こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは黒川紀章という人物をご存知ですか?
20世紀後半の日本を代表する建築家のひとりで、銀座に建っていた中銀カプセルタワービルや、東京・六本木の国立新美術館を設計した人物です。26歳のときに「メタボリズム」という建築運動の旗揚げに加わり、のちには「共生の思想」という考え方を掲げて、建築と都市のあり方を語り続けました。
本記事ではそんな黒川紀章の人生と作品を、建築と思想を中心にご紹介します。なお、黒川は建築の外でも広く知られた人物でしたが、本記事では建築家としての仕事に絞って解説します。
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黒川紀章(くろかわ きしょう)は、1934年に愛知県で生まれ、2007年に73歳で亡くなった建築家です。京都大学で建築を学んだあと東京大学の大学院へ進み、丹下健三の研究室で都市の構想を磨きました。1962年に自身の設計事務所を設立し、日本国内の美術館や博物館、海外の空港や都市計画まで、幅広い規模の仕事を手がけています。
黒川の特徴は、建物を設計するだけでなく、なぜその形なのかを言葉にして発信し続けた点にあります。著書も多く、建築家という職業を広く知らせた人物としても語られています。本記事では、黒川の事務所の公式サイトや、国立新美術館、広島市現代美術館、東京文化財研究所の『日本美術年鑑』などの公的な情報をもとに、その歩みを整理します。
基本情報
| 本名 | 黒川紀章(Kisho Kurokawa) |
| 生年月日(没年月日) | 1934年4月8日〜2007年10月12日(73歳没) |
| 国籍・出身 | 日本/愛知県(事務所の公式サイトは蟹江町、『日本美術年鑑』は名古屋市の生まれと記します) |
| 学歴 | 京都大学工学部建築学科を1957年に卒業。東京大学大学院で学び、1959年に修士課程を修了、1964年に博士課程を単位取得退学 |
| 分野 | 建築、都市設計、建築思想 |
| 傾向 | 初期はメタボリズム(新陳代謝する建築と都市)、のちに「共生の思想」 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 丹下健三(東京大学の研究室に所属)。メタボリズムの仲間に菊竹清訓、川添登、槇文彦、大髙正人ら |
同じ時代の建築家を扱った、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。
経歴と作品
まず、黒川の歩みを大きくつかんでおきましょう。年は、事務所の公式サイトと『日本美術年鑑』で確認できるものです。

京都から東京へ、丹下研究室での学び
『日本美術年鑑』によると、黒川は1934年、愛知県に生まれました。1953年に東海高校を卒業し、京都大学工学部の建築学科に進みます。1957年に卒業すると東京大学の大学院へ移り、1964年に博士課程を単位取得退学しています。
東京大学では、後に建築家として名を成す磯崎新らとともに、丹下健三の研究室に所属しました。丹下健三は、国立代々木屋内総合競技場などを手がけた建築家で、1970年の大阪万博の会場計画でも中心になった人物です。森美術館の公式ブログは、メタボリズムの思想について、東京大学の丹下研究室から生まれたといっても過言ではないと書いています。黒川はこの研究室で、建物ひとつではなく、都市という大きな単位で考える姿勢を身につけていきました。
この時期の黒川について、『日本美術年鑑』は、スケールの大きい都市計画の構想を発表し始めたと述べています。まだ大学院に在籍しながら、都市全体の姿を構想として示すことが、黒川の仕事の出発点になっていました。
1960年、メタボリズムの旗揚げ
黒川の名を最初に広く知らしめたのは、1960年に始まる建築運動「メタボリズム」です。メタボリズムとは、生物学の言葉で「新陳代謝」を意味します。生き物が細胞を入れ替えながら成長するように、建築や都市も、時代の変化に合わせて部分を取り替え、増やし、育てていくものだと考える運動でした。
