい作業です。プリツカー賞の審査員は、ヌーヴェルにとって建築には、あらかじめ決まった様式がないと評しました。文化、場所、用途、依頼主までを含む広い意味での「文脈」が、プロジェクトごとに違う戦略を引き出すというのです。
この記事では、生涯の歩みを時代ごとにたどりながら、作品を事務所や賞の公式サイトなどの一次情報で確かめて紹介します。読み進めるときの手がかりは、文脈、光と透明・不透明、消える建築の3つだと考えます。プリツカー賞の公式サイトは、光と、透明と不透明の層の操作がヌーヴェルの作品に繰り返し現れるテーマだと述べています。
基本情報
| 本名 | ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel) |
| 生年月日(没年月日) | 1945年(存命) |
| 国籍・出身 | フランス/南西部のフュメル生まれ(事務所の公式略歴、プリツカー賞の公式サイト) |
| 学歴 | 1966年にパリの国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)の入学試験で1位となり、1971年に修了(事務所の公式略歴。資料により1972年とするものもあります。ボルドーでの就学は、事務所の略歴が入学したと記す一方、プリツカー賞の公式サイトは入試に落ちたと記すため、ここでは断定しません) |
| 分野 | 建築(展示、内装、家具の設計も手がける) |
| 傾向 | 場所や用途ごとに方法を変える。光、透明と不透明の重なり、建物が背景に溶けて見えるような表現が繰り返し現れる |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 建築家クロード・パラン(助手を務めた)、都市計画家・思想家のポール・ヴィリリオ(事務所の公式略歴が「着想を得た」と記す)。日本大百科全書は、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』に感銘を受けたとも記しています |
| 現在の活動(2026年10月時点) | パリの設計事務所 Ateliers Jean Nouvel(アトリエ・ジャン・ヌーヴェル)の名で活動。公式サイトのニュースには、2025年のカルティエ財団の開館や、2026年の上海での回顧展の項目が載っています |
建築家について知りたい方は、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。
経歴と作品
フュメルからパリへ(1945〜1970年代)
ヌーヴェルは1945年、フランス南西部のフュメルに生まれました。少年期は、本人が「建築の多い中世の町」と呼ぶサルラで過ごしています。プリツカー賞の公式サイトは、このころ本人がたびたび映画館へ抜け出していたと伝え、のちの仕事で重要になる影響だと述べています。
事務所の公式略歴によると、1966年にパリの国立高等美術学校(ボザール)の入学試験で1位になり、1971年に修了しています。ボルドーのボザールに入学したと記す略歴と、ボルドーの学校の入試に落ちたと記すプリツカー賞の公式サイトとで、ボルドー時代の記述は食い違っています。同じ略歴によると、ヌーヴェルは建築家クロード・パランの助手を務め、都市計画家で評論家のポール・ヴィリリオに着想を得て、1970年に最初の設計事務所を開きました。プリツカー賞の公式サイトは、学生のころに二人の事務所で働き、1年ほどで80戸の集合住宅のプロジェクト担当になったと記しています。
日本大百科全書は、パランとヴィリリオが唱えた「斜めの機能」の考え方が、初期のヌーヴェルの作品に影響したと解説しています。例として挙げられているのが、傾斜した打ち放しコンクリートでつくられた1973年のデルビゴ邸です。
1960年代末から1970年代は、建築家としての立場を社会に向けて示す時期でもありました。日本大百科全書によると、ヌーヴェルは1968年のパリ五月革命に加わり、1976年には建築家の運動「Mars 1976」に参加し、1977年には建築家組合の設立メンバーになりました。事務所の公式略歴は、Mars 1976 の目的を、建築家の同業者意識(コルポラティズム)に反対することだと説明しています。
