こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはフランク・ゲーリーという人物をご存知ですか?
カナダのトロントに生まれ、アメリカのロサンゼルスを拠点に活動した建築家です。1970年代には、金網やトタン板のような安い建材で自分の家を組み替え、その後は、チタンの外皮で港町の風景を変えたスペインのグッゲンハイム美術館ビルバオや、ステンレスの曲面に覆われたロサンゼルスのウォルト・ディズニー・コンサートホールなど、建物を彫刻のように扱う作品で世界に知られました。1989年にはプリツカー建築賞を受けています。ゲーリーは2025年12月に亡くなりました。
本記事ではそんなフランク・ゲーリーの人生と作品についてご紹介します。情報は、プリツカー建築賞の公式サイト、日本美術協会の芸術賞プレミアム・インペリアーレの公式サイト、各賞や各施設の公式ページ、大学の公式発表などで確認できたものだけを書いています。作品の写真は、撮影者がライセンスを明示した建物の外観に限って掲載し、そのほかは図解、表、公式の動画で構成しました。本記事では、2回目以降は「ゲーリー」と呼びます。
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Toggleフランク・ゲーリーって?
ゲーリーは、建築は芸術だという考えを、物心ついたころから持ち続けてきた建築家です。プリツカー建築賞の公式サイトによると、師や憧れの人はいるかと問われたとき、机の上にあったブランクーシ(芸術家)の写真を手に取り、自分は建築家よりも、こうした芸術家のことを考えることのほうが多く、その影響は大半の建築家より大きいと答えたといいます。建築家では、アルヴァ・アアルトに大きな敬意を持つと述べ、フィリップ・ジョンソンの名前も挙げています。
その仕事は、プリツカー建築賞の公式発表が「分類できない幅をもつ」と評したとおり、時代ごとに材料も形も大きく変わっていきます。1970年代の金網や波板の建物、1990年代のチタンの美術館、2000年代のステンレスのコンサートホール、そして2010年代のレンガの校舎やガラスの雲のような美術館へ。この記事では、その移り変わりを、公式の記録をたよりにたどります。
基本情報
| 本名 | フランク・O・ゲーリー(Frank O. Gehry)。出生時の姓はゴールドバーグで、大学卒業後にゲーリーへ改めたとロサンゼルス・コンサーバンシーが記しています |
| 生年月日(没年月日) | 1929年〜2025年12月5日(96歳没)。生まれた月日は、公式資料のあいだで記載が食い違うため、年だけを記します |
| 国籍・出身 | カナダ(トロント)生まれ。プリツカー建築賞の公式発表によると、1950年にアメリカ市民権を得ました |
| 学歴 | 南カリフォルニア大学(USC)建築学部を1954年に卒業。ハーバード大学大学院デザイン学部で都市計画を学ぶ(1950年代。軍での1年間のあと) |
| 分野 | 建築 |
| 傾向 | 金網、波板、チタン、ステンレスなど、時代ごとに素材を変えながら、建物を彫刻のように扱う設計。模型と図面を行き来して形を探る方法をとりました |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 本人が名前を挙げたのは、芸術家ブランクーシ、建築家アルヴァ・アアルト、フィリップ・ジョンソン。USC在学中には、陶芸家グレン・ルーケンスのもとで美術を学んだとされています |
ゲーリーが設計したMITの建物が登場する、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。
同じ時代に活躍した、ほかの建築家の記事もあります。
経歴と作品
トロントからロサンゼルスへ
ゲーリーは1929年に、カナダのトロントで生まれました。ロサンゼルス・コンサーバンシー(歴史的建造物の保存に取り組む団体)の伝記によると、10代のころは祖父母の金物店で働き、屋根材やフェンス、塗料のような、建築の現場で使う材料に囲まれて過ごしました。1947年に家族とともにロサンゼルスへ移り、朝食用の作り付けコーナー席(ブレックファスト・ヌック)を配達して取り付ける、トラックの運転手の仕事に就いたと記されています。