きっかけは、1960年に東京で開かれた「世界デザイン会議」です。森美術館の公式ブログによると、この会議を機に、建築家の黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦、大髙正人、デザイナーの栄久庵憲司、粟津潔、建築評論家の川添登らがメタボリズム・グループを結成しました。彼らはマニフェスト『METABOLISM/1960 都市への提案』を発表し、新陳代謝する都市のアイデアを世に問います。『日本美術年鑑』は、この本が建築界の枠を超えて注目を集めたと記しています。
同じ森美術館のブログには、1960年当時の年齢が紹介されています。川添登が34歳、菊竹清訓が32歳、そして黒川は26歳でした。グループのなかでも最年少に近い存在で、事務所の公式サイトも、黒川が26歳のとき、メタボリズム運動の創設者のひとりとして世に出たと説明しています。
当時の日本は、戦後の復興から高度経済成長へ進む時期にありました。森美術館の展覧会紹介は、メタボリズムの背景に、理想の都市を通じてよりよいコミュニティをつくろうという思いがあったと述べています。人口が増え、都市が急速に変わっていく時代に、建築を完成品としてではなく、変化し続けるものとして考えたのが、この運動の新しさでした。
紙の上の未来都市(1960年代前半)
1960年代前半の黒川は、実際に建てる前の「構想」で注目を集めました。事務所の公式サイトには、そのいくつかが載っています。
- 農村都市計画(1960年):道路を格子状に引き、その下に設備の管を通す計画です。数軒の家からなる正方形の単位がそれぞれ自立しており、それをつなぐと村になります。住まいの単位が上下関係なく増えていき、日本の伝統的な集落が育ってきたように、村がだんだんとできあがるという考え方です。この計画は、1961年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開かれた「Visionary Architecture」展に出品されました。
- 霞ヶ浦計画(1961年):湖の上に浮かぶ都市の構想です。DNAの二重螺旋(ヘリックス)の構造を用いた巨大な骨組み(人工の土地)の上に、一戸建ての建築を自由に建てられるとされました。屋上は自動車交通、湖上は船からのアクセスになると説明されています。
- 東京計画1961-Helix計画:霞ヶ浦計画と同じように、東京湾を埋め立てずに、杭の基礎の上に二重螺旋の構造をもつ巨大な骨組みを建てる構想です。事務所の公式サイトは、生命の原理の時代を黒川が予言したのが1959年であると記しています。
こうした構想は、そのままでは実現しませんでした。ただ、大きな骨組みの上に個々の住まいを自由に置くという考え方は、のちの中銀カプセルタワービルなどの作品に通じるものと読めます。『日本美術年鑑』によれば、黒川は1962年、まだ大学院に在籍中に、自身の事務所である黒川紀章建築都市設計事務所を設立しました。
1960年代の半ばには、実際の街づくりにも関わります。1966年に設計した愛知県の「菱野ニュータウン」は、瀬戸市の南部、名古屋市から約18kmの場所にある174.2ヘクタールの計画で、約3万人が暮らすことを想定していました。事務所の公式サイトによると、街全体をひとつの中心に集めず、三つの住宅地区に分ける計画でした。
1970年の大阪万博
1970年の大阪万博は、黒川にとって大きな舞台になりました。『日本美術年鑑』は、丹下健三の全体構想のもと、黒川たち門下生が多くのパビリオン設計を担ったと記しています。黒川が手がけたパビリオンは、事務所の公式サイトによると次のとおりです。
- タカラ・ビューティリオン:鋼管で組んだ四層の骨組みが、木の枝のように四方へ伸びる建物です。必要に応じて横にも縦にも増やせる構造で、上部の構造をすべて工場で作る方法をとり、床・窓・屋根・塔まで含めた五層の建物を6日間で組み立てたと公式サイトは説明しています。
- テーマ館のカプセルハウス:シンボルゾーンにあるテーマ館の空間に、高さ30mの位置からカプセルの住まいを吊り下げた展示です。居間の床には窓があり、下の地面を見ることができました。大きな骨組みのなかに小さな建築を差し込むという発想で、都市の未来像のひとつを示しました。