展示の仕事も大きな意味を持ちました。プリツカー賞の公式サイトによると、パランの推薦でパリ・ビエンナーレの責任者を務めることになり、およそ15年にわたって展示の設計を手がけ、美術や演劇の世界に多くの知り合いができたといいます。日本大百科全書は、1980年からパリ・ビエンナーレの芸術監督を務めたと記し、1991年にはフランス建築研究所(IFA)の副総裁になったとしています。
事務所の歩みと、言葉への信頼(1970〜1994年)

プリツカー賞の公式サイトによると、ヌーヴェルは25歳までにフランソワ・セニュールと共同で事務所を持ち、1972年から1984年にかけては、ジルベール・レゼネス、ジャン=フランソワ・ギヨ、ピエール・ソリアと順に組みました。1985年には、若い設計者3人とジャン・ヌーヴェル・エ・アソシエを設立し、1988年にはエマニュエル・カッタニと JNEC を結成します。そして1994年に、ミシェル・ペリシエとアトリエ・ジャン・ヌーヴェルを創設しました。現在の事務所名は、この1994年の名前を受け継いでいます。
ヌーヴェルは、概念的な建築家と評されてきたことに触れ、言葉への信頼を語っています。プリツカー賞の公式サイトが引く本人の言葉(原文は英語、訳は編集部)は、次のとおりです。
「批評家は私を概念的な建築家、つまり図面よりも言葉で仕事をする建築家だと定義してきました。図面は、創作の過程で物事を早く固定してしまうので信用しません。言葉は解き放ちます。建築家とは、何かを語る人だと私は考えます」
同サイトは、ヌーヴェルが建築と映画の近さを繰り返し語り、建築家の役割を映画監督にたとえてきたとも伝えています。建築は映画と同じく、時間と動きの次元に存在し、建物は連続する場面(シークエンス)として考え、つくり、読むものだ、という趣旨です(原文は英語)。この考え方は、あとで見るリヨン・オペラ座の、エスカレーターや空中の通路をたどって客席へ進む動線にも通じると考えます。
パリで世に出る(1980年代)
『アラブ世界研究所』(1987年)
ヌーヴェルを国際的に知らせた作品が、パリのセーヌ左岸に建つアラブ世界研究所です。プリツカー賞の公式サイトによると、1981年にミッテラン大統領が進めた最初の「グラン・プロジェ」の一つとして依頼され、1987年に完成しました。博物館、図書館、企画展示室、資料センター、450席の講堂などを含みます。設計は、ヌーヴェルが代表となり、ジルベール・レゼネス、ピエール・ソリア、アーキテクチュア・ステュディオと共同で進めました。

事務所の公式作品ページに載るヌーヴェル自身の文章は、この建物を「アラブの建物ではなく、西洋の建物」だと言い切っています(原文は英語、訳は編集部)。文章はこの建物を、パリにおけるアラブ世界のショーケースだとも書いています。アラブ風を装う建物ではないという立場です。依頼したアラブ19か国の代表は驚き、パリのモスクのような模倣を望んだ人もいたといいます。一方で、さまざまな形と大きさの多角形でアルハンブラ宮殿を思わせる幾何学模様をつくる格子細工「ムシャラビーヤ」の要素は、気に入られたと書かれています。
建物は、南と北で表情が違います。南側の壁には、カメラの絞りのように開閉する電動の開口部が並びます。ヌーヴェルはこれを、東の文化の現代的な表現だと説明します。北側は、セーヌ対岸のパリの街並みの像がガラスに焼き付けられ、西の文化を映す鏡の役割を果たします。この建物を、二つの文化と二つの歴史をつなぐ蝶番として見ているのです。プリツカー賞の公式サイトは、南側の開口部が光量に応じて自動で開閉すると説明しています。日本大百科全書は、この壁が光を調節するハイテク風の設計であると同時に、イスラムの幾何学模様を連想させる装飾性を持つと述べています。
ヌーヴェルは、展示ケースや座席など、博物館の家具まですべて自分で設計したと書いています。この仕事を通じて、光というテーマを考え始めたとも述べています。光は南の壁だけでなく、階段の重なり、輪郭のにじみ、反射や影にも現れるといいます。
この建物は1987年にエケール・ダルジャン賞(フランスの優れた建物に贈られる賞)を受け、1989年にはアガ・カーン建築賞を受けました。審査員は、設計のすべてが成功したわけではなく、ときに使うのが複雑すぎる面もあると認めたうえで、「フランスとアラブの文化をつなぐ、成功した橋」としての役割を評価しています(原文は英語、訳は編集部)。
『ニームの集合住宅 NEMAUSUS』(1987年)