のちに金網や波板を自分の作品に取り入れる建築家が、材料店の中で育った。この符合はおもしろいのですが、それが直接の原因だったと示す資料はありません。ここでは、そういう環境で育ったという事実だけを記しておきます。
南カリフォルニア大学(USC)では、陶芸家のグレン・ルーケンスのもとで美術を学びました。ルーケンスは、自宅を設計していた建築家ラファエル・ソリアーノに会うよう誘い、この出会いが、のちのゲーリーの進路を絞る助けになったとされていると、ロサンゼルス・コンサーバンシーは記しています。1954年に建築学部を卒業すると、ヴィクター・グルーエン・アソシエイツで働き始めました。在学中から、パートタイムで見習いをしていた事務所です。
プリツカー建築賞の公式サイトによると、その後ゲーリーは1年間を軍で過ごし、ハーバード大学大学院デザイン学部に入って都市計画を学びました。ロサンゼルスに戻ると、ペレイラ・アンド・ラックマン事務所でしばらく働き、再びグルーエンの事務所に戻って、1960年までそこに勤めました。
パリで学び、1962年に独立
1961年、ゲーリーは家族を連れてパリへ移り、建築家アンドレ・ルモンデの事務所で働きました。プリツカー建築賞の公式サイトは、カナダで受けたフランス語の教育が大きな助けになったと記しています。このヨーロッパ滞在の1年間に、ル・コルビュジエとバルタザール・ノイマンの作品を学び、フランスの教会建築にも惹かれたといいます。
1962年、カリフォルニアに戻って自分の事務所を開きました。同じ公式サイトは、1964年に設計したダンジガー・スタジオ・アンド・レジデンスが、高い評価を受けたロサンゼルスの建物として、ゲーリーの経歴の出発点になったと伝えています。そしてここから、ゲーリーの本当の特徴が見えてくる1970年代に入ります。

金網と波板の時代:1970年代
プレミアム・インペリアーレの公式サイトに載る、建築史家ケネス・フランプトンの解説によると、ゲーリーは1970年代の後半に、二つの作品でアメリカの建築界の前面に出ました。1975年のショッピング施設サンタモニカ・プレイスと、1978年に手がけた自邸です。どちらも、アメリカのありふれた安価な建材、つまり波形の鉄板(トタン)か金網(チェーンリンク・フェンス)、あるいはその組み合わせで、表情がつくられていました。
プリツカー建築賞の公式サイトによると、サンタモニカ・プレイスの外壁の一つは長さが約300フィート(約91メートル)、高さは6階分あり、金網のカーテンが掛けられています。その上に、色の違う別の層が重ねられ、施設の名前を描き出していました。金網についてゲーリーは、本当は嫌いだったが、自分の建物のまわりでいつも使われていたので、いっそ取り入れることにした、という趣旨を何度か語っています。1979年のカブリロ海洋博物館でも金網が使われ、複数の建物を「影の構造」で結びつけました。
『ゲーリー自邸(サンタモニカ)』(1978年)
この時代を代表するのが、自分の家です。フランプトンの解説によると、ゲーリーは既存の郊外住宅を、柱と間柱の骨組みだけになるまで削り、文字どおり裏返しにしました。外には、金網が囲いのように回されています。見つけてきた要素を組み合わせた、詩的なコラージュのような家です。フランプトンは、芸術家ゴードン・マッタ=クラークが切り開いた「解体的な戦略」を、ゲーリーが生かしたものと読んでいます。
プリツカー建築賞の公式発表も、段ボールや金網、波板といった素材を、型にはまらない形で使うことで、この時期のゲーリーが大きな注目を集めたと記し、自邸をその代表例に挙げています。ゲーリー自身は1980年版の建築家事典に寄せた文章で、建物を、彫刻のような物体であり、光と空気のある空間の入れ物だと考えていると書いています。入れ物に、使う人が自分の荷物と計画を持ち込み、それが合わなければ、自分の失敗だとも述べました。
展示空間、魚、彫刻家との共作:1980年代
1980年代のゲーリーの仕事は、実験の幅を広げていきます。ロサンゼルス現代美術館(MOCA)は、本館が建つまでの展示場所として、古い倉庫の改装をゲーリーに託し、1983年にテンポラリー・コンテンポラリーが完成しました。プリツカー建築賞の公式サイトによると、この建物は高い評価を受け、現在も使われています。同じころ、サンタモニカにあった古い氷の倉庫を、美術館と店舗とオフィスを組み合わせた施設へ改装した仕事も手がけました。