- 東芝IHI館:三角形の鋼板を組み合わせた「テトラ・フレーム」という立体の骨組みから、ドーム型のシアターを吊り下げた建物です。九つのスクリーンを備えたシアターで、直径26mの回転する床の上に500席が置かれ、床がせり上がる仕組みでした。
森美術館の展覧会紹介は、1970年の大阪万博を「環境」をテーマにさまざまな分野が統合されたイベントだったと位置づけています。『日本美術年鑑』は、この万博を最後に、こうした未来志向の巨大都市構想は現実の社会から受け入れられずに終わったと述べています。一方で、黒川の問題意識の核心は、その後も「共生の思想」と言葉を変えて発信され続けたとも記しています。
『中銀カプセルタワービル』(1972年)
メタボリズムの考え方を、実際の建物として最も分かりやすく形にしたのが、東京・銀座に建っていた中銀カプセルタワービルです。『日本美術年鑑』は、この作品を、工場でつくられた交換可能なユニットが、縦の動線や設備を収めたコンクリートの塔に差し込まれた建築であり、メタボリズムの代表例だと説明しています。

写真のように、塔の外側には丸い窓のある箱形のカプセルが重なっています。黒川の事務所の公式サイトによると、ビルの設計・施工期間は1970年から1972年で、地下1階、地上は11階と13階の二つの塔からなる鉄骨鉄筋コンクリートの建物です。事務所は、これを実際に使うために建てられた、世界で最初のカプセル建築だと紹介しています。
カプセルの仕組みは、次のような手順でした。公式サイトの説明によると、カプセルの内部は、家具や設備まで含めて工場で組み立てます。それをクレーンで吊り上げ、コンクリートの塔に取り付けます。黒川は、わずか4本の高張力ボルトでカプセルを塔に固定する技術を開発し、カプセルを取り外して取り替えられるようにしました。

カプセルは、一人で暮らす住まいにも仕事場にも使え、複数をつなげれば家族でも使えるように考えられていました。事務所の公式サイトは、大量生産でも多様な新しい質を表現できるのか、という問いに挑んだ建物だと説明しています。また、近代化を進めた日本で、個人のための空間を確立しようとする試みでもあったと述べています。
この建物は、海外でも注目されました。事務所の公式サイトによると、近代建築の記録と保存を目的とする国際組織「ドコモモ・インターナショナル」の国際委員会が、1996年から世界遺産の候補に挙げる短いリスト(ショートリスト)に入れていました。また、2006年には、ドコモモ・ジャパンが選んだ日本の近代建築125選にも入っています。
その後、建物は2022年4月から10月にかけて解体されました。多くの人に惜しまれての解体だったと、保存・再生プロジェクトは伝えています。同プロジェクトの2023年4月の発表によると、建物は全部で140のカプセルからなり、そのうち23のカプセルが解体時に取り外されました。取り外されたカプセルは、黒川紀章建築都市設計事務所の監修のもとで、約50年前の姿に修復されています。2023年4月の発表の時点では、美術館や商業施設での展示、宿泊施設やギャラリーとしての再活用が進められていました。
建物そのものはなくなりましたが、部分を取り外して生かし直すというカプセルの仕組みが、解体のあとにも実際に働いたことになります。メタボリズムの考え方を考えるうえで、印象深い後日談です。
国立民族学博物館と名古屋市美術館(1970〜80年代)
1970年代以降の黒川は、博物館や美術館といった公共の文化施設を数多く手がけるようになります。『日本美術年鑑』は、黒川が一貫して大規模な公共施設を得意としたと記しています。
その最初の大きな成果のひとつが、大阪府吹田市の国立民族学博物館です。事務所の公式サイトによると、設計・施工は1973年から1977年。1970年の万博会場の跡地に建ち、その後1978年から1989年にかけて4回の増築が行われました。建物全体に柔軟な格子が通っており、展示の仕組みとともに、世界の文化が格子のようにつながっている様子を表すと同時に、将来の展示室の増築にも対応できるようにしたと、事務所は説明しています。
外壁の色は、日本の伝統色である「利休グレー」を基調にしたと、事務所は解説しています。展示される品々を引き立てるための選択です。中央の中庭は事務所の解説で「Future Ruin」(未来の廃墟の意)と呼ばれ、屋外の展示スペースであり、来館者が建物全体の構成をつかめる場所でもあります。この建物は、1978年の毎日芸術賞などを受けました。
