こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは安藤忠雄という人物をご存知ですか?
大阪を拠点に活動する建築家です。飾りのない打放しコンクリートの壁と、そこに差し込む光や、吹き抜ける風で知られています。大学で建築を学ぶことなく、旅と読書で独学し、1995年にはプリツカー賞を受けました。大阪の小さな住宅から、淡路島の寺院、直島の美術館まで、手がけた建物の幅はとても広く、どれも「自然をどう建築に引き込むか」という一つの問いでつながっている、と編集部は考えます。
本記事ではそんな安藤忠雄の人生と作品についてご紹介します。
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安藤忠雄は、1941年に大阪で生まれた建築家です。ベネッセアートサイト直島の公式ページは、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立し、東京大学名誉教授を務める建築家として紹介しています。国立新美術館のイベントページによると、東京大学では1997年から教授を、2003年から名誉教授を務めました。
建築家の多くが大学や師匠のもとで学ぶなか、安藤は建築の学位をもたず、特定の建築家に弟子入りすることもありませんでした。プリツカー賞の公式サイトは、安藤を、建築の学位も、巨匠のもとでの修業もない独学の建築家と紹介し、広い読書と、ヨーロッパやアメリカへの旅が成長の源だったと記しています。本記事では、この独学の歩みから、いまも親しまれる建物までを順にたどります。
基本情報
| 本名 | 安藤忠雄(Tadao Ando) |
| 生年月日(没年月日) | 1941年9月13日(世界文化賞の略歴・年表による) |
| 国籍・出身 | 日本(大阪府) |
| 学歴 | 大学へは進まず、旅と読書で建築を独学(プリツカー賞公式サイト、世界文化賞の略歴による)。東京大学では1997年から教授、2003年から名誉教授 |
| 分野 | 建築 |
| 傾向 | 打放しコンクリート、光と風、幾何学的な形。住宅、教会、寺院、美術館、集合住宅など |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 師事した建築家は記録なし(独学)。ル・コルビュジエの作品集を繰り返し写して学んだと、本人の言葉としてプリツカー賞公式サイトが伝えています |
安藤が影響を受けたル・コルビュジエや、同じ日本の建築家の記事もあわせてどうぞ。
経歴と作品
木工所が遊び場だった少年時代(1941年〜)
安藤は1941年9月13日、大阪に生まれました。高松宮殿下記念世界文化賞の解説によると、生まれ育ったのは木工所、鉄工所、ガラス工場などが立ち並ぶ地域で、木工所がもっぱら遊び場だったといいます。
プリツカー賞公式サイトの伝記には、10歳から17歳にかけて、自宅の向かいにあった大工の仕事場で、船や飛行機、鋳型の木製模型づくりを教わったことが書かれています。世界文化賞の解説は、中学生のとき、住んでいた長屋(細長い棟が壁を共有して続く、昔ながらの住まい)を近所の大工さんと増築したことで、建築のおもしろさを知ったと伝えています。
この大工仕事との出会いは、のちの安藤建築を理解するうえで大きな手がかりになります。プリツカー賞公式サイトは、安藤の滑らかなコンクリートの質が、木製の型枠(コンクリートを流し込む木の枠)の精度に支えられていると説明し、日本の木造建築の伝統が育てた大工の技の水準の高さを理由にあげています。コンクリートの建築家である安藤の足もとに、木の職人の世界がある。この組み合わせは、あとの節でもう一度出てきます。
ボクサーから、独学の建築家へ(1960年代)
安藤は、建築を独学で学ぶ道を選びます。世界文化賞の解説は、プロボクサーとしてリングに立った経験があることにも触れており、プリツカー賞公式サイトの伝記も、短期間ボクサーを務めたのち、デザイナーや都市計画家のもとで短い期間ずつ見習いをしながら独学を始めた、と記しています。
独学の方法は、見て、読んで、歩くことでした。プリツカー賞公式サイトによると、安藤は18歳ごろから京都や奈良の寺、神社、茶室を訪ね、実際の建物を見ること、建築の本を読むことで建築を学びました。その後の1960年代には、ヨーロッパとアメリカへ名建築を見にいく旅を重ね、旅先ではスケッチブックに詳しく描き込み、その習慣はいまも続けている、とされています。