1983年には、ミネソタ州ウェイザタで、フィリップ・ジョンソンが1952年に設計した住宅のゲスト・ハウスを設計しました。ひと部屋ずつの小さな建物が集まった形で、彫刻の断片が並んだように見えます。批評家たちは、ゲーリーがこの難しい依頼をやり遂げたと見ていると、同じ公式サイトは伝えています。1985年から進んでいたカリフォルニア州ヴェニスのシャイアット・デイの事務所では、設計案の入口に、彫刻家クレス・オルデンバーグとコーシャ・ファン・ブルッヘンが設計した、高さ45フィート(約14メートル)の巨大な双眼鏡が置かれました。
日本にも作品があります。プレミアム・インペリアーレの公式サイトは、神戸のレストラン「フィッシュ・ダンス」(1987年)と、バルセロナのヴィラ・オリンピカ(1992年)で、魚の形が文字どおりに使われていると記しています。フランプトンは、継ぎ目のある金属板が形の流れを覆う様子を、魚のうろこにたとえています。
1988年には、全米板金労働者組合の創立100周年を記念する造形物を、ワシントンの国立建築博物館の大ホールにつくりました。高さ65フィート(約20メートル)で、亜鉛めっきのステンレス鋼、陽極酸化処理をしたアルミ、真鍮、銅でできており、組合員のボランティア600人が組み立てたと、プリツカー建築賞の公式サイトは記しています。
1989年、プリツカー建築賞
1989年、ゲーリーはプリツカー建築賞の第12回受賞者に選ばれました。ゲーリーは、自邸のようなよく知られた作品で、段ボールや金網、波板などの素材を型にはまらない形で使ってきたと、公式発表は紹介しています。発表の時点で60歳になったばかりで、アメリカ人としては6人目の受賞でした。
選考委員会の講評は、ゲーリーの建築を、新鮮なまでに独創的で、南カリフォルニアの大衆的な視点から生まれた、洗練された冒険的な美学だと述べています。ときに物議をかもしながらも常に人目を引く作品群は、因習にとらわれない、騒々しい、はかないなどと評されてきましたが、委員会は、その落ち着きのない精神を称えました。ゲーリーの設計は、即興と予測できない活気に満ちた、ジャズにたとえられています。発表の中でジェイ・プリツカーは、ゲーリーの様式の幅は分類できないと述べています。講評は、住宅、美術館、図書館、学校、店舗、コンサートホール、レストラン、さらには干し草の納屋まで、と仕事の幅を挙げています。
この賞を含め、ゲーリーの受賞歴は長くなっていきます。プレミアム・インペリアーレの年表によると、1992年に同賞の建築部門(第4回)、1999年にアメリカ建築家協会(AIA)のゴールドメダル、2000年に英国王立建築家協会(RIBA)のゴールドメダルを受けました。アメリカの国立芸術基金(NEA)の公式サイトは、1998年のナショナル・メダル・オブ・アーツの受賞者にゲーリーを挙げています。
ビルバオとロサンゼルス:二つの代表作
プレミアム・インペリアーレの公式サイトは、1997年に開館したグッゲンハイム美術館ビルバオを、ゲーリーの代表作であり、近年のヨーロッパで最もよく知られた建物だと紹介しています。ここからは、この美術館と、ほぼ同じ時期に設計が進んでいたロサンゼルスのコンサートホールを、順に見ていきましょう。
『グッゲンハイム美術館ビルバオ』(1993〜1997年)
美術館の公式サイトによると、建物は1993年10月から1997年10月にかけて建てられました。敷地は、ネルビオン川の湾曲部にあった、港湾と工業に使われていた岸辺です。この場所に文化と余暇の施設をつくることは、川岸を街に取り戻す意味を持っていました。延べ床面積は2万4,000平方メートルで、そのうち9,000平方メートルが展示にあてられています。

形が数学的に複雑だったため、ゲーリーは、もともと航空宇宙産業のために開発されたソフトウェア「CATIA」を使い、自分の発想を構造へ正確に置き換えたと、美術館の公式サイトは説明しています。外皮の材料は、ほかの案を退けたあと、事務所の外に留めておいたチタンの試料の変化を見て、チタンに決めたといいます。約3万3,000枚の非常に薄いチタンの板が、天候や光で色を変える、粗くて有機的な表情をつくります。ほかの二つの材料は石灰岩とガラスです。