続いて、名古屋市の白川公園に建つ名古屋市美術館(設計・施工は1983年から1987年)があります。事務所の公式サイトによると、建物の前に柱・梁・壁だけで組んだ独立した構造が象徴的な門のように立っています。地下の広い庭とロビーは、緩やかな曲線のカーテンウォールを挟んで続いており、そこは外でも内でもない中間の領域だと説明されています。この考え方は、事務所の公式サイトが黒川の思想の柱のひとつに挙げる「中間領域」にあたります。
「共生の思想」とは何か
黒川の名前と結びつく言葉のなかでも、特に重要なのが「共生」です。黒川の事務所の公式サイトは、共生を黒川の造語だと説明しています。二つの要素が、矛盾や対立、違いがありながらも互いを必要とし、ひとつの建築のなかで高い次元に統合されて表現されている状態を指します。
事務所の公式サイトは、その例として、自然と人工、芸術と科学、先端技術と伝統、精神と肉体といった対立する概念を挙げ、西洋の二元論を乗り越えた新しい世界秩序だと説明しています。

『日本美術年鑑』は、メタボリズムが受け入れられなくなったあとも、近代主義を乗り越えることが黒川の問題意識の核心にあり、それが「共生の思想」と言葉を変えて発信され続けたと説明しています。同じ年鑑によると、『共生の思想』(徳間書店)は1987年に出版され、1996年には『新・共生の思想』も刊行されました。
共生には、建築の言葉に置き換えられた考え方もあります。事務所の公式サイトは、次のようなものを挙げています。
- 中間領域:日本の建築にある縁側や軒下のように、内部と外部の間に位置する空間の性質です。外と内、建築と都市をはっきり分ける西洋の考え方ではなく、両者がなじみ合う東洋的・日本的な考え方を、建築や都市で表すとされています。
- 抽象的なシンボリズム:その地域や国のしるしや特性を、抽象的な形で表す方法です。世界共通の基準と、土地ごとの基準が共生する建築をめざすとされています。
- フラクタル:部分の中に全体が入れ子のように存在するという秩序です。部分と全体、規則と不規則が共生する新しい形のあり方を開くものとして、黒川は取り入れました。
難しく聞こえるかもしれませんが、整理するとこうなります。メタボリズムは、建築が時間のなかで変わり育つという時間の考え方で、共生は、対立するものが同じ場所に共にあるという空間や価値の考え方です。事務所の公式サイトは、新陳代謝(メタボリズム)を、生命が成長し変化するように、建築に循環(リサイクル)の概念を持ち込む手法だと説明しています。二つは別々の主張ではなく、黒川の言う「機械の時代から生命の時代へ」という大きな流れのなかにある、ひとつながりの考え方でした。

美術館の時代、広島と和歌山
1980年代後半から90年代にかけて、黒川は美術館の設計を次々に手がけました。『日本美術年鑑』は、広島市現代美術館(1990年に日本建築学会作品賞)や奈良市写真美術館(1992年に日本芸術院賞)などを挙げています。
広島市現代美術館は、市内を見渡せる比治山公園に建ち、1989年5月3日に開館しました。美術館の公式サイトによると、全国で初めて現代美術に本格的に取り組む公立美術館です。垂直の軸に沿って、下から自然石、タイル、アルミと素材が変わっていく建物は、過去から未来へ続く文明の発展や時間の流れを表し、設計者独自の「共生の思想」を体現していると、公式サイトは説明しています。
事務所の作品解説は、さらに、建物の中央に円形の空間が意図的に空けられていることを挙げ、その左側に常設展示室、右側に企画展示室が置かれると記しています。また、たくさんの切妻屋根が集まって村のようなひとつのまとまりになっている点を、部分と全体の共生を表すものだと説明しています。
和歌山県立近代美術館(設計・施工は1990年から1994年)は、和歌山城の近くの少し高くなった敷地に建ちます。事務所の公式サイトによると、伝統的な屋根の軒の重なりを抽象化し、伝統と現代の共生を表そうとしました。石段や庭灯籠、せせらぎ、能舞台といった外部の構成物も、伝統的な造形を使っています。

海外へ広がる仕事
ファン・ゴッホ美術館新館(アムステルダム)