転機のひとつが、大阪の古書店で見つけた、ル・コルビュジエの本でした。安藤は同公式サイトの中で、本を買うお金をためるのに数週間かかったこと、初期の図面を何度もなぞったので、ページが真っ黒になったことを語っています。ル・コルビュジエがマルセイユに建てた集合住宅(ユニテ・ダビタシオン)を訪ね、コンクリートのダイナミックな使い方に興味を引かれたとも話しています。
世界文化賞の年表には、1962年から69年にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカを旅行し、独学で建築を学んだと記されています。ヨーロッパ行きの年について、安藤自身は1995年のプリツカー賞の受賞スピーチで、1965年にシベリア鉄道を使ってフランスにル・コルビュジエの建築を見にいった、と振り返りました。最初に訪れたフランスの場所はヴェルサイユで、そのときは、その場所で自分が賞を受けるとは思ってもみなかった、という話です。30年後の授賞式は、そのヴェルサイユ宮殿のグラン・トリアノンで開かれました。
世界文化賞の解説は、このときパリに着く1か月前にル・コルビュジエが亡くなっていたこと、それでも代表作ロンシャンの教会の小さな窓から差し込む光に衝撃を受けて帰ってきたことを伝えています。窓の大きさではなく、壁に開けた小さな穴から入る光が、空間をつくる。この体験は、のちの光の教会を考えるときにも思い出されます。
小さな住宅が建築界を驚かせる(1969〜1979年)
1969年、28歳のときに安藤は建築事務所(英語名は Tadao Ando Architect & Associates。ベネッセアートサイト直島の公式ページの表記)を設立します。プリツカー賞公式サイトによると、キャリアの始まりは住宅でした。
安藤の名を一気に知らしめたのが、1976年の住吉の長屋です。世界文化賞の解説によれば、大阪の三軒続きの木造長屋の中央部分を建て替えた、間口(道路に面した幅)わずか3.3メートル、奥行き14.1メートルの2階建ての住宅です。正面は入口があるだけのコンクリートの箱で、中央に中庭があり、その中庭を中心に部屋が並びます。各部屋には中庭から入る形のため、雨が降れば傘をさして移動することになります。
この不便さを、解説は欠点としてだけ書いていません。中庭に光、風、雨を引き込むことで、現代の建築から失われがちな自然が入り込み、身体で季節を感じられる、という見方です。解説は、安藤の考えとして「寒いときは外に出なくていい。快適なときは中庭で生活したらいい」という言葉も紹介しています。
建築史家のケネス・フランプトンは、プリツカー賞公式サイトに載る論考で、この住宅を、安藤建築の基本原則がすでに表れた作品と位置づけています。都市の混沌に対して、内向きの小さな世界をつくる。その方法を、安藤自身が1978年の文章で、壁を使って壁に立ち向かうやり方、と表現していたとも紹介されています。
住吉の長屋は1979年に、日本建築学会賞を受けました。プリツカー賞公式サイトには、安藤が語った設計の考えも載っています。厚いコンクリートの壁で閉じた空間をつくるのは、社会のなかに「自分のための場所」をつくるためで、外の都市環境のために壁に窓を開けられないときこそ、内側を豊かにしなければならない、という内容です。さらに、光や風は、外の世界から切り離された形で家の中に入れてはじめて意味をもつ、とも述べています。
この時期の安藤は、ほかにも中庭を軸にした住宅を重ねました。フランプトンの論考は、1970年代後半の松本邸と石原邸を挙げています。とくに小さな3階建ての石原邸には、現場でつくるコンクリートを内も外も打放しで使い、大きな板ガラスやガラスブロックを組み合わせる、という安藤の基本的な語法がそろっている、という見方です。
斜面の集合住宅から、都市へ(1980年代前半)

1980年代に入ると、仕事の規模が大きくなります。代表が、神戸の六甲山の斜面に建つ六甲の集合住宅です。世界文化賞の年表では1983年に「六甲の集合住宅Ⅰ」が完成し、同じ年にこの作品と一連のコンクリート建築で日本文化デザイン賞を受けています。
