皆さんこんにちは、ユアムーン編集部です!
突然ですが、ピエール=オーギュスト・ルノワールという人物を知っていますか?印象派を代表する人物で、聞いたことがある人も多いと思います。
今回は、そんなルノワールについて、作品と人生をご紹介します!
ピエール=オーギュスト・ルノワールってどんな人?
基本情報
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本名 | Pierre-Auguste Renoir |
生年月日 | 1841年2月25日 |
国籍 | フランス |
教育 | シャルル・グレール画塾/エコール・デ・ボザール |
印象派の巨匠
ルノワールは人物画をよく描いた人物で、印象派の代表格として知られています。
鮮やかな色彩と筆触分割という技法をよく用いると言われており、印象派のもとになったとされる「印象 日の出」を書いたクロード・モネは生涯にかけてルノワールと制作をつづけ、関係を築いていた人物です。
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作品と人生
天使の声
ルノワールは1841年、フランス中南部の街リモージュで仕立て屋の息子として生まれました。その後、一家でパリに移り住みました。聖歌隊に入ったルノワールは才能を高く評価され、オペラ座の合唱団に入る事を提案された程でした。
13歳になると陶磁器の絵付け工房で働くことになりました。次第に機械化が進むと17歳で失業し、その後は扇子の装飾といった仕事をしていました。
ロメーヌ・ラコール嬢
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ルノワール作品の基になった学び
画家になることを決意したルノワールは20歳のころ、シャルル・グレールの画塾に入りました。
その時に出会ったのがクロード・モネやアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールでした。グレールの画塾は自由に書くことを許していた為、様々な傾向の画学生が集いました。グレールにとってルノワールは絵を楽しそうに描く生徒でした。
アントニーおばさんの宿屋
エコール・デ・ボザールにも入学し、デッサンと解剖学を学んでいましたが、そこでは新古典主義が主流であった為、豊かな色彩を使うことはよしとされていませんでした。ここで学んだ経験が、後の鮮やかな色彩で人物画を描くルノワールが評価される基になったと考えられます。
日傘のリーズ
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サロンと画家同士の助け合い
当時最も権威があり、画家達の登竜門であったサロン・ド・パリにはルノワールも多くの作品を応募し、入選と落選を繰り返しました。はじめて入選した「エスメラルダ」という作品は、サロン終了後にルノワールが無理潰してしまい、現在は残っていません。
夏・習作
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23歳から29歳にわたって多くの作品をサロンに応募しています。幼少期から貧しかったルノワールは当時も生活が困窮し、シスレーやバジールの助けを借りつつ、モネら仲間の画家たちと制作を続けていました。
シスレーの父親や依頼を受けて肖像画をよく描いていて、中には当時の恋人をモデルにした作品も多く残っています。
アルジエの女
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スパイの容疑がかかったルノワール
1870年に普仏戦争が勃発すると、ルノワールも徴兵されます。赤痢にかかり、生命の危機に会いましたが叔父が引き取ってくれたおかげでパリに戻ることになります。
回復した後に、セーヌ河岸で制作中にスパイに疑われて捕まったこともありました。また、普仏戦争では友人のバジールが戦死してしまいました。
バジールの肖像
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印象派展のはじまり
第3共和政になった普仏戦争後も、ルノワールはサロンへ応募を繰り返しますが、落選が続いてしまいます。そんな中でも、人物画の依頼や作品を購入してくれるかたがいた為、生活の助けになっていました。さらに、少しずつ愛好家が増えた事で1873年に広いアトリエを借りられるようになりました。
踊り子
またモネのもとを度々訪問し、戸外制作をするようになったことで風景画の傑作を生みだすようになります。この時期、一緒に制作をしていたモネ、ルノワール、シスレーらで筆触分割の手法を使うようになり、自然の一瞬の様子を切り取る様式を生み出しました。
1874年に始まった第1回印象派展では、画家30人が参加し、展示作品は165点にもわたりました。その中で、ルノワールは7点出品し、展覧会の構成も任されていました。第3回に出展した「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は特に注目を浴びました。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会
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この作品は丘の中腹の舞踏場で、庶民の憩いの場だったムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いたもので、巨大な作品だったために友人達の手を借りてアトリエから舞踏場まで運んでいたそうです。
