こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは狩野芳崖という人物をご存知ですか?
狩野芳崖(かのう ほうがい)は、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。江戸時代に幕府や大名家に仕えた絵師の流派「狩野派」に学びながら、明治になってからは西洋の絵の具や空間の表現を取り入れ、新しい日本画への道を切り開きました。
代表作は、亡くなる1888年に描いた絶筆重要文化財『悲母観音』です。近代日本画の出発点と位置づけられる作品として知られます。ほかに、同じく重要文化財の『不動明王』、西洋の絵の具を試みた『仁王捉鬼図』などがあります。
芳崖は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の開校準備にも関わりました。けれども、1889年の開校を待たずに、1888年に亡くなっています。
本記事ではそんな狩野芳崖の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 幼名は幸太郎(こうたろう)、名は延信(ながのぶ)。「芳崖」は号(画家としての名) |
| 生年月日(没年月日) | 1828年2月27日(文政11年1月13日)〜1888年11月5日(満60歳没) |
| 国籍/出身 | 日本 長門国豊浦郡長府印内(現・山口県下関市長府) |
| 学歴 | 記録なし(江戸の木挽町狩野家で修業) |
| 分野 | 日本画 |
| 傾向 | 狩野派の筆の力強さに、西洋の絵の具や空間の表現を取り入れた画風 |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 父・狩野晴皐(せいこう)、狩野養信(おさのぶ)、狩野雅信(ただのぶ)に学ぶ。雪舟を研究。のちにフェノロサ、岡倉天心から影響と支援を受ける |
https://euphoric-arts.com/art-2/kano-eitoku/
経歴と作品
長府藩の絵師の家に生まれて
狩野芳崖は1828年(文政11年)、長門国(現在の山口県)の長府に生まれました。長府は、いまの下関市にあたる城下町です。父の狩野晴皐は、長府藩に仕える御用絵師(藩に雇われた専属の絵師)でした。
芳崖は幼いころから、父に狩野派の基礎を教わりました。11歳までには「松隣(しょうりん)」という号で、手本を写した作品を描いています。
ここで、狩野派とはどのような集団だったのかを確認しておきましょう。京都国立博物館の解説によると、狩野派は室町時代の中ごろから江戸時代の終わりまでの約400年のあいだ、日本の画壇に君臨し続けた絵師の集団です。多くの弟子を育て、どんなジャンルの絵も描けることが強みでした。今でいえば、絵の仕事を請け負う大きな工房のような存在です。詳しくは、狩野派の名手を取り上げた狩野永徳の記事もあわせてご覧ください。
1846年、芳崖は藩から江戸での修業を許され、江戸の木挽町(こびきちょう)にあった狩野家の門をたたきます。入門した相手は狩野養信でしたが、まもなく養信が亡くなったため、その子の狩野雅信に学ぶことになりました。1849年には一字を与えられ、「勝海(しょうかい)」と名乗っています。
同じ木挽町の門下に、のちに親友となる橋本雅邦(はしもと がほう)がいました。世界大百科事典によると、二人は雅信の門下で「竜虎」とうたわれるほどの腕前でした。
「芳崖」を名乗り、貧しさのなかで
1857年ごろ、芳崖は関西を旅したのち、故郷の長府に戻って田原よしと結婚しました。その後ひとりで江戸に戻り、このころから「芳崖」と名乗るようになります。日本アーティスト事典によると、「法の外に出る」という意味を込めて、自ら名乗った号です。雪舟の研究にも力を入れています。号を使い始めた時期は、日本大百科全書が1855年ごろ、ブリタニカ国際大百科事典が1861年ごろとするなど、資料によって幅があります。本記事は、東京藝術大学大学美術館の古田亮氏が執筆した日本アーティスト事典の記述に従いました。
1867年に父が亡くなり、芳崖は家を継ぎました。ところが、時代は明治へ。藩が廃止されて給料がなくなると、生活は苦しくなります。四十代半ばだった芳崖は、養蚕や文具店を営んで暮らしをしのぎました。
1877年、家族とともに東京へ。輸出を扱う会社「精工舎」に勤め、陶磁器や漆器に描く図案の下絵を描いて、日当を得ていました。のちに近代日本画の先駆者と呼ばれる画家の前半生は、決して恵まれたものではありませんでした。