同じ1987年に、南仏のニームで実験的な集合住宅も完成しました。事務所の公式作品ページによると、1985年から87年にかけて、114戸の住宅と139台分の駐車場をつくったものです。日本大百科全書は、住宅で使われない工場の外部階段やオフィス用のパーティションを使った点に注目しています。
ヌーヴェル自身の文章は、社会住宅の規格を捨てたと述べています。同じような住戸を量産する流れに対し、すべての住戸を通り抜けにして風を通し、すべての住戸に大きなテラスを付け、台所と食堂を分けない60平方メートル近い続き間を設けました。さらに、単層、メゾネット、トリプレックスと住戸の型を変え、入居者が選べるようにしたことを、将来の住人への敬意の表れだと説明しています。良い部屋とは大きな部屋のことだ、という書き出しも、広さを美の前提にした建物であることをよく表しています。
『ホテル・サン=ジェームズ』(1989年)
ボルドー近郊の小さな村ブイアックでは、ブドウ畑の広がるガロンヌ川流域を見渡すホテルを手がけました。事務所の公式作品ページが引く解説によると、高さは最大でも3階の小さな建物4棟で構成され、客室は18室、2つとして同じ間取りがありません。外側の金属の格子は、この地方のタバコ乾燥小屋を思わせる錆びた色をあえて選んだと書かれています。この作品は1990年にアーキテクチュラル・レコード賞を受けています(事務所の公式略歴)。
劇場と財団、そして「消える建築」(1990年代)
『無限の塔』(1989〜92年の計画案)
1989年に、パリ近郊のラ・デファンスの超高層ビルの設計競技で勝ったのが無限の塔(トゥール・サン・フィン)です。高さ400メートルで、当時のヨーロッパで最も高い建物になるはずでした。ただし、この塔は建てられていません。プリツカー賞の公式サイトは、審査員が注目したのは高さよりも外皮の変化だったと述べます。外皮は上へ向かうほど、花崗岩、アルミニウム、ステンレス、ガラスと素材を変え、少しずつ透け、空に消えていくという構想でした。
ヌーヴェル自身の文章は、塔を問いの形で語ります。塔は「限界についての問い」であり、地面と最上部という普通の答えを捨てて、「地面に消え、空に消える」塔を提案するというのです(原文は英語、訳は編集部)。のちに見る「消える建築」を象徴する案です。
『リヨン・オペラ座』(1993年)
フランスのリヨンでは、19世紀に建てられたオペラ座を改修しました。事務所の公式作品ページによると、1986年に始まり1993年に完成した仕事です。既存の建物の外壁を残したまま、その上に半円筒形のガラスの大きな屋根を載せ、高さを倍にしました。ガラスは二重になり、間に空気が通る構造です。
中の客席ホールは、黒くなめらかな大きな外殻が、空洞の中に宙づりになっているように見えるつくりです。木と革の箱のようなホールは、イタリア式劇場の親密さを残しつつ、席数を900から1,300に増やしました。同じ大きさの6層のバルコニーが重なり、公式作品ページは、舞台の眺めが「完全に民主的」だと説明しています(原文は英語)。日本大百科全書は、ヌーヴェルが谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に感銘を受け、このオペラ座などで、闇の中の光の効果を追求したと記しています。この建物は1993年のエケール・ダルジャン賞を受けました。
日本との縁では、1986年の東京のオペラハウス(第二国立劇場)の設計競技にも案を出しています(実現せず)。日本大百科全書は、黒い塊のような案だったと記しています。
『カルティエ現代美術財団』(1994年)
パリのラスパイユ大通り261番地に1994年に開いたのが、カルティエ現代美術財団の建物です。公式作品ページによると、1991年から94年にかけてつくられ、敷地を長く覆っていた不透明な壁を、高さ8メートルのガラスの壁に置き換えました。入口では、「シャトーブリアンの杉」と呼ばれる1本の木(原文は Chateaubriand Cedar)を2枚のガラスのスクリーンが縁取り、訪れた人はその木の下を通って、ガラスの展示ホールのまわりに立つ木々を見ることになります。夏には大きな引き戸が消え、ホールは公園の延長になります。ヌーヴェルは、建物の確かな輪郭をぼかし、固い塊としての読み方を不要にすることが、ここでの「ゲーム」だったと書いています。
日本大百科全書は、この建物を、通り沿いに巨大なガラスのファサードを立て、およそ半分の体積を地下に埋め、ガラスのスクリーンに自然を映す建物だと解説します。財団は、この建物が展示空間の「ホワイトキューブ」から離れ、庭と街に開く材料を選んだと説明しています。庭は、ドイツの美術家ロタール・バウムガルテンの『テアトルム・ボタニクム』です。