中に入ると、中心には「アトリウム」があります。曲線を描く通路、チタンとガラスのエレベーター、階段が、3層の建物をアトリウムのまわりで結び、20の展示室へつながっていきます。展示室には、古典的な比率の直方体の部屋もあれば、不規則な曲線の部屋もあります。最も高い位置には、金属の花の形をした大きな天窓がかかっています。
外にも見どころがあります。広場から入口へは、広い階段で下りていきます。川沿いの低い場所と、街の高い場所との段差を階段で解決したことで、周囲の建物の高さを超えない建物になったと、公式サイトは説明します。敷地の端はラ・サルベ橋が横切り、橋の下に伸びる、柱のない巨大な展示室104号室には、リチャード・セラの作品《時間の問題》が収まり、塔で終わる形が橋を建物に取り込んでいます。ルイーズ・ブルジョワや、ジェフ・クーンズらの屋外作品も敷地に置かれています。

『ウォルト・ディズニー・コンサートホール』(2003年)
ロサンゼルスのダウンタウンにあるウォルト・ディズニー・コンサートホールは、実は、ビルバオよりも前に依頼された仕事でした。ロサンゼルス・フィルハーモニック(LA Phil)の公式サイトによると、1987年に、ウォルト・ディズニーの妻リリアン・ディズニーが5,000万ドルを寄付したことが出発点です。建築家の選定は、80人の候補から25人、6人、最後の4人に絞られ、ゲーリーのほか、ハンス・ホライン、ゴットフリート・ベーム、ジェームズ・スターリングが残りました。ゲーリーが建築家に選ばれたのは1988年で、最終案の発表は1991年でした。
その後、政治や計画、運営、入札にまつわる問題が重なり、1994年にいったん計画が止まります。LA Philの公式サイトは、地下駐車場が1992年から1996年にかけて完成し、1996年以降にエリ・ブロードらが募金を進め、ホール本体の工事は1999年11月に始まったと記しています。鉄骨の組み上げは2001年の夏に終わり、ステンレスの外装は2003年の初めに終わりました。ホールは2003年10月に開館し、事前の発表では、一般公開は10月23日とされていました。総工費は2億7,400万ドルです。リリアン・ディズニーの寄付から開館まで、16年かかった計画でした。

外装は、最初は石で考えられていました。LA Philの公式サイトによると、ゲーリーは、夜の石の姿は美しいだろうと考えていましたが、石の板は非常に重く、支える金属の骨組みに費用がかかりすぎるとわかり、鋼に切り替えました。外装を覆うステンレスのパネルは約1万2,500枚で、曲面を実現するため、一枚一枚が違う大きさです。当時、この形に使える建築用のソフトがなく、設計チームは、航空機や自動車の分野で使われていたCATIAを土台に、自分たちのソフトをつくりました。パネルを留めるには、もともと航空機向けに開発された、3Mの強力な両面テープが使われたといいます。
ステンレスの艶は、のちに別の問題も生みました。LA Philによると、2005年の調査で、強い反射が周辺の歩道の温度を押し上げ、まぶしさが運転手の視界をさまたげるほどだとわかりました。いったん覆いをかけたあと、問題のあるパネルを特定し、工業用のサンダーで表面を削って、まぶしさを抑えたといいます。
内部は、ゲーリーと、音響設計者のヤスヒサ・トヨタ(Yasuhisa Toyota)、永田穂(Minoru Nagata)が共同で設計しました。LA Philの公式資料によると、客席が舞台を取り囲む「ヴィンヤード」型(ぶどう畑の段々のように客席を区切る形)と、東京のサントリーホールで成功した、箱形の外周とを組み合わせたものです。主ホールは2,265席で、壁と天井は、約13万3,000平方フィート(約1万2,400平方メートル)のダグラスファー(米マツ)の板で覆われ、マイクやスピーカーを使わずに演奏できると、公式サイトは説明します。ゲーリーはこのホールを、「街の居間(リビングルーム)」と呼んでいます。

大学の建物:MITとシドニー工科大学
2000年代以降のゲーリーは、大学の建物も手がけました。ここでは、公式の発表が残る二つを見てみます。
『レイ・アンド・マリア・スタタ・センター』(2004年)