苦労したのは、芳崖だけではありません。親友の橋本雅邦も、明治維新の激動のなかで生活に困り、中国向けに輸出する扇子の絵を描いて暮らしをしのいだと、世界大百科事典は記しています。藩や幕府に仕えて絵を描いていた絵師たちにとって、明治の最初の十数年は、仕事の後ろ盾を失った厳しい時期でした。
フェノロサとの出会い
芳崖の人生を変えたのは、アメリカ人のアーネスト・フェノロサ(1853〜1908)との出会いです。藝大アートプラザの解説によると、フェノロサは1878年、東京大学の教授として来日しました。大学で政治学や哲学などを教えるかたわら、日本美術に関心を持ち、研究を始めた人物です。
当時の日本では、西洋の文化を取り入れることが急がれ、伝統的な美術は顧みられにくくなっていました。仏教を排する動きもあり、仏教美術は危機に瀕していたといいます。フェノロサは、東京大学の学生だった岡倉天心(おかくら てんしん)を通訳として、奈良や京都の寺で仏教美術を調べ、日本美術の価値を訴えるようになりました。
1882年には、伝統美術の保存を目的とした団体「龍池会(りゅうちかい)」で講演し、日本ではじめて「日本画」(Japanese painting)という言葉を用いて、西洋の油絵と比べた日本画の長所を論じたといいます。この講演は『美術真説』という本になり、「日本画」という言葉の初出と言われています。芳崖が出品した共進会が開かれたのは、ちょうど同じ年でした。
1882年、芳崖は第1回内国絵画共進会(国が開いた絵の展覧会)に、『山水』『布袋』などを出品します。賞は取れませんでしたが、これらの絵がフェノロサの目に留まりました。翌1883年の暮れ、フェノロサは月給20円で芳崖を雇います。のちには、フェノロサの家の近くに用意された家に移り住みました。
フェノロサが組織した鑑画会(かんがかい)は、新しい日本画を生み出すための集まりです。1884年に発足し、はじめは古い絵の鑑定や展示が中心でしたが、フェノロサが中心になると、西洋画の要素も取り入れた新時代の日本画家を育て、作品を発表する場へと変わりました。藝大アートプラザの解説によると、この団体の活動は、のちの東京美術学校創立の母体になりました。橋本雅邦も参加しています。芳崖はその中心で作品を発表しながら、日本画の革新を進めていきます。1884年の第2回内国絵画共進会には『桜下勇駒図(おうかゆうくず)』などを出品し、褒状を受けました。東京国立近代美術館がこの作品を所蔵しています。
『Winter landscape: a ravine』(1883年)
アメリカのフリーア美術館(スミソニアン国立アジア美術館)が所蔵する、紙に墨で描かれた縦長の山水画です。大きさは縦136.9センチ、横61.8センチ。同館の解説によると、この絵はフェノロサの依頼で描かれ、1884年の第2回内国絵画共進会に出品されました。フェノロサは、前の年の展覧会で芳崖の絵を見て以来、その仕事に関心を寄せていたといいます。
画面の下半分に、雪をかぶった岩山と松の木が描かれ、上半分は大きく空けられています。同館は、雪舟など昔の水墨画家を学んだ成果が表れた作品だと解説しています。芳崖はこの時点ではまだ西洋美術の研究を始めていませんでしたが、空間を筋道立てて表す描き方が、海外の収集家や鑑賞者に受け入れられる助けになった、とも述べています。1902年に、チャールズ・ラング・フリーアがフェノロサから購入しました。
同じフリーア美術館には、『観音』(館の作品名は「Hibo Kannon」)も伝わっています。のちの『悲母観音』と同じ主題を、先に描いた作品です。同館の記録は1883年の作とし、日本アーティスト事典は1884年の作として、第2回パリ日本美術縦覧会(パリで開かれた日本美術の展覧会)に出品されたと記しており、制作年は資料によって1年の違いがあります。フリーア美術館の解説によると、この絵はフェノロサが1886年、ヨーロッパを旅したときに画商のジークフリート・ビングから購入し、1902年にフリーアがフェノロサから買い取りました。日本アーティスト事典は、この作品を「フェノロサの影響をまだ受けていない作品と言われている」と記しています。なお、『観音』の画像は同館が利用に条件を付けているため、この記事には掲載していません。
鑑画会の時代(1885〜1886年)