印象派展は不評が続き、第4回になるころには思想の違いによりサロンの応募か印象派展への出展か別れるようになりました。
ルノワールは生活の困窮などの理由からサロンへ復帰していくようになります。
サロンでの成功
1879年のサロンに出品した「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」は特に賞賛を浴びました。これにはサロンへの出品を控えていたピサロも、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構な事です。貧乏はとてもつらいですから。」と記しました。
シャルパンティエ夫人とその子どもたち
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翌年のサロンは芸術アカデミーが主催する最後のサロンになり、フランス芸術家協会に受け継がれました。
このころ、ルノワールのモデルをしていたアリーヌ・シャリゴとは後に結婚し、彼女をモデルにした作品は多く残っています。当時は労働者階級出身の彼女との交際を周囲には隠していたようです。
しかし、生涯を共にしたアリーヌはその後の人生も献身的にルノワールを支えるなど、とても素敵な夫婦だったと伝えられています。
旅先での影響
1881年に突然アルジェリアとイタリア旅行を決行したルノワールは、冷やかし目的でアカデミズム絵画を見に行きましたが、ラファエロやファルネジーナの作品に感銘を受けました。特にドミニク・アングルの油彩画を好みました。
1882年には第7回印象派展に参加し、このころから古典主義への関心を感じられるようになりました。
2人の姉妹(テラスにて)
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アングル風古典主義へ
新古典主義の巨匠、ドミニク・アングルの作品にふれたルノワールは1880年後半まで「アングル風」の作品を書くようになります。元々、印象派では筆触分割を用いて色彩の鮮やかさや光の効果に着目していました。
田舎のダンス
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しかし、風景画や自然の様子をよく描いていたモネやシスレーと違い、人物画を描くルノワールはその感覚主義的な表現では若い女性の健康的な肉体の輝きを表現できない為袋小路に入っていたのです。
都会のダンス
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1888年にはパリ万国博覧会への展示も提案されていましたが、激しい神経痛に見舞われ、再び自分の作品に不満をもっていたルノワールは難色を示しています。
大水浴図
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円熟と評価の確立
1890年にはナポレオン・ボナパルトによって制定されたレジオンドヌール勲章(日本でいう国民栄誉賞)を打診されましたが、辞退しました。
しかし、作品は「アングル風」時代のような冷たい印象から、暖かい色彩を使うようになり生命の生き生きした様子を表現するようになりました。下の「雨傘」から「浴女たち」にその変化はよく表れています。
雨傘
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浴女たち
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ルノワールは「私の好きな絵画は、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ」と語っている通り、観る人を喜ばせるような絵を描き続けました。
ガブリエルとジャン
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1894年に生まれた次男の息子ジャン・ルノワールは後に映画監督となります。右側の小さな子がジャン・ルノワールです。1897年には慢性関節リウマチを発症しましたが、その後も多くの作品を描き続けました。
ピアノによる少女たち
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1900年にはパリ万国博覧会に作品が展示され、レジオンドヌール勲章5等勲章を受賞、1911年には4等勲章を、1919年には3等勲章を受賞し、名誉ある巨匠へと確立されていきました。
また、メトロポリタン美術館は「シャルパンティエ夫人トその子供たち」を購入し、ルーヴル美術館が「シャルパンティエ夫人の肖像」を購入するなど、自分の作品が憧れていた美術館に展示されているのを見ることができました。1919年12月3日、肺充血で亡くなりました。
多くの時間を共に過ごしたモネはこの訃報を聞き、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ」と残しています。
画家の家族
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まとめ
いかがでしたか?
今回はフランス絵画の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールをご紹介しました。
貧しい生活をつづけながらも人々を楽しませる作品を描き、リウマチにかかってからも腕が不自由な中、絵を描いていたといわれるまさに画家の鏡ですね!