1990年代の黒川は、海外の大きなプロジェクトにも積極的に取り組みました。『日本美術年鑑』は、クアラルンプール新国際空港(1998年)とゴッホ美術館新館(アムステルダム、1999年)を例に挙げています。事務所の公式サイトは、新館の設計・施工を1990年から1998年としており、年の数え方に違いがあります。
事務所の公式サイトによると、ファン・ゴッホ美術館新館は、建築家ヘリット・リートフェルトの設計した本館のとなりの空き地に建てられました。建物の面積の75%(主展示室を除く)を地下に収め、地上に出る部分を小さくしています。新館と本館は、地下の通路でつながります。
事務所の説明では、リートフェルトと黒川は幾何学的な抽象というモダニズムの考え方を共有していますが、新館は本館の直線的な造形から離れ、曲線の形や線を使っています。ここにも、日本の伝統的な抽象の考え方が取り入れられたとしています。新館と本館の間の沈んだ池が、開かれた中間領域をつくり、両者の共生を生んでいるという説明です。
クアラルンプール国際空港(マレーシア)
マレーシアのクアラルンプール国際空港は、事務所の公式サイトによると、設計・施工が1992年から1998年。首都クアラルンプールの南約60kmに位置し、敷地は10km四方、成田空港の10倍の広さだと説明されています。ターミナルは38.4mの格子に沿って構成されており、将来の拡張が容易です。双曲放物面(ねじれた曲面)の屋根は、伝統的なイスラムのドームを思わせ、先端技術とイスラムの伝統との共生を表そうとしたと述べています。
この空港について、事務所の公式サイトは、2003〜2004年のイタリアの国際賞「ダイダロ・ミノッセ国際賞」でグランプリを受けたとも記しています。国や地域の象徴を抽象的な形で表すという黒川の方法が、海外の大規模プロジェクトでも使われた例です。
黒川の仕事は、国内外で評価されました。事務所の公式サイトによると、1986年にフランス建築アカデミーの金メダル、1992年に日本芸術院賞を受け、1994年にはシカゴ美術館が建築部門のギャラリーに「Kisho Kurokawa Gallery of Architecture」の名をつけています。また、1997年にはパリのポンピドゥー・センターで、展覧会「Kisho Kurokawa Metabolism 1960-1975」が開かれました。
国立新美術館(2007年)
黒川の最後の大きな美術館が、東京・六本木の国立新美術館です。国立新美術館の公式サイトによると、2000年に文部科学省が設計業務を黒川紀章・日本設計共同体に委託し、2002年7月に着工、2006年に竣工しました。開館は2007年1月21日です。

公式サイトによると、建物は「森の中の美術館」をコンセプトに設計されました。南側は、波のようにうねるガラスのカーテンウォールが曲線を描き、円錐形の正面入口とともに、個性的な外観をつくっています。吹き抜けの1階ロビーからは、このガラス越しに、青山公園など周囲の緑がとけこむように植えられた草木を眺められます。免震装置や雨水の再利用、床吹出し空調など、機能面の工夫も取り入れられました。
この美術館には、特徴がもうひとつあります。美術館の公式サイトによると、収蔵品(コレクション)を持たない代わりに、あらゆる国や地域の人々がさまざまな芸術表現を体験できるアートセンターとして活動しています。国内最大級の展示スペース(のべ14,000平方メートル)を生かし、多彩な展覧会を開く場所です。事務所の公式サイトは、公募展の作品を搬入して審査し、展示室へ運ぶ動線を地下から組み立てていること、展示室を仕切って小さな空間にも使えることを挙げ、これほど機能に徹した施設は初めてで、巨大な展示装置と呼べると説明しています。
開館時のメッセージで、黒川は、1階ロビーのアトリウムの天井が21.6mの高さにあり、透明で大波のようにうねる外壁が特色だと述べています。そして、日射熱と紫外線をカットする省エネの設計でありながら、周囲の森と共生する建築だと語っています。ここでも、先端的な機能と自然との「共生」という、黒川の言葉が使われています。