プリツカー賞公式サイトによると、この住宅は2期に分かれ、第1期は、それぞれテラスをもち、大きさと間取りが異なる20戸です。1993年に完成した第2期は50戸でした。傾斜は約60度で、大阪湾を見渡せる斜面に、鉄筋コンクリートの骨組みで住戸が埋め込まれています。外観は住戸がそろって見えますが、内部は戸ごとに違い、プールや屋上の広場もそなえていた、と説明されています。フランプトンの論考は、それまで建てられないとされていた斜面に建った点に注目し、ル・コルビュジエのロック・エ・ロブ計画(1949年)から着想を得た作品だと見ています。

敷地も規模も正反対に見える2作品ですが、どちらも、与えられた場所の条件を受け入れたうえで、そこに自然を引き込む形を探しています。長屋は、間口の狭さを中庭で。集合住宅は、険しい斜面を眺めのよさで。条件の厳しさがそのまま設計の種になる、と考えます。
同じ時期の作品として、フランプトンの論考は、1984年に沖縄県那覇に完成した商業施設「フェスティバル」を挙げています。穴の開いたスクリーンの壁で周囲の喧騒から守られた、内向きの立方体として設計された建物です。世界文化賞の解説は、京都の高瀬川に接して水面すれすれに建てた「タイムズⅠ・Ⅱ」(1984年、1991年)にも触れており、ふつうは粗末な材料とされるコンクリートブロックを丁寧に使うことで、新しい表情を与えたと紹介しています。1985年にはフィンランド建築家協会のアルヴァ・アアルト賞を受けました。
光、水、地形でつくる空間(1988〜1991年)
1980年代の終わりから90年代初めにかけて、安藤は教会、寺院、博物館といった公共性の高い建物を次々に完成させ、世界で知られるようになります。フランプトンの論考は、いずれも極めて簡素なこれらの建物が、光、水、風、地形の扱いによって、それぞれ違う主題を示している、と整理しています。
北海道トマムの水の教会(1988年)は、人工湖に面し、水に浮かぶように設計された礼拝堂です。フランプトンによると結婚式のための礼拝堂で、ガラス張りの展望室の四面に十字を配し、水を張った浅い段が地形をゆっくり降りていく景色の中に置かれています。2025年に大阪で開かれた展覧会「安藤忠雄展|青春」では、この水の教会が原寸大で再現されました(公式サイトによる)。
大阪府茨木市の光の教会(1989年)は、さらに小さく、控えめな建物です。フランプトンの論考は、既存の宗教施設の敷地に加えられた小さなコンクリートの直方体で、祭壇の壁の全面にわたる十字形の切り込みが、刻々と変わる光を室内に導く、と記しています。世界文化賞の解説は、開口部がほとんどない室内に、壁にあけたスリットから差し込む光の十字架が浮かび上がり、劇的で崇高な場をつくる、と評しています。
兵庫県の子ども博物館(英語名 Children’s Museum。1989年、ベネッセアートサイト直島の公式ページが挙げる代表作)では、水が浅いシート状に建物の脇を流れ落ち、広い貯水池と山並みの眺めへ続きます。フランプトンは、この遠景を、借景(庭の外の景色を庭の一部として取り込む日本の手法)の伝統にならったものとして見ています。
淡路島の真言宗本福寺水御堂(1991年)は、水を使った建築の代表例です。世界文化賞の解説によると、直径約40メートルの蓮池の下にお堂があり、参拝する人は、コンクリートの階段を降りて水の下に入っていきます。池の水面を屋根にして、その下に堂を置く、という発想です。

ここまで見てきた建物には共通点があります。壁で外の世界を切り離しながら、その内側に、光、水、風、地形といった自然の一部だけを選んで引き込むことです。外に開かないのに、むしろ自然を強く感じる。閉じることで、開く。この逆説が、安藤建築の魅力の中心にあると考えます。
世界へ広がる仕事(1990年代)
1990年代に入ると、安藤の名前は国内外に広がります。世界文化賞の解説によると、1991年にニューヨーク近代美術館、1993年にポンピドゥー・センターで展覧会が開かれました。年表によれば、1992年には第1回カールスベルグ建築賞(デンマーク)も受けています。
1992年のスペイン・セビリア万国博覧会の日本館は、コンクリートではなく、ほぼ全体を木でつくった建物でした。プリツカー賞公式サイトは、安藤が木を使うのは例外的だと断りつつ、この日本館を取り上げています。フランプトンの論考は、大工の伝統を受け継ぐ安藤の姿が、この木造の日本館によくあらわれていると見ています。少年時代に大工の仕事を見て育った経験が、ここで再び姿を見せたと言えるかもしれません。