1885年、第1回鑑画会大会が開かれ、芳崖の『伏龍羅漢図(ふくりゅうらかんず)』が三等を受賞しました。福井県立美術館が所蔵する作品で、日本アーティスト事典は「構図や彩色にフェノロサ絵画理論の示唆が見られる」と解説しています。このころ芳崖は、「ワットマン紙」(西洋の画用紙)に、墨で絵を描くことも試していました。
『Two Dragons in Clouds』(1885年)

アメリカのフィラデルフィア美術館が所蔵する、紙に墨で描かれた龍の絵です。画面は縦約90センチ、横約135センチあります。同館の解説によると、フェノロサが東京の自宅に飾り、特別な場所を与えていた作品でした。からみ合う龍を非常に写実的に描いており、東洋と西洋の融合を示しているといいます。龍という題材は古代の中国にさかのぼりますが、龍の体の立体感や、短縮法(形を縮めて描き、奥行きを出す技法)の使い方には、西洋の遠近法に通じた芳崖の知識が表れているとされています。
画面を見ると、雲のなかでとぐろを巻く龍の体が、墨の濃淡によって、丸みをもって浮かび上がっています。うろこの一枚ずつまで描き込みながら、背景は、墨をぼかして雲の広がりを表しました。細部と余白の対比が際立つ一枚です。
フェノロサは、芳崖を支えただけでなく、作品の収集家でもありました。たとえばボストン美術館には、紙に墨で描かれた『江流百里図(こうりゅうひゃくりず)』(1885年ごろ)が伝わっています。同館の記録によると、この作品は1886年より前にフェノロサが購入し、同年にチャールズ・ゴダード・ウェルドへ譲られ、1911年にウェルドの遺贈で美術館に入りました。「フェノロサ・ウェルド・コレクション」の1点です。芳崖の作品がアメリカの美術館に伝わっている背景には、こうした来歴があります。
蘇軾『後赤壁賦』(19世紀)

ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する、縦長の掛け軸です。日本大百科全書は、この作品を紙本墨画(紙に墨で描いたもの)で、大きさは縦129.2センチ、横32.2センチと紹介しています。
題名の蘇軾(そしょく)は、中国・北宋の詩人です。蘇軾が詠んだ「後赤壁賦」という詩文を題材とした絵画です。芳崖がどの時期に描いたかは、メトロポリタン美術館の記録でも「19世紀」としか示されていません。画面の上に文字、下に山と川を置いた構図で、山肌には、紙の白さを生かした部分が目立ちます。
『仁王捉鬼図』(1886年):西洋の絵の具への挑戦
1886年の第2回鑑画会大会に出品された『仁王捉鬼図(におうそっきず)』は、芳崖が色彩に挑んだ作品です。仁王(におう)は寺の門を守る仏教の守護神で、「捉鬼」は鬼をとらえることを意味します。題名のとおり、仁王が鬼を捕らえる場面が描かれています。
日本アーティスト事典は、この作品で芳崖が西洋の画法を取り入れ、とくに彩色で西洋顔料(西洋の絵の具)を用いるなど、実験的な描き方を試みたと記しています。世界大百科事典は、パリから取り寄せたカーマイン(洋紅)系の赤、コバルト、ピンクなどの絵の具が使われたと解説し、この作品が第2回鑑画会で一等賞を得たとも記しています。
画面を見ると、赤い肌の仁王が、小さな鬼を片手でつかんでいます。仁王の背後には、青緑色の渦のような雲が広がり、ピンクや橙色のあたたかい色が、画面の上のほうを満たしています。床には細かな模様が敷きつめられ、画面の奥には、逃げていく小さな鬼たちの姿も見えます。
東京国立近代美術館の記録によると、この作品は彩色・紙本・軸の作品で、大きさは縦123.8センチ、横64.0センチ。2011年度(平成23年度)に購入されました。下関市立美術館の展覧会の解説によると、長いあいだ個人の所蔵だったため、『悲母観音』のように多くの模作が生まれた歴史は追えないといいます。そのうえで、同館はこの作品を「もうひとつの代表作」と紹介しています。近年は、二人の日本画家がこの作品に向き合い、新しい作品を生み出したそうです。
なお、本作の画像は、権利の確認が取れた図版のみ掲載するという方針により、この記事には掲載していません。東京国立近代美術館の所蔵作品検索で確認できます。
東京美術学校の準備と奈良の旅
1886年、芳崖は文部省の図画取調掛(ずがとりしらべがかり)に月給15円で雇われました。この部署は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立準備のために置かれたものです。藝大アートプラザの解説によると、図画取調掛は1885年に文部省の中に置かれ、岡倉天心とフェノロサが翌年にヨーロッパを調査したのち、1887年に東京美術学校が創立されました。