マサチューセッツ工科大学(MIT)の公式ニュースによると、スタタ・センターは2004年5月7日に開館しました。延べ床面積は73万平方フィート(約6万8,000平方メートル)で、当時のゲーリーとして最大の建物でした。コンピュータ科学と人工知能の研究所(CSAIL)、情報・意思決定システム研究所、言語学・哲学科の三つが入ります。

敷地は、第二次世界大戦中に建てられた木造の仮設建物「ビルディング20」の跡地です。ビルディング20は、住人から「魔法の孵化器」と呼ばれ、新しい発想と研究の場だったと、MITは記します。スタタの設計は、動きやすさ、自然光、独特の内部の眺め、気軽に集まれる空間を重んじています。2本の塔(ゲイツとドレイフース)と、事務室や研究室が載る二層の台座(「倉庫」と呼ばれます)で構成され、塔の中には、二層吹き抜けのラウンジが「近隣」のように置かれました。開館時のニュースは、鏡張りの円筒形の「鼻」と呼ばれる部分がロボット研究室になること、円錐形の大きなセミナー室が二つあることも伝えています。
ゲーリー自身は、この建物が、異なるグループの違い、考えの衝突、人々のエネルギーを映していると書いています。衝突は、偶然のものもあれば、仕組まれたものもあり、そこから突破口が生まれるのだと語りました。
『ドクター・チャウ・チャク・ウィング・ビルディング』(2015年)
シドニー工科大学(UTS)の公式サイトによると、ゲーリーが設計した、オーストラリアで初めての建物です。実業家で慈善家のチャウ・チャク・ウィング博士にちなんで名づけられ、UTSビジネススクールの新しい拠点として、2015年に開かれました。ゲーリーは開館に合わせて来豪しています。大学の説明では、設計は「内側から外側へ」の順で進められ、まず、学生や教員が協力して学ぶ空間と仕事の空間からつくられました。

外壁は、うねるようなレンガと、対照的なガラスのパネルでできています。大学の公式発表では、当初の設計の着想は「ツリーハウス(樹上の家)」だったといい、ゲーリーは開館のとき、建物を、いくつもの枝(考え)をもち、頑丈なものも、はかなく繊細なものもある、成長する学びの有機体だと表現しました。建物は、いまは親しみを込めて「紙袋」と呼ばれていて、毎年1万人を超える学生が、この建物の教室を使っていると、大学は伝えています。
パリの「ガラスの雲」:フォンダシオン ルイ・ヴィトン(2014年)
2014年には、パリで大きな作品が開かれました。LVMHグループの公式発表によると、フォンダシオン ルイ・ヴィトン(ルイ・ヴィトン財団美術館)は、ベルナール・アルノーが依頼し、ゲーリーが設計した建物で、2014年10月27日に一般公開されると発表されました。場所は、ブローニュの森の北部にある、ジャルダン・ダクリマタシオンの敷地内です。同じ発表は、この建物を「ガラスの雲」のような姿だと表現しています。
建物には、常設コレクションと企画展のための展示室、アーティストへの依頼制作のための空間、さまざまな分野の上演に使える可変の講堂があり、テラスからはパリの街並みと庭園の緑が見渡せます。ゲーリーはこの計画について、フランスの深い文化への志を象徴する、すばらしい船をパリにつくりたいと夢見た、と語っています。
LVMHの発表によると、同じ2014年の10月からは、ポンピドゥー・センターで、ヨーロッパで初めてとなるゲーリーの回顧展も予定されていました。財団でも、ゲーリーがつくった建築計画そのものを紹介する展覧会を、この回顧展と呼応する形で開くと、LVMHの発表は予告していました。
素材で読むゲーリー
ここまでの作品を、使われた材料で並べてみると、ゲーリーの仕事の移り変わりがよく見えます。金網と波板、魚の形をした金属板、チタン、ステンレス、レンガ。ゲーリーの選択は、そのときの敷地や予算、建物の用途に応じて、毎回、変わりました。ただし、ビルバオのチタンも、ディズニー・ホールのステンレスも、ゲーリーが最初に思いついた形を、航空宇宙や自動車のためのソフトウェアで施工できる形に置き換える作業と一緒に、実現しています。

主な作品の一覧
| 年 | 作品 | 所在地 | ひとこと |
| 1964年 | ダンジガー・スタジオ・アンド・レジデンス | ロサンゼルス | プリツカー建築賞の公式発表が、経歴の出発点とする作品 |