『ギャルリー・ラファイエット・ベルリン』(1996年)
ベルリンの中心、フランス通りに1996年に完成した百貨店です。公式作品ページによると、1991年から96年にかけての仕事で、フリードリヒ通りの屋外空間を店内に延ばすことをめざしました。日本大百科全書は、万華鏡のような円錐形の吹き抜けが複数の階を貫くと述べます。ヌーヴェルの文章では、2つの大きな鏡の円錐が店の中心にあり、そこにキャンペーンの映像が歪んで映ります。
『ルツェルン文化会議センター(KKL)』(2000年)

スイスのルツェルンでは、1989年に始まった計画が2000年に完成しました。1,900席の交響楽ホール、900席の多目的ホール、300席の会議ホール、美術館などを含む複合施設です。事務所の公式作品ページが引く解説(建築評論家コンウェイ・ロイド・モーガン『ジャン・ヌーヴェル 建築の要素』の抜粋)によると、ヌーヴェルが出発点としたのは「包含の原理」で、主役は湖でした。建物が岸に届かないなら、湖を建物に呼び込むという考え方です。
そこで建物の背骨を湖から離して置き、2つのホールと会議センターを湖に向かって突き出しました。それぞれの間には水の帯、いわば「水の庭」が走り、歩行者用の橋が渡ります。全体を覆うのは、主立面から20メートル張り出す大きな傾いた銅の屋根で、湖の対岸からも目印になります。ホールの音響は、アメリカの音響技術者ラッセル・ジョンソンらと検討し、石膏張りのコンクリートの扉をコンピューター制御で0度から90度まで開き、残響室の響きを調節する仕組みを設けました。
ヌーヴェルは、この建物を風景を切り取る枠として語ります。ロビーからは町全体が見えるという趣旨の発言を、プリツカー賞の公式サイトが紹介しています(原文は英語)。審査員は、このKKLと、カルティエ財団、無限の塔を並べ、建築の「非物質化」を感じさせる作品だと評しました。KKLは、2001年にボッロミーニ賞を受けています(事務所の公式略歴)。

世界へ広がる仕事(2000年代)
2000年代に入ると、ヌーヴェルの受賞が続きます。事務所の公式略歴によると、2000年にヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の金獅子賞、2001年に英国王立建築家協会(RIBA)のロイヤル・ゴールド・メダルと世界文化賞(Praemium Imperiale)、2005年にウルフ賞、2008年にプリツカー賞を受けています。一覧は、あとの表にまとめました。
『トーレ・アグバール』(2005年)

バルセロナの高さ142メートルの塔です。水道会社アグバール(アグアス・デ・バルセロナ)の本社と、350席の講堂を含み、1999年から2005年にかけてつくられました。ヌーヴェル自身の文章は、書き出しで「これは塔ではない」と述べ、アメリカ式の超高層ではなく、おだやかな街の中心に立ち上がる「出現」だと説明します。細い尖塔や鐘楼とは違い、間欠泉のように地面から噴き出す、柔らかな塊だといいます。
表面は水を思わせ、なめらかで連続し、きらめきながら透けて、色と光の細かな違いで素材が見えてきます。石の重さを持たない、大地の建築だとも書かれています。この塔は、2006年のインターナショナル・ハイライズ賞(フランクフルト)を受けています(事務所の公式略歴)。
『ケ・ブランリ美術館』(2006年)
パリのセーヌ河岸に建つこの美術館は、アフリカ、オセアニア、アジア、アメリカ大陸の先住民の芸術を収める施設です(プリツカー賞の公式サイト)。事務所の公式作品ページでは、1999年から2006年の仕事で、ヌーヴェルは「存在と不在、あるいは選択的な非物質化」という題の文章を寄せています。構造、設備、非常階段、展示台などは、聖なる作品に向き合うとき、視界からも意識からも消えるべきだと考え、最先端の技術で、とても大きく透明な窓に巨大な写真を印刷し、木のようにランダムに立つ高い柱を置き、木の日よけに太陽光発電のセルを載せました。パリの庭を「聖なる森」に変え、その奥で美術館が溶けていくような詩を発明したい、という趣旨のことが書かれています。
『ガスリー劇場』(2006年)