同じ1886年、芳崖はフェノロサや岡倉天心らとともに、奈良へ古美術の調査に出かけます。このときの記録として、東京藝術大学に『奈良官遊地取(ならかんゆうじどり)』が残っています。古い寺や神社で目にした仏画や仏像、さらに妙義山(群馬県)に登った体験をもとに、芳崖は新しい観音の絵に取りかかりました。
『山水』(1887年)

東京国立博物館が所蔵する、二曲一隻(二枚折りの屏風ひとつ)の水墨画です。麻の布に墨で描かれ、一枚の大きさは縦141.8センチ、横80.1センチ。同館の解説によると、画面のまわりに岩や山を集め、中央のあたりを余白にする構図は、室町時代の雪舟の山水表現を取り入れたものです。その一方で、線は均質で、墨の濃さも一定にそろえられているといいます。芳崖は室町時代の水墨画を手本にしながら、明治の時代に新しい山水の表現を生み出そうとした、と同館は説明しています。
『不動明王』(1887年)
この時期に生まれたのが、重要文化財『不動明王』です。東京藝術大学大学美術館の記録では、1887年(明治20年)の作で、紙本着色、掛け軸の形をとります。大きさは縦158.0センチ、横78.8センチ。日本アーティスト事典は、制作を「1887年頃」としています。文化庁の国指定文化財等データベースによると、1955年6月22日に「紙本著色不動明王図」の名称で重要文化財に指定されました。
世界大百科事典は、洋風の陰影法(明るい部分と暗い部分の差をつけて立体感を出す技法)や、空気遠近法(遠くのものをぼんやり描いて奥行きを出す技法)が取り入れられた作品だと解説しています。画面では、暗い色の肌をした不動明王が、右手に剣を立て、左手に縄を持って、岩の上に腰をおろしています。
なお、この作品も権利の確認が取れた図版が見つからなかったため、画像は掲載していません。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースで、作品情報を確認できます。
『悲母観音』(1888年):最後の作品
芳崖の名を、いまに伝える作品といえば、やはり『悲母観音(ひぼかんのん)』でしょう。絹に着色した作品で、額に仕立てられ、大きさは縦195.8センチ、横86.1センチ。ほぼ等身大の大きな画面です。東京藝術大学が所蔵しています。文化庁の国指定文化財等データベースによると、『不動明王』と同じ1955年6月22日に、「絹本著色悲母観音像」の名称で重要文化財に指定されました。
画面は、金色の世界です。金色の雲の上に観音が立ち、その下の宙には、透明な球に包まれた赤ん坊が浮かんでいます。
美術情報サイト artscape の記事(影山幸一氏の執筆。東京藝術大学大学美術館で2008年の芳崖展を企画した古田亮氏に取材したもの。2012年)は、この絵の見方を次のように整理しています。
- 観音が左手に柳の枝を持つことから、病気や災いを救う「楊柳観音(ようりゅうかんのん)」だと分かる。
- 赤ん坊に水瓶(みずがめ)から霊水を垂らしているような観音像は、これ以前にはなく、芳崖の創作と考えられる。
- 金泥(金の粉をにかわで溶いた絵の具)と金砂子(きんすなご。金の粉をまいたもの)を併用し、複雑な金の表現をつくっている。
- 西洋顔料は使われていない。伝統的な岩絵具に、胡粉(白い絵の具)などを使って、色数を増やす試みが見られる。
世界大百科事典も、画題と構図は中国の仏画に拠りながら、彩色に胡粉を混ぜて中間色を豊かにするなど、多くの試みがなされたと解説しています。
同じ artscape の記事によると、『悲母観音』という題名は、芳崖自身がつけたものではなく、後の時代につけられたものです。画面には落款(作者の署名と印)もありません。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースでも、印章・銘記の欄には記載がありません。
この作品を描いた背景について、同じ記事は古田氏の見方を次のように伝えています。芳崖が日ごろ「観音様」と呼んでいた妻のよしは、1887年7月に53歳で亡くなりました。その年の春ごろ、芳崖は妻の平癒を祈って『悲母観音』の制作に取りかかっていた、と古田氏は見ています。狩野派の伝統、西洋画の技法、フェノロサの理論、妻のことといった個人的なものを、母と子に焦点をあてることで、普遍的なものにしようとした、というのです。