同じ1992年、香川県の直島に、美術館とホテルを一体にしたベネッセハウス ミュージアムが開館しました。ベネッセアートサイト直島の公式ページによると、自然とアートと建築の共生をコンセプトに、瀬戸内海を見渡す高台に建てられ、大きな開口で室内を自然に開いた施設です。1993年にはドイツのヴィトラ・セミナーハウスを完成させました。世界文化賞の解説によれば、スイス国境に近い敷地で、ヴィトラ家具博物館と同じ敷地内にあり、平らな土地に合わせて建物を低く抑え、敷地に埋め込まれるように建てられています。

1994年には、大阪府南河内郡河南町の大阪府立近つ飛鳥博物館が完成します。博物館の公式ページは、この建物を「平成の古墳」と呼び、安藤忠雄氏の代表作のひとつと紹介しています。公式の建築解説によると、周辺には二百数十基の古墳が点在しており、設計では、その古墳群全体をそのまま見せることが狙いとされました。そのため建物は、地域全体を一望できるひとつの丘として考えられています。窪地にあるため、周囲が見渡せるように段状に隆起させ、屋根は段状の広場として、演劇祭、音楽祭、各種のパフォーマンス、レクチャーなど多様な使い方が考えられている、とされています。
公式ページには、1994年の日本芸術大賞(朝日賞)、1996年のBCS賞、1998年の公共建築賞が、この建物に関する受賞として記載されています。フランプトンの論考は、この博物館を、安藤の風景を扱う才能がもっとも明快に示された例として挙げています。建物そのものが、古墳を見渡すための丘になっているのです。
1995年には、パリのユネスコ本部に「瞑想の空間」を完成させました。世界文化賞の解説によると、イサム・ノグチやダニ・カラヴァンらの作品とともにある空間です。
プリツカー賞と世界文化賞(1995〜1996年)
1995年、安藤はプリツカー賞を受けます。同賞の公式サイトの発表によると、安藤は53歳で、18人目の受賞者でした。日本人としては、1987年の丹下健三、1993年の槇文彦に続く3人目にあたります。賞金は10万ドルで、授賞式は5月22日に、ヴェルサイユのグラン・トリアノンで行われました。
審査員の講評は、安藤の建築を、空間と形に芸術的に構成された驚きの集まりで、建物の中を進むとき、予測できる瞬間が一度もないと評しました。さらに、そのときどきの流派や様式を気にかけない、力強い内なるビジョンの持ち主であることも評価しています。発表でハイアット財団のジェイ・A・プリツカー氏は、安藤が、建築家であると同時に、つくり手(builder)としても知られていることに触れ、コンクリートの型枠をつくり、流し込むことに、きわめて高い精度を求める姿勢を、その表れとして挙げました。
安藤自身は受賞スピーチで、建築には2つの次元が共存していると話しました。ひとつは、機能、安全、経済といった現実の次元。もうひとつは、それだけでは建築にならないと考えた、想像力の次元です。ローマの建築理論家ウィトルウィウスが挙げた、機能(utilitas)、強さ(firmitas)、美(venustas)の3原則を引き、自分が学んだ近代建築の原則は現実の側面に偏り、想像力の次元が抜け落ちていると指摘しています。
翌1996年には、高松宮殿下記念世界文化賞の建築部門を受賞しました。同賞の解説は、プリツカー賞を「建築界のノーベル賞ともいわれる」賞として紹介しています。
淡路夢舞台、そして地中美術館(2000年代)
2000年、淡路島に淡路夢舞台が開業します。世界文化賞の主な作品の一覧も、ベネッセアートサイト直島の公式ページも、2000年の作品として挙げています。淡路夢舞台の公式サイトによると、安藤忠雄氏のグランドデザインによる施設群で、関西国際空港など大阪湾の人工島をつくるために土砂を採った山の跡地にあります。1960年代に経済活動のために削られた山の自然を本来の姿に戻し、動植物と人間が共生できる空間をつくる、という発想から生まれた、130ヘクタールにおよぶ公園緑地の中の施設群です。
建物だけでなく、敷地全体の風景を設計する仕事で、環境を再生する計画者としての安藤の側面がよく見える作品です。同サイトは、施設が斜面を生かして重層的に構成され、回遊すると次々に新しい視界が開ける、と紹介しています。