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アメリカのミネアポリスでは、1,100席、700席、250席の3つのホールを持つ劇場を設計しました(2001〜06年)。プリツカー賞の審査員は、この劇場を、周囲の街やミシシッピ川に溶け込みつつ対比もする建物で、劇場性と上演の魔法の世界の表現でもあると評しています。
日本とのかかわり、そのほかの作品
東京の汐留にある電通本社ビルは、1998年に始まり2002年に完成した作品です。日本大百科全書は、超高層が空の色に少しずつ溶けていく無限の塔のアイデアが、このビルに引き継がれたと解説しています。2001年の「東京・台場のグッゲンハイム美術館計画」では、建築の存在を人工の山の中に隠す案を出しました(実現せず)。事務所の公式作品ページには、人工の起伏の下に大空間をつくり、桜やカエデを植える構想が書かれています。
ほかにも、マドリードのレイナ・ソフィア美術館の増築(1999〜2005年)では、屋根を赤い煉瓦色の「翼」にたとえています。
高層、美術館、そして再びパリへ(2010年代〜現在)
『ワン・セントラル・パーク』(2014年)

オーストラリアのシドニーでは、植物に覆われた2つの集合住宅の塔をつくりました(2008〜14年、623戸)。公式作品ページによると、フランスの植物学者で美術家のパトリック・ブランとの協働で、壁面のおよそ半分に垂直の庭を設けました。公園の緑が、そのまま建物の上へ延びるという発想です。高い位置に張り出した部分には、日光を公園の日陰へ反射させる可動の鏡(ヘリオスタット)が付き、夜には光の作家ヤン・ケルサレが照らします。この塔は、2014年にCTBUH(Council on Tall Buildings and Urban Habitat)の「世界最優秀高層ビル」に選ばれました(事務所の公式略歴)。
『フィルハーモニー・ド・パリ』(2015年)
パリ北東部のラ・ヴィレット公園のそばに、2,400席の大ホールなどを備えた音楽施設をつくりました。設計競技を経た仕事で、完成は2015年とされています(カルティエ財団の公式ページ)。ヌーヴェルは、フィルハーモニーという言葉から調和への愛を思い浮かべると述べ、ラ・ヴィレット公園、シテ・ド・ラ・ミュジーク、パリの環状道路との調和した関係を保つ、格式あるできごととして建物を位置づけています(原文は英語、訳は編集部)。
『ルーヴル・アブダビ』(2017年)と『カタール国立博物館』(2019年)
中東でも大きな美術館を手がけました。アブダビのサディヤット島のルーヴル・アブダビは、2006年から2017年の仕事です。ヌーヴェルは、アラブ建築の大きな象徴であるドームを軸にしながら、伝統からはっきりずらすことで、現代の提案にしたと述べています。ドーハのカタール国立博物館(2003〜19年)では、海にまで進み出た砂漠から立ち上がる建物をめざしました。砂漠の静かで永遠の面と、動かないと思われていたものを揺さぶった近代の大胆さ、その矛盾を建築で表そうとしたと書かれています。
『浦東美術館』(2021年)
上海の黄浦江沿いに建つ浦東美術館(2015〜21年)は、公式ページで「領地」と呼ばれています。約4ヘクタールの敷地に、淡い暖色の石を不規則な割れ目の模様で敷き、巨大な発光スクリーンや、外灘に面する二重ガラスの西側の壁をつくりました。ヌーヴェルは、この西側の壁を、マルセル・デュシャンの「大ガラス」の現実版にたとえています(公式作品ページに載る中国語の文章)。完成は2021年7月と、公式サイトのニュースにあります。
パリの塔と、カルティエ財団の新しい場所
近年のパリでは、2棟の塔「トゥール・デュオ」(180メートルと125メートル、2022年9月に完成と事務所が告知)、ラ・デファンスの塔「ヘクラ」(2022年12月)が完成しました。2025年10月には、カルティエ現代美術財団がラスパイユ大通り261番地の建物から、ルーヴル美術館の向かいにあるパレ・ロワイヤル広場2番地に移り、ヌーヴェルが内部を大きくつくり替えた建物で開館しました。
財団の公式ページによると、建物は1854〜55年に、リヴォリ通りの延長の中で建てられた石造の建物です。2013年12月に財団がヌーヴェルに依頼し、ヌーヴェルは、上にも下にも、そして建物を横切る方向にも空間を得る必要がある、と述べたと記されています(原文は英語)。そこから生まれたのが、ガラス天井の下で上下する大きな可動の床(5つのプラットフォーム)です。事務所の公式作品ページによると、可動の床は高さ最大11メートルで、11通りの配置を取れます。一般に開かれる面積は8,500平方メートル、うち展示空間は6,500平方メートルです。