ただし、これは研究者の見解であり、芳崖自身の言葉で確認できる事実ではありません。日本アーティスト事典は、本作を、伝統を踏まえながらも、それまでにない表現が随所に見られる、近代日本画の出発点として位置づけるべき重要作品としています。
『悲母観音図綴織額』(1895年):織物に写された悲母観音

芳崖の『悲母観音』そのものの画像は、権利の確認が取れた図版のみ掲載するという方針により、この記事には載せていません。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースで見ることができます。ここでは、構図を知る手がかりとして、東京国立博物館が所蔵する『悲母観音図綴織額(ひぼかんのんずつづれおりがく)』を掲げます。
同館の解説によると、川島織物の主任画師だった東翠石が芳崖の『悲母観音』を模写して下絵をつくり、二代川島甚兵衛が綴織(つづれおり。糸で絵柄を織り出す織物)に仕上げたものです。1895年に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に出品されました。織物の部分だけで縦245センチ、横100センチあり、芳崖の原画よりひとまわり大きく作られています。観音が右手の水瓶を傾け、その下に、球に包まれた赤ん坊が浮かぶ構図が写されています。芳崖が亡くなって7年後のことでした。
最後の年に描いた『大鷲』
1888年、芳崖は『悲母観音』のほかに、絹に墨で描いた大作『大鷲(おおわし)』も手がけています。東京藝術大学大学美術館の記録では、大きさは縦325.3センチ、横203.9センチと、とても大きな画面です。落款には「年六十一」と記され、芳崖が数え年で61歳だったことが分かります。
太い枝をつかんだ鷲が、身をかがめて下をにらむ姿は、『悲母観音』の静けさとは対照的です。金色と墨の黒という、まったく違う二つの世界を、芳崖は同じ年に描き分けていました。なお、この作品も『悲母観音』と同じ理由で、画像は掲載していません。
開校を待たずに:芳崖の死とその後
1888年11月5日、芳崖は肺炎のため、東京・神田区小川町の自宅で亡くなりました。日本アーティスト事典は、死の直前まで筆を執り、『悲母観音』が絶筆になったと記しています。世界大百科事典は、芳崖が〈後3日あれば〉という言葉を残して世を去ったと伝えています。下関市の広報紙『市報しものせき』(2024年2月号)は、下関市立美術館の特別展を紹介する記事のなかで、病に倒れた芳崖が、仕上げを親友の橋本雅邦に委ねたという、と記しています。
芳崖は、開校後の東京美術学校で、日本画の中心になるはずでした。日本大百科全書は、1888年に日本画科の主任教授に内定していたと記しています。日本アーティスト事典も、開校後は芳崖が中心になって近代の日本画教育が行われると期待されていた、と書いています。けれども、東京美術学校が開校したのは、翌1889年(明治22年)でした。
芳崖の遺志をつぐ、橋本雅邦

芳崖の遺志をついだのは、親友の橋本雅邦でした。世界大百科事典は、芳崖が日本画主任教授に予定されていたこと、そしてその遺志が橋本雅邦らの新日本画運動に受けつがれたことを記しています。
日本大百科全書によると、雅邦は東京美術学校の開校とともに、教師の中心として後進の育成にあたりました。門下には、横山大観、下村観山、菱田春草らがいます。このうち菱田春草については、菱田春草の記事で人生と作品を詳しく紹介しています。芳崖が目指した日本画の革新は、弟子たちの世代に引き継がれていきました。
なお、東京美術学校は、開校当初は西洋画科が置かれず、日本画を中心にした学校でした。藝大アートプラザの解説は、「日本画」という言葉も、この流れのなかで、西洋画に対する概念としての意味合いを帯びたと説明しています。
『悲母観音』は、その後も多くの人を引きつけました。下関市立美術館の解説は、本作が近代日本画の幕開けという記念碑的な意味にとどまらず、日本の近代の幕開けそのものを示すイメージとして成立しているのではないか、と述べています。
没後の芳崖:展覧会が示す評価
芳崖の評価は、亡くなった後も、展覧会という形で積み重ねられてきました。日本アーティスト事典の主要展覧会の一覧には、1903年に東京美術学校で開かれた遺蹟展覧会をはじめ、1920年の三十三年忌の遺墨展、1979年の生誕150年展(山口県立美術館)などが並びます。没後100年にあたる1988年から1989年には、山種美術館、下関市立美術館、京都国立博物館で、記念の展覧会が相次いで開かれました。