2002年にはアメリカ・テキサス州にフォートワース現代美術館が完成し(ベネッセアートサイト直島の公式ページが挙げる代表作)、同じ年にアメリカ建築家協会(AIA)のゴールドメダルを受けました。世界文化賞の年表は、1997年に東京大学教授に就任したと記し、国立新美術館のイベントページは、2003年から同大学名誉教授を務めたと伝えています。2005年には、国際建築家連合(UIA)のゴールドメダルを受けました(ベネッセアートサイト直島の公式ページによる)。

2004年には、直島に地中美術館が開館しました。ベネッセアートサイト直島の公式ページによると、自然と人間の関係をあらためて考える場として、瀬戸内の美しい景観を損なわないよう、建物の大部分を地下に埋めて建てています。クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が恒久展示されており、地下にありながら、自然光が時間と季節の移ろいとともに作品と空間の見え方を変える、と説明されています。
同ページは、作家と建築家が互いにアイデアを出し合いながら形になったことから、美術館全体を、大きなサイトスペシフィックな(その場所のためにつくられた)作品と見ることができる、とも述べています。建築家が箱をつくり、その中に作品を置く、という順序ではありません。場所の自然と、作品と、建築が、同時に決められていった美術館です。素材はコンクリート、鋼、ガラス、木に絞られ、設計は最小限まで切り詰められた、と公式ページは書いています。
直島には、古民家の中にコンクリートの箱を入れた「ANDO MUSEUM」もあります。ベネッセアートサイト直島の公式ページによれば、本村地区にある築約100年の木造の民家に、コンクリートの箱を差し込み、過去と現在、木とコンクリート、光と影を重ね合わせた空間で、安藤建築の本質が凝縮されていると説明されています。ここでも、安藤の足もとにある、大工の木造の世界と、コンクリートの世界が出会っています。
いま、そしてこれから(2010年〜)
2010年、安藤は文化勲章を受けました(国立新美術館のイベントページによる)。2025年には、大阪のグラングリーン大阪 うめきた公園 ノースパーク【VS.】で、個展「安藤忠雄展|青春」が開かれました。会期は2025年3月20日から7月21日まで。公式サイトによると、天井高15メートルの没入映像空間、水の教会の原寸大再現、そして37年にわたる直島の物語を模型と映像と音楽で伝える展示が見どころでした。
展覧会の公式サイトは、安藤を「異端の建築家」と呼び、その歩みを、大阪から世界へ広がる挑戦の軌跡として紹介しています。独学で始めた建築家が、80代を迎えてなお、過去の作品を振り返るだけでなく、現在、未来への展望をうたう展覧会の中心にいる。その事実が、挑戦を続ける仕事の仕方を物語っています。
安藤建築の見方

ここまでの内容を、建物を見るときの3つの手がかりにまとめます。
ひとつめは、打放しコンクリートです。プリツカー賞公式サイトによると、安藤のコンクリートが絹のようになめらかと表現されるのは、混ぜ合わせる材料ではなく、流し込む型枠の精度によります。木の型枠は、水が漏れないほど精密につくられ、表面にはニスまで塗られるとされています。壁に等間隔に並ぶ丸い穴は、型枠を締めるボルトの跡で、安藤建築のトレードマークのようになりました。同公式サイトによれば、安藤のコンクリートは構造であると同時に表面でもあり、塗装や漆喰で隠されることはありません。
ふたつめは、光と風です。安藤は同公式サイトで、すべての作品で光が重要な決め手になると語っています。壁で外を切り離すのは、光や風を、そこにしかない形で内側へ導くためです。そう考えると、窓の大きさよりも、どこに、どんな形の開口を、どの高さにあけるかが、建物の印象を決めると読み取れます。
みっつめは、幾何学です。安藤は、正方形、円、三角形、長方形といった基本的な形をもとに、建築の秩序をつくると話しています。雑誌『プログレッシブ・アーキテクチャー』のジョン・モリス・ディクソンは、一見すると恣意的に見える平面の幾何学が、実際の建物では人が使うことを細かく調整した空間になっている、と1990年に書いたと、同公式サイトが引用しています。