そのほか、広州の高さ207メートルのテンセント本社ビルは、2025年8月に完成したと事務所のニュースが告知しています。日本では、屋久島で「NOT A HOTEL YAKUSHIMA」を、NOT A HOTEL社の依頼で計画しています。事務所の公式作品ページの状況表示は、2026年10月時点で「検討中」です。
公式サイトのニュースには、タッシェンから2022年に出た作品集『Jean Nouvel by Jean Nouvel』や、上海の浦東美術館での回顧展(2026年6月27日付)の項目もあります。
ヌーヴェルの考え方を3つで読む
ここまでの作品から、3つの手がかりを整理します。
1つ目は文脈です。ウルフ賞の公式ページは、ヌーヴェルの建築を「包含の原理」で説明し、あらかじめ決まった形や材料を押しつけないと述べています。受賞理由は、具体性と儚さという現代建築の2つの特徴の弁証法を、新しい文脈主義のモデルとして組み直したことでした(原文は英語)。アラブ世界研究所は西洋の建物、KKLは湖を呼び込む建物、ケ・ブランリは森の中に消える建物で、どれも場所と用途が導いた答えだと考えます。
2つ目は光と透明・不透明です。アラブ世界研究所の絞り、リヨン・オペラ座の闇と光、ベルリンの光の円錐、ブランリの大きな透明な窓が、すべてこの手がかりでつながります。
3つ目は消える建築です。無限の塔の「地面に消え、空に消える」構想は、電通本社ビルに受け継がれ、カルティエ財団のガラス、ケ・ブランリの森につながっていきます。建物が主役になりすぎず、場所や作品を引き立てる側に回る方向だと考えます。
受賞の歩み
| 年 | 受賞 | 対象・備考 |
|---|---|---|
| 1987年 | フランス建築グランプリ/エケール・ダルジャン賞 | 後者はアラブ世界研究所 |
| 1989年 | アガ・カーン建築賞 | アラブ世界研究所 |
| 1993年 | エケール・ダルジャン賞 | リヨン・オペラ座 |
| 2001年 | RIBAロイヤル・ゴールド・メダル/世界文化賞(Praemium Imperiale) | 建築部門 |
| 2005年 | ウルフ賞(芸術部門・建築) | ウルフ財団(イスラエル) |
| 2008年 | プリツカー賞 | 建築界の最高の栄誉とされる賞 |
まとめ
いかがだったでしょうか。ジャン・ヌーヴェルの歩みを、事務所や賞の公式サイトなどの資料で確かめながらたどってきました。
1945年にフュメルで生まれ、1970年に最初の設計事務所を開き、1971年にボザールを修了し、1987年のアラブ世界研究所で世に出ました。その後はカルティエ現代美術財団、KKL、ケ・ブランリ、ルーヴル・アブダビと、場所ごとにまったく違う答えを出し続けています。2008年のプリツカー賞は、その歩みの一つの区切りでした。
ヌーヴェルの建物を訪れる機会があれば、外観だけでなく、光の入り方や、建物が周りの景色とどう向き合っているかにも目を向けてみてください。同じ設計者の建物とは思えないほどの違いに、きっと気づくと思います。
Euphoric " " の視点
ヌーヴェルの文章には、建物を使う人への言葉がたびたび出てきます。
ニームの集合住宅 NEMAUSUS では、すべての住戸を通り抜けにして風を通し、すべての住戸に大きなテラスを付けました。単層、メゾネット、トリプレックスと住戸の型を変え、入居者が選べるようにしたことを、ヌーヴェルは将来の住人への敬意の表れだと説明しています。
リヨン・オペラ座では、同じ大きさの6層のバルコニーが重なり、公式作品ページは、舞台の眺めが「完全に民主的」だと説明しています。
住まいでも劇場でも、どの住人にも、どの席にも、良い条件を行き渡らせようとしている点に注目したいと考えます。形はプロジェクトごとに変わっても、使う人をどう迎えるかという問いは、変わらずに続いているのかもしれません。
名作と呼ばれる建物の中に、使う人一人ひとりへの配慮が組み込まれている。そこに、ヌーヴェルの仕事の大きな魅力があると考えます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した建物のうち、次の施設は公式サイトで最新の情報を確認できます。公開の状況は変わることがあるため、お出かけの前に公式サイトをご確認ください(2026年10月時点)。