さらに2008年には、東京藝術大学大学美術館と下関市立美術館が『狩野芳崖:悲母観音への軌跡』展を開きました。2024年にも、下関市立美術館が開館40周年を記念して、『悲母観音』から始まる物語をたどる特別展を開いています。芳崖は、亡くなってから130年あまりを経たいまも、くり返し光があてられている画家なのです。
芳崖の足跡をたどる

芳崖の故郷、山口県下関市の長府印内町には、芳崖の邸宅があった場所を示す碑が建っています。この地で御用絵師の子として生まれた芳崖は、のちに近代日本画の出発点とされる作品を描くことになります。
下関市立美術館は、城下町長府で生まれた「近代日本画の父」として芳崖を紹介しています。同館の公式サイトによると、収蔵品の中心は狩野芳崖、高島北海、香月泰男など、地元にゆかりのある作家の作品で、芳崖の作品は約60点にのぼります。ただし、同館に常設展示はなく、コレクションはテーマを変えながら、年に4〜5回程度「所蔵品展」として公開されています(2026年10月時点)。展示の予定は、公式サイトでご確認ください。
狩野芳崖の年表
| 1828年 | 長門国長府(現・山口県下関市)に生まれる |
| 1846年 | 藩に江戸での修業を許され、木挽町狩野家に入門 |
| 1867年 | 父が亡くなり、家督を継ぐ。やがて明治維新で藩の給料を失い、困窮する |
| 1877年 | 家族とともに東京へ |
| 1882年 | 第1回内国絵画共進会に出品。フェノロサの目に留まる |
| 1883年 | 暮れ、フェノロサに月給20円で雇われる |
| 1884年 | 第2回内国絵画共進会に『桜下勇駒図』などを出品し、褒状を受ける |
| 1885年 | 第1回鑑画会大会で『伏龍羅漢図』が三等を受賞 |
| 1886年 | 『仁王捉鬼図』を第2回鑑画会大会に出品。図画取調掛に雇われ、奈良へ古美術調査に出かける |
| 1887年ごろ | 『不動明王』(重要文化財)を描く |
| 1888年 | 『悲母観音』(重要文化財)『大鷲』を描く。11月5日、肺炎で亡くなる |
| 1889年 | 東京美術学校が開校する |
| 1955年 | 6月22日、『悲母観音』『不動明王』が重要文化財に指定される |
まとめ
いかがだったでしょうか。
狩野芳崖は、長府の城下町に生まれた御用絵師の子でした。江戸で狩野派の技を身につけ、明治の世で職を失い、貧しさのなかで絵を描き続けました。そして50代半ばでフェノロサに出会うと、西洋の絵の具や空間表現を取り入れた新しい日本画へ踏み出します。
『仁王捉鬼図』では西洋の絵の具を試し、『不動明王』では陰影を取り入れ、最後に『悲母観音』で、金色の世界に母と子の姿を描きました。亡くなったのは、東京美術学校の開校の前年です。教壇に立つことはかないませんでしたが、芳崖が切り開いた道は、橋本雅邦や、その弟子たちへとつながっていきました。
作品の多くは、東京藝術大学大学美術館、東京国立近代美術館、そして故郷の下関市立美術館などに収められています。展示の予定は時期によって変わりますので、各館の公式サイトで確認し、ぜひ実物の前に立ってみてください。
Euphoric " " の視点
芳崖は一時、輸出を扱う会社に勤め、陶磁器や漆器に描く図案の下絵を描いて、日当を得ていました。
1883年の暮れ、フェノロサが月給20円で芳崖を雇います。「芳崖」は、「法の外に出る」という意味を込めて、自ら名乗った号だといいます。
絶筆『悲母観音』の落款には「年六十一」と記されています。東京美術学校の日本画科の主任教授に内定していましたが、開校を待たずに亡くなりました。
下絵描きの日々も、最後の一枚も、同じ手の仕事です。芳崖の歩みは、不遇の時期に続けた仕事が、遅れて大きな機会につながるのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- 東京藝術大学大学美術館『悲母観音』収蔵品データベース(展示の有無は時期によって異なります)
- 国立美術館 所蔵作品検索『仁王捉鬼図』(東京国立近代美術館所蔵)
- 下関市立美術館 主なコレクション(狩野芳崖の作品を所蔵)(常設展示はなく、所蔵品展として公開されます)
- 東京国立博物館『悲母観音図綴織額』(ColBase)(展示の有無は時期によって異なります)