代表作を、年代順に表にまとめます。年は、本文で引いた公式資料の記載にしたがっています。
| 年 | 作品 | 所在地 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 1976年 | 住吉の長屋 | 大阪 | 間口3.3mの中庭のある住宅。1979年に日本建築学会賞 |
| 1983年 | 六甲の集合住宅Ⅰ | 神戸 | 約60度の斜面に建つ。第2期は1993年完成 |
| 1988年 | 水の教会 | 北海道トマム | 人工湖に面し、水に浮かぶように設計された礼拝堂 |
| 1989年 | 光の教会 | 大阪府茨木市 | 壁の十字形の開口から光が入る礼拝堂 |
| 1989年 | 子ども博物館(Children’s Museum) | 兵庫県 | 水と地形を生かした公共施設 |
| 1991年 | 真言宗本福寺水御堂 | 淡路島 | 直径約40mの蓮池の下にお堂 |
| 1992年 | ベネッセハウス ミュージアム | 香川県直島 | 美術館とホテルを一体にした施設 |
| 1994年 | 大阪府立近つ飛鳥博物館 | 大阪府河南町 | 古墳群を見渡す丘としての博物館 |
| 1995年 | ユネスコ本部「瞑想の空間」 | パリ | イサム・ノグチらの作品とともにある空間 |
| 2000年 | 淡路夢舞台 | 淡路島 | 約130haの公園緑地の中の施設群 |
| 2002年 | フォートワース現代美術館 | アメリカ・テキサス州 | 海外の代表作の一つ |
| 2004年 | 地中美術館 | 香川県直島 | 建物の大部分が地下にある美術館 |
主な受賞も、年代順に並べます。
| 年 | 受賞 |
|---|---|
| 1979年 | 日本建築学会賞(住吉の長屋) |
| 1983年 | 日本文化デザイン賞 |
| 1985年 | アルヴァ・アアルト賞(フィンランド建築家協会) |
| 1989年 | フランス建築アカデミー大賞ゴールドメダル |
| 1992年 | 第1回カールスベルグ建築賞(デンマーク) |
| 1995年 | プリツカー賞 |
| 1996年 | 高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門) |
| 2002年 | アメリカ建築家協会(AIA)ゴールドメダル |
| 2005年 | 国際建築家連合(UIA)ゴールドメダル |
| 2010年 | 文化勲章 |
まとめ
いかがだったでしょうか。
安藤忠雄は、1941年に大阪で生まれ、木工所を遊び場に育ち、ボクサーを経て、旅と読書で建築を独学した建築家です。1969年に事務所を設立し、1976年の住吉の長屋で注目を集めました。光の教会、水御堂、近つ飛鳥博物館、淡路夢舞台、地中美術館と、光、水、地形を建築に引き込む仕事を重ね、1995年にプリツカー賞、1996年に世界文化賞、2010年に文化勲章を受けています。
打放しコンクリートの壁は、閉じるための壁であると同時に、光や風を選んで内側に招くための壁でもありました。少年時代に見た大工の技、旅先で見たル・コルビュジエの光、そして足もとの大阪の街。そのどれもが、安藤建築の中で重なっています。機会があれば、建物の壁に手をふれ、開口から入る光の向きを、ゆっくり眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
1995年のプリツカー賞の受賞スピーチで、安藤は、建築には2つの次元が共存していると話しました。機能、安全、経済といった現実の次元と、それだけでは建築にならないと考えた、想像力の次元です。自分が学んだ近代建築の原則は現実の側面に偏り、想像力の次元が抜け落ちている、とも指摘しています。
一方で、同じ賞の発表では、コンクリートの型枠をつくり、流し込むことに、きわめて高い精度を求める姿勢が挙げられました。想像力を語る人が、現場の精度にも強くこだわる。この二つは対立するものではないと考えます。
仕事では、目の前の条件を満たすだけで手一杯になることもあるかもしれません。安藤の言葉は、現実の次元を引き受けたうえで、なお想像力の次元を手放さないことの大切さを、思い出させてくれるように思います。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