| 1970年代 | サンタモニカ・プレイス | カリフォルニア州サンタモニカ | 金網をまとった外壁 |
| 1978年 | ゲーリー自邸 | カリフォルニア州サンタモニカ | 既存の住宅を骨組みまで削り、金網と波板で組み直した |
| 1983年 | テンポラリー・コンテンポラリー | ロサンゼルス | 倉庫を展示場に改装 |
| 1987年 | フィッシュ・ダンス | 神戸 | 魚の形をしたレストラン |
| 1997年 | グッゲンハイム美術館ビルバオ | スペイン、ビルバオ | 約3万3,000枚のチタン板 |
| 2003年 | ウォルト・ディズニー・コンサートホール | ロサンゼルス | 約1万2,500枚のステンレスのパネル |
| 2004年 | レイ・アンド・マリア・スタタ・センター | マサチューセッツ州ケンブリッジ | MITのキャンパスの建物 |
| 2014年 | フォンダシオン ルイ・ヴィトン | パリ | ガラスの雲のような姿の美術館 |
| 2015年 | ドクター・チャウ・チャク・ウィング・ビルディング | シドニー | オーストラリア初のゲーリー作品 |
作品を貫く三つの考え方
ここまで見てきた仕事から、ゲーリーの建築に通じる考え方を整理してみます。以下は、公式情報にある事実をもとに、編集部が整理した読み方です。
一つめは、形を手と模型で探ることです。プレミアム・インペリアーレの公式サイトは、ゲーリーが、図面を描くことと、模型を動かすことを組み合わせて設計を進める、空間の彫刻家のような人だと紹介しています。ディズニー・ホールの設計で50回の案が検討されたことも、この姿勢の表れだと考えます。
二つめは、新しい形のために、施工の方法も新しくすることです。ビルバオでも、ディズニー・ホールでも、形そのものに加えて、それを実現するための技術を、設計の一部として開発しました。プレミアム・インペリアーレの公式サイトも、ゲーリーが、実現のために新しい建築技術が必要な設計を、実際に数多く完成させてきたと評価しています。
三つめは、ほかの専門家や芸術家と一緒につくることです。ディズニー・ホールの音響はトヨタや永田らと、シャイアット・デイの双眼鏡はオルデンバーグらと、それぞれ一緒に設計しました。プリツカー建築賞の選考委員会も、ゲーリーの仕事が、多くの同時代の芸術家との協働から生まれた面をもつと述べています。

まとめ
いかがだったでしょうか。フランク・ゲーリーは、1929年にトロントで生まれ、1947年にロサンゼルスへ移り、USCで建築を学びました。1962年に自分の事務所を開き、1970年代には、金網と波板で自分の家を組み替えて注目されました。1989年のプリツカー建築賞のあと、1997年のグッゲンハイム美術館ビルバオ、2003年のウォルト・ディズニー・コンサートホール、2004年のMITスタタ・センター、2014年のフォンダシオン ルイ・ヴィトン、2015年のUTSの建物へと、使う材料と建物の種類を、そのつど変えながら、仕事を広げてきました。
Euphoric " " の視点
ゲーリーの建築は、金網やチタン、ステンレスの外観で語られることが多いかもしれません。けれども本人の言葉からは、中で過ごす人への目も見えてきます。
1980年版の建築家事典に寄せた文章で、建物を、彫刻のような物体であり、光と空気のある空間の入れ物だと考えていると書きました。入れ物に、使う人が自分の荷物と計画を持ち込み、それが合わなければ、自分の失敗だとも述べています。ウォルト・ディズニー・コンサートホールを「街の居間(リビングルーム)」と呼び、シドニー工科大学の建物では、大学の説明によると、設計は「内側から外側へ」の順で進められ、学生や教員が協力して学ぶ空間と仕事の空間からつくられました。
大胆な形と、使う人への責任を、ひとりの建築家が引き受けていた。そう読むと、ゲーリーの建物は、中に入って過ごしてこそ味わえるものだと考えます。外と内の両方へ目を向けると、見る楽しみは広がるのだと思います。
この作品を見に行くには
記事で紹介した建物は、次の館などで公開されています。展示替えや休館があるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