国立新美術館は、黒川が設計した数多くの美術館のなかで、生前に完成した最後の美術館だと、公式サイトは記しています。開館後の2007年1月21日から3月19日まで、館内で「黒川紀章展 機械の時代から生命の時代へ」が開かれました。公式サイトによると、黒川は1959年に「機械の時代から生命の時代へ」と時代の転換を宣言し、1960年にメタボリズムの運動に参加して以来、およそ半世紀にわたり、生命の時代の建築と都市の研究と創造に取り組んできたと紹介されています。メタボリズム、共生、リサイクル、エコロジー、生態系、情報といった、黒川が1960年代から提起し続けたテーマは、いま世界が直面する大切なテーマになっているとも書かれています。
黒川紀章の作品を一覧で
ここまでに登場した主な作品を、事務所の公式サイトの記載をもとに表にまとめます。年は設計・施工の期間です。
| 作品名 | 所在地 | 設計・施工の期間 |
|---|---|---|
| 中銀カプセルタワービル(2022年に解体) | 東京・銀座 | 1970〜1972年 |
| 国立民族学博物館 | 大阪・吹田 | 1973〜1977年(1978〜1989年に4回の増築) |
| 名古屋市美術館 | 名古屋 | 1983〜1987年 |
| 広島市現代美術館 | 広島 | 1986〜1988年(1989年5月3日開館) |
| 和歌山県立近代美術館 | 和歌山 | 1990〜1994年 |
| ファン・ゴッホ美術館新館 | アムステルダム | 1990〜1998年(『日本美術年鑑』は1999年と記す) |
| クアラルンプール国際空港 | マレーシア | 1992〜1998年 |
| 国立新美術館 | 東京・六本木 | 2000〜2006年(2007年1月21日開館) |
晩年と評価
黒川は、2007年10月12日に心不全のため亡くなりました。73歳でした。国立新美術館が開館してから、9か月足らずのことでした。1998年に日本芸術院会員、2006年には文化功労者に選ばれています。
『日本美術年鑑』は、黒川を「ある時代において日本人に最も知られた建築家」と評しています。同時に、その華やかな人物像が広まったことで、専門の建築界からは厳しい評価を受けることも多く、むしろ海外での評価が高かったとも記しています。評価が一様ではなかったことは、黒川を知るうえで押さえておきたい点です。
一方で、『日本美術年鑑』は、メタボリズムに対しても近年は再評価の動きがあると書いています。持続的な発展が共通の課題になったいま、新陳代謝や循環という言葉の意味が、改めて見直されているということです。2011年9月から翌年1月には、森美術館で「メタボリズムの未来都市展」が開かれ、メタボリズムを総括する世界で初めての展覧会と紹介されました。
実際に建てられた建築と、紙の上に残された構想を並べて見ると、黒川の仕事にはひとつの筋が通っています。変化するもの、異なるものを、排除せずにひとつの場所へ迎え入れる、という姿勢です。
まとめ
いかがだったでしょうか。黒川紀章は、26歳でメタボリズムという運動に加わり、中銀カプセルタワービルのように取り替えられる建築を実現した建築家でした。のちには「共生の思想」を掲げ、広島市現代美術館や国立新美術館のように、自然や伝統、先端技術との関係を建築で表そうとしました。
中銀カプセルタワービルは解体されましたが、取り外されたカプセルは修復され、新しい場所で活用されています。国立新美術館や広島市現代美術館、国立民族学博物館は、訪れて体験できる建築です。建物の外観や、内と外の間にある空間を、ぜひ意識して見てみてください。
Euphoric " " の視点
1960年代前半に黒川が示した霞ヶ浦計画や東京計画1961-Helix計画は、そのままでは実現しませんでした。『日本美術年鑑』は、大阪万博を最後に、こうした未来志向の巨大都市構想は現実の社会から受け入れられずに終わったと記しています。
それでも、大きな骨組みの上に個々の住まいを自由に置くという考え方は、のちの中銀カプセルタワービルなどの作品に通じるものと読めます。問題意識の核心も、「共生の思想」と言葉を変えて発信され続けました。
建たなかった案は、つい失敗と見てしまいがちです。けれども黒川の歩みを見ると、考えを言葉にして手放さずにいれば、形を変えて次の仕事に生きることがあると考えます。構想を言葉で残し続けることもまた、作り手の大切な仕事なのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






